第70話 北岳への道――硫黄烏の異変
【北岳への道 ――硫黄烏の異変】
火霊池を後にした正雪たちは、再び北へと歩みを進めていた。
目指すは北岳。さらにその先――南岳火口。火霊異変の根源は、そのさらに奥深く、誰も足を踏み入れぬ禁域に潜んでいる。
黒く焼けた大地を踏みしめるたび、靴底から乾いた音が響いた。
視界に広がるのは、生気を拒む灼熱の世界。一面を覆う黒き火山灰。鋭利に砕けた熔岩の岩塊。
裂け目という裂け目からは白き噴気が絶え間なく噴き上がり、濃い硫黄の匂いが風に乗って鼻腔を刺す。草木はほとんど姿を消し、進めば進むほど生命の気配は希薄になっていく。
まるで天地そのものが、生と死の狭間へ沈みつつあるかのようだった。
だが――。この過酷な霊域にも、なお生きる者たちはいる。火霊の加護を受け、烈火と毒気を糧として命を繋ぐ妖たちである。
「正雪様、ご覧ください。」
先頭を歩く月依が、静かに空を指差した。正雪が視線を上げる。噴煙が立ち昇る火口の上空を、無数の鳥影が悠然と舞っていた。
羽は煤を思わせる黒。その縁には硫黄を溶かしたような黄金色が淡く滲み、翼を広げれば一尺ほど。
一羽一羽は決して大きくない。しかし、その数は尋常ではなかった。
百。千。いや――万を超える。
群れが一斉に旋回するたび、空そのものが黒い雲となって流れていくように見える。
「硫黄烏です。」
斎姫が穏やかに口を開いた。
「地下霊脈から湧き上がる硫黄霊気が、長い歳月を経て霊性を宿し、生まれた妖鳥です。」
「硫黄から……妖が生まれるのか。」
正雪は感嘆の息をもらした。
天地万物が霊を宿すことは修仙の理として知っていた。だが、火山の毒気までもが命となり、妖へと昇華するとは思いもしなかった。
月依は静かに頷く。
「はい。この子たちは群れで暮らします。一羽ごとの妖力は弱くとも、万羽が集えば一つの意思を持つように空を覆います。」
その言葉どおりだった。
無数の硫黄烏が同時に羽ばたくと、昼なお暗くなった。翼が太陽を覆い隠し、黒雲が大地を飲み込む。一瞬で世界は薄闇に沈み、風さえ羽音へかき消された。
正雪は思わず足を止める。
「……壮観だ。」
畏怖すら覚える光景。
それでいて、どこか神々しい。火山という死地にしか存在し得ない、美しくも異様な生命の営みだった。
その横で、斎姫が微笑む。
「ですが、ご安心ください。硫黄烏はとても穏やかな妖です。縄張り争いこそしますが、人を襲ったという記録は一度もありません。人間には、ほとんど興味を示さないのです。」
正雪は感心したように頷いた。
桜島では幾度となく火霊異変が起こり、多くの妖が狂気へ堕ちたという。それでも硫黄烏だけは、太古より人と争うことなく、この火山と共に静かに生き続けてきた。
火山。噴煙。火霊。妖鳥。
そのすべてが、正雪には未知の世界だった。
少年のように目を輝かせる彼の横顔を見て、月依と斎姫は思わず小さく笑みを交わす。
二人にとっては見慣れた故郷の景色。
だが正雪にとっては、その一つひとつが新たな発見であり、修仙の天地がなお無限に広がっていることを教えてくれる旅路だった。
――しかし。
その穏やかな空気は、あまりにも唐突に断ち切られる。
空を舞う一羽の硫黄烏が、不意に羽ばたきを止めた。ぴたり、と。虚空へ静止した妖鳥は、ゆっくりと首を巡らせる。
ぎろり。その双眸が、正雪たちを射抜いた。黄金だった瞳は、いつしか濁った血のような深紅へ染まっている。
「……?」
正雪が眉をひそめた、その刹那。
「ギャアアアアッ!!」
耳を裂くような絶叫が、山々を震わせた。
その一声を合図とするように――空を覆う無数の硫黄烏が、一斉に旋回を始める。赤く染まった瞳。全身から立ち昇る黒い瘴気。
羽ばたくたび、禍々しい火毒が霧のように空へ滲み出していく。
月依の顔から血の気が引いた。
「……そんな。」
震える声が漏れる。
「あり得ません……。」
斎姫も目を見開き、愕然と空を見上げた。
「硫黄烏が……火毒に侵されている……!?」
次の瞬間。
ギャアアアアアアッ!!
万羽を超える咆哮が天地を揺るがした。黒雲は渦を巻き、その形を変える。巨大な黒き濁流となって、正雪たちへ一気に雪崩れ落ちる。
陽光は完全に閉ざされ、世界は無数の黒翼に覆い尽くされた。
火毒に堕ちた硫黄烏の大群が――ついに、その鋭き嘴と爪を、人へと向けた。
【硫黄烏の暴走――小さな火霊の威厳】
「来ます!」
月依の鋭い声が、火山の静寂を切り裂いた。
次の瞬間――。
ギャアアアアアッ!!耳を聾く咆哮とともに、空を覆っていた硫黄烏の大群が、黒き濁流となって三人へ襲いかかる。
幾千、幾万。もはや数えられる数ではない。黒い翼が幾重にも重なり合い、天地は昼なお闇へ沈んだ。
それは鳥の群れではない。すべてを呑み込む黒嵐そのものだった。
「下がってください!」
月依は迷うことなく霊符を放つ。
指先から放たれた霊符は青白い月光を帯びて宙へ舞い上がり、瞬く間に無数の霊刃へと変化した。
「――散ッ!」
鋭い一喝。幾十もの光刃が流星のように降り注ぐ。
ズバァァッ!
先頭を飛んでいた硫黄烏が次々と貫かれ、その身は悲鳴を上げる間もなく霧散した。
しかし、血は流れない。肉も砕けない。妖鳥たちの身体は硫黄霊気より生まれた霊体。
討たれた瞬間、その姿は黄色い煙となって風へ溶けていった。
「一撃で倒せる!」
正雪が霊刀を構えながら叫ぶ。
「だが――」
言葉は最後まで続かなかった。消えた群れの隙間を埋めるように、さらに何十羽もの硫黄烏が殺到する。
まるで尽きることを知らない。
「数が多すぎる!」
正雪は一歩踏み込み、霊刀を振るう。
一閃。
二閃。
三閃。
鋭い剣気が幾筋もの銀弧を描き、襲い来る妖鳥を次々と両断した。
ギャッ!ギャアアッ!
断たれた身体は瞬く間に煙となり、火山風へ散っていく。
十羽。二十羽。三十羽。
それでも空を覆う黒雲は、わずかたりとも薄くならない。倒しても倒しても、次の群れが押し寄せる。
まるで終わりなき黒潮だった。
「火毒です!」
斎姫が霊剣を翻しながら叫ぶ。
「火毒に侵され、理性を失っています!」
白銀の剣光が弧を描く。迫る硫黄烏は次々と斬り伏せられるが、群れは怯むことなく雪崩れ込んでくる。
仲間が滅びようと意にも介さない。まるで何者かの命に従う兵卒のようだった。
「くっ……!」
一羽が正雪の死角から突っ込んできた。鋭い嘴が肩口を裂き、鮮血が飛び散る。
「正雪様!」
月依の霊符が閃き、その一羽を撃ち落とす。
しかし、その一瞬の隙を狙うように、さらに新たな群れが押し寄せた。
前方。左右。そして頭上。
四方八方を黒き翼が覆い尽くし、逃げ場はない。戦いは、終わる気配を見せなかった。
正雪の呼吸は徐々に荒くなる。霊刀を握る腕は鉛のように重い。
丹田の霊力も少しずつ削られ、月依の額には汗が滲み、斎姫の剣筋にも微かな乱れが生じ始める。
一羽一羽は決して強くない。だが、その数があまりにも絶望的だった。
波を斬っても、また波が来る。果てなき黒き奔流。どれほど斬ろうと、勝利の光は見えてこない。
誰も口にはしなかった。だが三人とも悟っていた。――このままでは、先に力尽きる。
その時だった。
「きゅいっ!」
どこか場違いなほど愛らしい鳴き声が、火山風に乗って響いた。
「きゅい! きゅいっ!」
正雪が思わず振り返る。
「あの声は……!」
遠くの火山灰を巻き上げ、一筋の紅き炎が一直線に飛んでくる。
真紅の霊炎。丸く愛らしい小さな身体。火霊――朱音だった。
「朱音!」
正雪の表情に驚きが走る。
火霊池を発つ時、彼は朱音を置いてきた。火霊池は火霊族にとって、何より尊き故郷。ようやく帰るべき場所へ辿り着いたのだから、そのまま自由に生きる方が幸せだと考えたのである。
もともと朱音は、結界の外で瀕死になっていたところを偶然救っただけの小さな火霊。
だからこそ、故郷へ帰してやる。それが正雪なりの情けだった。
別れの言葉さえ交わさぬまま。
――だが。朱音は、自ら追いかけて来た。
「きゅいっ!」
嬉しそうに正雪の肩へ飛び乗ると、小さな身体を弾ませながら頬をすり寄せる。まるで、
「追いついたよ!」
そう語るかのように。その瞬間だった。
空を覆っていた硫黄烏の群れが、一斉に静止した。
ギャ……?
狂気に濁っていた無数の赤い瞳が、大きく見開かれる。すべての視線が、正雪の肩にちょこんと座る小さな火霊へ注がれた。
当の朱音は、不思議そうに首を傾げる。
「きゅい?」
いつもと変わらぬ、無邪気な一声。
――その刹那。
ギャアアアアアッ!!
天地を震わせる悲鳴が轟いた。だが、それは先ほどまでの凶暴な咆哮ではない。
恐怖。畏怖。本能の奥底から絞り出された絶叫だった。
一羽が逃げる。それを合図に、群れ全体が雪崩を打った。
黒雲は一瞬で崩壊し、幾万もの硫黄烏が競うように翼を翻し、火口の彼方へ散り散りに飛び去っていく。
その姿は、まるで天敵を前にした獣の群れそのものだった。
「あ……。」
正雪は呆然と空を見上げる。
つい先ほどまで命を懸けた死闘を繰り広げていた妖鳥たちが――。たった一声で、すべて逃げ去ってしまったのである。
やがて黒雲は消え去り、青空が再び姿を現した。火山を渡る風だけが、何事もなかったかのように静かに吹き抜けていく。
正雪は肩の上で胸を張る朱音を見つめ、苦笑を漏らした。
「……お前、本当は何者なんだ?」
「きゅい♪」
朱音は得意げに胸を張り、小さな炎をふわりと揺らした。その姿は、どこまでも無邪気で愛らしい。
だが――。月依と斎姫は、その小さな背を見つめたまま、言葉を失っていた。
二人には理解できていた。硫黄烏たちが畏れたのは、朱音が放つ霊力ではない。
その魂の本源から滲み出る、火霊一族における**絶対的な「格」**である。
あれは力の優劣ではない。血脈よりも古く、霊格そのものが刻む、抗うことのできない王者の威。
この小さな火霊は――。
彼らが思い描いていた以上に、火霊一族の根源へ連なる、特別な存在なのかもしれなかった。




