第67話 火霊池――湯之平
【火毒の幻・其ノ四 ――月露の光】
――眠い。
もう、何も考えたくはない。このまま瞼を閉じ、静かな夢の中へ沈んでしまえば、それでいい。
火毒は、戦う相手ではない。それは魂の隙間へ忍び込み、安らぎという甘い蜜を与えながら、静かに命を蝕んでいく。
正雪の意識は深い泥沼へ沈むように重くなり、四肢から力が抜けていく。
雪景色も、温かな家も、妻の微笑みも。すべてが「帰るべき場所」だと囁き続けていた。
――もう、帰ろう。その誘惑に心が傾いた、その刹那――。
闇を裂くように、一筋の銀光が奔った。
否。それは光ではない。静かな夜空を貫く、一条の月華。
凍てつく湖面へ満月が落ちたかのような、神聖にして清冽なる輝きだった。
銀光は音もなく幻境へ差し込み、世界そのものを優しく照らし出す。
――月露。
月詠神宮を発つ前、月依が《月影鏡》を通して正雪の神魂へ託した護りの霊光。
普段は魂の深奥に月露の一滴となって眠り続け、邪気や幻術が心神を侵した時のみ、自ら目覚める最後の護符である。
その月露が、ついに覚醒した。銀色の霊光は正雪の神識を包み込み、火毒の幻へ静かに触れる。
――パキッ。乾いた音が響いた。
雪原に一本の亀裂が走る。続いて、家の柱が。妻の微笑みが。老いた己の姿が。まるで鏡面へ刻まれたひびのように、無数の裂け目が世界を覆っていく。
パリン――。澄み渡る破砕音とともに、幻境は無数の銀片となって砕け散った。
白銀の欠片は雪のように舞い上がり、やがて月光へ溶けるように虚空へ消えていく。世界は静かに崩れ去った。
霞んでいた視界が、ゆっくりと焦点を取り戻す。
最初に映ったのは、一人の少女だった。朝風に銀髪を揺らし、不安そうな眼差しでこちらを見つめる月依。その瞳には、安堵と心配が入り混じっている。
そして、その傍らには黒神霊門から続く石畳。淡く揺れる結界の霊光。肌を刺す火霊脈の熱気。
ようやく現実の景色が戻ってきた。
「……そうか」
正雪はゆっくりと息を吸い込む。肺を満たした灼けるような霊気が、ここが現実であることを告げていた。
「俺は……桜島にいる」
途切れていた記憶が、一つずつ繋がっていく。月依と共に黒神霊門を訪れ、封印の内側へ踏み入り――。
そして火毒に侵された霊気へ触れた。そこまで思い出した瞬間、正雪はようやく悟る。
先ほどまで見ていた幸福な人生も、雪に包まれた故郷も。すべて火毒が描き出した幻境だったのだ。
「夢……だったのか」
呟いた声には、なお迷いが残る。あまりにも鮮明だった。
雪の冷たさも。妻の温もりも。胸を締めつけた後悔さえ。現実以上に、現実だった。
「いや……」
正雪は眉を寄せる。
「それとも、今いるこの世界こそ幻なのか……」
火毒は消え去ったはずだった。それでも一度揺らいだ心は、なお現実と幻の境を見失いかけている。
その時だった。
――ザバァァァッ!!
滝のような水音が頭上から轟いた。
「ぶっ!」
冷水が容赦なく頭から降り注ぎ、正雪は全身を震わせて飛び上がる。
「つ、冷たっ!」
霊泉そのものを浴びせられたかのような冷気が、火照った身体を一瞬で貫いた。神識を覆っていた靄は跡形もなく吹き飛び、思考は一気に冴え渡る。
目を瞬かせる正雪の前には、河童の壺を両手で抱えた翠夏が、胸を張って仁王立ちしていた。
頬をぷくりと膨らませ、腰へ手を当て、いかにも怒っているような顔をしている。
「いつまで寝ぼけておる!」
翠夏はぴしゃりと言い放った。
「さっさと立て! 先へ進むぞ!」
声は相変わらず威勢がいい。だが、大きな瞳の奥には、正雪が無事に目覚めたことへの安堵が、ほんのわずかに滲んでいた。
それを悟られまいとするように、翠夏はふん、と鼻を鳴らして顔を背ける。
正雪は全身ずぶ濡れのまま苦笑を漏らした。
「はい、はい」
肩をすくめながら立ち上がると、翠夏は満足そうに小さく頷く。
「うむ。それでよい」
そう言って壺の中へ引っ込んでいく小さな背を見送り、正雪は思わず笑みを浮かべた。
どうやら今回、魂を火毒の幻境から救い出したのは《月影鏡》に宿る月露の加護。そして最後に現実へ引き戻したのは――。翠夏の遠慮も容赦もない、豪快な水浴びだった。
張り詰めていた空気が、わずかに和らぐ。しかし、その安堵も束の間だった。正雪は前方へ視線を向ける。
封印へと続く石畳の彼方では、なお濃密な火毒がゆらゆらと陽炎のように揺らめいていた。
今、彼が打ち破った幻は、ほんの入口に過ぎない。本当の試練は――まだ始まったばかりなのである。
【火霊池――湯之平】
翠夏の容赦ない冷水を浴び、正雪はようやく火毒の幻境から完全に意識を取り戻した。
ゆっくりと息を吐く。
胸の奥には、なお火毒の残滓が澱のように沈んでいる。しかし、先ほどのように神識を呑み込まれる気配は、もうなかった。
濡れた法衣へ霊力を巡らせると、白い湯気がふわりと立ち昇り、水滴は瞬く間に蒸発する。
正雪は背中の河童の壺を背負い直し、静かに頷いた。
「……行こう。」
月依もまた、小さく頷く。
「はい。」
その隣では、神楽鈴を握り直した斎姫が静かに前を見据えていた。
三人は再び歩みを進める。封印の中心へ――火霊王の眠る禁域へ向かって。
だが、壺の中だけは緊張とは無縁だった。
「だから言ったではないか。」
翠夏が腕を組み、ぶつぶつと小言をこぼしている。
「安全第一じゃ、安全第一。危ういと思ったら退く。それが長生きの秘訣じゃ。命あってこその修行というものじゃろう。」
ひとしきり説教を終えると、翠夏は満足そうに「うむ」と一人頷き、そのまま壺の奥へ潜り込んで丸くなる。
その様子に、正雪は思わず苦笑を漏らした。今回は反論する気にもなれない。一歩間違えば、自分は火毒の幻境へ永遠に囚われていたかもしれないのだから。
月依と斎姫は、生まれた時から桜島で育ってきた。長年、火霊気に晒され続けたことで、その肉体も魂も自然と火毒への耐性を備えている。
もちろん完全ではない。しかし、外界から訪れた修仙者とは比べものにならぬほど、その差は大きかった。
対して正雪は、火毒に触れること自体が初めてだった。
もし旅立ちの前、月依が《月影鏡》を通じて《月露》の加護を魂へ宿していなければ――。今頃、自分は幻境の中で幸せな夢を見続けたまま、二度と目覚めることはなかっただろう。
正雪は隣を歩く月依へ静かに視線を向けた。
「……助かった。」
短い一言だった。だが、その中には感謝の念が込められていた。
月依は柔らかく微笑み、小さく首を振る。
「まだ安心なさらないでください。本当の試練は、この先にございます。」
その静かな言葉に、三人の表情は自然と引き締まった。
やがて石畳の道は途切れ、視界が大きく開ける。正雪は思わず息を呑んだ。
「……これは。」
眼前に広がっていたのは、桜島の霊域――**湯之平**。
盆地の中央には、一つの池が静かに横たわっていた。一見すれば、それは湯煙を立ち昇らせる天然の温泉にしか見えない。
真赤色の霧がゆらゆらと揺れ、水面は黄金色の陽光を映して穏やかに輝いている。
しかし、一歩、また一歩と近づくにつれ、その正体は明らかになった。
湯煙ではない。空へ立ち昇っているのは、濃密に凝縮された火霊気だった。池を満たしているのも湯水ではない。液体へと凝縮された純粋な火行霊力――《火霊液》。
火霊脈の精華が万年の歳月を経て溜まり続けた、天地稀有の霊液である。
池の周囲では陽炎のように空間が揺らぎ、黒い火山岩は赤熱し、絶えず白煙を立ち昇らせていた。
まさに火霊一族だけが近づくことを許された聖池であった。
その時だった。壺の中から弾んだ声が響く。
「温泉じゃーーっ!」
「狸は温泉が大好きなのじゃ!」
ぽんっ、と軽快な音を立て、千蔵と徳姫が勢いよく壺から飛び出した。二匹とも瞳を輝かせ、尻尾をぶんぶん振っている。
「見よ徳姫!これぞ極上の秘湯!」
「一番風呂は儂がいただくのじゃ!」
千蔵は一目散に池へ駆け寄ると、誇らしげに胸を張り、前足をそっと火霊液へ差し入れた。
「あっつつっ!! なんじゃこりゃあ!」
――ジュウゥッ!!
「ぎゃあああああっ!!」
耳をつんざく悲鳴が霊域へ響き渡った。
千蔵は飛び上がるように後退し、前足をぶんぶん振り回す。肉球は真っ赤に焼け、白い煙がもくもくと立ち昇っていた。
「熱い! 熱いのじゃー!こんなの温泉ではない! 鍋じゃ! 狸鍋になるところだったのじゃー!」
涙目になって飛び跳ねる千蔵を見て、徳姫も慌てて数歩後ろへ退き、耳をぴんと立てた。
「だから申し上げたでしょう。ここは温泉ではなく、火霊族の霊池です。」
「飛び込めば焼けるに決まっています。」
その光景を見ていた翠夏が、壺の縁からひょっこり顔だけを出し、大きくため息をつく。
「やれやれ……。だから安全第一と言ったではないか。まったく、狸というものは学ばん生き物じゃ。」
壺の中から聞こえたその一言に、正雪たちは思わず顔を見合わせた。
先ほどまで胸を覆っていた緊張が、ふっとほどける。やがて誰からともなく笑みがこぼれ、小さな笑い声が湯之平の火霊池へ静かに響き渡った。




