第46話 大剣神社・山の商人
【大剣神社・冠岩の神】
剣山の霊域へ足を踏み入れてから、正雪は何度も祖谷の山々を思い出していた。
祖谷にも深い森はあり、古い岩もあり、人の寄りつかぬ谷もある。しかし、そこには春の国らしい穏やかさがあった。
花は風に揺れ、渓流は歌うように流れ、たとえ妖が潜んでいたとしても、どこか人の営みを見守る優しさがあった。
だが、この剣山は違う。
山へ一歩踏み込むたび、空気の重さが増していく。霊気が濃い、という言葉だけでは足りない。まるで山そのものが生きていて、侵入者を静かに見つめているようだった。
空を覆う杉や檜は天へ向かってねじれ、幾百年を生きた古木には厚い苔が垂れ下がる。昼であるはずなのに木漏れ日は細く、森の奥には夕暮れのような影が広がっていた。
正雪は背中の河童の壺を軽く支え直した。壺の中からは、小さな水音が聞こえてくる。翠夏と梨花も、この山の異様な気配を感じ取っているのだろう。
隣を歩く紗綾も、普段のように石を蹴り飛ばして遊んではいたが、その瞳だけは絶えず周囲を見渡していた。
そして、先頭を歩くのは千蔵だった。子狸は岩を飛び越え、倒木を駆け上がり、時折振り返っては得意そうに尻尾を揺らしている。
その姿は、まるで山の案内役だった。祖谷の森で生まれ育っただけではない。この山々そのものと、不思議な縁を結んでいるように見えた。
やがて、一行は尾根へと辿り着いた。
吹き抜ける風が霧を押し流し、それまで隠れていた山々が姿を現す。
正雪は思わず息を呑んだ。
眼前には、一つではなく、幾つもの巨大な霊峰が連なっていた。鋭く天を突く峰。穏やかな稜線を描く峰。そして、巨大な何者かが腰を下ろしているような異様な姿をした峰。
千蔵は胸を張った。
「ここから先が剣山の領域じゃ。」
正雪は頷いた。祖谷を出るまでは、剣山という名の山が一つあるものだと思っていた。
しかし千蔵は、小さく鼻を鳴らした。
「半分正解で、半分間違いじゃな。」
小さな前足が、遠くの峰々を順番に指していく。
「あれが剣山。あっちが四嶺。そして、あの一番奥が天狗塚。」
「修験者や妖たちが言う剣山とは、この三つの霊峰を中心とした広大な霊域全体を指しておる。」
正雪は、しばらく言葉を失った。これほど広い山域なら、一生を費やしても歩き切れないかもしれない。
紗綾も、珍しく素直に感心していた。
「こんな場所なら、本当に仙人が隠れていても不思議じゃないね。」
千蔵は、待ってましたとばかりに尻尾を揺らした。
「昔はな、この山に宝を求めて大勢の人がやって来た。」
修験者。陰陽師。僧侶。山師。妖。
そして、一攫千金を夢見る旅人。身分も種族も違う者たちが、この山へ挑んだという。
翠夏が壺から顔を出した。
「本当に宝なんてあったの?」
「あるにはある。」
千蔵は素直に頷いた。
「霊草。霊石。古い法具。妖刀。珍しいものは、時々見つかる。」
しかし、その表情はすぐに曇った。
「じゃが、大半は下位の宝じゃ。本当に価値あるものを見つけた者は、ほとんどおらん。」
だから、今では宝探しに来る者も最盛期の半分ほどになったという。だが、人が絶えない理由が、一つだけあった。
千蔵は声を潜めた。
「剣山には、もう一つの伝説がある。」
一行は自然と足を止めた。
「山のどこかに結界がある。その中には、一振りの剣が封じられておる。」
風が吹いた。だが、その風さえどこか冷たかった。
「何百年も。何千年も。探し続けておる者がおる。」
「それでも、その結界を見つけた者はおらん。」
紗綾が静かに尋ねた。
「誰が作ったの?」
千蔵は首を横に振った。
「分からん。じゃが、古い狸たちはこう言う。」
その小さな瞳が、遠い空を見つめた。
「昔、この地には常世国から仙人が降り立った。その仙人が、剣を封じるために結界を築いたとな。」
翠夏も梨花も黙って聞いていた。
千蔵はさらに声を落とした。
「もっと大きな噂もある。その結界そのものが、常世国へ通じておるという話じゃ。」
正雪は黙ったままだった。
熊野渡。幽世の門。揚羽家の秘密。
今まで経験してきたことを思えば、仙人の国へ続く道があったとしても、もはや笑い話には思えなかった。
やがて、一行は再び歩き始める。
道の脇には、小さな祠が増えていった。苔に埋もれた石仏。崩れかけた鳥居。岩肌に刻まれた古い梵字。そして、ときおり感じる、人ではない何者かの視線。
千蔵は小さく言った。
「この山には、神も妖も住んでおる。修験者にも縄張りがある。勝手に踏み込めば、喧嘩になるぞ。」
翠夏は顔をしかめた。
「それ、もっと早く言ってよ……。」
千蔵は、けろりとして笑った。
「安心せい。まだ入口じゃ。」
そう言って、前方を指差した。一行の足が止まる。
霧の向こうに、巨大な岩がそびえていた。冠岩。まるで神が天から落とした剣の柄が、そのまま大地へ突き刺さったような巨石だった。
長い年月を経ても、その威容は少しも衰えていない。
そして、その麓には、小さな社が建っていた。あまりにも簡素だった。隠し通路もなければ、秘密の洞窟も見当たらない。
むしろ、誰にでも見える場所に堂々と建っている。
紗綾が不思議そうに呟いた。
「……これが大劔神社?」
正雪も同じ思いだった。
もし、ここに仙人の秘宝があるのなら、とっくの昔に誰かが持ち去っているはずだ。
社の扉には、古い文字が刻まれていた。
――天地悪縁人心生、現世良縁万物結。
正雪は意味を考えながら、そっと社の中を覗き込んだ。
奥は深くない。それなのに、妙に暗い。闇ではない。光そのものが吸い込まれているような、不思議な暗さだった。
さらに奇妙なのは、その静けさだった。鳥が鳴かない。虫の羽音も聞こえない。風さえ、この場所だけを避けるように流れている。
まるで、この社だけが現世から切り離され、別の世界へ半ば足を踏み入れているかのようだった。
その時だった。
――ちりん。
社の鈴が鳴った。誰も触れていない。風も吹いていない。それなのに、鈴は静かに揺れた。
たった一つの音色。
しかし、その一音は不思議な波紋となって、冠岩を伝い、森を抜け、谷を越え、剣山霊域の果てまで広がっていく。
正雪には錯覚とは思えなかった。
鈴が鳴いたのではない。山が応えたのだ。冠岩の奥深くで。幾千年もの眠りについていた何者かが、侵入者の訪れを知り、ゆっくりと目を開いたような気がした。
【山の商人】
――ちりん。
冠岩の麓に佇む小さな社。誰も触れていないはずの鈴が、風もない空気の中で静かに鳴った。
その音に、正雪は反射的に腰の剣へ手を添える。隣では紗綾の笑みが消え、袖の中へ指先が滑り込んだ。千蔵は全身の毛を逆立て、尻尾を大きく膨らませている。
壺の中では翠夏が慌てて身を縮め、梨花だけが静かに社を見つめていた。
誰も口を開かない。この静寂を破れば、何か得体の知れないものを呼び覚ましてしまう。
そんな奇妙な予感が、一行を包んでいた。
――ぎぃ。
古びた木戸がゆっくりと開く。
正雪は息を呑んだ。妖か。天狗か。それとも、この冠岩を守る神そのものか。
だが、現れたのはそのどれでもなかった。
ひとりの男だった。年の頃は四十前後。質の良い藍染めの着物に羽織を重ね、大きな風呂敷を背負っている。腰には算盤、肩には木箱。
どこにでもいそうな商人――そう見える。
だが、こんな山奥にいることだけが、どうにもおかしかった。
男は社の前で深々と頭を下げた。
「皆様、ようこそ剣山へ。」
その所作は実に丁寧で、城下町の老舗商人を思わせる。そして顔を上げると、にこりと笑った。
「回復薬、霊薬、護符、守札、旅の保存食、妖除けのお香、修験者向け法具まで。山歩きに必要な品は一通り取り揃えておりますよ。」
一同はしばし沈黙した。
最初に口を開いたのは紗綾だった。
「……商人?」
「ええ、商人でございます。」
男は嬉しそうに頷いた。
「こんな山奥で?」
「こんな山奥だからこそ、でございます。」
男は胸を張る。
「この先には村も店もございません。修験者も妖も、それぞれ縄張りを持っておりますゆえ、気軽に買い物などできませぬ。」
そう言って、人差し指を一本立てた。
「つまり――ここが最後のお買い物処。でございます。」
さらに笑みを深くする。
「今なら品揃えも豊富ですよ。買わずに進まれますと、後で後悔なさるかもしれません。」
あまりに堂々とした口上に、紗綾は思わず吹き出した。
「なんだか慣れてるね。」
「商売は場数でございます。」
男は胸を張った。
千蔵も感心したように頷く。
「昔から、人が集まるところには商売人がおる。英雄も修験者も、腹が減っては戦えんからの。」
商人は目を細めた。
「狸殿は世の理をよくご存じで。」
「当然じゃ。」
千蔵は鼻を鳴らす。
「祖谷最強の狸じゃからな。」
「また言ってる。」
翠夏が壺から顔を出した。
そのやり取りに、一行の肩から少しだけ力が抜ける。
正雪は木箱の中を覗き込んだ。薬瓶。護符。小刀。妖除けの鈴。修験者用の錫杖飾り。どれも実用品ばかりだ。
その中で、一つだけ正雪の目を引いたものがあった。
巻物だった。
「……剣山の地図はあるか?」
商人の目が細くなる。まるで待っていましたと言わんばかりだった。
「良いところへお気づきになりました。」
木箱の奥から巻物を取り出す。
「こちらが簡易地図。」
一本。
「こちらが修験者向け。」
もう一本。
「こちらが妖の縄張りを避ける古道付き。」
さらに一本。
そして最後に、古びた羊皮紙を丁寧に取り出した。
「こちらが詳細版。」
その声に、自然と皆の視線が集まる。
「剣山、四嶺、天狗塚はもちろん。古社、危険な谷、修験者の修行場、妖の巣まで記した特別な品でございます。」
正雪の目が輝いた。
「いくらだ。」
商人は満面の笑みを浮かべる。
「霊石一つ。」
正雪は首を傾げた。
「霊石?」
今度は商人の方が驚く番だった。
「旅のお方、霊石をご存じありませんか?」
正雪は素直に首を振る。
商人は懐から青白い石を取り出した。掌に収まるほどの大きさ。だが内部には星空のような光が静かに流れている。
「霊石とは、天地の霊気を長い年月かけて蓄えた石。」
軽く握ると、柔らかな霊気が周囲へ広がった。疲労が少し和らぐような、不思議な感覚。
「修行を助け。戦いでは霊力を補い。時には命を救う。」
商人は静かに言った。
「この辺りでは、金銀より重宝される品でございます。」
正雪は石を見つめる。名前だけは知っていた。だが実物を見るのは初めてだった。
「金貨じゃ駄目か?」
商人は困ったように笑う。
「簡易地図でしたら。詳細版は霊石のみでございます。」
正雪は隣を見る。
紗綾は即座に視線を逸らした。
「見ないで。私だって持ってないから。」
さらに頬を膨らませる。
「というか今、女の子のお財布を当てにしようとした?」
「違う!」
慌てる正雪。
その様子を見て、千蔵が地面を転げ回った。
「はっはっは!情けないのう!」
結局、正雪は金貨で買える簡易地図を購入した。詳細版は断念するしかない。だが、今の自分には十分だ。
ついでに尋ねる。
「霊石はどうすれば手に入る?」
商人はあっさり答えた。
「剣山を掘れば出ます。」
正雪は苦笑した。そんな話を真に受けるほど子供ではない。おそらく霊石鉱脈でもあるのだろう。商人も分かっていて言っているに違いない。
だが――。その笑顔は、本気なのか冗談なのか、どうにも判別できなかった。
正雪はもう一度品物を見回した。守札を一枚。それから傷を癒やす霊薬をいくつか。
購入した守札を千蔵の首に掛けてやる。
子狸は目を丸くした。
「……俺にか?」
「祖谷最強の狸なんだろ。」
正雪は笑う。
「なら、お守りくらい持っとけ。」
千蔵は鼻先を掻いた。
「し、仕方ないのう。」
「正雪がそこまで頼むなら受け取ってやる。」
「誰も頼んでない。」
紗綾が即座に突っ込む。すると翠夏が壺から飛び出した。
「ずるい!」
「私のは?」
商人は待っていたかのように木箱を開いた。
「もちろんございます。」
「仙蛙様専用、小型守札。」
さらに声を潜める。
「しかも本日限りの特別価格で。」
翠夏の目が輝いた。梨花はくすりと笑い、紗綾も肩を震わせる。山の入口で張り詰めていた空気は、いつの間にかすっかり和らいでいた。
だが、その時だった。
――ちりん。
風もないのに、軒先の鈴が静かに揺れた。商人は荷を背負い直し、一同を見渡す。穏やかな笑みは変わらない。
だが、その瞳だけが一瞬、底知れぬ夜の色を宿した。
「旅のお方。」
静かな声だった。
「剣山では、道に迷うより――人に迷わされる方が恐ろしい。」
一拍置き、男は微笑む。
「さらばじゃ。」
そう言って社へ向かう。
一歩。二歩。三歩。そして、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
次の瞬間。商人の姿は消えていた。社の中にも。社の裏にも。冠岩の周囲にも。どこにもいない。
残されていたのは、山風に揺れる鈴の音だけ。
――ちりん。
千蔵が小さく呟く。
「……正雪。」
「さっきの商人さん。」
「最初から、社の中におったんじゃよな。」
正雪は答えなかった。ただ、手の中の地図へ視線を落とす。そこには先ほどまでなかったはずの、小さな赤い印が一つ記されていた。
そして、その傍らには古びた文字が添えられている。たった一言。
**――縁ある者のみ、神に逢う。**
山風が吹いた。鈴の音が、もう一度だけ静かに響いた。まるで、どこかで誰かが笑ったかのように。




