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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第47話 六右衛門の姫

【山道の贈り物】


 大剣神社を後にした正雪たちは、再び剣山の奥深くへと歩みを進めていた。


 振り返れば、冠岩の巨影は薄い山霧の向こうに霞み、あの不思議な社も、いつの間にか森へ溶け込むように姿を隠している。


 しかし、一行の胸には、山商人との出会いが不思議な余韻を残していた。


 あれが本当に人だったのか。それとも山に棲む神や妖の類だったのか。誰にも分からなかった。


 もっとも、そんな難しいことをいつまでも考えている者は、この一行にはあまりいなかった。


 真ん中を歩く紗綾は、小さな包みを何度も開いては、中身を眺めている。やがて陽の光へかざしながら、満足そうに微笑んだ。


 「やっぱり、この櫛を選んで良かった。派手じゃないけど、なんだか祖谷の春を思い出すの。」


 その櫛は山桜の木を削って作られたものだった。淡い木肌には小さな蝶が幾つも彫り込まれ、職人の手仕事らしい温かみがある。


 正雪も横から覗き込み、「確かによく似合ってる」と素直に感心した。


 その言葉に紗綾は少し照れくさそうに笑い、慌てて包みへ戻した。


 一方、正雪の背に揺れる河童の壺では、梨花も自分の土産を大切そうに抱えていた。


 黒檀で作られた小さな櫛で、飾り気は少ないものの、表面には水面へ広がる波紋のような細工が施されている。


 梨花は静かに指先で模様をなぞりながら、


 「私は、こっちの方が好き。派手なものより、川の流れみたいで落ち着くもの。」


 と、小さく微笑んだ。その様子を見て、正雪も自然と笑みを浮かべる。


 大剣神社を発つ前、せっかくの縁だからと、仲間たちへ土産を選ばせたのだ。もちろん、霊宝のような高価な品ではない。どれも金貨で買える、ごく普通の工芸品だった。


 それでも、不思議なことに、護符や法具を手にした時より、皆の表情はずっと明るかった。


 そんな様子を見ていた翠夏が、河童の壺の縁へ身を乗り出した。


 「いいなぁ。私も櫛が欲しかったな。」


 その呟きに、梨花が思わず笑みを零した。


 「翠夏って、櫛を使うの?」


 予想外の問いだったのか、翠夏は一瞬だけ固まる。それから胸を張り、


 「もちろん使うよ。仙蛙だって身だしなみは大事なんだから。美しい蛙は幸運を呼ぶっていうでしょ。」


 と、少し得意げに言い返した。


 紗綾は吹き出し、正雪も苦笑しながら壺の蓋を軽く叩いた。


 「次に山商人へ会えたら、翠夏の分も探そう。」


 すると翠夏は、さっきまでの不満など忘れたように目を輝かせた。


 「約束だよ。今度は絶対だからね。」


 そのやり取りを眺めながら、正雪は腰の袋へそっと手を添えた。中には、まだ金貨が残っている。霧獣法流で積み重ねてきた蓄えだった。


 つい最近まで、自分はそれなりに裕福だと思っていた。だが、大剣神社で山商人と出会い、その考えは少し変わった。


 修仙者の世界では、金貨よりも霊石の方が遥かに価値がある。修行を助け、霊力を補い、時には命さえ救う。貴重な霊薬や法具も、霊石がなければ手に入らないものばかりだ。


 商人は笑いながら話していた。


 理屈の上では、金と霊石を交換することもできる。しかし、霊石を持つ者は大抵、金に困っていない。だから実際には、そんな取引が成立することは滅多にないのだと。


 歩きながら考えるほど、その言葉の重みが胸へ染み込んでくる。


 凡人には金。修仙者には霊石。自分たちは、ようやくその世界の入口へ足を踏み入れたばかりなのだ。


 正雪は空を見上げ、小さく決意を固めた。いつか、自分の力で霊石を手に入れる。


 それは富を求めるためではない。もっと強くなるため。仲間を守るため。そして、いつか必ず訪れる笹林家との戦いに備えるためだった。


 そんなことを考えていると、先頭を歩いていた千蔵が突然立ち止まり、大きく尻尾を振った。


 「おーい! こっちじゃ、早く来い!」


 一行が追いつくと、その先には巨大な岩壁が立ちはだかっていた。


 いや、よく見ると一枚岩ではない。巨大な岩山が、真っ直ぐ中央から断ち割られている。


 まるで天から降った何者かが、一振りの大剣で山を斬り裂いたようだった。切り口は滑らかで、とても自然にできたものとは思えない。


 紗綾は思わず息を呑んだ。


 「こんなもの、本当に自然にできるの?」


 千蔵は得意そうに鼻を鳴らした。


 「剣山には昔から色んな話があるんじゃ。仙人が斬ったとか、天狗が剣の稽古をした跡だとか、山伏同士が大喧嘩をしたとか。」


 翠夏が壺から顔を出し、


 「最後だけ急に現実味があるね。」


 と言うと、千蔵は肩をすくめた。


 「狸の話なんて、半分は本当で半分は嘘じゃ。どっちが本当か分からんから面白いんじゃないか。」


 その言葉に、一同は思わず笑った。千蔵は勢いよく岩の裂け目へ飛び込み、


 「ほれ、ついてこい!」


 と叫ぶ。


 正雪たちも後を追った。裂け目は思った以上に狭く、両側の岩壁は空を隠すほど高い。ひんやりとした空気が流れ、足元の石は冷たく、外の世界とは切り離されたような静寂が支配していた。


 しばらく歩くと、不意に視界が開けた。青空だった。暗い岩間を抜けてきたせいか、その青はどこまでも深く、吸い込まれそうなほど澄んでいる。


 森には湿った土と古木の香りが漂い、長い年月をかけて積もった落ち葉が地面を覆っていた。その上を歩くたび、柔らかな音が響く。まるで森が、自分たちのために絨毯を敷いてくれたかのようだった。


 正雪と紗綾は並んで歩き、河童の壺は背中で静かに揺れている。その中では、翠夏と梨花がのんびり景色を眺めていた。


 だが、千蔵だけは相変わらず落ち着きがない。木に飛び乗り、岩を駆け回り、時折、ちらちらと壺を見ている。


 とうとう翠夏が気付いた。


 「ねえ、さっきから壺ばっかり見てるけど、そんなに気になるの?」


 千蔵は慌てて目を逸らしたものの、すぐに観念したように頭を掻いた。


 「ちょっと気になるだけじゃ。その壺、本当に中が広いのか?」


 翠夏は得意そうに胸を張る。


 「広いよ。外から見るより、ずっと広い。でも、水ばっかりだから狸には住めないかな。」


 千蔵は目を丸くした。


 「水しかないのか? それじゃ蛙でも溺れるぞ。」


 すると翠夏は少し頬を膨らませ、


 「ちゃんと足場くらいあるよ。水草もあるし、蓮の葉も浮いてる。心配してくれたのは嬉しいけど。」


 と答えた。


 千蔵は腕を組み、


 「なんじゃ、それなら少しくらい面白そうではないか。」


 と言ったかと思えば、翠夏はすぐに言い返す。


 「でも狸は入れないよ。」


 「別に入りたくなんかない!」


 「本当かな?」


 「本当じゃ!」


 二人はまた始まった、と言わんばかりに言い合いを始める。


 その様子を見ながら、梨花は静かに微笑み、紗綾は肩を震わせて笑っていた。


 正雪もまた、穏やかな空を見上げる。熊野渡での死闘。幽世の門。安道成。笹林家。いずれまた厳しい戦いが待っているだろう。


 それでも、今だけは。こうして仲間たちと笑いながら山道を歩く時間が、何よりも尊く思えた。


 「こっちじゃ、こっち!」


 山の狸らしく、知らないはずの山道さえ我が家の庭のように駆け回る千蔵が、元気いっぱいに仲間たちを導いている。


 その後ろを、正雪たちは笑い声を交わしながら歩いていく。


 剣山の森は静かだった。だが、その静けさの中に孤独はない。


 正雪はふと気づいていた。自分が歩んでいるのは、もはや一人きりの修行の道ではない。


 人と出会い、妖と縁を結び、時に助け、時に助けられながら歩む、賑やかで温かな修仙の旅へと、いつの間にか変わっていたのである。




【六右衛門の姫】


 剣山の山道は、昼を過ぎる頃になると、朝の賑わいが嘘だったかのように静まり返っていた。


 頭上には、何百年も生きてきたのであろう古木が枝を重ね、木漏れ日が落ち葉を黄金色に照らしている。風が吹けば梢が揺れ、その隙間から差し込む光も、まるで水面のようにゆらゆらと揺れ動いた。


 正雪たちは、そんな山道をゆっくりと歩いていた。


 先頭を行く千蔵は、相変わらず落ち着きがない。木の根を飛び越え、岩へ登り、見つけた木の実を誇らしげに見せては、また駆け出していく。


 その後ろでは、正雪と紗綾が穏やかに並んで歩き、正雪の背に揺れる河童の壺からは、翠夏と梨花が時折顔を覗かせて、山の景色を楽しんでいた。


 先ほどまで続いていた、壺の中が広いだの狭いだのという言い争いの余韻も残っており、一行には久しぶりの穏やかな空気が流れていた。


 だが、その静寂は、不意に山奥から響いた一つの悲鳴によって破られる。


 「助けて……! お願い、助けて!」


 高く澄んだ少女の声だった。しかし、その声には、切羽詰まった恐怖が滲んでいる。


 千蔵の耳が、ぴくりと動いた。それまで陽気に歩いていた狸の表情が、一瞬で真剣なものへ変わる。


 「狸の声じゃ!」


 そう叫ぶなり、千蔵は岩を蹴って森の奥へ飛び込んだ。正雪たちも互いに目を合わせることなく、その後を追う。


 木々を掻き分け、落ち葉を踏みしめて進むと、やがて一匹の小柄な狸が転ぶように飛び出してきた。


 栗色の柔らかな毛並みは泥に汚れ、小さな肩には引っ掻かれた傷がある。それでも懸命に前へ進もうとし、何度も振り返りながら走り続けていた。


 そして、その後ろには三匹の山犬が迫っていた。


 普通の犬とは比べものにならないほど大きな身体。鋭い牙を剥き、獲物を追い詰める獣の目をしている。


 千蔵は迷わなかった。小さな身体を精一杯大きく見せるように雌狸の前へ飛び出し、胸を張って立ちはだかる。


 「安心するんじゃ! ここから先は通さん!」


 その声には勇ましさがあった。


 しかし、相手は三匹。


 しかも、山で幾度も争いを潜り抜けてきた妖犬だった。


 先頭の一匹は、千蔵を見て鼻を鳴らすと、躊躇なく前足を振るった。鈍い音が響く。千蔵は受け止めきれず、そのまま地面を転がった。


 「千蔵!」


 正雪が駆け出す。紗綾も同時に腰の短刀を抜き、静かに間合いを詰めた。


 三匹の山犬は、人間が現れても怯む様子はない。むしろ牙を剥き、低く唸りながら威嚇してくる。


 正雪は静かに剣を抜いた。白い刃が木漏れ日を受けて、森の中で鋭く輝く。彼は山犬たちを見据えながら、穏やかな声で口を開いた。


 「事情は知らないが、三匹で一匹を追い回す姿を見過ごす趣味はない。ここで引くというのなら、それ以上は追わない。」


 紗綾も正雪の隣へ並び、静かに続けた。


 「私たちも無駄な争いは望んでいません。でも、この子に手を出すつもりなら、ここを通すわけにはいかない。」


 三匹の山犬は互いに顔を見合わせた。一瞬だけ迷ったようにも見えた。しかし、やがて一匹が低く吠える。その声には、退く意思など微塵もなかった。


 正雪は、小さく息を吐いた。


 「……そうか。」


 次の瞬間、森の空気が動いた。正雪が一歩踏み込み、剣が閃く。鋭い一撃が山犬の前足を掠め、相手の動きを止める。


 その隙を縫うように紗綾が木々の間を駆け、蝶が花を渡るような身軽さで二匹目の側面へ回り込んだ。


 千蔵も負けてはいない。


 先ほど転がされた悔しさを晴らすように飛び上がり、大声で吠えながら飛びかかる。


 三匹の山犬は数では勝っていた。


 しかし、正雪たちは互いの動きをよく理解していた。


 正雪が正面を抑え、紗綾が死角を突き、千蔵が隙を作る。次第に形勢は傾き始めた。一匹の耳が裂け、もう一匹の前足が傷つき、最後の一匹も後退を余儀なくされる。


 やがて三匹は悔しげに牙を鳴らした。それでも勝ち目はないと悟ったのだろう。深く唸り声を残しながら、森の奥へ姿を消していった。


 静寂が戻る。


 千蔵は慌てて雌狸の側へ駆け寄った。


 「怪我はないか? もう大丈夫じゃ。」


 雌狸は何度も息を整え、震える身体を落ち着かせると、深々と頭を下げた。


 「助けていただき、本当にありがとうございました。」


 その仕草には、山に暮らす狸とは思えないほどの気品があった。


 千蔵は不思議そうに首を傾げる。


 「お主、どこの狸なんじゃ?」


 雌狸は少しだけ迷うように視線を伏せた。やがて意を決したように顔を上げる。


 「私は徳姫と申します。六右衛門狸一族の末裔です。」


 その名を聞いた瞬間、千蔵の目が丸くなった。正雪も祖谷へ来てから何度か耳にした伝説を思い出す。


 六右衛門。


 かつて剣山一帯を治め、金長狸と並び称された大狸。


 徳姫は静かに語り始めた。


 「私の祖父、六右衛門様は、遠い昔、金長狸との大戦で命を落としました。その日を境に、一族は少しずつ力を失い、山を守ることも難しくなりました。仲間は散り、縄張りは奪われ、今では細々と暮らすだけの日々が続いていたのです。」


 その言葉には、恨みよりも長い歳月を経た寂しさが滲んでいた。だが、一族の運命は十日前、再び大きく動いたという。


 六右衛門を祀る古い堂の裏山が、突然、大きく崩れ落ちた。底の見えない巨大な穴。まるで山が自ら口を開いたようだった。


 その噂は瞬く間に剣山中へ広がった。昔から語り継がれてきた伝承。六右衛門は莫大な財宝を山へ隠した。


 金銀だけではない。霊石。古い法具。失われた秘術。そして近頃では、さらに奇妙な噂まで囁かれているという。


 徳姫は声を潜めた。


 「六右衛門様は、財宝だけではなく、伝説の霊剣へ至る手掛かりも封じたと伝えられています。そのため、今では狸だけでなく、妖狐も山犬も、天狗までもが山へ集まり始めました。」


 正雪と紗綾は静かに顔を見合わせた。


 霊剣。


 その言葉には、どこか笹林家や幽世の門を巡る出来事とも繋がる、不思議な重みがあった。


 徳姫は俯いたまま続ける。


 「一番狙われているのは、弱った私たち六右衛門一族です。私は、一族を助けてくださる方を探して、山を駆け回っていました。」


 深々と頭を下げる小さな姫狸を見つめながら、正雪は静かに息を吐いた。


 剣山へ入ってからというもの、山商人との出会い、霊石の話、伝説の剣、そして今度は六右衛門の隠し財宝。まるで、この山そのものが、自分たちを何か大きな運命へ導いているようだった。


 ふと横を見ると、千蔵はいつの間にか尻尾を大きく振りながら、すっかりその気になっている。


 「正雪! 考えるまでもないじゃろう。困っている狸がおるんじゃ。しかも六右衛門の姫じゃ! 早く里へ行って、一族を助けるぞ!」


 あまりにも真っ直ぐな言葉に、紗綾が思わず笑みを浮かべ、梨花も壺の中で小さく微笑んだ。


 正雪も苦笑しながら頷く。答えは、最初から決まっていたのかもしれない。


 剣山の深い森を、柔らかな風が吹き抜けた。


 その風は、遠い昔に戦いへ散った大狸・六右衛門が、旅人たちへ自らの血を引く小さな姫を託し、静かに見送っているかのようだった。


 そして正雪たちは、新たな縁に導かれるまま、六右衛門狸の里へ向かって歩き始める。


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