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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第57話 常世の勅命

【目覚めし古き盟約】


 黒滝の地下水潭――。戦いはすでに限界へ達していた。


 紗綾は傷だらけになりながら短刀を操り続けている。徳姫は片足を引きずりながら妖術を放つ。千蔵も息を切らしながら仲間を守っていた。


 そして正雪は、ようやく丹薬の力で経脈を修復しつつあった。だが、まだ立ち上がるには至らない。


 黒猪神はそんな彼らを見下ろし、ゆっくりと歩み寄った。その巨大な身体から溢れる幽気は、もはや先ほどとは比べものにならない。


 陰の朱雀門から流れ込む力によって、封印されていた山神は急速に力を取り戻していた。赤黒い双眸が正雪を捉える。


 そして。黒猪神は低く唸った。その声には、長年積み重ねられた憎悪が滲んでいた。


 「儂の斧を返せ。」


 地下空間が震える。


 「儂を騙したな。ならば――命で償え。」


 次の瞬間。黒猪神の巨大な前脚が振り下ろされた。山を砕くほどの一撃。正雪を完全に消し飛ばすはずだった。


 紗綾が叫ぶ。


 「正雪!」


 千蔵も飛び出そうとした。だが間に合わない。誰もがそう思った、その時だった。


 轟ッ――!!


 凄まじい衝撃音が地下空間を揺らした。黒猪神の前脚が止まる。


 正雪の目前。あと一尺ほどの場所で、完全に動きを封じられていた。


 黒猪神の目が見開かれる。そこに立っていたのは――。一匹の巨大な狸だった。


 黄金の鎧を纏い。古き戦兜を被り。堂々たる威容を放つ老将。その背には、長い戦乱を潜り抜けてきた者だけが持つ風格が宿っていた。


 徳姫が息を呑む。


 「ま、まさか……!」


 千蔵も目を丸くする。


 「嘘だろ……。」


 その名を知らぬ狸など、この地には存在しない。阿波に伝わる伝説。狸たちの王。天下を震わせた英雄。


 ――金長狸。


 黒猪神の巨大な前脚を、金長狸は片手で受け止めていた。まるで山を支える柱のように。微動だにしない。


 黒猪神の表情が変わる。驚愕。警戒。そして理解。


 「……お前か。」


 低い声が響く。金長狸は静かに笑った。


 「久しいのう、黒猪。相変わらず短気な性格じゃ。」


 黒猪神の瞳が細くなる。その瞬間、彼は理解していた。目の前の存在が、自分にとって決して容易な相手ではないことを。


 全盛期ならばまだしも。今の魂魄だけの状態では勝ち目が薄い。


 しかも、この場にはまだ敵がいる。黒猪神はしばらく金長狸を睨みつけていたが、やがて鼻を鳴らした。


 「ふん。今日はここまでにしてやろう。」


 濃い幽気が噴き出す。その巨体は霧の中へ溶けるように消え去った。


 地下空間に静寂が戻る。紗綾が思わず前へ出る。


 「逃げた……?」


 金長狸は首を横に振った。


 「いや。退いたのじゃ。」


 その声には警戒が滲んでいた。


 「あやつは力を取り戻しつつある。次に現れる時は、もっと厄介になるじゃろう。」


 千蔵が慌てて叫ぶ。


 「追わないと!」


 徳姫も頷く。


 「今ならまだ間に合うかもしれぬ!」


 しかし。金長狸は厳しい表情で二匹を制した。


 「追うな。」


 その一言で空気が変わる。長年王として君臨した者の威圧感だった。誰も反論できない。


 金長狸はゆっくりと振り返る。その視線は地下深く――陰の朱雀門が存在する方向を見ていた。


 「今、もっと大切な役目がある。剣山を守ることじゃ。そして幽世の門を守ることじゃ。」


 その言葉に、正雪たちは顔を見合わせた。千蔵が恐る恐る尋ねる。


 「でも……。金長様は、もう死んだんじゃなかったのか?」


 その問いに、金長狸は苦笑した。どこか懐かしむような笑みだった。


 「死んださ。とっくの昔にな。」


 静かな声が響く。


 「今ここにおるのは残魂じゃ。この山を守るために残された最後の欠片。最後の力じゃよ。」


 皆が黙る。金長狸は遠くを見るような目をした。


 「陰の朱雀門が開かれた。それが儂らを呼び起こしたのじゃ。」


 紗綾が首を傾げる。


 「儂ら?他にもいるの?」


 金長狸は頷いた。


 「おるとも。儂だけではない。」


 その視線が紗綾へ向く。


 「お主にも関係がある。」


 さらに徳姫へ向いた。


 「揚羽の落人たちもじゃ。そして――。」


 金長狸の目が細くなる。


 「六右衛門の姫。」


 徳姫がはっとした。


 「私……?」


 「うむ。」


 金長狸は静かに頷く。


 「六右衛門狸の血を引く者じゃろう。」


 徳姫の胸が高鳴る。


 「では……。六右衛門様も……?」


 金長狸は遠い昔を思い出すように目を閉じた。しばし沈黙。やがて静かに語る。


 「起こされたじゃろうな。儂と同じように。」


 その声には懐かしさと寂しさが混じっていた。


 「懐かしいのう……。共に戦ったあの日々が。剣山を守るため。命を懸けて戦った。」


 金長狸は空を見上げるように顔を上げた。


 「だが皆死んだ。肉体はとうに土へ還った。今残っておるのは魂の欠片のみ。最後の誓いを守るための残魂じゃ。」


 地下空間に静寂が落ちる。正雪たちは言葉を失っていた。


 金長狸。六右衛門狸。揚羽の落人。そして幽世の門。別々だと思っていた歴史が、一本の線で繋がり始めている。


 数百年前。いや、千年以上前に交わされた誓約が、今再び動き始めていた。


 やがて金長狸は振り返った。その黄金の瞳には、老いてなお衰えぬ決意が宿っている。


 「行くぞ。陰の朱雀門へ。すべての始まりの場所へな。」


 正雪たちは頷いた。傷だらけの身体を引きずりながら立ち上がる。


 紗綾も。千蔵も。徳姫も。そして伝説の狸王・金長狸を先頭に、一行は地下深くへ歩み始めた。


 その先に待つのは、千年前の真実か。それとも世界を揺るがす災厄か。誰にもまだ分からない。


 ただ一つ確かなことは――。


 陰陽八門の封印が目覚めた今、剣山の運命は、もはや後戻りできぬ場所まで動き始めていたのである。




【常世の勅命】


 常世の国――。


 四季の花々が絶えることなく咲き誇り、清らかな霊気が天地を満たす仙境。蒼穹には白雲が悠々と流れ、幾千もの浮島が星々のように連なっていた。


 風は香を運び、水は歌を奏でる。そこは現世の争いも、幽世の穢れも届かぬ、永遠に近い楽土であった。


 その中心に聳えるのが、百花殿。翡翠と白玉で築かれた宮殿の周囲には、名も無き仙花が咲き乱れ、花弁は風もないのに静かに舞い続けている。


 花殿の最奥。無数の花々に囲まれた玉座の前で、百花は静かに跪いていた。


 玉座に座すのは、彼女の母。常世を統べる高位仙人の一人であり、万花を司る花仙である。歳月はその美貌を損なうことなく、むしろ神秘の深みを与えていた。


 だが、その双眸の奥には、幾度も時代の興亡を見届けてきた者だけが持つ静かな孤独が宿っている。


 花殿にはしばし沈黙が流れていた。やがて母は手にしていた古びた巻物を閉じる。


 ぱたり――。小さな音が、広大な宮殿に響いた。


 そして静かに口を開く。


 「百花。」


 澄み切った声だった。まるで春の朝に降る露のように柔らかく、それでいて逆らうことのできぬ威厳を秘めている。


 百花は顔を上げた。


 「はい。」


 母は娘を見つめながら告げる。


 「天女ノ涙の修復任務は、一旦中止とする。」


 百花はわずかに目を瞬かせた。


 「中止……ですか?」


 「うむ。」


 母は静かに頷く。


 「新たな任務が発生した。」


 そして一語一語を区切るように告げた。


 「銀霜剣を回収せよ。」


 百花の眉がわずかに動く。


 「銀霜剣……。」


 その名は知っていた。常世の記録にも残されている古き神剣。しかし詳細までは知らない。


 母は遠い昔を思い返すように目を細めた。


 「現世の剣山に封じられている霊剣だ。かつて山神と呼ばれた黒猪を封じた神剣でもある。」


 百花の表情が引き締まる。黒猪。その名は常世においても禁忌に近い存在だった。遠い昔、現世を震撼させた大妖。


 母は静かに語り始めた。


 「遥かな昔のことだ。黒猪は剣山一帯を荒らし回った。妖を喰らい、人を脅かし、多くの血を流した。山河は荒れ、村々は恐怖に沈んだ。」


 花殿の空気が少しずつ重くなる。


 「本来ならば、完全に滅殺されるべき存在だった。」


 そこで母は言葉を止めた。だが次に続いた言葉は意外なものだった。


 「しかし――功もあった。」


 百花は静かに耳を傾ける。


 「黒猪は山を守った。弱き命を守った。長きにわたり山神としての責務も果たしていた。善も悪も抱えた存在だったのだ。」


 母は静かに目を閉じる。まるで当時の裁定を思い出しているかのように。


 「ゆえに情状が考慮された。肉体と魂魄を分離し、それぞれ別の場所へ封じることで決着したのだ。」


 百花は黙って聞いていた。だが次の言葉で、その瞳に鋭さが宿る。


 「だが――」


 母の声が冷たくなった。


 「最近になって目覚めたらしい。」


 花殿を満たす霊気が僅かに揺れる。


 「しかも封印地にて他者の魂魄を喰らっている。反省の様子は見られぬ。ならば猶予は不要だ。」


 母の瞳に迷いはなかった。


 「今度こそ完全に滅する。」


 その言葉と同時に、母が袖を払った。ぱちり――。白い雷光が虚空を裂く。


 次の瞬間、花殿の中央に一枚の霊符が出現した。純白の符紙。その表面には九本の雷紋が刻まれている。まるで九条の天雷そのものを封じ込めたかのようだった。


 百花の瞳がわずかに見開かれる。


 「これは……。」


 母は静かに告げた。


 「白色九雷符。天罰の雷を九度まで顕現できる。」


 花殿の空気がぴりぴりと震える。百花はその威力を瞬時に理解した。これは妖を討つための霊符ではない。神すら裁くための符である。


 母は続けた。


 「まず黒猪の魂魄を抹殺せよ。その後、銀霜剣を回収する。」


 百花は両手で霊符を受け取った。触れた瞬間。凄まじい雷気が指先から全身へ駆け抜ける。


 母はさらに説明を続けた。


 「銀霜剣は黒猪の肉体を封じる要でもある。魂魄を滅した後に剣を抜け。そうすれば肉体も自然に崩壊する。任務はそれで完了だ。」


 そして珍しく表情を和らげた。母親としての顔だった。


 「終わったらすぐ帰って来なさい。現世に長居するでない。余計な騒動へ首を突っ込むな。」


 そこで母の声音が急に真剣になる。百花は思わず背筋を伸ばした。


 「特に――幽世の門には触るな。」


 花殿の空気が凍り付く。


 「絶対にだ。幽世の門だけは、決して触れてはならぬ。」


 百花は驚いた。


 母がここまで強く念を押すことは珍しい。


 「母上……。それほど危険なのですか?」


 母はすぐには答えなかった。やがて静かに言う。


 「危険という言葉では足りぬ。私にとっても厄介な存在だ。だから約束しなさい。何があろうと門には近づかぬと。」


 百花は母の真剣な表情を見つめた。そして大きく頷く。


 「お約束します。」


 母はそれ以上語らなかった。だがその眼差しの奥には、百花の知らぬ何かが隠されているようだった。


 やがて母は窓の外へ視線を向ける。


 常世の空。そのさらに向こう。現世を見透かしているかのようだった。


 「まったく……。」


 小さく溜息を漏らす。


 「黒猪も大人しくしておればよかったものを。あと少しで赦しも考えていたのだがな。」


 その声には、かつて裁定を下した者としての複雑な感情が滲んでいた。


 「幽世の力に手を出した時点で、もう後戻りは難しい。一度染まった魂は容易には戻らぬ。」


 そして再び空を見上げる。母の表情が僅かに曇った。


 「それに最近は妙だ。幽世の門が各地で反応している。長らく沈黙していた門が、次々と目覚め始めている。」


 百花も表情を引き締めた。彼女自身も薄々感じていた。世界の流れが変わっている。何か巨大な歯車が、長い眠りから目覚めようとしている。


 母は静かに呟いた。


 「現世が変わる時が……。とうとう来るのかもしれぬな。」


 その声音には期待もあった。不安もあった。そして、避けられぬ運命を受け入れた者だけが持つ諦観も混じっていた。


 百花は深く頭を下げる。


 「承知しました。銀霜剣を回収し、黒猪神を討伐して参ります。」


 次の瞬間――。彼女の身体が無数の花弁へと変わった。


 桃色。白銀。黄金。数え切れぬ花びらが花殿を舞い上がる。やがて花の渦となり、天へ昇り、光となって消えていった。


 静寂が戻る。広大な花殿に残されたのは母ただ一人。


 しばらく娘が消えた場所を見つめていたが、やがて小さく笑った。その笑みは常世を統べる仙人のものではない。


 一人の母親のものだった。


 「大きくなったな……。」


 どこか懐かしむような声。少しだけ寂しそうな声。


 「もう子供ではないか。」


 静かな沈黙が流れる。やがて母は自嘲するように肩をすくめた。そして苦笑する。


 「嬉しいことなのか。悲しいことなのか。親というのは、本当に馬鹿だ。まったく……馬鹿馬鹿しい。」


 そう呟きながらも、その瞳には温かな光が宿っていた。


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