第45話 剣山への道
【剣山への道】
祖谷には、穏やかな春の日々が流れていた。
夜明けとともに谷間を覆っていた白い霧はゆっくりと山肌を離れ、柔らかな陽光が深い森を照らしていく。渓流は岩を打ちながら絶え間なく流れ、その澄んだ音色は、まるで天地が奏でる琴の調べのように祖谷の里へ響いていた。
野には名も知らぬ霊花が咲き、子狸たちは今日も追いかけっこに夢中になっている。
熊野渡での激戦が、まるで遠い昔の出来事のように思えるほど、この里には穏やかな時間が流れていた。
正雪は縁側に腰を下ろし、春風を胸いっぱいに吸い込んだ。
霧獣法流を離れてから、命を懸けて戦い続けてきた。追われ、逃げ、仲間を失い、新たな出会いを重ね、気づけば熊野渡の幽世の門にまで辿り着いていた。
そんな日々を思えば、この静かな暮らしは少しばかり贅沢だった。
朝は遅く起き、村人の畑仕事を手伝い、夕暮れには縁側で茶を飲む。時折、祖谷の老人たちから山の昔話を聞き、夜になれば満天の星空を眺める。
戦いを忘れそうになるほど、穏やかな毎日だった。
早波川兄妹も、村人たちの手厚い看病と春の国の豊かな霊気のおかげで、日に日に元気を取り戻していった。
ある朝、正雪は庭先で木剣の音を聞いた。兄妹が向かい合い、互いに剣を交えている。鋭い踏み込み。軽やかな身のこなし。以前の衰弱した姿は、もうどこにもなかった。
その様子を眺めながら、祀花が安心したように微笑んだ。
「もう、大丈夫そうね。」
正雪も静かに頷いた。
「魂の傷は浅かった。春の国の霊気が効いたんだろう。」
その言葉に、誰もが胸を撫で下ろした。
ようやく。本当にようやく、皆が安らげる日々を手に入れたように思えた。
しかし、運命というものは、人が油断した時ほど静かに動き出す。
その日の夕暮れだった。茜色に染まった空から、一羽の白い鳥が舞い降りてきた。
紙でできた鳥。霊気をまとった伝音符である。紙鳥は祀花の肩へ止まると、淡い光となって砕け散り、一人の巫女の声を響かせた。
『祀花。直ちに伊世花大社へ戻りなさい。』
短い言葉だった。だが、その直後、一筋の光が祀花の額へ吸い込まれる。術によって、詳細な情報が伝えられたのだ。
祀花の表情が静かに曇った。正雪は嫌な予感を覚えた。祀花はゆっくりと口を開く。
霧獣法流が滅んだあと、生き残った者たちの一部は伊世花大社へ身を寄せていること。そのため、熊野三峯との関係が急速に悪化していること。
熊野三峯は霧獣法流を滅ぼした事実を否定している一方で、生き残った者たちを執拗に探していること。
話を聞き終えた正雪は、小さく呟いた。
「……口封じか。」
祀花は否定しなかった。その沈黙が、何より雄弁だった。
祀花は立ち上がった。
「私は帰る。」
その決意に迷いはない。
すると、早波川兄妹もまた立ち上がった。父が生きているなら、伊世花大社にいるかもしれない。確かめたい。
二人の瞳に宿る決意を見て、正雪は引き止める言葉を飲み込んだ。
その夜。
月明かりに照らされた祖谷のかずら橋を眺めながら、正雪は一人考えていた。
祀花について行くべきか。祖谷へ残り、幽世の門を守るべきか。答えは見つからない。
その時、隣へ紗綾の祖父が静かに腰を下ろした。老人は遠くの山を指差した。月光を浴びた霊峰が、雲を突くようにそびえている。
「あれが剣山じゃ。」
老人の声は穏やかだった。
「あの山には、昔から英雄たちが集った。そして、伝説の霊剣が眠るとも言われておる。」
正雪は黙って耳を傾ける。老人は続けた。
「守りたいものがあるなら、まず己が強くならねばならん。力なき正義は、何一つ守れぬ。」
春風が吹いた。その言葉は、静かに正雪の胸へ刻まれた。
翌朝。
若者たちは、それぞれの道を選んだ。祀花は伊世花大社へ。早波川兄妹も共に旅立つ。クルルは大きく翼を広げ、嬉しそうに鳴いた。
正雪は、その首を優しく撫でる。
「頼む。皆を守ってやってくれ。」
クルルは誇らしげに胸を張った。
紗綾は祖谷へ残る。揚羽家の使命を果たし、祖谷の幽世の門を守るために。
別れ際、誰も涙は見せなかった。
祀花が笑う。紗綾も笑う。早波川兄妹も笑う。正雪も笑った。
「また会おう。」
その約束だけを胸に、それぞれが違う道を歩き始めた。誰もが信じていた。人生は長い。夢は終わらない。また、きっと再会できると。
けれど、人の世とは皮肉なものである。
後になって振り返れば、あの日の笑顔が、最後の別れになっていたと知ることも少なくない。
正雪は河童の壺を背負い、一人、祖谷を後にした。壺の中から翠夏と梨花の声が聞こえてくる。軽口を叩き合い、笑い合いながら山道を登っていく。
崖が続き、深い霧が谷を埋め、獣の気配が森を漂う。
だが、紗綾の祖父の言葉が頭をよぎった。
――本当に恐ろしいのは、山ではない。
――山に棲む者たちじゃ。
剣山。
そこは修験者の聖地であり、僧侶、陰陽師、妖、天狗の一族まで、強者たちが集う地。彼らの目的は、ただ一つ。伝説の霊剣。その剣は、幽世すら断つ力を持つという。
谷間を吹き抜ける風の中、正雪は雲に隠れた剣山の頂を見上げた。
その時だった。霧の奥から、誰かの視線を感じた。翠夏が小さく身を震わせる。
梨花も静かに呟いた。
「向こうも、もう私たちに気づいている。」
正雪は無言で腰の剣に手を添えた。
祖谷では揚羽家が幽世の門を守り。伊世花大社では、新たな火種が燃え始めている。笹林家の陰謀。安道成の残した謎。八つの幽世の門に隠された真実。
その全てとは別に、剣山には、もう一つの運命が静かに眠っていた。雲の彼方。人にも、妖にも、修験者にも、いまだ見つけられていない霊剣がある。
その剣は、神代の昔に交わされた約束を守るように、長い長い時を越え、ただ静かに待ち続けていた。
――いつの日か、自らを振るうに値する、新たな主が山を登ってくることを。
【剣山への道・狸と河童】
祖谷の里を離れ、正雪は一人、剣山へ続く古い山道を歩いていた。
背には河童の壺を負い、その中では翠夏と梨花が、代わる代わる外の景色を覗いている。春の祖谷を吹き抜けた柔らかな風も、山へ近づくにつれて少しずつ冷たさを帯び始め、深い森の香りを運んでいた。
「正雪ー!正雪ー!」
そんな静かな山道を、不意に少女の声が破った。風に乗って聞こえたその声に、正雪は思わず足を止めた。
聞き間違えるはずがない。振り返ると、一人の少女が駆けてくる。長い黒髪を揺らし、山道など気にも留めず駆け下りてくる姿は、まるで春の精霊そのものだった。
やがて少女は正雪の前まで辿り着き、大きく息をつく。額には汗が浮かび、肩で息をしている。
「……ようやく、追いついた。」
正雪は呆れたように笑った。
「紗綾?なんで来たんだ。祖谷に残って、幽世の門を守るんじゃなかったのか。」
紗綾は乱れた髪を整えると、いつもの調子で胸を張った。
「もちろん、そのつもりだったよ。でも、爺ちゃんも婆ちゃんもいるし、揚羽家のみんなもいるもの。」
そう言って、遠く祖谷の方角を振り返った。
「あの人たちなら大丈夫。それに、剣山なんて祖谷から近いんだから、何かあればすぐ戻れる。」
そこで少しだけ真面目な表情になった。
「私ね。考えたの。
祖谷を守るって言っても、弱いままじゃ何も守れない。揚羽家の使命も。幽世の門も。大切な人たちも。」
紗綾は正雪を真っ直ぐ見つめた。
「だから、私も強くなる。一緒に行くよ。」
正雪はしばらく黙っていた。
祀花なら、きっと慎重に考え、皆のために最善を選んだだろう。しかし紗綾は違う。思い立ったら走り出す。泣いて、笑って、怒って。周りを巻き込みながら、それでも自分の信じる道を進んでいく。
その無邪気さが、どこか春の風に似ていた。
正雪は思わず笑ってしまった。
「分かった。よろしく。」
紗綾も嬉しそうに笑った。二人は並んで歩き始める。その時だった。その背後から、何やら慌ただしい物音が聞こえてきた。
がさがさ。ころころ。
「待ってー!置いていくなー!」
二人が振り返ると、小さな影が坂道を転がるように駆け下りてくる。丸い耳。ふさふさの尻尾。小さな体。どう見ても子狸だった。
子狸は二人の前でようやく止まり、息を整える間もなく胸を張った。
「俺も行く!連れていけ!」
正雪は目をぱちくりさせた。
「……誰?」
子狸は得意そうに鼻を鳴らした。
「よくぞ聞いてくれた!俺は千蔵!伝説の金長狸の血を引く、祖谷最強の狸じゃ!」
正雪は黙って見つめた。小さい。丸い。可愛い。どう考えても最強には見えない。
「……小さいな。」
千蔵は飛び上がった。
「失礼じゃ!英雄に体格など関係ない!偉大な存在ほど、小さく生まれるものじゃ!」
その必死な様子に、紗綾は堪えきれず吹き出した。
「可愛い。」
「可愛くない!」
「格好いいんじゃ!」
「強いんじゃ!」
「祖谷最強なんじゃ!」
正雪は笑いながら尋ねた。
「でも、なんで俺たちについて来るんだ。」
すると千蔵の表情が急に真面目になった。小さな前足を、正雪の背中へ向ける。
「その壺じゃ。」
正雪が河童の壺を見ると、ぽん、と音を立てて翠夏が飛び出した。
「なに?」
千蔵は指を突きつけた。
「祖谷で見た!中にいる河童ちゃん!」
翠夏は胸を張った。
「河童じゃない。仙蛙!仙蛙だ!」
しかし千蔵は構わない。
「俺より小さいくせに、なんか偉そう!気に食わん!」
翠夏のこめかみに青筋が浮かんだ。
「今、なんて?」
「勝負じゃ!」
千蔵は堂々と言い放った。
「剣山で、どっちが強いか決める!」
翠夏も負けじと腕を組む。
「望むところ!仙蛙を舐めるな!」
「蛙!?河童!?同じじゃ!」
「違う!」
「同じ!」
「違う!」
二匹は本気で睨み合いを始めた。
正雪と紗綾は顔を見合わせる。
しばらくして、紗綾が肩を震わせながら笑った。
「……まあ、いいか。祖谷の子狸なんだし。一緒に行こう。」
正雪も苦笑する。反対する理由は、どこにも見当たらなかった。仲間が増える。それは旅人にとって、案外悪くないことなのかもしれない。
千蔵は飛び跳ねて喜び、翠夏は腕を組んだまま宣言した。
「負けないからね。」
「こっちだって!」
壺の中の梨花だけが、小さくため息をついた。
「なんだか、とても賑やかな旅になりそうね。」
その言葉どおりだった。祖谷を離れた時、一人だった旅路は、いつしか紗綾が加わり、子狸まで仲間になった。
山道には笑い声が絶えない。春風が木々を揺らし、剣山の深い霧が静かに流れていく。その霧の向こうで、まるで誰かが楽しそうに笑ったような気がした。
正雪は空を見上げ、小さく笑う。剣山には恐ろしい山伏がいるという。天狗が棲み、古い妖が眠り、多くの修験者や僧侶、陰陽師たちが伝説の霊剣を求めて集っているという。
だが、今の正雪には、霊剣よりも、幽世の門よりも、笹林家の陰謀よりも。
隣で言い争う小さな狸と、自称・誇り高き仙蛙が、本気で取っ組み合いを始めないよう見張る方が、よほど骨の折れる仕事に思えた。
そうして一行は、笑い声を山々へ響かせながら、霧深き剣山の奥へと歩みを進めていった。
******
そして、同じ頃――。
遠く離れた深山の古寺では、重い梵鐘が静かに鳴り響いていた。低く長い鐘の音は、深い杉林を揺らし、古びた大殿へと吸い込まれていく。
巨大な扉がゆっくりと開き、一人の僧が静かに堂内へ足を踏み入れた。墨色の法衣は乱れ一つなく、その歩みは水面を渡る風のように静かだった。
闇の奥から、低い声が響く。
「……笹林・道成。」
「戻ったか。」
僧は静かに合掌した。その顔には、熊野渡で見せた穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「ただいま戻りました。」
その言葉とともに、大殿の闇の中で幾つもの人影が静かに立ち上がる。
新たな陰謀もまた、静かにその幕を開けようとしていた。




