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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第49話 沈黙の狸

【奪われた席】


 青白い結界は、なおも地下穴を包み込んでいた。だが、その輝きは明らかに弱まっている。空中を巡る霊紋は薄れ、数日前には眩いほどだった光も、今では淡い燐光を残すのみだった。


 封印が消えるまで、もう長くはない。その事実を、この場にいる誰もが理解していた。


 だからこそ誰も動かない。地下穴を囲む各勢力の間には、不気味な静寂が流れていた。誰も先に仕掛けようとはしない。


 しかし、その視線だけは違う。妖狐も。山犬も。天狗も。陰陽師も。修験者も。互いの隙を探り合い、まるで喉元に刃を突き付けるような眼差しを交わしていた。


 そんな緊張を破ったのは、岩場に陣取る山犬たちだった。


 その長、黒歯がゆっくりと立ち上がる。漆黒の毛並みを逆立て、鋭い牙を覗かせながら一歩前へ出た。そして、その視線は真っ直ぐ六右衛門狸の一族へ向けられる。


 「おい、狸ども。」


 低く唸るような声が山へ響いた。


 「その地下穴には何がある。」


 一歩。さらに踏み出す。


 「知っていることを全部話せ。」


 その瞬間。場の空気が変わった。無数の視線が一斉に動く。誰もが六右衛門狸の一族へ目を向けていた。


 徳姫の肩が小さく震える。


 その時だった。妖狐の一人が肩を竦めた。白銀の尾を揺らしながら、どこか呆れたように口を開く。


 「今さら聞いても仕方あるまい。」


 周囲が静まった。妖狐は続ける。


 「先ほど散々問い質したではないか。」


 その言葉に、何人かが気まずそうに視線を逸らした。


 「勝浦川の戦で、六右衛門の強き狸たちは皆討たれた。今残っている者たちは、この地下穴の存在すら知らなかったそうだ。」


 「財宝の在り処も。霊剣の手掛かりも。何一つ分からぬ。」


 六右衛門狸たちは俯いた。沈黙だけが答えだった。


 やがて、一匹の老狸がゆっくりと立ち上がる。白く色褪せた毛並み。痩せ細った身体。前足にも背にも無数の傷跡が刻まれていた。


 古傷ではない。赤く腫れた新しい傷だ。つい先ほどまで厳しい尋問を受けていたことは明らかだった。


 老狸は震える身体を支えながら深く頭を下げる。


 「申し訳……ございませぬ。」


 掠れた声だった。


 「我らが力不足ゆえ……お役に立てませぬ。」


 さらに頭を下げる。


 「どうか、お許しください。」


 誰も答えなかった。本来なら謝る必要などない。知らないものは知らないのだ。だが、この場の弱者には謝ることしか許されていなかった。


 その姿を見ていた正雪は、静かに拳を握る。紗綾も唇を噛んでいた。千蔵だけは黙っている。


 だが、その瞳の奥には抑えきれない怒りが揺れていた。


 その時だった。――ちりん。石鎚修験衆の長、鬼童坊行円が錫杖を軽く鳴らした。


 澄んだ音が山へ響く。


 「もうよい。」


 短い言葉だった。しかし、不思議と場を鎮める威厳があった。


 「結界は間もなく消える。」


 行円は地下穴を見つめる。


 「地下に何が眠るかは誰にも分からぬ。ならば、自らの目で確かめるだけのこと。」


 周囲が静まり返った。行円は一同を見回す。


 「先ほどの取り決めについて、異議ある者はおるか。」


 すると黒歯が再び立ち上がった。今度は先ほどより落ち着いた口調だった。


 「異議がある。」


 その一言で空気が張り詰める。黒歯は四大勢力を見渡した。


 「確かに我ら山犬は、天狗や陰陽師、修験者や古剣寺と肩を並べるほどではない。」


 「だが。」


 低い声が響く。


 「四勢力だけが地下へ入り、他を締め出すというのは無理がある。」


 周囲の妖たちが耳を傾ける。


 「四大勢力以外の者たちにも、一つの隊として地下へ入る権利があるはずだ。」


 その提案に妖狐たちがすぐ頷いた。


 「その通り。」


 「我らも支持しよう。」


 山犬たちが唸る。他の妖たちも声を上げた。


 「異存なし。」


 「それでよい。」


 「当然だ。」


 古剣寺の玄海法師が白い眉を揺らす。


 「よかろう。」


 老僧は静かに頷いた。


 「各勢力より五名ずつ選び出す。」


 指を折りながら数える。


 「天狗衆。石鎚修験衆。木御門陰陽衆。古剣寺。そして諸勢力連合。合計二十五名。」


 玄海法師は言葉を締めくくる。


 「残る者は外で待機する。」


 風伯坊も頷いた。


 「異議なし。」


 玄信も静かに目を閉じる。


 「了承。」


 行円も錫杖を鳴らした。


 「問題あるまい。」


 話は驚くほどあっさりまとまった。妖狐たちは安堵し、山犬たちは胸を張る。各勢力では誰を選ぶか相談が始まっていた。


 だが。その喧騒から切り離された場所があった。六右衛門狸の一族である。誰も。誰一人として。彼らの名を呼ばなかった。


 地下穴は六右衛門狸が守り続けてきた聖域だ。祖先が築き。祖先が守り。祖先が受け継いできた場所。


 それなのに。二十五名の中に。六右衛門狸の席は一つも存在しなかった。まるで最初から、この土地の主などいなかったかのように。


 徳姫は俯く。小さな拳が震えていた。老狸たちは何も言わない。怒ることも。抗うことも。疾うの昔に諦めてしまったようだった。


 正雪は黙ってその光景を見つめる。


 修仙の道は、力だけが全てではない。そう信じたい。だが少なくとも、この剣山では違った。力ある者が道を決める。力なき者は従うしかない。


 その時だった。隣で小さな影が立ち上がる。千蔵だった。小柄な身体。だが、その背中は不思議なほど大きく見えた。


 徳姫が顔を上げる。老狸たちも驚いたように目を見開く。正雪はその姿を見て悟る。金長の血を引く若狸は――。


 どうやら、この理不尽を黙って見過ごすつもりはないらしかった。




【沈黙の狸】


 剣山を渡る風が、地下穴の前を静かに吹き抜けていく。洞穴を覆う青白い結界は、今にも消えそうなほど弱々しくなっていた。


 空中を巡る古い霊紋はところどころ欠け落ち、その隙間から漏れ出した霊気が白い糸のように揺れている。封印は限界に近い。


 それは、この場にいる誰の目にも明らかだった。


 先ほどまで続いていた議論も終わり、各勢力は最後の準備に取り掛かっている。木御門陰陽衆。石鎚修験衆。古剣寺。天狗衆。そして、妖狐や山犬を中心とする山の妖たち。


 各勢力より五名。合計二十五名。結界が消えた瞬間、一斉に地下へ踏み込むことが決まっていた。誰も異議を唱えない。いや、唱えられない。その決定は、すでに強者たちの間で終わった話だった。


 大木の陰では、六右衛門狸の一族が黙ってその様子を見守っている。


 誰一人として口を開かない。徳姫は俯き、小さな前足をぎゅっと握り締めていた。老狸たちは傷だらけの身体を丸め、乾きかけた血のこびりつく毛並みを静かに舐めている。その姿は痛々しかった。


 その光景を見つめながら、千蔵はふさふさの尻尾が左右に揺れていたが、不意にその動きが止まる。


 正雪はそっと横顔を見た。普段の千蔵なら違う。地下穴を見つめながら、必死に何かを考えている。怒りと迷い。


 その両方が入り混じっているのが分かった。やがて千蔵は小さく息を吸う。そして意を決したように立ち上がった。


 「待つんじゃ!」


 甲高い声が山に響いた。思いのほかよく通る声だった。地下穴の前にいた者たちが一斉に振り返る。


 千蔵は怯まない。一歩。また一歩。堂々と前へ進んでいく。


 正雪も紗綾も思わず身を乗り出した。だが止めなかった。いや、止められなかった。二人はただ、その小さな背中を見守る。


 千蔵は地下穴を指差した。


 「その話、おかしいじゃろ!」


 山犬たちが顔を見合わせる。妖狐たちは面白そうに目を細めた。だが千蔵は構わない。


 「四大勢力が入る。妖たちも第五の勢力として入る。それは勝手に決めればええ。」


 一度言葉を切る。そして腹の底から叫んだ。


 「じゃが、この地下穴は誰のもんじゃ!」


 一瞬。辺りが静まり返った。千蔵は振り返り、六右衛門狸たちを指し示す。


 「代々この山を守ってきた狸たちの場所じゃ!その子孫が一匹も入れんとは、どういう理屈じゃ!」


 徳姫が目を見開く。老狸たちも驚いたように顔を上げた。信じられないものを見るような目だった。まさか、自分たちのために声を上げる者が現れるとは思っていなかったのだ。


 天狗衆の長・風伯坊が腕を組む。


 「……ほう。」


 古剣寺の玄海法師も静かに目を細めた。千蔵は胸を張る。


 「俺は金長狸の子孫じゃ!」


 その言葉に場がざわついた。金長。六右衛門。勝浦川。剣山周辺に生きる者なら知らぬ者はいない名である。


 かつて激しく争った二大狸。その金長の血を引く者が、今、六右衛門のために立ち上がっている。


 千蔵はさらに声を張り上げた。


 「昔、確かに金長様と六右衛門様は争った!じゃが――」


 その時だった。


 「がはははは!」


 山を揺るがすような笑い声が響く。山犬の長、黒歯だった。巨大な身体を揺らしながら前へ出る。


 「何を言い出すかと思えば。」


 黒歯は鼻で笑った。


 「金長の子孫が六右衛門を庇うじゃと?」


 周囲から失笑が漏れる。


 「敵同士だったことなど子どもでも知っとる。」


 黒歯は牙を見せた。


 「それとも何か?実は仲良しでした、とでも言うつもりか?」


 妖狐たちが笑う。山犬たちも笑った。その笑いは大木の陰にまで届く。千蔵は言葉を失った。本当のことを話せばいい。勝浦川の真実を。妖王の出現を。


 山を守るため、金長と六右衛門が争いを捨てて肩を並べたことを。命を懸けて戦ったことを。


 そうすれば徳姫たちを救えるかもしれない。だが――。その秘密は金長一族が代々守り続けてきたものだった。


 妖王。封印。そして伝説の霊剣。もし真実がこの場で明かされれば。地下穴を巡る争いなど比べものにならないほどの欲望が、この山を飲み込むだろう。


 千蔵の拳が震えた。


 「俺は……」


 言葉が続かない。


 黒歯がさらに近づく。


 「何じゃ。続きがあるなら聞いてやるぞ。」


 千蔵は唇を噛み締めた。言えない。そして分かっていた。仮に昔話を語ったところで何になる。


 同情を求めるのか。理屈で強者を説得するのか。そんなものが通じる相手なら、最初から六右衛門狸たちは追い出されていない。


 力なき正論は風より軽い。少なくとも、この場所では。千蔵は立ち尽くした。


 悔しさだけが胸の中で渦を巻く。その時だった。正雪が静かに立ち上がる。何も言わない。ただ千蔵の肩に手を置いた。


 そして、そのまま一族のもとへ連れ戻す。


 「千蔵。」


 短い一言。それだけだった。だが十分だった。千蔵が振り返る。


 正雪は静かに頷いた。その瞳には責める色はない。むしろ、その勇気を認めていた。そして、ゆっくり首を横に振る。


 ――話すな。


 ――今は違う。


 その眼差しがそう告げていた。。


 千蔵は目を閉じる。しばらく黙ったまま立ち尽くし、やがて小さく息を吐いた。そして何も言わず、徳姫たちの隣へ腰を下ろす。


 徳姫も何も尋ねなかった。老狸たちも静かに頭を垂れる。


 黒歯は肩をすくめた。


 「……ちっ、弱虫め。」


 だが千蔵は振り返らない。


 鬼童坊行円が錫杖を持ち上げた。


 「話は終わりじゃ。」


 その瞬間だった。――ぱきり。青白い結界に大きな亀裂が走る。空気が震えた。霊紋が次々と砕け散り、無数の青い光となって宙を舞う。


 「結界が破れるぞ!」


 誰かが叫んだ。次の瞬間。轟音とともに封印が崩壊する。


「行くぞ!」


 風伯坊が翼を広げて飛び立つ。鬼童坊行円が真っ先に駆け出した。玄信は式神を放ち。玄海法師は背の古剣を静かに抜き放つ。


 第五勢力の妖たちも一斉に動いた。二十五の影が競うように地下の闇へ吸い込まれていく。誰もが宝を求め。霊剣を求め。誰より先に栄光を掴もうとしていた。土煙が舞い上がる。


 そして。しばらくすると、入口は再び静寂を取り戻した。残されたのは――。


 六右衛門狸の一族。正雪たち。そして入る資格すら与えられなかった弱き者たちだけだった。


 誰も言葉を発しない。ただ闇へ続く穴だけが、ぽっかりと口を開けている。


 千蔵はその暗闇を見つめた。やがて、小さく呟く。


 「……金長様。」


 その声は風に溶けた。誰の耳にも届かないほど小さかった。だが正雪だけは聞いていた。千蔵が悔やんでいるのは、自分が地下へ入れなかったことではない。


 守るべき約束を守った代わりに、守りたい者たちを救えなかったことだ。正雪は地下穴へ視線を向ける。二十五人の強者たちは誇らしげに闇へ消えていった。


 剣山を渡る冷たい風が、再び吹き始めた。


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