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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第48話 金長の約束

【金長の約束】


 徳姫の案内を受け、正雪たちは六右衛門狸の里を目指して剣山の山道を進んでいた。


 先ほどまで穏やかだった森も、いつしか空気を変えている。枝先で囀っていた小鳥の声は遠のき、時折吹き抜ける風が、木々の梢をざわりと揺らすばかりだった。


 徳姫は先頭を歩きながら、何度も後ろを振り返っている。一族の里が心配なのだろう。その不安そうな姿を見ていた正雪は、ふと隣を歩く千蔵へ目を向けた。


 先ほどから、この小狸は妙に静かだった。


 普段なら山道を駆け回り、木の実を見つけては騒ぎ、翠夏と言い合いを始めるはずなのに、今日は黙ったまま前を見つめている。


 正雪は、少し考えてから口を開いた。


 「千蔵、一つ聞いてもいいか。」


 千蔵は尻尾を揺らしながら振り向いた。


 「なんじゃ?」


 「お前は、金長狸の子孫なんだろう。」


 その言葉に、徳姫の肩がぴくりと震えた。


 正雪は続ける。


 「六右衛門狸は、金長狸の宿敵だったと聞いた。昔、大戦を繰り広げた相手の一族だ。その姫を助けようというのか。」


 山道に、小さな沈黙が落ちた。


 千蔵はすぐには答えなかった。しばらく落ち葉を踏みしめながら歩き、それから小さく笑った。


 「それを話すとな。」


 少し空を見上げる。


 「ずいぶん長い話になる。」


 翠夏が河童の壺から顔を出した。


 「どうせ歩くんだから、ちょうどいいじゃない。」


 千蔵は苦笑しながら頷いた。


 「そうじゃな。人間たちは、昔話の前半しか知らんのじゃ。」


 正雪たちは黙って耳を傾けた。


 千蔵の声は、いつもの調子とは違い、どこか孫に昔話を聞かせる祖父のように穏やかだった。


 「確かに、金長様と六右衛門様は敵じゃった。何度も戦をした。それは本当じゃ。狸というものは、一度意地を張ると、なかなか引っ込みがつかん。」


 徳姫も静かに頷いた。その話は、六右衛門一族にも伝わっているのだろう。


 千蔵は続けた。


 「ところが、最後の勝浦川の戦で、とんでもないことが起きた。」


 風が吹いた。木漏れ日が揺れる。


 「戦の最中じゃ。山の奥深くから、封じられていた妖王が目を覚ました。」


 その言葉に、正雪の表情が変わる。妖王。最近、自分たちの周りで起きた出来事が、不意に頭を過った。


 千蔵は遠い昔を見るように語る。


 「最初は誰も信じなかったそうじゃ。敵を騙す作り話だと思ったらしい。だが、山が揺れた。谷が裂けた。戦っていた狸たちを見境なく妖魔が襲い始めた。」


 その頃の光景を想像したのか、徳姫は小さく身を縮めた。


 「その時じゃ。」


 千蔵は足を止めた。


 「金長様も、六右衛門様も、すぐに戦をやめた。」


 正雪は静かに聞き返す。


 「敵同士なのにか。」


 千蔵は当たり前のように頷いた。


 「敵だからじゃ。」


 その言葉に、一同は少し驚いた。千蔵は笑った。


 「狸には、代々伝わる教えがある。」


 胸を張る。


 「山は、争いより重い。」


 「どれほど仲が悪くても、どれほど喧嘩をしていても、山が滅ぶなら力を合わせろ。それが狸の掟じゃ。」


 森を渡る風が、少しだけ強くなった。


 「だから金長様と六右衛門様は、互いを敵と呼ぶのをやめた。」


 「そして、一緒に妖王と戦った。」


 千蔵の声が少し低くなる。


 「その戦いは、死闘だったそうじゃ。」


 何人もの狸が倒れた。妖王を封じるため、多くの命が散った。


 そして最後に。六右衛門が命を賭けて妖王を押さえ込み。金長が最後の封印を完成させた。


 妖王は封じられた。しかし、その代償として。六右衛門は戦死した。金長も深手を負い、故郷へ戻ったものの、ほどなくして静かに息を引き取ったという。


 しばらく誰も口を開かなかった。


 やがて紗綾が、静かに尋ねる。


 「でも、その話は伝わっていない。」


 千蔵は頷いた。


 「伝えなかったんじゃ。」


 「金長様は、茂右衛門様にも本当のことを話さなかった。」


 正雪は眉をひそめた。


 「どうしてだ。」


 千蔵は首を傾げた。


 「それは、わしにも分からん。」


 少し考えてから続ける。


 「ただ、一つだけ昔から言われておる。妖王のことには、霊剣が関わっていたという話じゃ。」


 正雪と紗綾は顔を見合わせた。また霊剣。六右衛門の財宝。そして今、妖王。まるで見えない糸が、一つの場所へ向かって伸びているようだった。


 千蔵は苦笑した。


 「もし、そのことまで世に知れたら、茂右衛門様まで戦いに巻き込まれる。」


 「だから金長様は、妖王も、霊剣も、自分と六右衛門様だけの秘密にしたんじゃないかと言われておる。」


 徳姫が小さく呟く。


 「私たちの一族にも、似た話が残っています。」


 彼女は胸元を握りしめた。


 「六右衛門様は、財宝ではなく、いつか山を救うための秘密を守ったのだ、と。」


 正雪は、十日前に開いたという巨大な穴を思い浮かべた。


 六右衛門の堂。隠された財宝。伝説の霊剣。そして、妖王。もし千蔵の語る伝承が真実なら。あの穴の底には、金銀より遥かに価値あるものが眠っているのかもしれない。


 千蔵は、不意に立ち止まった。そして徳姫を見た。小さな姫狸は、不安そうな瞳でこちらを見つめている。


 千蔵は照れくさそうに頭を掻いた。


 「だからな。」


 少しだけ胸を張る。


 「わしが助けるのは、六右衛門の一族だからじゃない。」


 徳姫が目を丸くした。


 「金長様が命を預けた相手の子孫だからじゃ。」


 その言葉に、徳姫の瞳が静かに潤んだ。


 「それに。」


 千蔵は、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべる。


 「ご先祖様同士が最後には仲直りしたのに、子孫がいつまでも喧嘩しておったら、天国で笑われるじゃろ。」


 その言葉に、重かった空気が少しだけ和らいだ。正雪も思わず笑みを浮かべる。


 どうやら、この小狸は、自分たちが思っていた以上に立派な狸だったらしい。そして、千蔵は再び山道の先を指さした。


 「あの穴には、六右衛門様が守った秘密が残っているかもしれん。」


 尻尾を大きく振る。


 「妖王のことも、霊剣のことも、そして金長様が隠した理由も。全部、その先にあるかもしれんのじゃ。」


 剣山の森を、一陣の風が吹き抜けた。


 それは、遠い昔に勝浦川で肩を並べて戦った二匹の大狸が、時を越えて子孫たちを見守っているかのような、どこか懐かしく温かな風だった。


 正雪は剣の柄にそっと手を置く。財宝を求めるためではない。伝説を確かめるためでもない。山を守るという、敵同士だった二匹の大狸が最後に選んだ約束を知るために。


 そして、その約束が今も生きているのなら、自分たちもまた、その縁に応えるために。一行は足を止めることなく、六右衛門の里へと続く深い山道を進んでいった。




【地下穴の前に】


 剣山の深奥――。


 六右衛門狸を祀る古堂の前は、もはや一族だけの聖地ではなかった。山そのものの運命を左右するかのような重苦しい緊張が、その一帯を静かに支配している。


 古堂の背後には、巨大な地下穴が口を開けていた。山肌を丸ごと抉り取ったかのような大洞穴。その内部は闇に沈み、底知れぬ深みへと続いている。


 この洞穴は元々、天然の鍾乳洞だった。だが代々の六右衛門狸たちが少しずつ掘り広げ、祖先の財宝や秘法を守るための隠れ里として整えたと伝えられている。


 長い年月、人知れず眠り続けてきた場所。その地下穴が十日ほど前、何の前触れもなく目覚めた。


 今、洞穴の入口には青白い結界が張られている。半球状の光の膜。古びた霊紋が空中を漂いながら巡り、淡い輝きを放っていた。


 試しに投げられた小石が触れるたび、――ぱちり。青い火花が散る。弾き返された石は地面を転がり、乾いた音を響かせた。


 誰一人として中へ踏み込めない。


 しかし、その封印の力は確実に衰えていた。数日前には昼の太陽にも負けぬほど輝いていた結界も、今では目を細める程度の明るさしか残っていない。


 遅かれ早かれ消える。


 そして、その瞬間こそが本当の始まりだった。この場に集まった者たちは皆、それを理解している。


 地下穴を囲むように、山の諸勢力が静かに陣を敷いていた。


 赤松林の下には妖狐たち。黄金の瞳を細め、揺れる尾の先で周囲を探っている。


 岩場を占拠しているのは山犬の群れだった。低い唸り声を漏らしながら、他勢力を威嚇している。


 さらに高い崖の上。そこには翼を休めた天狗たちの姿があった。腕を組み、風の流れを読むような鋭い眼差しで地下穴を見下ろしている。


 木陰には陰陽師たちが控えていた。白い浄衣に紫の指貫。黒漆の烏帽子。腰には守刀と檜扇。胸には法数珠。都の陰陽寮に連なる名門――木御門家の精鋭たちである。霊剣の調査のため、はるばる京から派遣されてきた者たちだった。


 一方で、山の修験者たちも負けてはいない。法螺貝を背負い、錫杖を携えた屈強な修行者たち。剣山を古くから守り続けてきた石鎚修験衆である。険しい山々を修行場とし、妖を祓い、災厄を鎮めてきた一派だ。


 さらにその隣。藍色の法衣をまとった僧侶たちが並ぶ。背には大小二振りの剣。袖には古びた剣紋。妖を斬り、怨霊を封じる退魔の寺――古剣寺の一門だった。


 どの勢力も互いに一定の距離を保っている。


 視線は交わる。だが争いは起きない。無駄な消耗を避けるためだ。


 本当に欲しいものは、この地下深くに眠っている。誰もがそれを知っていた。


 その喧騒から少し離れた大木の陰。そこだけが別世界のように静まり返っていた。


 小さな狸たちが身を寄せ合っている。六右衛門狸の一族だった。本来ならば、この古堂も、この地下穴も。すべて彼らの祖先が守り伝えてきた聖域である。


 だが今、その事実を気に掛ける者はほとんどいなかった。


 徳姫は黙ってその光景を見つめている。里を飛び出した頃より、その瞳には深い寂しさが宿っていた。


 そんな中、千蔵は何も言わず狸たちのもとへ歩いていく。まるで昔からの知り合いに会うかのように自然な足取りだった。


 そして、一族の隣に腰を下ろす。


 紗綾も続いた。正雪も河童の壺を背負ったまま、その輪へ加わる。


 正雪は徳姫へ向かって穏やかに言った。


 「待たせたな。」


 一呼吸置く。


 「まずは慌てず、状況を見よう。」


 それだけだった。だが、その言葉を聞いた瞬間。徳姫の瞳がわずかに潤んだ。六右衛門狸たちも静かに頭を下げる。


 老いた狸たちもいた。傷だらけの前足を舐めながら、正雪たちへ視線を向けようともしない。


 期待していないのだ。いや――。期待することを、ずっと前に諦めてしまっていた。


 人間が二人。若狸が一匹。その程度の戦力で、この場に集まる数多の強者へ抗えるはずがない。


 誰も口にはしない。だが、その諦めは冷たい霧のように一族全体へ広がっていた。


 周囲の勢力も彼らを一瞥しただけだった。弱い者同士が集まった。その程度の認識なのだろうか。


 正雪たちも騒がない。今は争う時ではない。まず、この場を見極めることが先だった。


 やがて一人の老人が結界の前へ進み出た。白い浄衣。袖には星紋。しかも高位の陰陽師だけに許される特別な紋だった。


 木御門家長老――玄信。その姿が現れると、周囲は不思議なほど静まり返った。


 玄信は青白い結界を見つめながら語り始める。


 「皆々方も御覧の通り、この結界は間もなく役目を終えます。」


 穏やかな声だった。しかし、その一言には重みがある。


 「その先に眠るものが財宝なのか、伝説の霊剣なのか。それとも災厄そのものなのか、まだ誰も知りませぬ。」


 老人は周囲を見渡した。


 「何も見つからぬうちから争えば共倒れになるだけ。それは誰にとっても得策ではありますまい。」


 多くの者が静かに頷いた。


 今度は古剣寺の長老、玄海法師が前へ出る。白い眉を揺らしながら洞穴を見つめた。


 「寺の秘術で探ったところ、この地下には極めて広大な空間が広がっておる。」


 低い声が響く。


 「しかし構造は脆い。一度に大勢が踏み込めば、洞窟そのものが崩落する危険がある。」


 周囲へ視線を向ける。


 「欲に任せて押し寄せるより、人数を絞る方が賢明じゃろう。」


 その時だった。大きな影が空から舞い降りる。白羽を持つ老天狗。天狗塚を束ねる風伯坊だった。


 「儂も同じ考えじゃ。」


 豪快な声が響く。


 「弱き者が入れば宝を見る前に命を落とすだけ。しかし、だからといって天狗衆が退く理由もない。」


 あちこちから苦笑が漏れる。さらに石鎚修験衆の長、鬼童坊行円が錫杖を地へ突き立てた。


 ――ゴンッ。鈍い音が山中へ響く。


 「ならば話は早い。」


 行円は言った。


 「先陣を務めるのは力ある者のみ。」


 その目が各勢力を見渡す。


 「天狗衆、石鎚修験衆、土御門陰陽衆、そして古剣寺。」


 「まずは我ら四勢力が地下へ入る。他の者は外で待つ。それが山を乱さぬための理であろう。」


 四大勢力から賛同の声が上がる。


 だが妖狐たちは眉をひそめた。山犬たちは低く唸る。力ある妖たちも互いに視線を交わしている。


 誰もが計算していた。従うべきか。それとも力ずくで奪うべきか。


 その喧騒の中。六右衛門狸たちだけは静かに俯いていた。祖先を祀る堂。代々守り続けてきた土地。


 それなのに。この場で彼らへ意見を求める者は、一人もいない。徳姫は小さな拳を握り締めた。千蔵も黙ったままだ。その横顔を見ながら、正雪もまた口を開かなかった。


 四大勢力の言い分には理がある。危険な場所なら、実力ある者が先に入るべきだろう。それは理解できる。


 だが。この場所は誰が守ってきた土地なのか。誰の祖先が築いた聖域なのか。六右衛門狸たちではなかったのか。その子孫が最初から蚊帳の外へ追いやられている。


 理屈は正しい。しかし、どこか根本的に間違っている。正雪は静かに地下穴を見つめた。そして胸の内で、一つの現実を噛み締める。


 この世界では――正しさだけでは何も守れない。力がなければ故郷を奪われ、誇りを奪われ、先祖が眠る土地さえ奪われる。


 公平を語る資格すら、強者だけに与えられる。


 冷たい山風が吹き抜けた。青白い結界が、また一つ輝きを失う。地下深くに眠るものが宝か災厄か。まだ誰にも分からない。


 ただ一つ確かなことがあった。結界が消えるその時。この地下穴を巡る争いは、もはや言葉だけでは収まらない。剣山の運命を賭けた戦いが、静かに幕を開けようとしていた。


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