第53話 黒猪神の過去
【滝下の神斧・天罰の雷】
地下の滝は轟々と唸り続けていた。白い飛沫が霧となって舞い、巨大な水潭を覆う。その中心で、黒猪神は鎖に繋がれたまま正雪を見つめていた。
正雪は巻物を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。黒猪神は期待に満ちた声で言った。
「どうじゃ。」
巨大な牙が僅かに揺れる。
「儂の斧術の威力は。剣山へ入る時、お前たちは割れた岩を見たじゃろう。」
正雪の脳裏に、山道の光景が蘇った。
剣山へ向かう途中。巨大な岩山が真っ二つに裂け、その中央に一本の道が通っていた。まるで天から落ちた剣が山を断ったような景色だった。
黒猪神は鼻を鳴らす。
「それを斬ったのは儂じゃ。《開山断岳斧》第三式――峰崩。」
千蔵が目を丸くした。
「な、なんじゃと!?」
徳姫も驚きの声を漏らす。
「あの岩を……一撃で?」
黒猪神は得意げに笑った。
「昔の話じゃがな。」
正雪も素直に感心した。
「確かに凄い。」
あの規模の破壊は想像を超えている。もし本当ならば、この斧術は常識外れの術だ。
しかし。正雪はそこで首を傾げた。
「他にはないのか。」
黒猪神が眉をひそめる。
「何がじゃ。」
「もっと強い技だ。」
「奥義とか。秘術とか。」
黒猪神は鼻を鳴らした。
「ない。これで十分じゃ。第一式だけで霊鎖は断てる。だから早くやれ。」
その言葉に。正雪の瞳がわずかに細くなった。
「そうか。」
しばし沈黙。そして。正雪は何気ない口調で尋ねた。
「ところで。本物の霊剣はどこにある?」
黒猪神の顔が固まった。
「……何?」
「この地下には霊剣があるんだろう。どこだ。」
黒猪神は不機嫌そうに牙を鳴らした。
「欲深い奴じゃな。なぜそんなものを探す。」
正雪は平然と答える。
「霊剣の方が切れそうだからだ。霊鎖を斬るなら、斧より剣の方が向いている。霊剣を見つけたら切ってやる。」
そう言うと。正雪はきびすを返した。
「その前に少し探してくる。斧は借りていくぞ。」
歩き出そうとする。その瞬間だった。黒猪神の顔が歪んだ。
「貴様――!」
怒声が洞窟を揺らした。
「儂を騙したな!!」
轟音が響く。滝の飛沫が震えた。だが正雪は振り返らない。
「騙した?」
静かな声だった。
「先に騙そうとしたのはお前だろう。」
黒猪神の瞳が血のように赤く染まる。
「人間はやはり狡い!」
その姿が変わった。先ほどまで弱々しかった妖神の気配が膨れ上がる。妖気が洞窟全体を満たした。
徳姫が息を呑む。紗綾も符を握る。
「やっぱり……!」
千蔵が叫ぶ。
「最初から怪しかったんじゃ!」
黒猪神は咆哮した。そして正雪へ飛び掛かる。だが。水潭から離れられないはずだった。鎖がある。届かない距離だ。
ところが――次の瞬間。
全員の顔色が変わった。黒猪神の後ろ脚が異様に伸びたのである。鎖に縛られた部分が細く変形する。まるで溶けた鉄。あるいは引き伸ばされたゴム。
ぎちぎちと嫌な音が響く。黒猪神の顔が苦痛に歪んだ。肉が裂ける。魂が引き裂かれる。そんな苦しみが伝わってくる。
それでも。怒りの方が勝っていた。
「死ねぇぇぇぇ!!」
妖神の牙が迫る。正雪は一歩も退かなかった。
手には霊斧。脳裏には先ほど読んだばかりの術式。呼吸を整える。腰を落とす。霊力を流す。
そして。振り下ろした。
「第一式――」
斧が光る。岩を断つ一撃。
「岩戸割!!」
轟ッ――!!巨大な斬撃が放たれた。一直線に黒猪神へ向かう。
だが。その瞬間。黒猪神の口元が吊り上がった。笑ったのだ。
正雪の背筋が凍る。しまった。そう思った時には遅かった。
黒猪神は身を捻った。斬撃を完全には受けない。そして。自らの足を縛る霊鎖へと誘導した。斬撃が。霊鎖へ触れる。
――騙された。正雪は瞬時に理解した。
黒猪神の怒り。豹変。突進。すべて演技だった。
目的はただ一つ。正雪に斧術を使わせること。そして霊鎖へ当てること。黒猪神は最初からそれを狙っていたのだ。
「まずい!」
しかし。遅かった。斬撃と霊鎖が接触した瞬間。洞窟全体が白く染まった。
バチィィィィィィィィン!!!
天地を裂くような雷鳴。霊鎖から無数の雷光が噴き出した。それは自然の雷ではない。天の意志そのもの。封印を破ろうとする者へ下る裁き。
天罰の雷。
青白い雷柱が天井から落ちる。一直線に。正雪へ。
「正雪!!」
徳姫が叫んだ。紗綾も符を投げる。千蔵が飛び出す。
だが誰も間に合わない。轟音と共に。天罰の雷は正雪の身体を直撃した。世界が白く染まった。
【黒猪神の過去】
白光がゆっくりと消えていく。洞窟には焦げた匂いが漂っていた。天罰の雷を真正面から受けた正雪は、その場に膝をついていた。
髪は逆立ち、衣はところどころ焼け焦げている。顔も手も煤で真っ黒だった。
千蔵が慌てて駆け寄る。
「正雪!」
徳姫も青ざめた顔で駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
正雪は咳き込みながらも、ゆっくり立ち上がった。身体中が痺れている。骨の奥まで雷が入り込んだような痛みだった。
それでも立てる。まだ生きている。正雪は焦げた袖を払いながら、苦笑した。
「なるほどな……。」
そして黒猪神を見た。
「天罰の雷か。」
黒猪神は何も答えない。正雪は続ける。
「だから自分で鎖を切れなかったんだな。」
静かな声だった。
「切ろうとした瞬間、天罰が落ちる。だから俺を利用した。」
黒猪神は目を細めた。否定しない。それだけで十分だった。
紗綾は怒りを隠さない。
「最初からそのつもりだったのね。」
黒猪神は低く唸る。
「……あと少しだった。」
その視線は鎖へ向いていた。
正雪もそちらを見る。
霊鎖には深い傷が刻まれている。だが切断には至っていない。あと一歩。本当にあと一歩だった。
黒猪神は悔しそうに牙を噛み締めた。
「惜しかった。本当に惜しかったのう……。」
正雪は静かに息を吐く。
天罰が落ちた瞬間。彼は本能的に斧を止めていた。もし《岩戸割》を最後まで振り抜いていたなら――
霊鎖は完全に断たれていたかもしれない。だが。落ちる雷も今の比ではなかった。おそらく自分は灰すら残らなかっただろう。
その事実を理解した瞬間。背筋に冷たい汗が流れた。
黒猪神はしばらく黙っていた。やがて。ふっと力を抜いたように頭を垂れる。
怒りも焦りも消えていた。残ったのは、深い疲労だけだった。
そして。ぽつりと呟く。
「……昔は違ったのじゃ。」
誰へ向けた言葉でもなかった。滝の音に紛れるような小さな声。
正雪たちは黙って耳を傾けた。黒猪神は遠くを見るように語り始める。
◇◇◇
まだ人々が剣山を畏れ敬っていた時代。
黒滝の近くに、一匹の野猪が現れた。身体中に傷を負い。血を流し。今にも死にそうな姿だった。
何か強大な獣に襲われたのだろう。野猪はふらふらと滝へ近づいた。
そして。黒滝の水を飲んだ。冷たい水が喉を潤す。一口。また一口。すると不思議なことが起きた。
傷が塞がり始めたのである。裂けた肉が戻り。砕けた骨が繋がる。野猪は驚いた。
そして翌日も来た。その翌日も。さらに翌日も。毎日のように黒滝を訪れ、水を飲み続けた。
やがて野猪は気付く。この滝には霊気が宿っていることを。天地の力が集まる霊地であることを。
だから野猪は決意した。滝を守ろうと。誰にも汚させまいと。
最初は滝だけだった。だが。滝へ来る小動物を守るようになった。
傷付いた鹿を助けた。迷った兎を巣へ帰した。 狼から子猿を救ったこともある。
いつしか。山そのものを守るようになった。
年月が流れる。十年。二十年。百年。野猪は黒滝の霊気を受け続けた。その身体には神性が宿り始める。
妖獣から妖王へ。妖王から神獣へ。そしてついに。本当の山神となった。
人々はその存在を敬った。供物を捧げ。祈りを捧げ。こう呼ぶようになった。
――黒猪神。
黒滝を守る山の神。黒猪神は静かに語る。
「儂は信じておった。」
赤黒い瞳が揺れる。
「力ある者は責任を負う。弱き者を守るために力はある。そう信じて山を守り続けた。」
その声には誇りがあった。確かにかつては善神だったのだろう。
だが。黒猪神の表情が陰る。
「すべてが変わったのは――」
滝の轟音が一瞬だけ大きく聞こえた。
「幽世の門が現れた日じゃ。」
正雪の瞳が細くなる。またしても幽世。すべての災厄の源。
黒猪神は苦笑した。
「最初は興味だった。門の向こうには何があるのか。どれほどの力が眠っているのか。」
山神としての責任感もあった。未知の脅威を調べねばならない。
そう考えていた。だが。それだけではなかった。心の奥底には、もう一つの感情があった。
――もっと強くなりたい。山を守るために。誰にも負けない力が欲しい。
そう願った。だから近づいた。幽世の門へ。
そして。力を得た。確かに得たのだ。以前より強くなった。霊力は何倍にも膨れ上がった。山を揺るがすほどの神力を手に入れた。
だが。代償もあった。最初は気付かなかった。本当に少しずつだったからだ。
怒りやすくなる。短気になる。他者を見下すようになる。力を誇示したくなる。自分の判断が絶対だと思うようになる。
そして――ある日。
黒猪神は気付いた。自分が守るべき相手を、恐れさせていることに。
だが、その時にはもう遅かった。幽世の気は。すでに魂の奥深くまで染み込んでいたのである。




