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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第52話 滝下に囚われし山の神

【滝下に囚われし神】


 轟々と響く地下の滝。天井の闇より落ちる白銀の水流は、まるで天河が地底へ流れ込んでいるかのようだった。巨大な水潭には濃密な霊気が満ち、水面には淡い青光が揺れている。


 その神秘的な光景に見入っていた千蔵が、ふいに表情を変えた。尻尾がぴたりと止まる。


 「……おい。」


 低い声だった。


 「どうした?」


 正雪が問い返す。千蔵は水潭のほとりを指差した。


 「誰かおる。」


 一同の視線が向く。そこには五つの影が倒れていた。妖狐。山犬。地下へ真っ先に突入した第五勢力の者たちである。


 全員が地面に伏し、まるで魂を抜かれたように動かない。


 徳姫の耳が震えた。


 「生きてる……?」


 紗綾はすぐに符を取り出した。


 「近付かないで。」


 正雪も頷く。こういう場所では、倒れている者そのものが罠であることも珍しくない。


 一行は水潭から十分な距離を取った。正雪は霊識を広げる。四つの霊光も静かに周囲を巡り始めた。


 しばらく観察を続ける。


 すると――ごぼり。静かな水音が響いた。水潭の中央が波打つ。そこから、一本の剣がゆっくりと浮かび上がってきた。


 金色の霊光を放つ古剣だった。刀身には複雑な霊紋が刻まれ、神々しい気配を漂わせている。


 千蔵の目が輝いた。


 「霊剣じゃ!」


 飛び出そうとする。しかし、正雪が肩を掴んだ。


 「待て。」


 「またか!」


 「怪しい。」


 その一言で千蔵も口を閉じた。正雪は黙って観察を続ける。十分。二十分。霊剣は水面に浮かんだまま動かない。だが正雪は動かなかった。


 焦る相手ほど先に失敗する。それは師から教わったことだった。


 やがて。霊剣の方が先に耐えられなくなった。刀身がゆっくりと崩れ始める。金色の光が霧となり、形を失っていく。


 そして――巨大な猪へと変貌した。


 「来るぞ!」


 正雪が叫ぶ。霊盾を展開。紗綾も三重の防御符を張り巡らせる。千蔵と徳姫は即座に後退した。


 次の瞬間。妖猪が咆哮した。轟音が洞窟を揺らす。燃えるような赤い瞳。山ほどもある威圧感。巨大な牙を剥き、一行へ突進する。


 十歩。五歩。三歩。あと一歩。


 徳姫が息を呑む。


 その時だった。妖猪の身体が突然止まった。まるで見えない壁に激突したかのように。


 「なに?」


 紗綾が目を細める。正雪は妖猪の足元を見た。妖猪の後ろ足には、黒い鎖が巻き付いていた。鎖は水潭の底へ続いている。


 妖猪は暴れる。だが、それ以上前へ出ることはできない。まるで牢獄に囚われた囚人だった。


 徳姫が呟く。


 「封印されている……。」


 妖猪はしばらく咆哮を続けた。しかし突然。その眼から凶暴さが消えた。代わりに現れたのは深い疲労だった。


 やがて。弱々しい声が響く。


 「助けて……ください。」


 一同が固まる。先ほどまでの怪物とは別物のようだった。妖猪は頭を垂れた。


 「お願いです。助けてください……。」


 正雪は警戒を解かない。


 「君は誰だ。」


 妖猪は静かに目を閉じた。遠い昔を思い出すように。


 「儂は……。かつて、この山を守っていた神。」


 しばし沈黙。そして名を告げる。


 「人は儂を――**黒猪神**と呼んでおった。」


 黒猪神。その名には古い神格の重みがあった。妖猪は続ける。


 「昔の儂は善き神だった。山を守り。獣を守り。人を守っていた。人々は豊穣を願い、儂に供物を捧げた。」


 徳姫は静かに耳を傾ける。その声には偽りが感じられなかった。


 だが。次の言葉で空気が冷えた。


 「ある日。幽世の門が現れた。」


 正雪の瞳が鋭くなる。再び現れた言葉。幽世。


 黒猪神は苦しそうに続けた。


 「門から溢れ出た幽世の気。最初は何も変わらなかった。だが気付かぬうちに魂が侵されておった。」


 巨大な牙が震える。


 「怒り。破壊。殺意。気付けば儂は山を守る神ではなくなっていた。山を滅ぼす怪物となっていた。」


 誰も言葉を発しない。その時。千蔵が前へ出た。


 「お前が妖王か。金長様と六右衛門様が戦った妖王か。」


 黒猪神は目を細めた。懐かしむように。


 「狸か……。覚えておる。勇敢な二匹だった。」


 徳姫が身を乗り出す。


 「それで封印されたの?」


 黒猪神は首を振った。


 「違う。儂を倒したのは仙人だ。」


 一同が息を呑む。


 「仙人は霊剣を持っていた。その剣は魂をも断つ剣。儂の肉体も魂も切り裂いた。」


 黒猪神は静かに続ける。


 「だが。金長と六右衛門が押さえておらねば。儂は逃げていた。」


 千蔵と徳姫は顔を見合わせた。やはり。二匹の狸は敵ではなかった。共に山を守るため戦っていたのだ。


 正雪はさらに尋ねる。


 「では、なぜ今ここにいる。」


 黒猪神は苦笑した。


 「最後の秘術じゃ。儂は魂を分裂させた。その欠片が運よく滝の下へ逃げ込んだ。」


 背後の地下滝を見上げる。


 「この滝には濃厚な霊気がある。それゆえ今まで消えずに済んだ。」


 鎖が音を立てる。


 「だが、それも終わりじゃ。」


 その身体は半ば透け始めていた。もはや長くは持たない。


 その時。正雪の視線が倒れている山犬たちへ向いた。


 「彼らは?」


 黒猪神は黙った。しばらくして。重々しく答える。


 「儂だ。」


 徳姫の顔が青ざめる。


 「まさか……。」


 黒猪神は俯いた。


 「魂が消えかけていた。生き延びるためだった。だから。奴らの魂を喰った。」


 地下空間が静まり返る。滝の轟音だけが響いている。千蔵は拳を握った。徳姫は悲しそうに黒猪神を見る。


 正雪は何も言わなかった。目の前にいる存在は。かつて山を守った神。そして多くの命を奪った怪物。


 被害者でもあり。加害者でもある。その両方だった。だが一つだけ確かなことがある。剣山の地下に眠る秘密は、彼らが想像していたより遥かに古く、遥かに深いものだった。


 そして――黒猪神はまだ、何かを隠しているように見えた。




【滝下の神斧】


 地下の滝は絶えず轟いていた。白銀の水流が天井の闇から果てなく流れ落ち、巨大な水潭を震わせている。その滝の前で、黒猪神は重い鎖に繋がれたまま頭を垂れていた。


 つい先ほどまで妖王の威圧を放ち、霧の猪となって襲いかかってきた存在とは思えないほど、その姿は弱々しい。


 やがて黒猪神はゆっくりと顔を上げた。赤黒い瞳の奥には、長い歳月を生きた者だけが持つ深い疲労と、消えかけた希望が宿っていた。


 「儂の話したことは、すべて真実じゃ。」


 滝の轟音に負けぬよう、低い声が洞窟に響く。


 「どうか……助けてくれぬか。」


 正雪はしばらく沈黙した。相手の言葉を信じるべきか。それとも疑うべきか。


 目の前の存在は被害者であり、同時に加害者でもある。簡単に答えを出せる話ではなかった。


 やがて正雪は静かに尋ねた。


 「どう助ければいい。」


 黒猪神は足元へ視線を落とす。冷たい鉄色の鎖は水潭の底へと沈み、その先は見えない。


 「この鎖を断ってほしい。そうすれば儂は輪廻へ向かえる。長き苦しみも終わるのじゃ。」


 その言葉が終わる前だった。


 「信じちゃ駄目!」


 紗綾が鋭く割って入った。彼女は一歩前へ出ると、黒猪神を真っ直ぐ睨みつける。


 「さっきまで私たちを襲っていたでしょう。本当に解放して大丈夫だなんて、誰が保証できるの?」


 洞窟の空気が張り詰める。黒猪神はしばらく黙っていた。そして静かに答えた。


 「疑うのは当然じゃ。だが儂が今望んでいるのは、ただ一つ。」


 黒猪神は滝を見上げる。


 「輪廻へ向かうこと。この終わらぬ苦しみを終わらせることじゃ。」


 その声には不思議な悲しみが滲んでいた。


 「助けてもらえれば感謝するのみ。害そうなどという心は、もはや残っておらぬ。」


 だが紗綾は少しも表情を緩めなかった。それを見た正雪が首を傾げる。


 「心配は分かる。だが、仮に本当だとしても問題がある。」


 正雪は鎖を見つめた。


 「俺に切れるとは思えない。仙人が封じた存在だろう。そんな鎖を断てるほど、俺は強くない。」


 黒猪神はゆっくりと首を横に振った。


 「違う。これは仙人の鎖ではない。」


 一同の表情が変わる。


 「何だって?」


 徳姫が思わず聞き返した。


 黒猪神は背後の滝を見上げた。轟々と流れ落ちる白銀の水流。その霊気は周囲の空間を満たしている。


 「この滝が生まれた時。天地の霊脈と水気が交わり、自然に生まれた霊鎖じゃ。数百年、数千年の歳月を経て形を成し、儂を縛り続けておる。強大ではあるが、仙人の法宝ではない。」


 そう言った瞬間だった。黒猪神の巨大な牙がかすかに光を放った。


 ごぼり――静かな水音が響く。水潭の中央から何かが浮かび上がってきた。


 千蔵の耳がぴんと立つ。


 「宝じゃ!」


 現れたのは一本の巨大な斧だった。柄は黒曜石のように深く黒い。斧刃は青銀色に輝き、冷たい月光を思わせる光を放っている。斧身には無数の古代文字が刻まれ、周囲へ濃密な霊気を放っていた。


 見ただけで分かる。これは凡俗の兵器ではない。長い年月を経た本物の霊宝である。


 さらに。もう一つ。古びた巻物が水面から浮かび上がった。黒猪神はそれを正雪へ差し出す。


 「これを使え。儂が生前、最も得意としていた斧術じゃ。この霊斧と共に、お前へ授けよう。」


 正雪は慎重に巻物を受け取った。


 しかし紗綾は慌てて声を上げる。


 「正雪!そんな簡単に受け取らないで!山犬たちの魂を奪った張本人でしょう!」


 黒猪神は苦く笑った。


 「違う。山犬たちは儂が殺したのではない。」


 一同の視線が集まる。黒猪神は倒れている第五戦隊の者たちへ目を向けた。


 「奴らは霊剣を奪おうとして争った。互いに傷付き、互いに殺し合った。儂は最後に漁夫の利を得ただけじゃ。だからと言って、儂が善いとは言わぬ。」


 黒猪神は静かに続けた。


 「儂は奴らの魂を喰った。それは隠しておらぬ。だが命を奪ったのは儂ではない。死した後に、その魂を取り込んだだけじゃ。」


 そう言うと、黒猪神は深く頭を下げた。


 「信じてくれ。儂に残された時間は少ない。」


 その声には焦燥が滲んでいた。何百年もの牢獄。何百年もの孤独。ようやく訪れた機会を逃したくない囚人のようだった。


 正雪は巻物を開いた。そこには力強い筆跡で術名が記されている。


 ――《開山断岳斧》。


 その文字を見た瞬間。正雪の瞳が揺れた。古代の斧術。剣術のような華麗さはない。細やかな技巧もない。


 あるのは圧倒的な破壊のみ。山を割り。岩を砕き。大河を断つ。ただひたすらに力を極めるための術。


 第一式――岩戸割


 第二式――滝断


 第三式――峰崩


 第四式――天裂


 術名を読むだけで胸の奥が震える。正雪には分かった。この術は強い。理屈ではない。本能がそう告げていた。


 黒猪神は期待に満ちた目で見つめている。


 「早く覚えてくれ。儂も自由になれる。お前も強くなれる。霊宝も術法も、すべてお前のものじゃ。」


 千蔵は尻尾を揺らした。


 「なんじゃか怪しいのう。」


 徳姫も不安そうに頷く。


 「少し焦りすぎている気がします……。」


 紗綾は腕を組んだまま黒猪神を見据えていた。その瞳には、最後まで消えない警戒心が宿っている。


 だが――正雪の意識は、すでに巻物へ引き込まれていた。


 《開山断岳斧》。


 その術理は驚くほど単純だった。力を集める。そして一点へ叩き込む。ただそれだけ。だが単純だからこそ誤魔化しが利かない。


 術者の理解。術者の魂。術者の覚悟。そのすべてが威力へ直結する。


 正雪はゆっくりと霊斧を握った。ずしり――見た目以上の重量が掌へ伝わる。


 しかし不思議と重苦しさはない。むしろ手に馴染む。まるで何年も使い続けてきた相棒のように。


 正雪は静かに目を閉じた。滝の轟音。流れ続ける霊気。地下深く眠る巨大な霊脈。そのすべてを感じながら、術式を読み進めていく。


 気付けば周囲の声は耳に入らなくなっていた。


 紗綾の警告も。千蔵の疑念も。徳姫の不安も。今の正雪には遠い世界の出来事のようだった。


 《開山断岳斧》は、生き物のように彼の心を掴み、深く引きずり込んでいく。


 そして誰も気付かなかった。正雪の瞳の奥に、いつの間にか斧身に刻まれた紋様と同じ光が浮かび始めていたことを。


 まるで術を学んでいるのではなく。術に選ばれているかのように。そして――その姿を見つめる黒猪神の瞳の奥でも、一瞬だけ奇妙な光が揺れた。


 安堵か。期待か。それとも――計算か。


 轟く滝だけが、その答えを知っているようだった。


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