第64話 黒神霊門
【消えゆく火霊】
翌朝――。
月神の加護を宿した正雪と月依は、そのまま南岳火口へ向かうことはしなかった。
火霊王が眠る封印の禁域へ踏み入る前に、どうしても立ち寄らねばならない場所があったからである。
桜島北麓に佇む霊域――黒神霊門。
古来より火霊脈を鎮め、火霊王の封印を支え続けてきた三大結界柱の一つ。その霊門は幾百年もの歳月を経てもなお、風雨に耐え、沈黙のまま桜島の命脈を見守り続けていた。
その門を目指し、二人は朝靄の残る山道をゆっくりと歩いていた。
森は驚くほど静かだった。鳥のさえずりさえ遠く、耳に届くのは梢を揺らす風と、踏みしめる落葉の音だけ。
黒く積み重なった火山岩の隙間からは若草が顔を覗かせ、朝日に照らされた露が小さな宝石のように輝いている。
遥か前方には南岳火口が大きく口を開け、白い噴煙を絶え間なく天へ送り続けていた。
ごう……ごう……。耳を澄ませば、大地の深奥から低く脈打つ音が伝わってくる。
それは火霊脈の鼓動。まるで桜島そのものが、悠久の時を生きる巨大な生命であるかのようだった。
しばらく山道を進んだ、その時だった。
「……ん?」
正雪がふいに足を止める。視線の先――黒く焼けた岩陰で、小さな朱色の光が、今にも消えそうに揺れていた。
近づいてみると、それは掌にも満たぬほど小さな火の精だった。炎というより、風へ溶けゆく一片の火花。
弱々しい霊火は山風に吹かれるたび儚く揺れ、懸命に己の輝きを繋ぎ止めようとしている。
「こんな所に火霊が……」
思わず漏らした正雪の声に、月依は静かに頷いた。
「あれは幼い火霊です。桜島には、このような火霊たちが数え切れぬほど暮らしています。」
正雪は小さな火霊から目を離さぬまま尋ねた。
「火霊って、みんなあんなに小さいのか?」
月依は静かに首を横へ振る。
「いいえ。あれは本来の姿ではありません。結界の内側で育った火霊は、もっと豊かな霊火を宿しています。」
少し間を置き、月依は小さな火霊へと優しい眼差しを向けた。
「ですが時折、外の世界へ憧れ、自ら結界を越えようとする子がいるのです。黒神霊門を支える結界は、火霊王を封じるだけではありません。火霊たちを守る檻でもあるのです。」
正雪は静かに眉を寄せた。
「守る……檻。」
「ええ。火霊が内側から結界を越えようとすると、その身を支える霊力は結界に削られてしまいます。この子も、その代償を払ってしまったのでしょう。」
月依は小さく目を伏せる。
「霊力は、ほとんど残っていません。このままでは半日も持たず、霊火は尽き……火霊脈へ還ってしまいます。」
風が吹いた。そのたび、小さな火霊は必死に揺らめく。
消えたくない。生きていたい。帰りたい。幼い願いだけが、小さな炎となって懸命に燃え続けていた。
その姿を見つめる正雪の胸に、静かな痛みが広がる。
「……放ってはおけないな。」
そう呟くと、彼は腰に吊るした河童の壺を手に取った。
「どうせ俺たちは結界の中へ入る。それなら、この子も一緒に連れて帰ればいい。元いた場所へ戻してやろう。」
壺へ向かって穏やかに呼びかける。
「翠夏。」
ぽちゃん――。澄んだ水音が響き、水面に幾重もの波紋が広がる。やがて小さな顔がひょっこりと姿を現した。
「どうしたの、正雪?」
その後ろから梨花、千蔵、徳姫も興味深そうに顔を覗かせる。
正雪は両手で火霊を包み込むように支えながら言った。
「この子を少し預かってくれ。結界の中へ戻るまで、守ってやりたい。」
翠夏は消えかけた火霊を見ると、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「もちろん。息土の島は霊気も豊かだから、この子もきっと元気になれるよ。」
梨花も優しく頷く。
「ここなら安心して休めるわ。」
千蔵は胸を叩き、大きく笑った。
「任せろ!俺たちが絶対に守ってやる!」
徳姫も静かに微笑む。
「出会いもまた縁。」
「見捨てる理由はありません。」
正雪は穏やかに頷き、小さな火霊をそっと壺の中へ導いた。
その瞬間だった。朱色の炎が、ふわりと一度だけ鮮やかに輝く。まるで礼を告げるように。
そして小さな火霊は、翠夏たちに優しく迎えられながら、息土の島へ静かに消えていった。
その光景を見つめていた月依は、自然と微笑みを浮かべる。
「あなたは、本当に不思議なお方ですね。火霊は時に人を焼き、災いをもたらす存在でもあります。それでも迷わず助けるのですね。」
正雪は照れくさそうに頭をかいた。
「命に善も悪もないさ。生きたいと思う気持ちは、人も妖も、火霊も変わらない。目の前で消えようとしている命を見過ごすことなんて、俺にはできない。」
その言葉に、月依は静かに息を呑んだ。
正雪は強者だから救うのではない。理想を語るためでもない。ただ、苦しむ命が目の前にあるから、ためらうことなく手を差し伸べる。
その在り方こそが、彼の歩む修仙の道。天地万物を隔てなく慈しみ、衆生を救わんとする者だけが辿り着ける大道であった。
山風が静かに吹き抜ける。二人は再び歩き始めた。目指すは、黒神霊門。そのさらに奥――火霊王が眠る封印の禁域。
【黒神霊門・残火の記憶】
黒神霊門は、今日も変わらぬ静寂に包まれていた。桜島北麓にそびえるその霊門は、火霊脈と風脈が交わる要衝であり、火霊王を封じる三大結界柱の一つである。
幾百年もの間、絶えることなく霊脈を支え続けてきた、桜島の命脈とも呼ぶべき聖域だった。
しかし、その静寂は安らぎではない。激しく脈打つ火霊を、長き歳月をかけて押さえ込み続けた末に生まれた、張り詰めた沈黙であった。
霊門の内側。本来なら巫女たちの祝詞が絶えぬはずの石室には、一人の少女が静かに膝をついていた。
斎姫である。その肩は、かすかに震えていた。普段の凛とした巫女の面影はなく、そこにいるのは深い喪失を抱えた、一人の少女だけだった。
「……また、駄目だった。」
掠れた声が、冷えた石室へ静かに落ちる。彼女が幾度となく試みてきた秘術。
それは、本来この世の理に背く禁術だった。輪廻へ還った魂を、一時だけ現世に呼び戻そうとする術。
その相手は、ただ一人。彼女が誰よりも愛した青年――恒一。だが、結果は今回も同じだった。
霊脈は激しく軋み、術式は完成を待たず崩壊する。帰るはずの魂は、最後まで姿を現さなかった。残されたのは、耳が痛くなるほどの静寂だけだった。
斎姫は力なく目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、決して忘れることのできない、あの日の記憶。
火霊王が暴走した日――。桜島全土を呑み込まんとするほどの火霊が噴き上がり、黒神霊門も崩壊寸前まで追い詰められた。
霊脈は裂け、結界は悲鳴を上げ、大地は激しく割れていく。誰もが退避を命じられる中、ただ一人、その場に残った者がいた。
恒一だった。彼は霊門の中心へ立ち、崩れゆく封印陣へ霊力を流し込み続けていた。
「ここを……落とすわけにはいかない。」
静かな声だった。だが、その決意だけは、火山を震わせる轟音にも決してかき消されなかった。
彼は逃げなかった。生き延びる道を、自ら捨てた。己の霊力を、一滴残らず結界へ注ぎ込み続けたのである。
その犠牲によって、暴走した火霊は辛うじて鎮められた。黒神霊門もまた、崩壊だけは免れた。
しかし――。代償は、あまりにも大きかった。斎姫が駆け戻った時、そこに恒一の姿はなかった。
残されていたのは、焼け焦げた法衣の切れ端だけ。彼は霊門の基底ごと噴き上がった火霊の奔流に呑み込まれ、その身を灰と共に霊脈の奥深くへ散らしていた。
「……どうして。」
震える声が漏れる。
「どうして、あなたは……私を置いて……。」
唇を強く噛み締める。涙は流れなかった。いや、流せなかった。悲しみは涙となる前に胸の奥へ沈み、重い痛みだけを残していた。
人は死ねば魂は輪廻へ還る。それが天地の理である。命は巡り、魂は新たな生へ繋がる。だからこそ、死者を呼び戻すことは許されない。
理を歪めれば、その歪みは必ず世界へ返ってくる。それは巫女である斎姫が、誰よりもよく知っていた。
それでも――。どうしても諦めることができなかった。
ゆっくりと顔を上げる。その視線は石室のさらに奥へ向けられていた。霊脈の核。幾重もの封印によって守られた、その最深部。
そこには一本の神槍が眠っている。
**焔天槍**。
太古、暴走する桜島の火霊を鎮めるために鍛えられた神槍であり、火霊脈そのものを縫い留める霊宝。
その力は火を鎮めるだけではない。霊脈そのものを制御し、天地の流れにさえ干渉すると伝えられている。
斎姫は静かにその名を胸の内で繰り返した。
――もし、焔天槍の力があれば。
――失われた霊脈を繋ぎ直せるのなら。
――消えた命さえ、取り戻せるのではないか。
その思いが胸を満たした瞬間、彼女は自ら気づいてしまう。
それは希望ではない。未練だった。いや、それ以上に危うい執念。世界の理を覆そうとする、許されざる願い。
巫女として最も踏み越えてはならない境界へ、一歩ずつ近づいている自分を、斎姫は誰よりも理解していた。
それでも心は止まらない。止めることができなかった。黒神霊門の深奥では、霊脈が静かに鼓動を刻んでいる。
どくん――。どくん――。
その響きは、まるで彼女を呼んでいるかのようでもあり、あるいは踏みとどまれと諭しているようにも聞こえた。
斎姫はゆっくりと立ち上がる。その瞳には悲しみと迷い、そして拭いきれぬ決意が宿っていた。
「……まだ、終わってはいない。」
小さく零れたその言葉は、誰へ向けたものでもない。己自身への誓いだったのか。それとも、もう届くことのない恒一への約束だったのか。答えを知る者はいない。
ただ一つ確かなのは、その想いが、やがて焔天槍を巡る運命へと彼女を導いていくということだった。
黒神霊門は何も語らない。ただ静かに、巫女の揺れる心を見つめ続けていた。




