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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第62話 月詠神宮・月影鏡

【月詠神宮の誤解】


 月明かりが静かな海を白銀に染めていた。


 その夜空を、一羽の巨大な霊鳥が悠然と滑空する。


 灰銀の翼を大きく広げた霊鳥・クルルは、火霊に満ちた霊峰・桜島を眼下に収めながら、山腹に鎮座する月詠神宮へゆるやかに高度を下げていた。


 その背には、一人の青年が静かに立っている。


 流浪の修士、正雪。


 長い旅路の疲れを夜風へ溶かすように、彼は神宮の境内を見下ろし、小さく息をついた。


 「ようやく着いたか……」


 今夜だけでも、この神宮で旅の疲れを癒やせれば――。


 そう思った、その時だった。


 境内を巡回していた巫女・月依が、不意に夜空を見上げる。


 巨大な霊鳥が一直線に神宮へ向かってくる姿を目にした瞬間、十日前の記憶が鮮明によみがえった。


 立ち去る際、木御門仁翔が残した言葉。


 『十日後、私は再び来る』


 そして今日こそ、その約束の日である。


 月依の瞳が鋭く細められた。


 「……まさか」


 次の瞬間、澄み渡る声が神域を貫いた。


 「敵襲です!」


 静寂に包まれていた境内が、一瞬で緊迫した空気へと変わる。神職たちは霊具を手に本殿前へ駆け集まり、結界陣を展開した。


 月依は迷うことなく神楽鈴を高く掲げる。清らかな月霊力が鈴へ流れ込み――。


 ――チリン。


 澄み切った鈴音が夜空へ溶けると同時に、幾筋もの月光が鋭い刃へと姿を変え、流星のごとき速さで天空を駆けた。


 「えっ!?」


 正雪は思わず目を見開いた。


 「いきなり攻撃か!」


 無数の月刃が容赦なく襲いかかる。クルルは驚いたように甲高く鳴き、大きく翼を翻して空中で急旋回した。


 「キュルルッ!?」


 「落ち着け、クルル!」


 正雪はためらうことなく霊鳥の背から身を躍らせる。風を踏むように宙を滑りながら、掌へ霊力を集中させた。


 「――霊盾。」


 蒼白い霊光が掌から広がり、半透明の巨大な盾となって眼前を覆う。


 次の瞬間――。


 ギィンッ! ギィンッ! ギィンッ!


 鋭い月刃が次々と霊盾へ叩きつけられ、眩い火花のような霊光を散らした。


 正雪は風に身を任せるように空を滑り、一つひとつの斬撃を巧みに受け流していく。


 反撃はしない。ただ、防ぐだけ。やがて彼は静かに境内へ降り立った。


 一方、クルルは慣れた様子で翼を畳み、正雪の腰に吊るされた河童の壺へ飛び込む。


 壺の中には、息土から生まれた小さな島が広がっていた。


 そこには翠夏や梨花、千蔵、徳姫らが暮らしており、今ではクルルにとっても心安らぐ住処となっている。


 正雪はなお霊盾を維持したまま、一歩たりとも前へ出なかった。


 腰の霊剣にも、指一本触れようとはしない。


 「待ってくれ!」


 呼びかけながら、飛来する月刃だけを正確に弾き返す。


 カンッ。カンッ。カンッ。乾いた音だけが夜の境内へ響いていた。終始、防御一辺倒。


 そこには攻撃の意思がまるで見えない。


 その様子を見つめていた月依は、静かに眉を寄せた。


 (……おかしい)(木御門家の者なら、こんな戦い方はしない)


 木御門仁翔であれば、神宮ごと力でねじ伏せようとするだろう。まして木御門家が攻め込むのであれば、たった一人ということもあり得ない。


 目の前の青年は違う。神宮を傷つけまいとし、神職たちを巻き込むまいとしながら、ひたすら攻撃を受け流している。


 その姿からは、敵意も殺気も感じられなかった。


 月依は静かに神楽鈴を下ろした。


 「……やめなさい。」


 その一言で神職たちも一斉に攻撃を止める。張り詰めていた空気は、夜風とともにゆっくりとほどけていった。


 正雪も霊盾を解き、安堵したように息を吐く。


 月依はなお警戒を残しながら問いかけた。


 「あなたは……何者ですか。木御門家の方ではありませんね。」


 正雪は苦笑し、頭をかいた。


 「違うよ。俺は正雪。ただの旅人だ。」


 彼は穏やかな口調で続ける。


 「故郷を探して旅をしている。この島を見つけて、今夜だけ宿を借りられないかと思って降りてきただけなんだ。」


 月依はしばらく無言のまま、正雪の瞳を見つめ続けた。そこには敵意も、野心も、欲望もない。


 あるのは、果てしない旅路を歩き続けた者だけが宿す、静かな強さだった。


 やがて月依は神楽鈴を胸元へ納め、深々と頭を下げた。


 「……申し訳ありません。私の早とちりでした。」


 正雪は肩をすくめ、穏やかに笑う。


 「気にしなくていい。空から突然現れたら、誰だって警戒するさ。」


 その言葉に、月依もようやく小さく笑みを浮かべた。夜気を満たしていた緊張は、静かに消えていった。


 ◇ ◇ ◇


 ほどなくして、正雪は拝殿へ案内され、宮司と月依を交えて話をすることになった。


 湯気の立つ茶碗を前に、正雪は改めて頭を下げる。


 「正雪と申します。桜島を見た時、一瞬だけ故郷ではないかと思いました。ですが……違いました。」


 その寂しげな微笑みに、宮司は静かに目を伏せる。


 「この近海の島々については把握しておりますが、お話にあるような島には心当たりがございません。」


 「そうですか……。」


 正雪は静かに頷き、それ以上は故郷について語らなかった。


 代わりに宮司が口を開く。


 「実は、今この地では異変が続いております。」


 近頃頻発する地震。絶え間なく続く小規模噴火。日に日に乱れていく火霊脈。さらに、火霊石を狙って都から訪れる陰陽師たち。


 「旅のお方であれば、この地には長居なさらぬ方が賢明でしょう。」


 宮司は静かに忠告した。


 しかし正雪は少し考え込むと、ゆっくりと口を開く。


 「つまり……封印が弱まっていることまでは分かっている。しかし、その原因だけは誰にも分からないということですね。」


 宮司は重々しく頷いた。


 「その通りです。このような異変は、数百年にわたり山を守ってきた我らも経験したことがありません。」


 正雪は窓の向こうにそびえる桜島へ静かに視線を向けた。


 「ならば、推測を重ねるより、自分の目で確かめた方が早いでしょう。」


 その言葉に、月依は目を見開く。


 「……まさか。封印の中心へ向かわれるおつもりですか。」


 正雪は静かに頷いた。


 「ええ。火霊は嘘をつきません。異変が起きている以上、その源には必ず痕跡が残っているはずです。」


 拝殿の空気が再び張り詰める。


 封印の中心――。そこは、歴代の巫女でさえ容易に踏み入ることを許されない神域。濃密な火霊が渦巻き、一歩踏み違えれば命を落としかねない禁地であった。


 宮司はゆっくり首を振る。


 「危険すぎます。たとえ巫女であっても、軽々しく立ち入れる場所ではございません。」


 重い沈黙が流れる。その静寂を破ったのは、月依だった。


 彼女は静かに立ち上がり、真っ直ぐ桜島を見据える。


 「私が参ります。」


 「月依!」


 宮司が思わず声を上げる。


 しかし月依は振り返らない。


 「私は、この山を守る巫女です。この異変から目を背けることはできません。」


 その覚悟に満ちた言葉を聞き、正雪も静かに立ち上がった。


 「ならば、私も同行します。」


 月依は振り返り、静かに一礼する。


 「正雪様。ご無理をなさらなくても構いません。あなたは、この地のお客様なのですから。」


 正雪は穏やかに微笑んだ。


 「旅を続けていると、困った時に助けてくれる人に何度も出会う。」


 少しだけ目を細める。


 「だから今度は、私が誰かを助ける番です。それが、旅人として歩むと決めた道です。」


 その言葉に、月依もまた柔らかな笑みを返した。


 「……ありがとうございます。」


 そして、静かに頷く。


 「では――共に参りましょう。」


 こうして、流浪の修士・正雪と、桜島を守護する巫女・月依は、火霊王が眠る禁域へ向かうことを決意する。


 まだ二人は知らない。その一歩が、数百年にわたり封じられてきた真実を暴き、桜島そのものの運命を揺るがす大いなる戦いの幕開けとなることを。




【月影鏡の加護】


 翌朝――。


 東の空が淡く白み始めた頃、月依は正雪を伴い、月詠神宮の本殿奥へと静かに足を踏み入れた。そこは宮司でさえ、特別な祭儀の時しか立ち入ることを許されない神域の最深部である。


 長く続く石造りの回廊には朝の光さえ届かず、二人の足音だけが、静寂の中へ静かに溶けていく。やがて回廊の果てに、小さな石殿が姿を現した。


 扉がゆっくりと開かれる。その中央に、一枚の古びた神鏡が静かに祀られていた。


 円く磨き上げられた鏡面には、満月を思わせる淡い銀光が揺らめいている。縁には幾重もの月紋が精緻に刻まれ、永い歳月を経た霊宝でありながら、少しの曇りも見せてはいなかった。


 しかし、不思議なことに鏡へ近づいても、人の姿は映らない。そこに広がっているのは、水面のように揺れる月光だけだった。


 正雪は思わず歩みを止める。


 「これは……。」


 月依は神鏡へ深く一礼すると、静かな声で答えた。


 「月影鏡――月詠神宮に代々受け継がれてきた神宝です。」


 その声音には、深い敬意が込められていた。


 「封印の中心、南岳火口へ向かう者は、必ずこの鏡の加護を受けなければなりません。」


 正雪はわずかに眉を寄せる。


 「火口へ向かうだけで、そこまで必要なのか?」


 月依は真っ直ぐに頷いた。その表情には冗談の入り込む余地など微塵もない。


 「はい。南岳火口へ近づくほど、火霊脈には『火毒』が満ちています。」


 「火毒……。」


 聞き慣れぬ言葉に、正雪は静かに問い返した。


 月依は神鏡へ視線を向けたまま語り始める。


 「火霊が長い年月をかけて淀み、生まれた瘴気です。炎のような熱もありません。匂いも、色もありません。霊力で探ろうとしても、その存在を捉えることは極めて困難です。」


 彼女は静かに目を伏せた。


 「だからこそ、人は気づかぬまま、その毒を吸い込んでしまうのです。」


 正雪の表情が引き締まる。


 「体に入ると、どうなる?」


 月依はゆっくりと言葉を選んだ。


 「最初は、ほんのわずかな違和感です。見えるはずのない人影が見える。聞こえるはずのない声が耳元で囁く。ですが、それは始まりにすぎません。」


 石殿の空気が、わずかに重く沈んだ。


 「火毒が魂の奥まで侵食すると、幻と現実の境界が失われます。目の前の景色も。隣を歩く仲間も。自分が踏みしめる道さえも。それが真実なのか幻なのか、判別できなくなるのです。」


 静かな声の奥に、消えることのない悲しみが滲んでいた。


 「かつて、この封印を守っていた巫女や修験者にも、火毒に呑まれた者がいました。」


 月依は小さく息を吐く。


 「亡くなった家族が迎えに来たと思い込み、自ら火口へ身を投げた者。霊宝を見つけたと歓喜し、煮えたぎる溶岩へ手を伸ばした者。ある者は、幸せな夢の中で眠り続け……。」


 その声は、さらに静かになる。


 「二度と目を覚ますことはありませんでした。」


 正雪は無言のまま神鏡を見つめた。火霊が恐ろしいのではない。火霊を蝕み、心そのものを狂わせる火毒こそ、この地で最も恐るべき存在なのだ。


 月依は神鏡の前へ進み、静かに振り返った。


 「だからこそ、この鏡の加護が必要なのです。」


 彼女は鏡へ優しく手を添える。


 「月影鏡には、月神の祝福が宿っています。」

 

 そう言うと、月依は鏡の前へ静かに跪いた。


 神楽鈴を胸の前に掲げ、澄み切った声で祝詞を奏でる。


 「――月満ちて影を照らし

  虚を祓い、真を映せ。

  穢れは鏡に沈み、

  迷いは月へと還らん。

  月影よ、その御加護をここに。」


 チリン――。


 澄み渡る鈴音が石殿いっぱいに響き渡る。その瞬間、月影鏡が静かに銀色の輝きを放った。


 柔らかな月光が鏡面から溢れ出し、神殿全体を幻想的な光で満たしていく。


 銀光はやがて幾筋もの細い光糸となり、正雪の身体へ静かに絡みついた。


 胸へ。腕へ。額へ。そして、両の瞳へ。冷たくも温かな月光が、魂を洗い清めるように全身を巡っていく。


 正雪は静かに目を閉じた。身体から余計な力が抜け、澄み切った湖面のように心が静まっていく。


 やがて無数の光糸は一粒の月露となり、正雪の眉間へ静かに溶け込んだ。それと同時に、鏡の輝きもゆっくりと収まり、石殿には再び静寂が戻る。


 月依は安堵したように息をつき、穏やかに微笑んだ。


 「これで大丈夫です。月影鏡が、あなたの心を護ってくれます。」


 正雪はゆっくりと目を開いた。目の前の景色は何一つ変わっていない。


 それでも、不思議な感覚があった。世界の輪郭が、以前よりも鮮明に見える。


 揺らぐものと、揺らがぬもの。偽りと真実。その境界が、心の奥ではっきりと感じ取れるようになっていた。


 正雪は静かに息を吐き、月依へ微笑む。


 「……不思議だ。まるで心の霧が晴れたような気がする。」


 月依も微笑み返し、神鏡へ深く一礼した。


 「参りましょう。」


 その眼差しは、すでに禁域へ向いている。


 「この先は、桜島で最も危険な場所――南岳火口です。火毒だけではありません。何が待ち受けているか、私にも分かりません。」


 正雪は静かに頷いた。


 「だからこそ、確かめに行こう。」


 その言葉に月依も力強く頷く。二人は石殿を後にし、静かに歩き始めた。


 月神の加護をその身に宿しながら。火毒と幻が支配する禁域――南岳火口へ。


 そこには、数百年にわたり封じられてきた真実と、桜島の運命を左右する新たな試練が、二人を静かに待ち受けていた。


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