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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第58話 託された誓い

【閉じられぬ朱雀門】


 剣山地下――。地底深く、太古の時代より封じられていた幽世の陰の朱雀門の前。


 そこでは、すでに激しい戦いが繰り広げられていた。轟音が響き渡る。霊力と妖力が激突し、岩壁は砕け、大地は裂けている。


 門の隙間からは黒い幽気が絶え間なく溢れ出し、地下空間全体を不気味な闇で染めていた。その中心に立つのは、一匹の老狸。


 いや――正確には、その残魂である。


 六右衛門。かつて祖谷と剣山を守護した大狸。数百年前に命を落としたはずの英雄であった。


 しかし今、その魂は再びこの地に立っていた。最後の誓いを果たすために。最後の使命を守るために。


 六右衛門の巨大な身体から金色の妖気が燃え上がる。


 その前には五人の敵。笹林道成。木御門玄信。そして木御門衆の陰陽師三名。五対一。本来なら勝負にならぬ戦力差だった。


 だが――。六右衛門は一歩も退かなかった。


 轟ッ!


 巨大な尾が振るわれる。岩盤ごと吹き飛ばす一撃。木御門の術者たちは慌てて結界を展開した。だが結界は一瞬で砕け散る。衝撃で三人が後退した。


 玄信の額にも汗が浮かぶ。


 「馬鹿な……。ただの残魂のはずだぞ……。」


 六右衛門は鼻を鳴らした。


 「ただの残魂だと?」


 低い声が地下空間を震わせる。


 「ならば試してみるがよい。誓いを守る魂が、どれほど重いものかをな。」


 その眼には燃えるような闘志が宿っていた。肉体はすでに失われている。魂も長くは保たない。それでも戦う。なぜなら。門を守るという誓いだけが、今の六右衛門を支えているからだ。


 だが戦況は厳しかった。相手は五人。しかも道成がいる。黒い術式が幾重にも展開される。幽世の気が槍となり。鎖となり。呪符となって六右衛門へ襲いかかる。


 轟音。爆発。衝撃。六右衛門の身体が後退した。その毛並みが霧のように崩れる。残魂である以上、受けた損傷はそのまま存在の消耗へ繋がる。


 それでも彼は立ち続けた。玄信が安堵したように息を吐く。


 「押している。あと少しです。」


 しかし。その瞬間だった。遠くの通路から轟くような声が響いた。


 「六右衛門様――!」


 徳姫だった。続いて千蔵が飛び出す。さらに紗綾。正雪。そして――。鎧を纏った巨大な狸。


 金長狸。


 その姿を見た瞬間。六右衛門の目が大きく見開かれた。金長狸もまた笑った。


 「久しいな、六右衛門。随分と無茶をしておる。」


 六右衛門も豪快に笑う。


 「誰かが止めねばならぬからな。遅かったぞ、金長。」


 「ははは!」


 金長狸の笑い声が響いた。その瞬間。戦場の空気が変わる。絶望的だった戦力差が消えた。玄信の顔色が変わる。


 「金長狸まで……!」


 道成だけは冷静だった。だがその目は細められている。


 「なるほど。朱雀門が開いたことで、守護者たちの残魂まで呼び起こしたか。」


 しかし次の瞬間。正雪たちも戦闘へ加わった。紗綾の六本の短刀が空を裂く。千蔵と徳姫の妖術が左右から襲う。


 金長狸の巨大な拳が結界を粉砕する。そして六右衛門が正面から突撃した。


 轟ッ――!


 地下空間そのものが揺れた。木御門衆の陣形が崩れる。一人。また一人。術者たちが吹き飛ばされた。


 玄信も結界ごと岩壁へ叩きつけられる。


 その時。道成が口を開いた。


 「退くぞ。」


 玄信が驚く。


 「しかし――目的は果たした。」


 道成の視線は朱雀門へ向いていた。隙間から溢れる幽気。完全には開いていない。だが確実に目覚めている。


 それだけで十分だった。


 「今はまだ時ではない。」


 そう言い残すと。黒い霧が広がった。次の瞬間。道成たちの姿は消えていた。逃走である。


 静寂が訪れる。だが誰も勝利を喜ばなかった。その理由は全員が理解していた。


 敵は去った。しかし、問題の本体は残っている。幽世の陰の朱雀門。その巨大な石門が、今もなお半ば開いたまま存在していた。


 六右衛門が門を見上げる。金長狸も並ぶ。正雪たちも息を呑んだ。


 門の向こうでは、黒い霧が渦を巻いている。死者の囁き。怨念の声。遠い幽世の気配。それらが絶えず流れ込んでいた。


 「閉じなければならぬ。」


 紗綾が呟く。全員が頷いた。そして試みた。


 封印術。陰陽術。結界術。妖術。持てる力の全てを注ぎ込む。


 だが――。門は動かなかった。一寸たりとも。


 金長狸が術を放つ。六右衛門も妖力を注ぎ込む。それでも結果は同じだった。まるで山そのものと一体化しているかのように。門は微動だにしない。


 やがて全員が力を使い果たした。重い沈黙が降りる。


 六右衛門が低く呟いた。


 「駄目か……。」


 金長狸も苦い顔をする。


 「開かれた門は、もはや我らだけでは閉じられぬ。」


 正雪は門を見上げた。隙間の向こう。底知れぬ闇が広がっている。その闇は今もなお少しずつ現世へ流れ込んでいた。


 六右衛門は静かに言った。


 「これは始まりに過ぎぬ。朱雀門が開いたのなら、他の門もいずれ目覚める。」


 その言葉に誰も反論できなかった。祖谷に眠る陽の門。そして東西北に存在する他の門。


 陰陽八門。数千年の眠りを経て、その巨大な陣が静かに動き始めている。


 剣山の地下に立つ者たちはまだ知らない。この閉じられぬ門が、やがて現世と幽世の命運を左右する大災厄の序章に過ぎないことを。


 ただ一つだけ確かなことがあった。幽世の陰の朱雀門は――もはや誰にも止められないほど、深く目覚め始めていたのである。




【託された誓い】


 幽世の陰の朱雀門の前――。戦いの余韻がまだ残る地下空間には、重苦しい静寂が漂っていた。


 門の隙間からは絶え間なく黒い幽気が流れ出し、まるで深淵が呼吸しているかのようである。


 その前に立つ金長狸と六右衛門狸は、しばらく何も語らなかった。ただ静かに、若き狸たちを見つめていた。


 千蔵。徳姫。二匹の瞳には傷と疲労が残っている。しかし、その奥には揺るがぬ意志が宿っていた。


 金長狸はゆっくりと目を細める。


 「大きくなったものだな。」


 千蔵は思わず耳を立てた。


 「金長様……。」


 金長狸は笑った。それは戦場で見せる豪胆な笑みではなく、遠い昔の子孫を見る祖父のような優しい笑みだった。


 「儂らが守ろうとしたものは、消えておらなんだ。狸の誓いは、ちゃんと受け継がれておる。」


 その言葉に千蔵は胸が熱くなった。


 六右衛門もまた徳姫へ視線を向ける。


 「徳姫。」


 「はい。」


 徳姫は深く頭を下げた。


 六右衛門は静かに頷く。


 「よくここまで来た。六右衛門の名を汚しておらぬ。誇ってよい。」


 徳姫の目が潤んだ。幼い頃から聞かされてきた伝説。祖先。誤解された英雄。その本人から認められる日が来るなど、夢にも思わなかった。


 しばらくして六右衛門は紗綾へ顔を向けた。紗綾は少し驚きながらも姿勢を正す。


 六右衛門は静かに尋ねた。


 「祖谷はどうなっておる。」


 その問いに紗綾は答えた。揚羽家の落人たちが今も祖谷に生きていること。代々、陽の朱雀門を見守り続けていること。そして門の異変がすでに祖谷へ伝わっていることを。


 話を聞き終えた六右衛門は、長い長い息を吐いた。


 「そうか……。」


 その声には安堵が滲んでいた。


 「ならば良い。」


 「本当に良い。」


 金長狸も笑う。


 「狸だけではなかった。揚羽の落人たちも、まだ誓いを守っておったのだな。」


 かつて。陰陽八門が封じられた時代。狸たちと落人たちは共に戦った。幽世の侵食から現世を守るために。


 その誓いが、数百年を経た今も失われていない。二匹の老狸にとって、それは何より嬉しいことだった。


 やがて金長狸が静かに空を見上げた。もちろん地下に空はない。だが彼の視線は、もっと遠い場所を見ていた。


 「もう十分だな。」


 六右衛門も頷く。


 「うむ。」


 「儂らはすでに死んだ身。本来ならとうの昔に消えている存在だ。」


 残魂。それは過去の残滓に過ぎない。未練や誓いによって辛うじて現世へ留まる魂。


 だが今。その未練は消えつつあった。子孫は立派に育った。誓いも受け継がれた。守るべき者もいる。


 ならば。自分たちが現世に留まる理由はもうない。


 金長狸が千蔵の頭を大きな前足で撫でた。


 「後は任せるぞ。」


 千蔵は思わず叫ぶ。


 「待ってくれ!まだ教えてほしいことがいっぱいある!」


 金長狸は豪快に笑った。


 「だからこそ、お前が考えるのだ。儂らの時代は終わった。これからはお前たちの時代だ。」


 六右衛門も徳姫へ言う。


 「答えは先人から貰うものではない。自ら見つけるものだ。」


 「迷え。失敗しろ。それでも進め。それが生きている者の特権だ。」


 徳姫は唇を噛みながら頷いた。正雪と紗綾も黙ってその言葉を聞いていた。


 そして六右衛門は幽世の門へ振り返る。


 黒い霧が渦を巻く。誰も知らない闇。誰も知らない世界。門は閉じられない。ならば誰かが向こうを調べなければならない。


 金長狸が言った。


 「陰陽八門。なぜ造られたのか。何を封じているのか。誰が築いたのか。」


 六右衛門も頷く。


 「その答えは、おそらく幽世にある。」


 そして二匹は顔を見合わせた。遠い昔。共に戦った戦友同士のように。


 金長狸が笑う。


 「最後にもう一働きするか。」


 六右衛門も笑った。


 「そうだな。どうせ消えるなら面白い方が良い。」


 二匹はゆっくりと門へ向かう。


 千蔵が叫んだ。


 「金長様!」


 徳姫も声を上げる。


 「六右衛門様!」


 だが二匹は振り返らない。ただ片手を上げただけだった。その背中は不思議なほど大きかった。


 英雄の背中。時代を守った者たちの背中。やがて。二匹の姿は黒い霧の中へ消えていった。


 幽世の彼方へ。門の秘密を探るために。残された者たちは長い間、その場所を見つめ続けた。


 だがいつまでも立ち止まることはできない。正雪が静かに拳を握る。


 「行こう。」


 紗綾が頷いた。


 「うん。」


 千蔵も耳を立てる。徳姫も顔を上げた。彼らにはまだやるべきことが残っている。


 剣山の異変は終わっていない。もう一つの戦場。天狗塚。そこでは未だ決着していない因縁が待っている。


 正雪たちは門を後にした。崩れた地下回廊を進み。揺れる大地を越え。天狗塚へ向かう。


 その背後では。半ば開かれた幽世の陰の朱雀門が、なおも静かに黒い霧を吐き出していた。


 誰も知らない。幽世へ旅立った二匹の英雄が、そこで陰陽八門の真実と、世界の根幹に関わる秘密へ近づこうとしていることを。


 そして正雪たちもまた――。知らぬ間に、さらに大きな運命の渦へ足を踏み入れていくのであった。


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