第59話 山神の遺したもの
【銀霜剣の回収】
天狗塚が――崩れた。轟音が天地を震わせる。
ごごごごごごご――。
大地が裂ける。山肌が砕ける。峰が崩れ落ちる。
何百年、何千年もの歳月をかけて山中へ隠されてきた地下世界が、その姿を一気に地上へ晒した。
黒猪神の封印。幽世の門。数々の結界と封印。それらが同時に揺らぎ、長きにわたり保たれていた均衡が、ついに崩壊したのである。
山腹の各所が陥没した。巨大な裂け目が走る。森が沈み。岩盤が割れ。隠されていた古の真実が、太陽の下へ姿を現した。
露出した地下墓所。黒滝の地下水潭。そして――。天狗塚の最深部に眠っていた、黒猪神の巨大な肉体。
その胸へ深々と突き立てられた一本の霊剣。銀霜剣。山神を封じ続けてきた神剣であった。
◇ ◇ ◇
その頃。天狗塚の上空。厚い雲海の彼方に、一筋の光が現れた。
無数の花びらが風に舞う。桃色の花。白銀の花。黄金の花。三色の花弁が渦を描きながら集まり、一人の少女の姿を形作る。
百花である。彼女は雲の上へ立ち、静かに眼下を見下ろした。
その瞳には山河の全景が映っていた。
崩壊した剣山。露出した地下遺跡。争う修行者たち。そして黒猪神の気配。
百花は小さく眉をひそめた。
「思ったより厄介そうね。」
風が吹く。花びらが舞う。夕陽に染まった山々が赤く輝いていた。だが、その光景は彼女の記憶にある現世とは大きく異なっていた。
百花は小さく首を傾げる。
「私の知ってる現世って……。もっと綺麗じゃなかったっけ?」
脳裏に浮かぶのは、かつて見た景色だった。
青い海。白い砂浜。どこまでも続く美しい海岸線。潮風に揺れる森。生命に満ちた大地。だが今、目の前にあるのは巨大な災害現場である。
山は裂け。大地は崩れ。霊気は乱れ。至る所で戦いが起きている。百花は少しだけ寂しそうな顔をした。
しかし感傷に浸る時間はなかった。今回の任務は明確である。黒猪神の討伐。そして銀霜剣の回収。それだけだ。
百花は意識を集中した。周囲の霊気を探る。そしてすぐに見つけた。
黒猪神の残魂。黒猪神は崩壊した肉体へ戻ろうとしていた。だが銀霜剣の封印がそれを拒絶している。魂は肉体へ入りきれない。
その周囲では、さらに混乱が広がっていた。
天狗衆。古剣寺の僧侶たち。石鎚修験衆。彼らは銀霜剣を巡って争いながら、同時に黒猪神の残魂とも戦っていた。
まさに乱戦。収拾のつかない状況だった。
百花は静かに息を吐く。そして決断した。迷いはない。
右手を掲げる。純白の霊符が現れた。九雷符。常世より授かった天罰の符である。
霊符が眩く輝いた。次の瞬間――。天が裂けた。
轟ッ――!!
白銀の雷光が空を覆い尽くす。一本。二本。三本。そして九本。九本の神雷が同時に降臨した。
天地を貫く天柱。逃げ場など存在しない。九つの天罰は一点へ集中し、黒猪神の魂魄を呑み込んだ。
世界が白く染まる。誰も目を開けていられない。
轟音だけが響く。山が震え。空気が裂け。大地が唸る。そして――。静寂。
あれほど激しかった争いも止まっていた。誰一人として動けない。
雷光が消え去った時。そこには何もなかった。黒猪神の魂魄は消えていた。
悲鳴も。抵抗も。断末魔すらない。幽世に染まった魂魄は、九雷の浄化によって跡形もなく消滅していたのである。
風だけが吹いた。百花は静かに呟く。
「終わり。」
それだけだった。まるで塵を払ったかのような口調だった。
◇ ◇ ◇
百花はふわりと空へ舞い上がった。目指すは黒猪神の肉体。その胸へ突き立てられた銀霜剣。
周囲には数多くの修行者がいる。天狗衆。古剣寺。石鎚修験衆。だが百花は彼らを視界にすら入れていなかった。
ただ歩くように空を進み、霊剣の前へ立つ。そして何の躊躇もなく柄を握った。
その瞬間。周囲の者たちは一斉に息を呑んだ。誰も動けない。状況が理解できなかった。
つい先ほど九本の天雷を降らせた少女が、まるで自分の持ち物でも扱うように神剣へ手を伸ばしている。その光景はあまりにも自然だった。
百花は軽く力を込める。ぎぃ――。銀霜剣がゆっくりと抜け始めた。
その時だった。ふと百花の視線が横へ向く。
そこにいたのは――。老天狗。風伯坊。
百花は目をぱちぱちと瞬かせた。
「……あれ?」
見覚えがある。いや。見覚えどころではない。かなり見覚えがある。
風伯坊も固まった。百花も固まった。数秒の沈黙。そして。百花は思い出した。
「あっ。」
少女の顔が明るくなる。
「白ちゃん。」
その瞬間。風伯坊の顔色が劇的に変わった。青ざめた。猛烈に青ざめた。
次の瞬間。ぼんっ!白煙が上がる。老天狗の姿が消える。代わりに現れたのは――。ふわふわの小さな白犬だった。
周囲は完全に沈黙した。誰も理解できない。理解したのは百花だけだった。
「やっぱり白ちゃんだ。」
昔。常世で散々悪戯をしていた白犬。それが風伯坊の正体だったのである。
白犬は逃げようとした。しかし遅かった。百花の手が伸びる。がしっ。首の後ろを掴まれる。
完全に子犬を捕まえる手つきだった。
「きゃんっ!」
情けない悲鳴が響く。天狗たちが固まる。古剣寺の僧侶も固まる。石鎚修験衆も固まる。
伝説の風伯坊が。あの大天狗が。子犬のように捕まっていた。
百花は満面の笑みを浮かべた。実に楽しそうだった。
「母様に会わせなきゃね。百年前に逃げた件、まだ怒ってたし。」
白犬の身体が震えた。絶望である。もはや威厳など一欠片も残っていなかった。
百花は銀霜剣を腰へ収める。片手には白犬。
そして花びらが舞い上がった。桃色。白銀。黄金。無数の花弁が渦を巻き、光が彼女を包み込む。
常世への帰還術。空間が静かに開いた。
その直前。百花はふと振り返る。崩壊した天狗塚。裂けた剣山。
かつて四嶺と呼ばれた山並みは、その一つを失い、今や三嶺となっていた。
露出した黒滝の地下水潭。半ば開いた幽世の門。混乱する修行者たち。そして世界のどこかで目覚め始めている、得体の知れぬ大きな流れ。
何かが始まっている。そんな予感がした。
だが――。今の彼女には関係ない。任務は完了したのだ。
花吹雪が舞う。百花は白犬をぶら下げたまま、光の中へ消えていった。残された者たちは、ただ呆然と空を見上げることしかできなかった。
そして誰もが理解する。今、現れた少女は――。この現世の理の外側にいる存在だったのだと。
【山神の遺したもの】
百花が花吹雪とともに常世へ帰還した後――。
剣山には、奇妙な静寂が訪れていた。正雪。紗綾。千蔵。そして徳姫。誰も、すぐには言葉を発することができなかった。
彼らが天狗塚へ辿り着いた時、ちょうどその光景を目撃したのである。
花吹雪の中より現れた、名も知らぬ美しい少女。天を裂き、大地を震わせた九つの神雷。
そして――。黒猪神の消滅。あれほど強大であった山神が、抵抗する暇すらなく、天罰の雷に呑まれて滅び去った。
つい先ほどまで命を懸けて死闘を繰り広げていた相手が、一瞬でこの世から消え失せたのである。
あまりにも現実離れした出来事だった。誰も現実感が追いつかない。
天狗衆は、風伯坊が白犬の姿へ戻され、そのまま少女に連れ去られた瞬間、蜘蛛の子を散らすように山中へ逃げ去った。
古剣寺の僧侶たちも。石鎚修験衆の者たちも。まるで天災から逃れるように、その場を後にしていた。
やがて、広大な天狗塚に残されたのは、正雪たちだけとなる。
風だけが吹き抜ける。崩れた岩盤。裂けた大地。そして、黒猪神が横たわっていた巨大な空間。
静まり返ったその場所で、不意に千蔵が鼻をひくつかせた。
「……ん?」
小狸の鼻先がぴくりと震える。次の瞬間、その瞳が大きく見開かれた。
「土臭い!すごい匂いがするぞ!」
千蔵は前足をぶんぶんと振り回しながら叫んだ。
「おい! あれだ!あれを見ろ!」
皆の視線が一斉に向かう。黒猪神が消え去った場所。なおも微かに九雷の余韻が漂うその中心に、一つの光の玉が静かに浮かんでいた。
拳ほどの大きさ。黄金でもなく、白銀でもない。柔らかな土色の輝きを放っている。
その光は決して眩しくはない。しかし見つめているだけで、胸の奥まで安らぐような、不思議な温もりを宿していた。
徳姫も鼻をひくひくと鳴らす。狸は土の気に、何よりも敏感な一族である。だからこそ分かった。
「春先に山を掘り返した時の匂いじゃ……。」
その瞳が鋭く細められる。
「間違いない。あれは……霊宝か。」
その時だった。正雪が背負う壺の中から、小さな頭がひょっこりと姿を現した。
翠夏である。
「どれどれ……。」
壺の縁へ身を乗り出し、光の玉をじっと見つめる。そして次の瞬間――。その大きな瞳が驚愕に見開かれた。
「えっ!? あれ……山神の霊だ!」
一同が一斉に振り返る。翠夏は興奮を隠しきれなかった。
「しかも純粋な山神の霊!九雷が幽世の穢れを全部焼き払ったんだ!だから山神として積み重ねてきた本質だけが残ったんだよ!」
正雪たちは思わず顔を見合わせた。黒猪神の本質。長い年月、山を守り続けた山神としての霊。
それだけが、この世に残されたというのか。
翠夏はさらに身を乗り出す。
「早く!正雪、捕まえて!」
正雪は静かに頷き、そっと手を伸ばした。ぱしっ。意外にも光の玉は逃げなかった。抵抗することなく、その掌へ収まる。
その瞬間。温かな感触が伝わってきた。春の日差しのような温もり。柔らかな大地の鼓動。まるで山そのものが、掌の中で静かに呼吸しているようだった。
正雪は思わず息を呑む。その時、翠夏が真剣な声で言った。
「正雪。その霊に霊力を流して。それから、崩れた黒猪神の肉体へ向けるんだ。」
「……こうか?」
正雪は言われるまま、掌の霊へ霊力を送り込んだ。すると。光の玉が淡く震え始める。
柔らかな土色の光が、四方へゆっくりと広がった。
ごおおおおっ――!
崩れた黒猪神の肉体が震えた。大地が揺れる。無数の土砂が宙へ舞い上がる。
岩のような骨。山脈のような肉。大地と化した皮膚。黒猪神の巨大な亡骸、そのすべてが光へ引き寄せられていった。
まるで一つの山そのものが、小さな玉の中へ吸い込まれていくような壮観であった。
千蔵が目を丸くする。
「食ってる!山を食ってるぞ!」
徳姫も尻尾を逆立てた。
「なんじゃ、これは……。こんな術、見たことも聞いたこともない。」
光の玉は際限なく吸収を続ける。やがて数刻後――。黒猪神の肉体は完全に消滅した。跡形もなく。
そこに残ったのは、正雪の掌に浮かぶ一つの光の玉だけ。しかし、その玉は先ほどよりも一回り大きくなっていた。
内部には、小さな山脈のような紋様が浮かび上がっている。まるで一つの天地を、その中へ封じ込めたかのようだった。
翠夏は満足そうに頷いた。
「うん。成功だね。」
そして、少し遠慮がちに正雪を見つめる。
「その山神の霊……。私にくれない?」
正雪は少しも迷わなかった。
「いいよ。」
あまりにも即答だった。千蔵と徳姫が同時に振り返る。
「えっ!? そんな簡単に渡すのか!?」
正雪は不思議そうに首を傾げた。
「翠夏が必要なんでしょ?仲間でしょ?だったら、別にいいよ。」
その言葉に、翠夏は一瞬だけ目を丸くした。やがて、花が咲くような笑みを浮かべる。
「ありがとう!これで壺の中に土を作れる!」
その一言に。一同は完全に固まった。しばし沈黙。そして――。
「「「「……土?」」」」
見事なまでに四人の声が重なった。翠夏は呆れたように肩をすくめる。
「だから、土だよ。山神の霊。山神の肉体。この二つが揃えば――息土になる。」
「息土?」
誰も聞いたことのない名だった。
翠夏は得意そうに胸を張る。
「息土は、生きている土。自分で成長する霊土なんだよ。壺の中へ入れておけば、少しずつ増えていく。」
「最初は小さいけど、年月とともに少しずつ広がる。やがて丘となり。山となり。最後には、一つの大地になる。」
その場の全員が凍り付いた。意味が分からない。理解が追いつかない。壺の中に山ができる?
いや。山どころか、大地そのものが生まれるというのか。そんな話を、誰が信じられるだろう。
しかし翠夏だけは、終始真面目な顔をしている。冗談を言っている様子は微塵もない。だからこそ、なおさら恐ろしかった。
正雪たちは互いに顔を見合わせる。最初に口を開いたのは千蔵だった。
「河童という生き物は……とんでもない種族だな。」
その言葉を聞いた瞬間。翠夏の頬がぷくりと膨らんだ。
「ちょっと!今、誰が河童だって!?」
翠夏は壺の縁から身を乗り出し、ぷんぷんと腕を振り回す。
「何回も言ったでしょう!私は河童じゃない!仙蛙!由緒正しい仙蛙なんだから!まったくもう!」
その必死の抗議に。
正雪たちは互いの顔を見合わせ――。そして、誰からともなく笑みがこぼれた。
やがて笑いは広がり、天狗塚に穏やかな笑い声が響き渡る。つい先ほどまで死と絶望に包まれていたその場所に、ようやく人々の温かな息遣いが戻ってきた。
しかし誰も、この時はまだ知らなかった。山神が遺したものは、単なる霊宝ではない。それは未来に新たな天地を生み出す、一粒の「世界の種」であったことを。




