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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第63話 別府・白虎陽門の決断

【別府・白虎陽門の決断】


 別府――。そこは火と湯の霊気が交わる境界の地。


 人の世では「地獄」と呼ばれる湯煙立ち昇る霊域であり、その灼熱の大地の奥底には、幽世へと通じる四門の一つ――**白虎の陽門**が、悠久の時を超えて鎮座していた。


 白き霊石で築かれた巨大な門は、噴き上がる湯煙の中でも神々しい輝きを失わず、静かに、しかし圧倒的な威厳を放っている。


 その門を囲むように、緒方一族の長老たちが重苦しい面持ちで立っていた。


 足元の岩盤は絶えず熱を帯び、地の底から吹き上がる霊熱が大気を揺らしている。


 さらに門の奥からは、目には見えぬ瘴気が脈動し、まるで生き物の呼吸のように膨らんでは縮みを繰り返していた。


 沈黙だけが、その場を支配していた。


 やがて、一人の長老が深く息を吐く。


 「……霧獣法流が滅ぼされたそうだな」


 その声は、熱気の中に沈むように響いた。別の長老が静かに頷く。


 「幽世の門を開くことを拒み続けた末、熊野三峯の手によって滅ぼされたと聞く」


 さらに別の長老が低く続けた。


 「熊野三峯を動かしたのは、都の笹林家……その命を受けたという」


 「確かな話なのか」


 「誤報ではあるまい。都から届いた文も、それを裏付けておる」


 再び沈黙が落ちた。


 その時、地底から噴き上がる熱風が一同の間を吹き抜ける。


 本来なら命を育むはずの温かな風。しかし今、その風には肌を刺すような瘴気が混じり、不吉な気配だけを運んできていた。


 やがて、一人の長老が口を開く。


 「都より、笹林道成殿が派遣される」


 その一言に、空気がわずかに張り詰めた。


 「数日中には別府へ到着し、白虎の陽門を開くという」


 「我らにも協力せよとの命だ」


 誰も返事をしない。


 ただ重苦しい沈黙だけが流れる。


 やがて、一人が低く呟いた。


 「……門が開けば、この地はどうなる」


 別の長老が苦々しく答える。


 「幽世の気が流れ込み始める。鬼も妖も、この地へ集うようになるだろう」


 「人も獣も、やがてはその気に侵され、姿も心も歪められていく」


 さらに別の長老が続けた。


 「もっとも、道成殿の話では開かれるのは陽門のみ。白虎の門は半開きに留まるそうだ」


 「完全には繋がらぬ」


 その言葉にも、安堵の色はなかった。


 半開きであろうと、幽世の気が漏れ出す事実は変わらないからだ。


 「それは猶予に過ぎぬ」


 一人が静かに首を振る。


 「陰の門が見つかれば、陽と陰は一つとなる。その時こそ、本当の幽世の門が開く」


 誰も言葉を継げなかった。その未来を想像しただけで、胸の奥が凍りつく。


 しばらくして、一人の長老が堪えきれぬように声を荒らげた。


 「ならば都と戦うべきではないのか!」


 怒声が湯煙の中へ響き渡る。しかし返ってきたのは、冷え切った現実だった。


 「……今さら何を申す」


 年長の長老が静かに目を閉じる。


 「もし戦うのであれば、揚羽家が滅んだ時に立ち上がるべきだった」


 「都が一族を一つ、また一つと呑み込んでいく間、我らは何をしていた」


 その言葉は、鋭い刃となって一同の胸へ突き刺さった。誰も反論できない。


 沈黙こそが、その答えだった。


 長老の一人が、自嘲するように笑う。


 「力がないのではない。抗う機会を失い続けた末に――抗う意思そのものを失ってしまったのだ」


 その言葉に、誰も顔を上げられなかった。


 その時だった。白虎の陽門の向こうから、ひときわ冷たい風が吹き抜ける。


 熱気に満ちた別府には似つかわしくない、不気味な風。まるで門の向こう側で、何者かが静かに目覚めの時を待っているかのようだった。


 一人が震える声で呟く。


 「……では、従うしかないのか」


 誰も答えない。


 別の長老が、絞り出すように続けた。


 「他に道は……本当に残されておらぬのか」


 返事はなかった。ただ白虎の陽門だけが、変わらぬ威容で静かに佇んでいる。まるで、人の迷いも決断も、そのすべてを見届けてきたかのように。


 そして数日後――。


 笹林道成は、わずかな供だけを伴い別府へ姿を現した。緒方一族は誰一人として剣を抜かなかった。止める者も、抗う者もいない。ただ黙って、その儀式を見届けるしかなかった。


 道成は白虎の陽門の前へ進み、静かに法印を結ぶ。幾重もの呪文が紡がれ、複雑な法陣が門全体を覆っていく。


 やがて法陣が眩い光を放った、その瞬間――。轟ッ――。地の底から巨大な震動が突き上げた。


 別府一帯の霊脈が大きく脈動し、まるで大地そのものが鼓動を刻んだかのように揺れる。


 ゆっくりと、白虎の陽門が開いた。だが、その隙間は人一人がようやく通れるほど。半ばで止まった門の向こうには、底知れぬ闇だけが広がっていた。


 完全な開門ではない。それでも、隙間からは黒灰色の霧が静かに流れ出し、周囲の霊気を少しずつ侵し始める。


 道成は門を一瞥すると、緒方一族へ軽く一礼した。


 「ご協力、感謝いたします」


 その声音には、感情の揺らぎは一切なかった。目的だけを果たした術者の声である。


 そうして彼は振り返ることなく都へ帰っていった。残されたのは、静まり返った別府だけだった。


 その日を境に、この地は確かに変わり始める。白く立ち昇っていた湯煙は、次第に黒みを帯びるようになり、霊脈はゆっくりと乱れ始めた。


 温泉の底では、時折、誰も聞いたことのない低い唸り声が響く。夜になると、大地は微かに震え、地中深くから声なき慟哭にも似た波動が滲み上がってくる。


 誰もその正体を知らない。だが、緒方一族の長老たちは悟っていた。


 白虎の陽門は、確かに開いた。それは一枚の扉が開いただけではない。人の世が、静かに幽世へ侵食され始めた――その最初の一歩だったのである。




【焔天槍を求めて】


 別府の山々を見下ろす深い渓谷。その最奥、人の足が決して届かぬ巨大な岩窟の中に、緒方一族が千年にわたり守り継いできた隠れ里があった。


 洞窟の天井からは清らかな霊泉が絶え間なく滴り落ち、その雫は静寂に満ちた岩窟へ澄んだ音色を響かせている。


 岩壁一面には古の封印陣が刻まれ、淡い蒼白の光を放ちながら、里そのものを静かに守護していた。ここは緒方一族最後の希望を託すためだけに残された、誰にも知られてはならぬ聖域である。


 石室の中央には、一人の老人が静かに立っていた。


 緒方一族を束ねる長老――紬彦の父である。


 老いた背は決して大きくない。しかし、その肩には千年に及ぶ一族の歴史と、人々を守り続けてきた責務が重く刻まれていた。


 老人は静かに息子を見つめる。


 「……紬彦。」


 「はい、父上。」


 青年は背筋を正し、真っ直ぐ父の眼差しを受け止めた。石室は静まり返り、霊泉の滴る音だけが時を刻む。


 やがて長老は、静かでありながら胸に深く響く声で問いかけた。


 「我が息子よ。死ぬ覚悟はできておるか。」


 その一言に、石室の空気が凍りつく。


 紬彦は一瞬たりとも迷わなかった。拳を静かに握り締め、力強く答える。


 「はい。この故郷を守るため。この地に暮らす人々の平穏を守るため。命を捧げる覚悟は、すでにできております。」


 その答えを聞き、長老は静かに目を閉じた。誇らしさと、父として息子を危地へ送り出さねばならぬ悲しみが、胸の内で交錯する。


 しばらくして祭壇の奥へ歩み寄ると、一枚の古びた地図を取り出し、静かに広げた。描かれていたのは、九州南端に聳える霊峰――桜島。


 長老はその中央を指先で示した。


 「桜島へ向かえ。焔天槍を持ち帰るのだ。」


 紬彦は思わず息を呑む。


 「焔天槍……。」


 その名は、緒方一族にのみ秘かに伝えられてきた神槍。


 長老は静かに語り始めた。


 「遠い昔、桜島の火霊が暴走した折、その霊脈を鎮めるために鍛えられた神槍だ。火霊脈を貫き、大地を巡る霊流を鎮めることで、噴き上がる火霊を封じ続けている。」


 一度言葉を切り、さらに続ける。


 「だが、その力は火だけに及ぶものではない。焔天槍は霊脈そのものを縫い留め、天地の流れを安定させる霊器でもある。」


 老人の瞳が静かに輝いた。


 「ゆえに白虎の陽門を閉ざすことも、不可能ではない。」


 紬彦の瞳に希望が宿る。


 「本当に……門を閉じられるのですか。」


 「可能性はある。」


 長老は力強く頷いた。


 「だからこそ、お前に託す。」


 しかし紬彦には、一つだけ拭えぬ疑問があった。


 「ですが……焔天槍は桜島の封印を支える霊器です。それを持ち去れば、桜島の封印は崩れてしまうのではありませんか。」


 長老は静かに頷いた。


 「その危惧はもっともだ。長期間失われれば、封印は確実に弱まる。だが、短期間であれば霊脈にはなお余力が残る。白虎陽門を閉じ次第、ただちに桜島へ戻し、元の封印へ納めれば、大きな乱れは避けられるだろう。」


 紬彦は安堵する一方、さらに問いを重ねた。


 「もし白虎陽門を閉じたことが都へ知れ渡れば……。」


 長老は苦く微笑んだ。


 「だからこそ密かに行う。誰にも知られてはならぬ。仮に後日問い質されたとしても――」


 老人は静かに目を細めた。


 「知らぬ、と答えるほかあるまい。生き残るためには、沈黙もまた武となる。」


 再び静寂が訪れる。


 やがて紬彦は最後の疑問を口にした。


 「ですが……。都が再び門を開けば、すべて元に戻ってしまうのではありませんか。」


 その問いに、長老はゆっくりと首を振った。


 「いや。幽世の門は、一度閉じたからといって容易に開けるものではない。」


 その眼差しが鋭さを帯びる。


 「お前も見ただろう。笹林道成が陽門を開いたあの儀式を。」


 紬彦は静かに頷いた。


 「あの術には、莫大な**穢液**が必要だ。人々の絶望、憎悪、怨念……無数の負の感情が長い歳月をかけて凝り固まり、ようやく生まれる穢れの精髄。それを霊脈へ流し込み、陰陽の均衡を崩して初めて、門は半ば開かれる。」


 老人は静かに拳を握った。


 「一人や二人の怨みで生まれる量ではない。各地へ災いを広げ、多くの命を苦しめ、長い年月を費やしてようやく集められるものだ。ゆえに、再び門を開くにも時間がかかる。」


 長老は息子を真っ直ぐ見つめた。


 「我らが求めるのは勝利ではない。時間だ。一年でもよい。半年でもよい。たとえ一日であろうと、人々へ平穏を取り戻せるなら、その一日は未来を変える。その一日が、新たな希望を生むかもしれぬ。」


 紬彦は深く息を吸い込み、静かに膝をついた。


 「承知いたしました。必ず焔天槍をお借りし、白虎陽門を閉ざしてみせます。」


 長老は何も言わなかった。ただ静かに息子の肩へ手を置く。


 その温もりには、一族の未来を託す長としての願いと、無事を祈る父としての想い、そのすべてが込められていた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝――。朝霧に包まれた隠れ里を、一人の若き修士が旅立つ。


 腰には祖先より受け継がれた霊刀。背には旅装。胸には、一族すべての願い。緒方紬彦は、一度だけ故郷を振り返った。


 白く立ち昇る別府の湯煙。その彼方には、半ば開かれた白虎の陽門が静かに佇み、裂け目からは墨を流したような黒き幽気が絶え間なく天へ昇っている。


 その瘴気は少しずつ大地を侵し、人の世を幽世へと染め始めていた。


 紬彦は拳を強く握り締める。――必ず戻る。――この地を、再び人の世へ取り戻すために。


 その決意を胸に、青年は南の空を見上げた。


 目指すは、火霊の島。幾多の神話と封印が眠る霊峰――桜島。


 しかし紬彦は、まだ知る由もない。その桜島には、故郷を求めて旅を続ける若き修士・正雪が、すでに足を踏み入れていることを。


 一人は失われた故郷を探す旅人。一人は故郷を守るため、すべてを懸ける守護者。異なる宿命を背負った二人は、やがて火と月が交わる霊峰・桜島で巡り会う。


 その出会いは、九州全土を覆い始めた幽世の異変に立ち向かう、新たな戦いの幕開けとなるのであった。


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