第51話 無限循環の迷宮と霊識
【無限循環の迷宮】
六右衛門狸の隠し道へ入ってから、どれほどの時間が経っただろうか。背後の入口はすでに見えない。岩壁に囲まれた地下通路は静まり返り、一行の足音だけが乾いた音となって闇へ吸い込まれていく。
正雪は歩みを止めず、静かに指先を動かした。すると、四つの光球がふわりと現れる。淡い黄金色の霊光だった。光球は正雪の周囲をゆっくりと巡り始め、暗闇を柔らかく照らし出す。
徳姫が不思議そうに見上げた。
「正雪殿、その光は?」
正雪は前を向いたまま答える。
「照明だ。」
四つの光球が静かに回転する。
「だが、それだけではない。」
少し間を置いて続けた。
「護身も兼ねた術だ。」
千蔵が目を丸くする。
「護身?」
「暗器や呪符、飛針の類が飛んできた時、先に反応する。」
正雪は淡々と説明した。
「敵意や霊力を帯びた攻撃なら、ある程度は防げる。」
「おお!」
千蔵は感心したように声を上げた。しかし正雪は首を横に振る。
「万能ではない。強い術や見えない罠までは防げない。だから油断するな。」
その声は冷静だった。地下深くに眠る未知の遺跡である。何が潜んでいても不思議ではない。
一行は自然と隊列を組んでいた。先頭は正雪。中央に千蔵と徳姫。最後尾は紗綾。もし何か起これば、正雪が前から、紗綾が後ろから守る。
そう考えた結果の並びだった。
しばらく歩き続ける。岩壁には古い爪痕が無数に刻まれている。六右衛門狸たちが何百年、何千年とかけて掘り進めた痕跡なのだろう。
だが。次第に、正雪の眉がわずかにひそめられていった。
何かがおかしい。最初は気のせいだと思った。地下迷宮なのだから、似た景色が続くのは当然である。
しかし。歩けば歩くほど、その違和感は強くなっていった。似ているのではない。同じなのだ。
右側の岩壁。途中で折れた鍾乳石。壁面に残る古い爪痕。どれも見覚えがある。
正雪は立ち止まった。
「どうした?」
紗綾が尋ねる。
正雪は答えず、岩壁へ近づいた。そして腰の短刀を抜く。きぃ、と石を削る音が響いた。岩壁に三角形の印を刻む。
誰が見ても分かる単純な目印だった。正雪は短刀を納める。
「行こう。」
一行は再び歩き始めた。一時間。二時間。あるいは、それ以上。地下には昼も夜もない。時間の感覚はすでに曖昧になっていた。
だが。再び正雪は足を止めた。徳姫が息を呑む。
そこには――先ほど刻んだ三角形の印があった。同じ場所。同じ岩壁。同じ爪痕。同じ鍾乳石。
千蔵の尻尾が逆立つ。
「な、なんじゃこれ!」
徳姫の顔も青ざめる。
「戻ってきた……?」
正雪は無言だった。岩壁へ近づき、指先で刻印をなぞる。間違いない。自分が刻んだものだ。
偶然ではない。一行は確かに前へ進み続けていた。一度も引き返していない。それなのに。出発地点へ戻っている。
紗綾が低く呟いた。
「幻術……?」
地下遺跡では珍しくない術だ。感覚を惑わせ、夢を見せるように同じ場所を歩かせる。しかし正雪は首を横に振った。
「違う。」
その声は静かだった。
「幻術ではない。」
「え?」
千蔵と徳姫が同時に声を上げる。正雪は説明した。
「幻術は本来、個人に対して作用する術だ。四人全員を完全に同じ幻覚へ閉じ込めるとなれば、膨大な霊力が必要になる。」
正雪は足元の砂を拾い上げた。そして前方へ放る。砂は地面へ落ち、そのまま転がった。
その様子を、正雪は鋭く見つめる。やがて静かに言った。
「見ろ。」
千蔵が目を凝らした。
「ん?」
「少しだけ左へ曲がっておる……?」
砂は真っ直ぐ転がっているように見えながら、ほんのわずかに左へ流されていた。極めて微細な変化だった。注意しなければ気付かない。
正雪は頷く。
「幻覚ではない。空間そのものが歪んでいる。」
地下の空気が重くなる。正雪はゆっくりと結論を口にした。
「この道は本当に繋がっている。前へ進んでいるつもりでも、巨大な円を描くように曲げられ、最後には元の場所へ戻る。」
「誰かが意図して造った迷宮だ。」
千蔵が頭を抱えた。
「それって、無限に回る道ということか?」
「どうすれば抜けられるんじゃ!」
静寂が落ちる。四つの霊光だけが、闇の中で静かに回り続けていた。
正雪は低く呟く。
「無限循環の迷宮……。」
地下の闇はどこまでも深い。まるで迷宮そのものが、一行を嘲笑っているかのようだった。
その時だった。紗綾が何かを思い出したように口を開く。
「霊識という言葉を聞いたことがあるかしら。」
正雪は振り返った。
「霊識?」
紗綾は頷く。
「修仙者の感知術よ。目で見るのではなく、周囲の状況を直接感じ取る力。気配や霊力の流れ、地形の歪みまでも察知できる。」
正雪は少し考えた。
「聞いたことはある。だが、まだ習っていない。」
紗綾は説明を続ける。
「方法は単純よ。心魂を外へ広げるの。心魂を触角のように周囲へ伸ばし、目の代わりに世界を感じ取る。」
そこで言葉を切った。
「ただし――」
「何が問題なんだ?」
正雪が尋ねる。その時。河童の壺の中から、小さな声が響いた。
翠夏だった。
「条件が二つあるの。」
一行の視線が壺へ向く。翠夏は得意そうに続けた。
「一つは霊力。霊識は使い続ける間、ずっと霊力を消耗する。霊力が尽きれば終わり。そして、もう一つは魂力。」
正雪が眉を上げる。
「魂力?」
「そう。」
翠夏はうなずいた。
「魂力が霊識の範囲を決めるの。魂力が強ければ強いほど、遠くまで感知できる。逆に弱ければ、数歩先しか分からない。」
正雪は静かに考え込んだ。そして、ゆっくりと言う。
「つまり――霊識の範囲が、この迷宮の循環範囲を超えればいい。迷宮全体を外側から把握できれば、出口も見つけられる。」
紗綾と翠夏が同時に目を丸くした。そして感心したように頷く。
「流石ね。理解が早い。」
だが正雪の表情は変わらない。問題は理解することではない。実際に、それができるかどうかだ。
無限循環の迷宮は、静かに彼らを閉じ込めていた。
そして、そのさらに奥深くでは――二十五人の強者たちが、誰も知らぬ地下の秘密へ向かって進み続けていた。
【霊識と地下の滝】
無限循環の迷宮。その正体を見抜いた後も、一行の表情は晴れなかった。前へ進めば元の場所へ戻る。
仕組みは分かった。だが、脱出の方法までは分からない。闇に沈んだ地下迷宮は相変わらず静まり返り、同じ岩壁と同じ爪痕が果てしなく続いていた。
まるで迷宮そのものが、侵入者を嘲笑っているかのようだった。
その時、紗綾が静かに言った。
「まずは霊識で調べてみる。」
彼女はその場に腰を下ろし、ゆっくりと目を閉じる。呼吸が静かになり、全身の気配が薄れていく。やがて周囲の空気が、わずかに揺れた。
誰の目にも見えない。だが確かに、何かが紗綾の身体から外へ広がっている。魂が触角のように伸び、周囲を探っているのだ。
それが霊識だった。
しばらくして、紗綾はゆっくりと目を開く。額には薄く汗が浮かんでいた。
「駄目ね。」
小さく首を振る。
「この迷宮、思った以上に広い。私の霊識では端まで届かないわ。」
千蔵の耳がしゅんと垂れた。
「つまり、出口は分からんということか。」
紗綾は静かに頷いた。徳姫も不安そうに周囲を見回す。出口のない円環の中に閉じ込められたような気分だった。
その時だった。翠夏が壺の口から顔を出した。
「正雪。お前は燃魂灯で魂を鍛えたんじゃろう。」
正雪が振り向く。
「それがどうした?」
翠夏は顎を上げた。
「魂力だけなら、この中で一番強い。」
紗綾も頷く。
「問題は経験よ。正雪は使い方を知らないだけ。」
そう言うと、紗綾は霊識の修練法を一から説明し始めた。
魂を外へ伸ばす感覚。霊力を絶やさず流し続ける方法。意識を分散させながら周囲を感知する技術。
正雪は真剣な表情で聞いていた。やがて目を閉じる。呼吸を整える。心を静める。そして魂を外へ放とうとした。
――失敗した。何も感じない。
もう一度。さらにもう一度。今度は何かが伸びた気がした。
だが、すぐに霧散する。
翠夏が笑う。
「下手じゃな。」
千蔵も噴き出した。
「剣は強いのにのう。」
正雪も苦笑するしかなかった。魂力そのものは強い。しかし扱い方が未熟すぎる。まるで名刀を渡された子供が、振り方も知らずに持っているようなものだった。
それから一行は、その場でしばらく休息を取った。
正雪は何度も霊識の練習を繰り返す。失敗。失敗。また失敗。
だが少しずつ感覚がつかめてきた。魂が外へ広がる。岩壁の輪郭がぼんやり分かる。空気の流れも感じられる。
しかし、それでも迷宮全体を見渡せるほどではなかった。
紗綾でも届かない。正雪でも届かない。誰一人、この循環迷宮全体を覆うほどの霊識は持っていなかった。
重い沈黙が流れる。その時だった。正雪がふと顔を上げた。
「一つ方法がある。」
全員が振り向く。正雪は岩壁を見つめながら言った。
「迷宮全体を見る必要はない。出口だけ見つければいい。」
紗綾が目を細める。
「どういう意味?」
正雪は続けた。
「歩きながら霊識を使う。迷宮の不自然な場所を探すんだ。風の流れ。岩壁の空洞。空間の歪み。循環の輪から外れる場所があるはずだ。」
徳姫の耳がぴくりと動く。
「全部を見るんじゃなくて、怪しい場所だけ探すんですね。」
正雪は頷いた。
「そうだ。迷宮全体を超えられなくてもいい。出口へ続く綻びを見つければ十分だ。」
紗綾の口元に笑みが浮かぶ。
「なるほど。」
翠夏も感心したように頷いた。
「流石じゃ。力押しではなく頭を使う。」
千蔵も尻尾を振り回した。
「よし! それで行こう!」
こうして一行は再び歩き始めた。今度は全員が周囲を探る。正雪は霊識を放つ。紗綾も慎重に探査する。
翠夏も壺の中から感知を続ける。千蔵と徳姫は霊識こそ使えないが、狸ならではの鋭い嗅覚と聴覚を総動員した。
少し進む。調べる。また進む。何度も同じ景色を通る。それでも諦めない。
そして――ついに紗綾が立ち止まった。
「ここ。」
全員が振り向く。そこには何もない。ただの岩壁だった。だが正雪も霊識を向ける。すると分かった。岩の奥に、微かな空洞が存在する。
千蔵も鼻をひくつかせた。
「風の匂いがする!」
徳姫も頷く。
「向こうに空間があります!」
正雪は岩壁へ手を当てた。隙間に指を差し込み、力を込める。
ごごごごご――
重い音が響いた。岩壁の一部がゆっくり横へずれる。暗い側道が姿を現した。千蔵が飛び上がる。
「出たぁ!」
徳姫も嬉しそうに笑った。無限循環の迷宮。その脱出に成功した瞬間だった。
だが正雪は、すぐには進まなかった。もう一度霊識を広げる。そして、ふと思う。
――これは凄い。今まで使っていた四つの霊光。あれは飛来する暗器や呪符を防ぐための受け身の術だった。敵が攻撃してきて初めて意味を持つ。
しかし霊識は違う。敵が攻撃する前に察知できる。
岩陰に潜む者も。隠された罠も。気配を消した刺客でさえ。発見できるかもしれない。
それは防御でありながら、同時に最良の索敵術でもあった。
正雪は小さく息を吐く。まだ知らないことばかりだ。
修仙の道は広い。剣術。術法。魂。霊識。学べば学ぶほど、自分の未熟さが見えてくる。
だが不思議と嫌ではなかった。むしろ楽しい。強くなれる道が、まだ無限に続いているからだ。
――まだまだ学ばねばならないな。
そう思いながら、一行は隠された側道へ足を踏み入れた。
しばらく進んだ頃だった。前方から微かな轟音が聞こえ始める。最初は風の音かと思った。
だが違う。水だ。大量の水が流れる音だった。音は次第に大きくなる。やがて通路が途切れた。一行は思わず足を止める。
目の前に広がっていたのは、巨大な地下空間だった。天井は遥か上方にあり、闇へ溶けて見えない。
その高みから。一本の巨大な白い水流が轟音とともに落下していた。
地下の滝。
まるで銀龍が天より降りてくるかのようだった。轟々と流れ落ちる水は巨大な水潭へ注ぎ込み、絶えず白い飛沫を巻き上げている。
水しぶきは霧となり、周囲へ広がる。
正雪の霊光を受けて七色に輝き、幻想的な景色を作り出していた。
徳姫が思わず息を呑む。
「綺麗……。」
千蔵も口をぽかんと開けていた。
「地下に、こんな場所があったんか……。」
正雪も静かに滝を見上げる。六右衛門狸が代々守ってきた地下世界。
その奥には、まだ誰も知らない秘密が眠っている。
そして正雪の霊識は、その広大な地下空間のどこかに、人ならざる何かの気配が潜んでいることを、かすかに感じ取っていた。




