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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第50話 六右衛門の隠し道

【六右衛門の隠し道】


 二十五の影が地下の闇へ消えていった後も、六右衛門狸の一族は動かなかった。


 舞い上がった土煙がゆっくりと収まり、周囲に残った妖たちも地下穴の様子を窺うことに意識を向けている。


 誰も、傷だらけの狸たちへ目を向けない。誰も、彼らが何を考えているのか気にしない。


 その時だった。正雪は一匹の老狸へ視線を向けた。何も言わない。ただ静かに見つめる。老狸もまた、正雪を見返した。


 しばらくの沈黙。やがて老狸は観念したように小さく息を吐いた。


 「……やれやれ」


 そして徳姫へ向かって、ほんのわずかに顎を動かす。


 ――こちらへ来い。言葉はない。だが長い年月を共に生きてきた狸たちには、それだけで十分だった。


 徳姫は静かに頷く。


 「正雪殿。」


 小声で呼びかけた。正雪もすぐに応じた。紗綾と千蔵へ目配せする。四人は何事もなかったように立ち上がり、大木の陰を離れて老狸の後を追った。


 周囲の者たちは誰も気にしない。強者たちの目は、すでに地下穴の奥へ向いている。今さら、傷だらけの狸や若者たちがどこへ行こうと興味などなかった。


 老狸は足を引きずりながら山の奥へ進む。尋問で受けた傷は深い。歩くたびに乾きかけた血が毛並みに滲み、黒く固まっていた。


 それでも足を止めることはない。


 獣道を抜ける。苔むした岩を越える。しばらく進んだ先で、老狸は立ち止まった。


 そこには切り立った岩壁があるだけだった。どこからどう見ても行き止まりである。


 千蔵が首を傾げる。


 「……ここか?」


 老狸は答えず周囲を見回した。誰もいないことを確かめると、岩壁の根元へ近づく。


 そして前足で苔を払い落とした。さらさらと苔が剥がれる。その下から現れたのは、小さな穴だった。


 人が一人、身を屈めてようやく通れるほどの狭い隙間。まるで獣の巣穴のようだ。


 千蔵の目が丸くなる。


 「こんな所に道があったんか!」


 老狸はかすかに笑った。


 「六右衛門狸が代々守ってきた地じゃ。我らの道が、一つしかないと思うたか。」


 徳姫も驚いていた。


 「爺様……私も知りませんでした。」


 老狸は静かに頷く。


 「だが――」


 その視線が正雪へ向いた。


 「連れて来られた方は、最初から気付いておったようじゃな。」


 正雪は苦笑した。


 「気付いていたわけじゃない。」


 岩壁を見つめる。


 「ただ、違和感があった。」


 「違和感?」


 紗綾が首を傾げる。


 正雪は穴の周囲へ視線を走らせた。


 「地下穴の入口は一つしかないように見えた。だが、それはおかしい。」


 徳姫たちが耳を傾ける。


 「六右衛門狸は何百年も、この場所を守ってきた。」


 「もし本当に危険なものを封じていたなら、逃げ道も監視道も用意しないはずがない。」


 老狸が小さく笑う。


 「人の若者にしては、よく見ておる。」


 そして岩穴を見つめた。


 「その通りじゃ。これは代々伝わる隠し道。地下へ通じておる。」


 千蔵の尻尾が勢いよく揺れる。


 「なら急ごう!」


 今にも飛び込みそうな勢いだった。


 だが老狸は静かに首を振る。


 「待て。」


 その声に、一同は足を止めた。老狸の眼差しは真っ直ぐだった。


 「確かに中へは入れる。じゃが――」


 一拍置く。


 「中のことは、わしらも知らぬ。」


 千蔵が目を瞬く。


 「知らん?」


 「そうじゃ。」


 老狸は頷いた。


 「この地下穴は代々守ってきた。じゃが、守ることと踏み入ることは別じゃ。」


 その声には、長い歴史への畏れが滲んでいた。


 「祖先は言い残しておる。」


 風が吹く。木々が静かに揺れた。


 「奥へ進むな。封じられしものは、そのまま眠らせよ。」


 正雪は黙って耳を傾ける。


 「この道は封印を見守るための道じゃ。代々、結界が揺らいでおらぬかを確かめるためだけに使われてきた。」


 「その先に何があるのか。」


 老狸は首を振った。


 「それは、わしらにも分からぬ。」


 その言葉に、一同は静かになった。誰も知らない。何百年も守り続けてきた一族ですら。それほどまでに、この地下は禁忌の場所だった。


 やがて老狸は徳姫を見つめる。


 「徳姫。」


 その声は祖父のものではなかった。一族の長としての声だった。


 「お前は、この者たちと行け。」


 徳姫の耳が震える。


 「爺様……」


 「わしらは、ここまでじゃ。」


 老狸は穏やかに笑った。


 「若い頃なら一緒に行ったかもしれぬ。」


 傷だらけの身体を見下ろす。


 「じゃが、もう無理じゃ。」


 周囲の老狸たちも静かに頷いた。


 「徳姫。お前が六右衛門の血を繋げ。お前が、一族の未来を見届けるのじゃ。」


 ぽろり、と涙が落ちた。


 「嫌じゃ……」


 徳姫が首を振る。


 「みんなで行こう。爺様も。」


 老狸は優しく笑った。


 「一族には残る者も必要じゃ。皆で動けば、すぐに見つかる。誰かが入口を守らねばならぬ。」


 そして静かに続ける。


 「帰ってくる者を待たねばならぬ。」


 徳姫は声を殺して泣いた。老狸はその頭を撫でる。


 「泣くな。六右衛門の姫じゃろう。」


 そして正雪を見る。


 「人の若者。」


 正雪は深く頭を下げた。


 「徳姫を頼む。」


 「命に代えても。」


 正雪は迷わず頷いた。


 「必ずお連れします。」


 老狸は今度は千蔵へ目を向ける。


 「金長の若。」


 千蔵はぴんと背筋を伸ばした。


 「頼まれんでも守る。」


 鼻を鳴らす。


 「徳姫も、この山も。」


 少し照れくさそうに続けた。


 「それに、金長様ならきっとそうする。」


 老狸の目が細くなる。


 「よい狸じゃ。」


 紗綾へも視線を向けた。


 「娘。」


 紗綾は微笑む。


 「みんなで帰ります。一人も欠けることなく。」


 老狸は満足そうに頷いた。


 「若い者は、よい。」


 そして一歩後ろへ下がる。


 「幸運を祈る。」


 徳姫は涙を拭い、深く頭を下げた。


 「……行ってきます。」


 正雪が先頭に立つ。その後ろに千蔵。徳姫。そして紗綾。四人は身を屈め、小さな穴へ足を踏み入れた。


 入口は狭かった。しかし奥へ進むにつれ、不意に空間が広がる。


 岩壁には無数の爪痕が残っていた。深く。古く。幾重にも重なっている。何百年。あるいは何千年。狸たちが少しずつ掘り進めてきた証だった。


 その時、後方から老狸の声が響く。


 「気を付けるのじゃ!」


 一行は振り返った。老狸が入口に立っている。


 「他の勢力と同じ道を選ぶな!」


 声が洞窟へ反響した。


 「この地下は一つの洞窟ではない!無数の道が枝分かれした大迷宮じゃ!焦るでない!」


 老狸は最後に叫ぶ。


 「道に迷うより――欲に迷う方が恐ろしいぞ!」


 その言葉を最後に、巨大な岩が動いた。


 ごごごごご……。


 重い音が響く。入口が閉じていく。最後に見えたのは。涙を堪えながら、それでも笑顔を作る徳姫の祖父の姿だった。


 やがて光は消えた。完全な闇。静寂。


 徳姫は思わず正雪の袖を掴む。紗綾も息を呑んだ。その重苦しい空気を破ったのは、やはり千蔵だった。


 暗闇の中で、突然鼻歌を歌い始める。


 「♪お化けなんかないさ~、お化けなんかうそさ~」


 正雪は額を押さえた。


 「千蔵。」


 「なんじゃ?」


 「怖いのか。」


 「だ、誰が怖がっとる!」


 千蔵は胸を張る。


 「これは皆を安心させるためじゃ!金長一族秘伝の勇気の歌じゃ!」


 紗綾が噴き出した。徳姫も涙を拭いながら笑う。張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。


 だが――。その時だった。暗闇の奥から。


 ――かん。


 小さな音が響く。一同の笑顔が止まる。


 ――かん。――かん。


 静かな洞窟の奥。まるで誰かが地下深くで鉄を打っているような音。


 千蔵の歌がぴたりと止まった。そして小さな声で呟く。


「……やっぱり、お化け、おるんじゃないか?」




【幽世の半門】


 剣山の地下深く、正雪たちが六右衛門狸の隠し道を進んでいた、その頃。


 遥か離れた深山の奥、人の記憶から忘れ去られたような古寺がひっそりと佇んでいた。


 幾重にも連なる杉林。昼なお薄暗い参道。苔に覆われた石段は半ば崩れ、傾いた石灯籠には長い歳月の痕が刻まれている。


 朽ち果てた山門には、もはや寺名を示す扁額すら残されていなかった。風が吹いても鳥は鳴かず、虫の音も聞こえない。


 まるで、この一帯だけが現世から切り離されているかのようだった。


 寺の最奥。巨大な本堂には、たった一つの灯火だけが揺れていた。古びた柱には無数の呪符が貼られている。それは何かを封じるための護符ではない。長き歳月をかけ、ある存在の訪れを待ち続けるための呪符であった。


 本堂中央。黒い石畳の上に、一人の男が静かに膝をついている。


 笹林道成。


 その前には数名の老人が並んでいた。誰もが黒衣をまとい、顔の半ばを影の中へ沈めている。


 そして、本堂最奥。幾重にも垂れた御簾の向こうに、一人の人物が静かに座していた。


 姿は見えない。しかし、その存在だけで空気は重く沈み込み、誰もが無意識に息を潜めていた。


 やがて。御簾の奥から低い声が響く。静かでありながら、山そのものが語りかけるような重みを帯びた声だった。


 「笹林道成」


 名を呼ばれた瞬間、本堂の空気が微かに震えた。


 「なぜ幽世の門を開かなかった」


 一拍の沈黙。


 「説明せよ」


 道成は頭を垂れたまま答える。


 「開きました」


 その言葉に老人たちが僅かにざわめく。だが、道成は続けた。


 「半分だけ、ですが」


 本堂が静まり返った。御簾の奥から声が返る。


 「半分だと?どういう意味だ」


 道成はゆっくりと顔を上げた。その瞳には失敗への恐れではなく、新たな真理へ辿り着いた術者だけが宿す熱が燃えている。


 「祭壇にて術式を展開した際、気付いたのです」


 「我らが幽世の門と呼んでいたものは、真の門ではありませんでした」


 老人たちが顔を見合わせる。道成は静かに続けた。


 「あれは半門に過ぎませぬ」


 「真なる門は、もう一つ存在します」


 御簾の奥から感心したような吐息が漏れた。


 「ほう……」


 道成は床へ視線を落とす。


 「門には表と裏があります」


 「陽の門、そして陰の門。二つが揃って初めて、完全なる幽世の門となるのです」


 「術が失敗した理由は?」


 問いに対し、道成は即座に答えた。


 「表だけを開こうとしたからです」


 「陽の門のみを削っても、幽世への道は完成しませぬ。陰の門にも同時に干渉し、陰陽の均衡を崩さねばならない」


 「そうでなければ、現世と幽世は決して繋がりません」


 一人の老人が眉をひそめた。


 「ならば、その表と裏は同じ場所にあるのではないのか?」


 道成は静かに首を振る。


 「それが最も厄介な点です」


 本堂の空気が張り詰めた。


 「陽の門と陰の門。それらは別々の地に存在しています」


 「互いを映し合いながらも、決して重ならぬ。まるで陰と陽そのもののように」


 老人の一人が低く呟く。


 「聞いたこともない話だ……」


 「私も知りませんでした」


 道成は苦笑した。


 「祭壇で術を行うまでは」


 彼は懐から焼け焦げた呪符を取り出した。


 「我らが掌握してきた門には、すべて同じ紋が刻まれていました。陽の紋です」


 「そして陽の法陣によって守られていた」


 呪符を床へ置く。


 「私は陽を削り、幽世への道を開こうとした」


 「すると術式の奥底から、巨大な陰の力が噴き上がったのです」


 老人たちが息を呑む。


 「陽だけを削れば均衡が崩れる。陰陽は釣り合ってこそ成り立つ理」


 「均衡を失った術式は、自ら崩壊しました」


 道成は静かに頷いた。


 「ゆえに必要なのです。陰の門と陽の門」


 「その双方を同時に崩さねば、幽世の門は決して完全には開かない」


 本堂を長い沈黙が支配した。やがて御簾の奥から声が響く。


 「我らは既に三つの門を掌握している。それでも足りぬのか」


 「足りませぬ」


 道成は迷わず答えた。


 「手に入れた三つは、すべて陽の門です。陰の門は、一つとしても見つかっておりません」


 再び沈黙。そして御簾の向こうから問いが落ちた。


 「ならば、陰の門の手掛かりはあるのか」


 道成は懐から一通の書状を取り出した。封には五芒星が刻まれている。


 「木御門家からの報せです」


 老人たちの視線が集まった。


 道成は静かに告げる。


 「剣山」


 その名が響いた瞬間、本堂の空気が僅かに変わった。


 「霊剣を追う木御門の者たちより、奇妙な報告が届いております。六右衛門狸一族の領地にて、大規模な異変が発生した」


 「巨大な地下穴が現れ、古き封印が崩れ始めている」


 そして道成は声を落とした。


 「さらに、その地下より幽世の気配が漏れ出しているというのです」


 一人の老人が立ち上がる。


 「幽世の気配だと……?まさか……」


 道成は静かに頷いた。


 「確証はありません。ですが、六右衛門狸が代々守り続けてきた地下」


 「その深奥に、陰の門――裏の門が眠っている可能性があります」


 御簾の向こうが沈黙した。長い、長い沈黙だった。


 やがて。冷たくも絶対の意思を宿した声が本堂全体へ響き渡る。


 「ならば」


 灯火が揺れた。


 「剣山へ向かえ」


 空気が重く震える。


 「裏の門を見つけ出せ」


 そして最後に、氷のような命令が下された。


 「失敗は許さん」


 道成は深く頭を下げる。


 「承知いたしました」


 静かに立ち上がり、本堂を後にする。外へ出た彼は、夜空を見上げた。雲間から覗く月は、不気味なほど青白い。


 「剣山か……」


 小さく呟く。


 「本当に、あの山に眠っているのは霊剣だけなのだろうか」


 夜風が吹いた。杉林がざわめく。その音は、まるで遠い幽世からの囁きにも聞こえた。


 その頃――。


 剣山の地下深くでは。


 正雪、紗綾、千蔵、そして徳姫が、六右衛門狸にのみ伝わる隠し道を進み、誰も知らぬ大迷宮の闇へと足を踏み入れていた。


 彼らはまだ知らない。自分たちが探しているものが、霊剣なのか。財宝なのか。あるいは――。現世と幽世を繋ぐ、もう半つの門なのかを。


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