第68話 深淵の魔魂――鬼八
【火霊池――朱音の成長】
その時だった。河童の壺の奥から、小さな気配が忙しなく動き始めた。
「きゅいっ! きゅいっ!」
弾むような鳴き声が響き渡る。
正雪が壺の中を覗き込むと、小さな火霊――朱音が、狭い壺の中をくるくると飛び回っていた。
真紅の霊炎をぱちぱちと弾けさせ、その小さな身体いっぱいで喜びを表している。まるで長い旅の果てに、ようやく故郷へ帰り着いた子どものようだった。
正雪は思わず笑みを漏らす。
「そんなに入りたいのか?」
「きゅいっ!」
返事をするように元気よく鳴く。その無邪気な姿に苦笑しながら、正雪は両手でそっと朱音を包み込み、壺から抱き上げた。
朱音は嬉しそうに宙を跳ね回り、尾を振る子犬のように正雪の周囲をくるくると旋回する。
その愛らしい様子に、月依の頬も自然とほころんだ。
「火霊液は、火霊族にとって命の源。朱音にとっては、この世で最も豊かな霊泉なのでしょう。」
正雪は静かに頷くと、火霊池の縁まで歩み寄った。
眼前では、黄金色に輝く火霊液が静かに波打っている。
「さあ――帰っておいで。」
「きゅいっ!」
待ちかねていたように、朱音は小さく鳴いた。次の瞬間、小さな身体が空高く舞い上がる。
くるり。くるり。二度、三度と軽やかに宙返りを打ち、真紅の霊炎が美しい軌跡を描いた。
まるで火の精が舞を捧げているかのように。
そして、そのまま火霊池へ身を躍らせる。――ぽちゃん。赤金色の火霊液が静かに波紋を広げた。
だが、それは水へ飛び込んだ音ではなかった。故郷を離れていた幼子が、母の懐へ抱かれるような、どこか温かな響きだった。
火霊液へ身を沈めた朱音は、夢中になって霊液を吸収し始める。
ぼうっ――。ぼうぼうっ――。燃え盛る霊炎は、一息ごとに勢いを増していく。
真紅だった炎は黄金色を帯び、さらに白金へ近い輝きを宿し始めた。小さかった身体も、霊気を取り込むたびに、ゆっくりと、しかし確実に成長していく。
やがて異変は、火霊池そのものへ及んだ。
池一面に広がる火霊液が大きく渦を巻き始める。濃密な霊液は一本の奔流となって朱音へ吸い寄せられ、池面には幾重もの炎紋が浮かび上がった。
周囲に揺らめく霊炎までもが共鳴し、まるで万火が幼き火霊の誕生を祝福しているかのようだった。
「火霊池が……応えている。」
正雪は息を呑む。
「これほどの霊象とは……。」
斎姫も思わず目を見開いた。
「池そのものが、自ら霊力を分け与えているようです。」
月依は静かに頷く。
「火霊液とは、天地に満ちる火行の精華が、幾千、幾万年という歳月を経て液化した霊髄です。火霊族にとっては、いかなる天階霊丹にも優る至宝。その恩恵を、朱音は余すことなく受け入れているのでしょう。」
時が流れるにつれ、朱音はさらに一回り、また一回りと大きく育っていく。
そして――。その成長は、不意に止まった。渦巻いていた火霊液も静まり返り、湯之平には再び静寂が訪れる。
朱音は満足そうにふわりと浮かび、お腹をぽんぽんと叩いた。
「きゅぷっ。」
可愛らしいげっぷが響く。その愛らしさに、思わず正雪たちの頬が緩んだ。
だが次の瞬間。
「ぷっ。」
朱音は小さく口を開き、一粒の赤い結晶をころりと吐き出した。
それは幼子の拳ほどの大きさ。透明な紅玉の内部では、真紅の炎が心臓のように脈打ち、濃密な火霊気が絶え間なく溢れ出している。
近づくだけで肌が熱を帯び、経脈の奥まで火行霊気が染み渡ってくる。
「これは……!」
月依の瞳が大きく見開かれた。斎姫も思わず息を呑み、一歩前へ踏み出す。
二人はその霊石を目にした瞬間、その正体を悟っていた。
「火霊石……。」
月依が静かに呟く。斎姫も驚きを隠せないまま頷いた。
「しかも、この純度……。神宮の宝物庫にある火霊石ですら、これほど精純なものは残されておりません。」
火霊石。それは桜島だけに産する天地霊鉱。火霊気が悠久の歳月をかけて岩石へ浸透し、ようやく結晶となる稀世の霊宝である。
火行を修める修士にとっては修為を飛躍的に高める至宝であり、その一粒は高位霊丹にも匹敵する価値を持つ。
それほどの霊宝を――。朱音は、火霊池でほんのひととき霊液を吸収しただけで、生み出してしまったのだ。
正雪は火霊池の上をふわふわと漂う朱音を見つめた。当の本人は、自分がどれほど途方もない宝を生み出したのか、まるで理解していない。
満腹になった幼子のようにお腹をぽんぽんと叩きながら、
「きゅい♪」
と、無邪気に笑っているだけだった。その屈託のない笑顔に、正雪たちは思わず顔を見合わせる。
誰一人、言葉にはしない。しかし、その胸には同じ思いが芽生えていた。
――この幼き火霊は、ただの火霊ではない。
その小さな命には、桜島の霊脈さえ揺るがすほどの、大いなる天命が秘められているのかもしれなかった。
【深淵の魔魂――鬼八、目覚めの刻】
桜島、その地下深く。火霊三王が密議を交わす灼熱の霊域より、なお深く――。
そこは、火霊王ですら足を踏み入れることを禁忌とする、天地霊脈の終着点。
**地淵**。
万火の源流にして、万象の終焉が眠る、世界最奥の深淵であった。
光は届かない。音さえ生まれない。灼熱の溶岩はこの地を恐れるように流れを変え、幾千丈も手前で静かに道を譲る。
濃密な火霊気すら、この深淵だけは侵すことができない。そこを支配していたのは、死をも超える静寂。数万年という悠久の時を経てもなお、一度たりとも揺らぐことのなかった絶対の沈黙である。
深淵の中央には、一つの巨大な封印が鎮座していた。天地を貫く無数の霊鎖。龍のように絡み合い、幾重にも重なって一つの霊陣を形作っている。
足元一面には、神代の神文字が刻まれ、その一字一句が天地法則そのものを縛る封印となっていた。
これは人の手で築かれた術ではない。
神代の巫女。太古の仙尊。妖族の始祖。それぞれの時代を代表する大能たちが、自らの命と魂を代償として築き上げた、天地最後の封印であった。
世界が滅びぬ限り、決して破られてはならない楔。その封印の中心には、一つの魔魂が眠っている。
**鬼八。**
神代末期、人界と妖界を未曾有の戦火へ巻き込み、その名を「鬼王」として歴史へ刻まれた存在。
幾万の修士が命を散らし、無数の妖王が灰となり、ついには神々すら血を流したという、古今無双の魔神。
その肉体は滅びた。骨は砕かれ、血肉は焼き払われ、魂魄は幾つにも引き裂かれた。その亡骸は天地各地の霊地へ分かたれ、永劫に封じられた――。
それが、後世へ伝わる歴史である。
誰もが信じていた。鬼八は滅んだ、と。完全に、この世から消え去ったのだと。
しかし。それは真実ではなかった。鬼八は、不死であった。
肉体は滅びようとも、その魂の本源だけは決して滅することがない。砕かれた魂の欠片は天地へ散った。
だが最も深奥に眠る**本源魔魂**だけは、この桜島最深部へ封じられ続けていたのである。
その事実を知る者は、もはや存在しない。悠久の歳月は歴史を風化させ、史実を伝承へ、伝承を神話へ、
そして神話さえ忘却の彼方へ葬り去った。世界は、鬼八という存在そのものを忘れてしまった。
……いや。本当にそうだろうか。火霊三王は、この封印を知らぬのか。それとも知りながら、数万年もの間、沈黙を守り続けてきたのか。
先ほど交わされていた激しい密議。あれは単なる意見の衝突だったのか。
あるいは――。この封印に生じた異変を巡る議論だったのか。
その答えを知る者は、今や誰一人として存在しない。
ただ一つ、確かなことがある。数万年守られてきた均衡が、静かに崩れ始めているという事実だけだった。
封印陣の中央。漆黒よりなお深い闇。その中心で眠る魔魂は、人の姿を保ちながらも、全身が墨より濃い魔気に包まれていた。
その閉ざされた瞼が――。わずかに震えた。ぴくり。
風は吹かない。音もない。誰にも気づかれぬほど小さな変化。しかし、その瞼の奥では、確かに眼球がゆっくりと動いていた。
数万年という永き眠りの底から、意識だけが静かに浮かび上がろうとしているかのように。
それでも瞼は開かない。なお重く閉ざされたまま。
幾重もの霊鎖は魔魂を縛り、神代より続く封印も、辛うじてその役目を果たしていた。
だが――。永遠と思われた封印にも、終焉は訪れる。
かすかな音が響いた。
――ピシッ。
一本の霊鎖に、小さな亀裂が走る。続いて、もう一本。さらに、また一本。肉眼では決して捉えられぬほど微細な綻び。
神代の封印とは、一度綻べば止まることはない。その裂け目は、やがて鎖全体へと広がり、終には天地を縛る封印そのものを蝕んでいく。
鬼八が瞼を開く日も、もはや遠くはなかった。
その時――。神代に終わったはずの災厄は、再び世界へ姿を現す。
鬼王は永き眠りから目覚め、人界は震え、妖界は歓喜し、修仙界は未曾有の動乱へ呑み込まれるだろう。
だが、その復活は、本当に「魔」の帰還なのだろうか。
鬼八は、本当に世界を滅ぼそうとした魔神だったのか。あるいは――。勝者によって「鬼王」と記され、歴史の闇へ葬られた、一人の英雄だったのか。
神代最後の大戦で、何が起きたのか。なぜ、不死なる鬼王は討たれねばならなかったのか。なぜ、その魂だけが永遠の闇へ封じられたのか。
歴史は、常に勝者によって紡がれる。
ならば、その歴史は真実なのか。敗者が背負った罪は、本当に罪だったのか。その答えを知る者は、まだ誰もいない。
そして――。鬼八がその瞳を開く時。数万年もの時に埋もれた神代最後の真実が、ついに世界の前へ姿を現すことになる。




