第61話 桜島・火霊の山と都の使者
【火霊の山と都の使者】
桜島――。
赤黒い岩肌の裂け目から白煙が天へと立ち昇り、硫黄を含んだ熱風が山肌を吹き抜ける。
大地の深くでは巨大な火霊脈が生き物の心臓のように脈打ち、その鼓動に合わせるように霊峰全体が静かに震えていた。
この霊峰は、古来より「火霊の山」と呼ばれている。
数千年もの歳月をかけて蓄えられた火霊気は、天地の精華を凝縮し、ごく稀に拳ほどの大きさを持つ火霊石を生み出す。
霊石には水霊石、土霊石、風霊石、雷霊石など数多くの種類がある。
しかし、火霊の山である桜島が生み出すのは火霊石だけだった。
一粒だけでも低位修士の境界を押し上げ、一つの宗門の盛衰すら左右すると言われる至宝。
だが、その産出量は一年に三十個ほど。火霊の山と呼ばれていても、決して尽きることのない宝ではない。
そのうち二十個は、数百年前から続く都へ献上される。残る十個は各地へ送られ、水霊石と交換される。
その水霊石こそ、桜島地下深くに眠る火霊の王を封じる巨大封印陣の礎であった。一つでも欠ければ封印は揺らぐ。
均衡が崩れれば、火霊の王は目覚め、桜島は天地を焼き尽くす災厄の山となる。ゆえに、この掟は数百年間、一度たりとも破られたことがなかった。
◇ ◇ ◇
月讀神社。
樹齢千年を超える御神木が静かに枝葉を揺らす境内へ、一人の青年が悠然と石段を上ってきた。黒地の狩衣には銀糸で陰陽紋が織り込まれ、腰には白玉の佩玉。
その姿には、都の名門に生まれた者だけが持つ気品と、人を見下ろすことに慣れた絶対の自信が漂っていた。
青年は境内を見渡し、鼻で笑う。
「ここが火霊石を管理する神社か。」
その声音に神域への敬意はない。
宮司は静かに歩み寄り、深く一礼した。
「ようこそお越しくださいました。」
青年は顎を上げたまま名乗る。
「都、木御門家。木御門玄信の孫――木御門仁翔だ。」
その名を聞いた瞬間、神職たちの表情がわずかに変わる。木御門家。帝を補佐し、陰陽師を束ねる都の名門中の名門。
宮司は穏やかに微笑んだ。
「玄信様のお孫様でしたか。本日はどのようなご用件でしょう。」
仁翔は袖を軽く払う。
「火霊石を三十個、受け取りに来た」
宮司は静かに目を伏せた。
「申し訳ございません。都へ献上する火霊石は、古来より二十個と定められております。今年も、その数をご用意しております。」
仁翔は口元を歪める。
「古来?今年、火霊石の受領を任されたのは私だ。私が三十個と言えば、それが都の意思となる。」
宮司は少しも動じない。
「火霊石は一年に三十個ほどしか産出いたしません。残る十個は、水霊石と交換するために必要なのです。」
仁翔は鼻で笑った。
「そんな事情は私の知るところではない。都が必要としている。それだけだ。」
境内に重い沈黙が落ちる。
宮司は穏やかなまま答えた。
「火霊石を失えば、水霊石を得ることができません。水霊石は封印陣の要。封印が崩れれば、この山は火の海となり、多くの民が命を落とします。」
仁翔は肩をすくめた。
「封印?弱き民を守るために、これほどの至宝を手放すとは愚かな話だ。」
彼は鋭い目で宮司を見据える。
「……それとも宮司殿。本当は火霊石を隠しているのではないか?」
宮司は静かに首を振る。
「そのようなことはございません。申し訳ありませんが、これ以上は――」
「ならば。」
仁翔が遮った。
「火霊石でも、水霊石でも構わん。十個の霊石を渡せ。」
宮司の笑みが初めて消えた。
「水霊石は封印そのものです。一つ欠けても封印は揺らぎます。十個も失えば……桜島は噴火いたします。」
仁翔は冷たく言い放つ。
「知るものか。」
その時だった。
――チリン。澄み切った神楽鈴の音が、静かな境内に響き渡る。拝殿から、一人の巫女が姿を現した。
白衣に緋袴。銀糸のような長い髪が夜風に揺れ、月を映した湖のような瞳が静かに仁翔を見つめる。
月依。彼女は宮司の前へ進み、一礼した。
「宮司様。ここからは、私がお話しいたします。」
宮司は小さく頷き、一歩下がる。月依は仁翔を真っ直ぐ見据えた。
「木御門様。三十個のお渡しはできません。」
仁翔の眉がぴくりと動く。
「巫女。誰に向かって口を聞いている。」
月依は静かに答えた。
「私は月讀神社の巫女。この神社と桜島の霊脈を守る者です。」
一歩も退かず、凛と告げる。
「ですから申し上げます。できないものは、できません。」
境内から音が消えた。仁翔はしばらく月依を見つめると、低く笑った。
「面白い。地方の巫女ごときが、この私を拒むか。」
彼は月依の目前まで歩み寄る。
「木御門家を敵に回す覚悟はあるのだな。」
月依の瞳は少しも揺れない。
「封印が崩れれば、桜島は噴火します。その責任を、木御門様がお取りになりますか。」
仁翔は答えない。
月依は静かに続けた。
「私は、この島を守る巫女です。たとえ命を失っても、この責務だけは譲れません。霊石は、お渡しできません。」
二人の視線が真っ向からぶつかる。やがて仁翔は鼻で笑い、踵を返した。
「いいだろう。十日後、もう一度来る。」
彼は振り返ることなく言い放つ。
「その時も拒むというなら――、月讀神社は、もうこの世に存在する必要はない。」
待たせていた霊禽へ飛び乗ると、巨大な翼が夜空を切り裂いた。仁翔の姿は、火山灰舞う空の彼方へ消えていく。
長い沈黙のあと、宮司が静かに息を吐く。
「月依……。仁翔殿は、十日後に戻ってくるでしょう。しばらく身を隠した方がよいのではありませんか。」
月依はゆっくりと桜島を見上げた。赤く脈打つ火口の光が、その横顔を照らす。
「宮司様。私たちが守るのは火霊石ではありません。この島で暮らすすべての命です。」
彼女は胸元の神楽鈴をそっと握る。
「私は逃げません。もし力ずくで霊石を奪おうとするなら――」
その澄んだ瞳に、強い決意が宿る。
「この命に代えても、桜島を守ります。」
その誓いに応えるように、桜島の深奥から重々しい地鳴りが響いた。まるで数百年の眠りにつく火霊の王が、若き巫女の覚悟を静かに見届けているかのように――。
【月鳴る神社、帰れぬ故郷】
夜の帳が、桜島を静かに包み込んでいた。
火口から立ち昇る白煙は月光を浴びて銀色に輝き、地の底で煮えたぎる溶岩は赤く脈打ちながら、ときおり夜空の雲を朱に染め上げる。
火霊の山――桜島。その山麓に佇む月讀神社は、千年の神木に抱かれるように静かな眠りについていた。
境内には虫の音だけが響き、夜風が木々の梢を優しく揺らしている。だが、その静寂とは裏腹に、大地の深奥では、不穏な鼓動が誰にも知られることなく脈打ち続けていた。
まるで、地の底に眠る何かが、永い眠りから目覚めようとしているかのように――。
巫女・月依の部屋。障子越しの月明かりが畳を淡く照らしている。
机の上には、一枚の古びた封印図。
そこには桜島を巡る霊脈と、各地から納められた水霊石の配置が、幾重もの霊紋とともに細かく描き込まれていた。
月依は封印図を見つめたまま、小さく息をつく。
「……またか。」
その瞬間――、ゴゴゴゴ……。
低い地鳴りが部屋を揺らした。畳の上の茶碗がかすかに震え、障子が軋み、梁から細かな埃が静かに舞い落ちる。
地震だった。ここ数か月、この揺れは幾度となく繰り返されている。
今では数えることさえ意味を失っていた。
異変は、それだけではない。山腹では小規模な噴火が相次ぎ、火山灰が島を覆う日も日に日に増している。
桜島を巡る火霊脈は、確実に乱れ始めていた。
月依は静かに立ち上がり、障子を開く。夜風が頬を撫で、銀色の長い髪をさらりと揺らした。遠く火口の底から漏れる赤い光は、まるで巨大な獣が闇の中で静かに呼吸しているようだった。
彼女はゆっくりと首を横に振る。
木御門仁翔様のことではない。都からの脅しなど恐れてはいない。巫女となったその日から、この神域を命に代えても守ると誓ってきた。
だが、胸の奥に消えない不安があった。恐れているのは、人ではない。この山、そのものだった。
「封印の力が……弱まっている。」
脳裏に、幼い頃から何度も読み返した古文書の一節が蘇る。
――火霊の王、眠りより覚めんとする時、大地は幾度も震え、炎は眠りを拒む。
月依は無意識のうちに封印図へ視線を落とした。
「まさか……。本当に、封印に異変が起きているのか?」
答える者はいない。夜風だけが静かに吹き抜け、机の上の霊札をかすかに揺らしていた。
◇ ◇ ◇
その頃――。
遥か東の夜空を、一羽の巨大な霊鳥が悠然と翔けていた。灰色の羽毛の中に、幾筋もの黄金色の羽が混じる。月光を浴びるたび、その身体は青白い霊光をまとい、夜空に幻想的な軌跡を描いていく。
霊鳥――クルル。
剣山での大戦を終えた正雪は、祖谷で紗綾たちと別れ、一人で旅を続けていた。一方、クルルは祀花たちを無事に伊世花大社へ送り届け、その役目を果たした後、再び正雪と合流していた。
久しぶりの再会に、クルルは嬉しそうに空を何度も旋回し、まるで「早く乗って」と言わんばかりに正雪の前へ舞い降りる。
以前より一回り大きく成長したその身体は、翼をひとたび羽ばたかせるだけで雲を裂き、天空を自在に駆け巡る。
今やただの霊鳥ではない。天空を支配する霊獣と呼ぶにふさわしい威容を備えていた。
正雪は思わず笑みを浮かべる。
「久しぶりだな、クルル。」
「キュルルッ!」
甘えるような鳴き声が返ってくる。
正雪はその首筋を優しく撫でると、軽やかに背へ飛び乗った。クルルは嬉しそうに翼を大きく広げ、夜空高く舞い上がる。
こうして、一人と一羽は再び旅を共にし、新たな目的地――火霊の山・桜島へ向かった。
◇ ◇ ◇
数日後。クルルの背に腰を下ろした正雪は、黙って遥かな水平線を見つめていた。
やがて、海の彼方に巨大な黒い山影が姿を現す。黒々とした山体。絶え間なく噴き上がる白煙。海の中央から天を衝くようにそびえ立つ孤高の火山。
その姿を見た瞬間、正雪の瞳が静かに揺れた。
「……。」
胸の奥に、懐かしさが込み上げる。だが、それはほんの一瞬だった。
近づくにつれ、その違いが少しずつ見えてくる。山の稜線。島の形。潮の香り。吹き抜ける風。幼い頃から見続けてきた故郷の火山とは、どこかが違っていた。
正雪は苦く笑う。
「似ているだけか……。やっぱり、俺の故郷じゃない。」
帰れない。その現実が、改めて胸を締めつける。クルルは心配そうに首を傾げ、小さく鳴いた。
「キュル……。」
正雪はそっと首筋を撫でる。
「心配するな。故郷を失っても、それで歩みを止めるつもりはない。いつか必ず、本当に帰るべき場所を見つける。」
「キュルルッ!」
励ますような鳴き声とともに、クルルは翼を大きく広げた。やがて二人は桜島の上空へ辿り着く。
人々は「島」と呼ぶ。しかし、その実態は海から突き出した巨大な火霊山そのものだった。海は山を囲む堀に過ぎず、島全体が一つの霊峰として天地にそびえ立っている。
その山麓に、一本の巨大な御神木に守られた小さな社が見えた。
月讀神社――。
正雪は目を細める。
「夜も更けてきたな。ひとまず、あそこで休ませてもらおう。」
「キュルルッ!」
クルルは嬉しそうに鳴くと、大きな翼をゆるやかに傾け、月讀神社へ向かって静かに降下を始めた。
その時――まだ誰一人として知る者はいなかった。
流浪の若き修士・正雪。桜島を守る若き巫女・月依。
二人の運命の出会いが、数百年もの間眠り続けた火霊の王の封印を揺るがし、やがて桜島のみならず、修仙界全体の命運をも大きく動かす最初の一歩となることを。




