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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第65話 火毒の幻――帰りたい場所

【火毒の幻・其ノ一 ――帰る場所】


 黒神霊門にて斎姫と合流した正雪たちは、封印の最深部へと続く石畳の参道を、静かに歩み始めた。


 先頭を行くのは月依。その隣には黒神霊門を守護する巫女・斎姫。そして二人の後ろを、正雪が一定の歩調で続く。


 黒曜石を磨き上げたような石畳は、山肌を縫うように真っ直ぐ奥へと伸び、その果ては白い霧に呑まれ、行く末を隠していた。


 道の両脇には古びた石灯籠が等間隔に並び、それぞれが月白色の霊火を静かに灯している。その淡い光だけが、禁域へ踏み入る者を迎え入れていた。


 この先は、桜島最大の禁域。火霊王が封じられた封印の中心へ至る、唯一の道である。


 一歩。また一歩。三人が石畳を踏みしめるたび、周囲の空気は少しずつ重みを増していく。熱くはない。それなのに胸の奥が息苦しい。


 目には映らぬ何かが、呼吸とともに身体の内へ静かに染み込んでくるようだった。


 先を歩く月依が振り返ることなく口を開く。


 「ここから先は、結界の内側です。」


 その声は、いつになく張り詰めていた。


 「どうか、心を乱さぬでください。月影鏡は幻を見破る助けにはなりますが、火毒そのものを消し去ることはできません。心に迷いが生まれれば、その隙へ火毒は入り込みます。」


 斎姫も静かに続ける。


 「火毒が映し出すのは恐怖だけではありません。むしろ、人が最も捨てきれぬ願い。心の奥底で望み続けているものほど、鮮やかに映し出されます。決して、それに囚われないでください。」


 正雪は静かにうなずいた。


 「分かった。」


 その返事が終わるか終わらぬかの時だった。


 「……あれ?」


 耳元で、不意に懐かしい声が響いた。正雪は思わず足を止める。


 石畳の少し先。木漏れ日の中に、一人の少女が立っていた。長い黒髪を風に遊ばせ、柔らかな笑みを浮かべている。


 「紗綾さん……?」


 思わず名を呼ぶ。


 「どうして、ここに……。祖谷に残ったはずじゃ……。」


 少女は少し頬を膨らませ、悪戯っぽく笑った。


 「正雪のことが心配だったから。追いかけて来ちゃった。」


 照れたように首を傾げる。


 「……来ちゃ、駄目だった?」


 その笑顔は、あまりにも自然だった。声も。仕草も。風に揺れる髪までも。何一つ違和感がない。


 正雪は思わず苦笑した。


 「駄目じゃないけど……。本当に驚いたよ。」


 紗綾は嬉しそうに歩み寄る。優しい瞳が、真っ直ぐ正雪を見つめていた。


 「正雪。私ね。あなたのことが好き。」


 その言葉に、正雪の胸が静かに揺れる。


 「一緒に祖谷へ帰ろう。みんな、待ってるから。」


 正雪は目を伏せ、小さく息を吐いた。そして静かに首を横へ振る。


 「……まだ帰れない。桜島の封印を調べるって約束したんだ。途中で投げ出すわけにはいかない。」


 紗綾は寂しそうに笑う。


 「そんなこと……。この土地の巫女さんたちに任せればいいでしょう?あなたが命を懸ける必要なんてない。」


 しかし正雪の答えは変わらなかった。


 「違う。約束したんだ。約束は守らないと。」


 その一言を聞いた瞬間。紗綾の笑みが、僅かに歪んだ。


 「……本当に?」


 俯いた肩が、小さく震える。


 「違うでしょう?」


 ゆっくりと顔を上げた瞳には、涙が浮かんでいた。


 「本当は……。月依さんの方が、私より綺麗だからじゃないの?だから帰ってこないんでしょう?」


 正雪は目を見開いた。


 「違う!そんな理由じゃ――」


 言葉を言い切る前に。紗綾は悲しげに微笑んだ。


 「……もういい。大嫌い。」


 その声を最後に、彼女は踵を返し、駆け出していく。


 「紗綾さん!」


 正雪は咄嗟に手を伸ばした。


 その瞬間だった。世界が揺らぐ。景色は水面のように波打ち、白い霧となって崩れ始める。


 石畳も。黒神霊門も。月依も。斎姫も。すべてが霞となり、静かに溶け消えていった。


 代わって広がったのは――。懐かしい山里。祖谷だった。


 深い渓谷を渡る蔓橋。澄み切った清流。山々を渡る爽やかな風。河原では子狸たちが追いかけ合い、屈託のない笑い声が谷あいへ響いている。


 その光景を目にした瞬間。正雪の胸が熱く締めつけられた。


 「……帰ってきたのか」」


 その時。遠くから、幼い声が弾むように響く。


 「パパー!遊ぼう!」


 振り返る。二人の幼い子どもが、満面の笑みを浮かべ、真っ直ぐこちらへ駆け寄ってきた。


 小さな手。無邪気な瞳。その笑顔は、何よりも眩しかった。


 「……え?」


 子どもたちは何の迷いもなく正雪の手を握る。その温もりは、生きた人そのものだった。


 「パパ、早く!今日は川へ行こう!」


 正雪は呆然と立ち尽くす。すると、縁側から柔らかな声が聞こえた。


 「あなた。」


 振り向く。そこには割烹着姿の紗綾が立っていた。穏やかな笑みを浮かべ、夕餉の支度を終えたばかりのように袖をまくっている。


 「ぼんやりしてないで。子どもたちが待ってるでしょう?」


 庭には夕陽が射し込み、食卓には湯気の立つ料理が並んでいる。


 笑い声。温かな灯。家族がいる。帰る場所がある。それは正雪が、一度も手にしたことのない未来だった。


 あまりにも穏やかで。あまりにも幸福で。あまりにも――心が求めてしまう景色。


 正雪は、その光景から目を離すことができなかった。


 知らぬ間に。火毒は恐怖ではなく、彼の心の最も深い願いへと、静かに手を伸ばしていたのである。




【火毒の幻・其ノ二 ――帰りたい場所】


 ◇ ◇ ◇


 霧獣法流の城下町。朝日を浴びた市場は、今日も人々の活気に満ちていた。


 威勢よく客を呼ぶ商人たち。炭火で焼かれる団子の香ばしい匂い。軒先に揺れる色鮮やかな反物。


 子どもたちの笑い声が石畳を跳ね、穏やかな陽光が町全体を優しく包み込んでいる。


 ――失われたはずの日常。


 ――二度と戻らぬはずの平穏。


 それが今、何事もなかったかのように目の前に広がっていた。あまりにも自然で。あまりにも温かい。


 だからこそ、疑うことすらできない。その時だった。


 「ねぇ、正雪!」


 鈴を転がすような声が響く。振り向くと、呉服屋の軒先に一人の少女が立っていた。


 祀花だった。だが、いつもの巫女装束ではない。淡い桃色の長裙が春風に揺れ、幾重にも重なる裾は、花弁が舞うようにふわりと広がる。


 長い黒髪には、小さな桜の簪。その頬には、年頃の少女らしい照れくさそうな笑みが浮かんでいた。


 「どう?」


 祀花はその場で、くるりと身を翻す。ふわり――。裙が大きく花開き、春風に咲く一輪の桜のように揺れた。


 「似合う?」


 正雪は思わず見惚れてしまう。やがて穏やかに笑った。


 「……綺麗だ。」


 その一言だけで、祀花の瞳が嬉しそうに輝く。


 「でしょう?」


 彼女は一歩近づき、悪戯っぽく首を傾げた。


 「じゃあ、買ってくれる?」


 その姿は、巫女でも修仙者でもない。一人の、恋する少女だった。正雪は苦笑しながら頭をかく。


 「もちろん似合ってる。でも……。」


 少しだけ考え、照れくさそうに笑う。


 「俺はやっぱり、袴姿の祀花の方が好きかな。」


 祀花は少しだけ頬を膨らませた。


 「そう?私はね、本当はこういう裙を着て町を歩いてみたかったの。可愛い服を着て、お祭りへ行って、お団子を食べて……。」


 彼女は空を見上げ、小さく微笑む。


 「普通の女の子みたいに。」


 その横顔は穏やかだった。巫女として背負い続けた責務も。妖との戦いも。大社を守る宿命も。すべて忘れた、一人の少女の笑顔だった。


 その姿があまりにも眩しくて。正雪は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 だが――。その幸福は、水面に映る月影と同じだった。指先が触れた瞬間、静かに崩れてゆく幻。


 景色が揺らぎ始める。市場が波打つ。人々の笑顔が霞となる。


 祀花の姿もまた、春風へ溶ける花びらのように消えていった。


 ◇ ◇ ◇


 次に現れたのは、日高川のほとりだった。


 青く澄み渡る空。どこまでも流れる清流。岩を撫でる水音だけが静かに響いている。


 その岸辺で、一人の少女が肩を震わせていた。


 「どうしよう……。」


 今にも泣き出しそうな声だった。


 「清代姫?」


 正雪は慌てて駆け寄る。清代姫は涙に濡れた瞳を向け、小さく身体を抱き締めていた。白い衣の裾から覗くのは、人にはない青白い蛇尾。


 「消えないの……。どれだけ修練しても……消えてくれない。」


 震える声。細い肩が小刻みに揺れている。


 「私……もう人間じゃない。みんな……気味悪がるよね。」


 ぽろぽろと涙が零れ落ちた。


 正雪は困ったように笑うと、そっと彼女の肩へ手を置く。


 「そんなことない。尾があったって構わない。」


 優しく笑いかける。


 「君は君だ。人でも妖でも、そんなことは関係ない。俺にとって、清代姫は何も変わらない。」


 清代姫は涙を拭いながら、小さく尋ねた。


 「……本当に?正雪。ずっと……一緒にいてくれる?」


 その問いには、誰にも受け入れられなかった長い孤独が滲んでいた。


 正雪は迷うことなく頷こうとする。だが、その瞬間――。世界が再び大きく揺れた。


 ◇ ◇ ◇


 音もなく景色が崩れ去る。気づけば、幼い頃に暮らした家だった。


 木の柱。畳の香り。障子越しに差し込む柔らかな朝日。台所から漂う味噌汁の匂いまで、鮮やかによみがえっている。


 「正雪!」


 懐かしい声が飛んできた。


 「いつまで寝てるの!」


 母が腕を組み、呆れた顔で立っている。


 「自分の布団くらい、自分で畳みなさい!」


 その懐かしい叱り声に、正雪は思わず笑みを漏らした。


 「はいはい……。」


 すると隣の部屋から父が顔を覗かせる。


 「おはよう、正雪。今日も塾だろう?先生を困らせちゃいかんぞ。」


 そう言って照れくさそうに笑い、昔と変わらぬ手つきで正雪の肩を軽く叩く。その温もりは、何一つ変わらない。


 胸が熱く締めつけられる。帰りたい。もう戦わなくていい。誰も傷つかない。誰も死なない。


 この場所で、ただ家族と笑って暮らしたい。そんな願いが、春の陽射しのように心を包み込んでいく。


 現実よりも。この世界の方が幸せではないか。このまま眠ってしまえばいい。すべてを忘れ、この穏やかな夢の中で生き続ければいい――。


 火毒は甘く囁く。抗うことを忘れさせるように。現実へ戻る理由さえ、静かに溶かしていくように。


 ◇ ◇ ◇


 「……正雪様!」


 遠くから声が聞こえた。


 「正雪!」


 もう一つ。少女たちの切羽詰まった叫び。しかし、その声は厚い霧の向こうから届くように遠く、霞んでいた。


 正雪の意識がわずかに揺らぐ。だが次の瞬間には、再び温かな幻へと沈んでいく。


 ◇ ◇ ◇


 現実――。黒神霊門へ続く石畳の道。


 正雪は道の中央で立ち尽くしたまま、虚空を見つめていた。焦点を失った瞳。誰もいない場所へ向かって優しく微笑み、ときおり静かに頷いている。


 まるで、かけがえのない誰かと穏やかな時間を過ごしているかのようだった。


 その姿を見た月依の顔から血の気が引く。


 「まさか……。」


 震える声が漏れた。


 「火毒が、もうここまで……。」


 月影鏡の加護を受けてなお、これほど深い幻へ囚われるとは。月依の予想を遥かに超えていた。


 彼女は神楽鈴を強く握り締め、一歩、正雪へ近づく。


 「正雪様!」


 祈るように呼びかける。だが、その声は届かない。正雪の瞳に映るのは、もはや目の前の景色ではなかった。


 そこにあるのは。帰ることのできない故郷。失われた日常。そして、二度と取り戻せない大切な人々との穏やかな時間。


 火毒が映し出すものは、恐怖ではない。修仙者の心を最も深く縛るもの――。


 **「帰りたい」と願い続けた、幸福な記憶。**


 だからこそ、人は抗えない。夢だと知りながら、その温もりを手放せない。


 真に恐るべき敵は火霊王ではなかった。修仙者の心を蝕み、自ら歩みを止めさせる火毒。


 今、正雪が触れているのは、そのほんの入り口に過ぎなかった。


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