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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第56話 解き放たれた山神

【祖谷に目覚める陽の門】


 剣山地下――。笹林道成が陰の幽世の門を開こうとしていた、その時であった。


 深き山々に抱かれた祖谷の秘境でもまた、静かなる異変が始まっていた。


 祖谷の奥。人も獣も容易には踏み入れぬ深山幽谷。切り立つ断崖に囲まれた谷底には、太古の時代より忘れ去られた遺跡が眠っている。


 崩れ落ちた石柱。苔むした祭壇。風雨に削られた石畳。そして、その最奥。巨大な岩盤に半ば埋もれるように、一つの石門が存在していた。


 陽の門。剣山地下に眠る陰の門と対を成す、古代の幽世の門である。


 千年以上――。誰にも開かれず。ただ静かに眠り続けてきた封印。


 その石門の表面に、不意に異変が走った。黒き光。それは稲妻のように門全体を駆け抜ける。


 ぱきり――。乾いた音が谷底に響いた。石門の隙間に細い亀裂が生じる。


 次の瞬間。ごごごごご――。大地そのものが震え始めた。まるで永き眠りについた巨人が、ゆっくりと目を開こうとしているかのようであった。


 門に刻まれた古代文字が、一つ、また一つと淡い光を放つ。闇の中に浮かび上がる無数の符文。周囲の霊気が渦を巻き、谷全体が重苦しい静寂に包まれていく。


 だが――。その変化は長く続かなかった。門はわずかに震えた後、再び沈黙した。


 光も徐々に消え失せる。やがて谷は元の静寂を取り戻した。目覚めたわけではない。


 しかし確かに。千年もの間、一度たりとも動かなかった封印が反応したのである。それだけで十分すぎる異変だった。


 そして、その異変を見逃さなかった者たちがいた。揚羽家の落人たちである。祖谷には代々伝わる古き掟があった。


 ――谷の奥を見守れ。

 ――門が動けば直ちに報せよ。

 ――決して封印を軽んじるな。


 揚羽家は幾世代にもわたり、その使命を受け継いできた。見張り役を務めていた若者は、門の異変を目撃した瞬間、顔色を変えた。


 「まさか……。」


 喉が震える。信じられなかった。祖父から聞かされ続けた伝承。誰も本気では起こると思っていなかった出来事。


 それが今、目の前で起きたのである。


 「陽の門が……動いた……。」


 次の瞬間。彼は駆け出していた。険しい山道を下り。獣道を抜け。祖谷川へ架かるかずら橋へ向かう。


 祖谷の人々にとって、かずら橋は単なる橋ではない。谷と谷を結ぶ命綱であり、非常時には最も重要な伝令路でもあった。


 若者は橋を渡りながら叫ぶ。


 「門が動いたぞ!陽の門が反応した!」


 その声は夜の山々へ響き渡った。知らせは瞬く間に祖谷全域へ広がる。


 谷間の集落。山奥の家々。隠れ里。


 夜の帳が降りる頃には、すでに揚羽家の長老たち全員の耳へ届いていた。


 そしてその夜。祖谷の中央にある古びた集会所で、緊急会議が開かれた。


 囲炉裏の火が静かに揺れている。集まったのは揚羽家の長老たち。代々、門の監視を任されてきた者たちだった。


 室内には重苦しい空気が漂う。誰も軽々しく口を開こうとはしない。なぜなら祖谷最古の伝承には、こう記されているからである。


 ――陽の門が目覚める時。

 ――災厄もまた目覚める。


 ぱちり。囲炉裏の薪が爆ぜた。やがて一人の老人が静かに口を開く。


 「確認は間違いないのか。」


 報告役の若者は深く頷いた。


 「間違いありません。封印文字が輝きました。その時、一瞬だけ……奇妙な紋様が現れました。そして門そのものが震えたのです。」


 室内が静まり返る。誰も言葉を発しない。


 その沈黙の中、一人の老人が囲炉裏の火を見つめていた。紗綾の祖父である。深い皺に刻まれた顔。


 しかし、その眼光は今なお鋭かった。老人はしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく呟く。


 「……爺様が言っておった。」


 誰へ語るでもない。まるで己に言い聞かせるような声だった。


 「その時はいずれ訪れる。拒むことはできぬ。それが救いなのか。それとも新生なのか。」


 「時代は進む。流れは止められぬ。ならば我らは、どう導き、どう動くべきか……。」


 老人はゆっくりと目を閉じた。その表情は険しい。長年封じられていた何かが、ついに動き始めている。


 本能がそう告げていた。


 囲炉裏の炎が揺れる。祖谷の長老たちはまだ知らない。


 剣山地下では陰の門が反応し。天狗塚では霊剣を巡る血戦が始まり。黒滝では正雪たちが黒猪神の魂魄と対峙していることを。


 だが、一つだけ確かなことがあった。数千年の眠りについた古代大陣――


 陰陽八門。


 その封印は、確実に目覚め始めていた。


 そしてその波は、静かな祖谷の山里へも、逃れようなく押し寄せようとしていたのである。


 まるで、避けることのできない運命の夜明けが近づくように――。




【解き放たれた山神】


 剣山地下――。人知れぬ地底の奥深く。


 笹林道成が陰の幽世の門へ術を注ぎ込み、幾千年もの間閉ざされていた石門に、ついに僅かな隙間が生まれた。


 門の向こう側に広がるのは、幽世。死者の怨念と未練が積み重なり、終わることなき闇が渦巻く異界である。


 その裂け目から、濃密な幽気が滲み出した。黒い霧は生き物のように蠢きながら地下の霊脈へ流れ込み、見えぬ河となって剣山の深奥を巡っていく。


 そして――。黒滝の地下水潭。正雪たちが黒猪神の魂魄と対峙していた戦場にも、その変化は確実に届いていた。


 ざわり――。空気が震えた。地下空間を満たしていた霊気が大きく乱れる。まるで山そのものが息を呑んだかのようだった。


 黒猪神はゆっくりと顔を上げる。巨大な猪頭。その双眸は、いつの間にか赤黒い光を宿していた。


 次の瞬間。黒猪神の口元が歪む。それが苦痛によるものなのか。歓喜によるものなのか。誰にも分からなかった。


 ただ――不吉だった。


 ゴォォォォ……。


 低く響く唸り声が地下空間を震わせる。それは獣の咆哮ではない。山そのものが呻いているかのような重低音だった。


 黒猪神はゆっくりと呟く。


 「力を……。」


 その身体を縛り続けていた封印の鎖が震え始める。じゃらり。じゃらり。黒い鎖の表面を、赤黒い光が這い回った。


 幽世の気。陰の門から流れ出した異界の力が、黒猪神の魂魄へ流れ込んでいるのである。


 次の瞬間だった。ばきっ――!ばきん!ばきばきばきっ!!拘束の鎖が次々と砕け散る。


 数百年。いや、千年近く続いてきた封印が崩壊した。地下空間に激震が走る。


 正雪たちの顔色が変わった。


 「まずい!」


 紗綾が叫ぶ。だが止める術はない。砕け散った鎖の残骸を踏み砕きながら、黒猪神はゆっくりと前へ歩き出した。


 その一歩ごとに地面が揺れる。岩壁が軋む。地下水が波打つ。まるで剣山全体が黒猪神の復活に呼応しているかのようだった。


 長き封印から解き放たれた山神。その威圧感だけで息が詰まる。


 正雪は歯を食いしばった。だが身体が動かない。先ほど受けた天罰の雷。その傷は想像以上に深刻だった。


 経脈は焼かれ。霊力は乱れ。全身が鉛のように重い。立っているだけで限界だった。


 それでも。仲間を守るために。正雪は前へ踏み出そうとした。


 一歩。だがその一歩で力が尽きた。膝が崩れる。視界が傾く。


 前のめりに倒れかけた瞬間――。紗綾が駆け寄った。華奢な身体で正雪を支える。


 「無理しないで!」


 少女の声が響く。その声には焦りと心配が滲んでいた。


 「今は回復を!」


 正雪は悔しそうに拳を握る。だが反論できなかった。今の自分は戦力にならない。それどころか足手まといだ。


 やがて拳をゆっくりと開く。懐から丹薬を取り出した。迷わず口へ放り込む。苦い薬液が喉を流れ落ちた。


 熱が体内へ広がる。傷ついた経脈へ少しずつ霊力が戻り始めた。


 だが、それには時間が必要だった。そしてその時間を稼ぐ者たちがいた。紗綾である。


 少女は黒猪神へ向かって飛び出した。六本の短刀が紫の霊光を纏う。


 一本。また一本。さらに一本。六本の刃が空中を巡り、一つの巨大な円陣を描いた。


 風が唸る。紫電のような軌跡が交差する。六本の短刀が一斉に黒猪神へ襲い掛かった。鋭い斬撃の嵐。


 しかし――。黒猪神は片足を軽く振っただけだった。


 轟ッ!!衝撃波が爆発する。紗綾の身体が吹き飛ばされた。岩壁へ激突する。鈍い音が響く。


 「うっ……!」


 口元から血が零れる。だが少女は歯を食いしばり、すぐに立ち上がった。その瞳に恐怖はない。あるのは仲間を守るという意志だけだった。


 「徳姫!」


 千蔵が叫ぶ。二匹の狸が左右へ分かれて飛び出した。妖術が発動する。大地が隆起する。土壁が生まれる。拘束の術が地面から伸びる。幾重もの術が黒猪神へ襲い掛かった。


 しかし。黒猪神は鼻を鳴らした。


 「小賢しい。」


 黒い霧が爆発する。轟音と共に妖術が吹き飛ばされた。千蔵は地面を転がる。徳姫も大きく弾き飛ばされた。


 「ぐはっ!」


 徳姫が血を吐く。千蔵も耳を伏せ、苦しそうに息を吐いた。それでも。二匹は立ち上がる。


 逃げない。決して背を向けない。仲間を守るためだった。


 黒猪神はそんな彼らを見下ろす。その瞳には嘲りが浮かんでいた。


 「面白い。弱いくせに立ち向かうか。だから人も狸も愚かなのだ。」


 さらに濃い幽気が黒猪神を包む。陰の門から流れ込む力は止まらない。自由を得た山神は、刻一刻と力を取り戻していた。


 紗綾は再び六本の短刀を操る。風の術を重ねる。回転速度が何倍にも増した刃の円環が唸りを上げる。


 そこへ火符が続く。炎の蛇が短刀の軌跡に絡みつき、灼熱の嵐となって黒猪神へ襲い掛かった。


 千蔵と徳姫も左右から攻撃を重ねる。土槍。岩弾。妖術。ありったけの力を叩き込む。


 だが――。黒猪神は止まらない。巨大な山が歩くように。一歩ずつ。一歩ずつ。確実に彼らへ迫ってくる。


 一方。正雪は必死に霊力を巡らせていた。丹薬の力が身体を修復していく。だがまだ足りない。まだ立てない。まだ戦えない。


 しかし仲間たちは限界だった。紗綾の肩から血が流れている。徳姫は片足を引きずっていた。千蔵の呼吸も荒い。


 このままでは全滅する。正雪は拳を握り締めた。焦りが胸を焼く。悔しさが心を締め付ける。目の前で仲間たちが傷付いていく。


 それなのに、自分は何もできない。


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