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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第44話 祖谷の白蛇

【祖谷の白蛇】


 幽世の門での戦いは、ひとまず幕を下ろした。


 安道成は謎の黒影と共に姿を消し、空を覆っていた黒雲も、なお渦を巻きながら少しずつその勢いを失っていた。巨大な幽世の門には山を裂くような亀裂が残されていたものの、先ほどまで天地を震わせていた威圧感は薄れ、漏れ出る陰気も次第に穏やかになっている。


 祭壇の周囲を何度も歩き回っていた祀花は、刻まれた霊紋を丹念に調べ終えると、ようやく肩の力を抜いた。


 「……よかった。完全には開かなかったみたい。このくらいの隙間なら、向こうの大妖がこちらへ渡ってくることはないと思う。」


 正雪も巨大な門を見上げた。漆黒の裂け目の奥には、なお底知れぬ闇が広がっている。しかし、あの場所から感じていた世界の終わりのような圧迫感は、もう消えていた。


 「終わった……のかな。」


 そう呟く正雪に、祀花は首を横に振った。


 「終わったというより、先送りになっただけかもしれない。でも今は、それより優先しなくちゃいけないことがあるでしょう?」


 その言葉に、正雪は我に返った。


 二人は急いで祭壇の下へ駆け寄り、倒れていた早波川兄妹を抱き起こした。兄妹は冷たい石畳の上に倒れたままだったが、胸に手を当てると、微かな鼓動が伝わってくる。


 祀花は妹の額にそっと手を置き、静かに目を閉じた。しばらくして、彼女は安堵したように微笑む。


 「大丈夫。魂は傷ついているけれど、清代姫ほど深くはないよ。少し時間はかかるだろうけど、きっと元気になる。」


 正雪はほっと息を吐いた。


 「そうか……良かった。」


 熊野渡での戦いは、多くのものを失わせた。しかし、それでも救えた命がある。その事実だけが、疲れ切った心を少しだけ支えてくれた。


 四人は、そのまま四季島の春の国を目指すことになった。


 陰気に満ちた熊野渡を離れ、山を越え、谷を渡り、長い道を進む。そして春の国へ足を踏み入れた瞬間、正雪は思わず立ち止まった。


 風が違う。空気が違う。


 花々の甘い香りが風に乗って流れ、遠くから渓流のせせらぎが聞こえてくる。山肌には深い森が広がり、苔むした岩陰には小さな霊花が咲き誇っていた。色鮮やかな蝶が花から花へと舞い、小鳥たちが楽しげに囀っている。


 まるで、この土地そのものが大きな命を宿し、静かに呼吸をしているようだった。


 正雪は周囲を見回しながら、小さく笑った。


 「熊野渡から来たせいかな。同じ世界とは思えないくらい綺麗な場所だ。」


 祀花も柔らかな表情を浮かべる。


 「春の国は昔から『再生の国』って呼ばれてるの。傷ついた人も、疲れた魂も、この土地で少しずつ元気を取り戻すって言われてる。」


 正雪は背中の兄妹を見た。


 「それなら、この二人にもぴったりだな。」


 祀花も静かに頷いた。


 「うん。きっと大丈夫。」


 しばらく歩くと、小さな村が見えてきた。


 村の入口には、一人の老人が立っていた。


 白い髭をたくわえ、穏やかな目をした老人だった。その隣には、見覚えのある大きな鳥が羽を休めている。


 正雪が目を丸くした。


 「クルル!」


 その声を聞くや否や、大鳥は嬉しそうに翼を広げた。


 「クルルゥ!」


 元気いっぱいの鳴き声に、正雪も思わず笑顔になる。


 老人の足元には河童の壺も置かれていた。翠夏と梨花の気配を感じながら、正雪は辺りを見回した。


 しかし、探していた姿がない。少し不安そうな表情で、老人へ尋ねた。


 「清代姫は……? ご両親も、一緒じゃないんですか?」


 老人は静かに山の方を見つめた。そして、ゆっくりと首を振る。


 「残念じゃが、お主たちは少し遅かった。」


 その言葉に、正雪の胸が少しだけ締め付けられた。


 老人は穏やかな口調のまま話し始めた。


 「清代姫さんが、この美馬村へ辿り着いた時じゃ。不思議なことに、それまで何十年も姿を見せておらなんだ大白蛇様が現れた。」


 祀花も正雪も、思わず顔を見合わせた。


 老人は遠い昔を思い出すように続ける。


 「この土地には古くから伝えがある。山の奥深くには大白蛇様がおられて、その姿を見る者には幸運が訪れる。そして、大白蛇様と共に歩む者は、自ら選ばれた者なのだと。」


 正雪は静かに尋ねた。


 「……その白蛇は、どこへ行ったんですか。」


 老人は苦笑した。


 「誰も知らんよ。昔からそうじゃ。会おうと思って会えるお方ではないし、その棲み処を知る者もおらん。」


 春風が吹き抜けた。


 その時、河童の壺の蓋が小さく揺れた。ぽん、と音を立てて翠夏が顔を出す。


 「おじいさんの話、本当だよ。」


 皆の視線が集まった。翠夏は、いつもの調子ではなく、どこか静かな声で話し始める。


 「春の国へ着いた時、清代姫は目を覚ましたの。まだ立つのも辛そうだったけど、ちゃんと自分で考えて、自分の足で立って、大白蛇の前まで歩いていった。」


 正雪は黙って聞いていた。


 「誰かに言われたわけじゃないよ。清代姫は、自分で決めたの。『私は、この方について行きます』って。」


 翠夏は少しだけ笑った。


 「それにね、正雪にも伝言を頼まれたんだ。」


 正雪は静かに顔を上げた。


 翠夏は、清代姫の言葉を思い出すように、ゆっくりと口にした。


 「『正雪さん、本当にありがとうございました。私は、もう大丈夫です。そして……もし縁があるなら、きっとまた会えますよね』って。」


 春の風が静かに吹いた。正雪は、しばらく何も言わなかった。


 日高川で出会い、共に戦い、魂を救い、そして別れる。短い時間だったはずなのに、不思議と長い旅を共にしたような気がしていた。


 祀花が、そっと隣へ立つ。


 「……寂しい?」


 正雪は少し考え、苦笑した。


 「寂しくないって言ったら嘘になる。でも、助けた相手を自分の都合で引き止めるのは違うと思う。清代姫には清代姫の道があるんだ。」


 老人も深く頷いた。


 「それでよい。人も妖も、縁があれば出会い、役目を終えれば別れる。それでも歩みを止めぬから、また新しい縁が生まれるのじゃ。」


 正雪は山の奥を見つめた。


 深い森。


 白い霧。


 そのどこかで、大白蛇と共に、傷ついた紫の妖蛇が新しい人生を歩き始めているのだろう。


 彼は胸の内で、静かに願った。


 ――どうか、幸せで。


 その瞬間、春風が谷を渡った。


 花畑いっぱいの花々が、一斉に揺れ、木々がざわめく。遠く森の奥、白い霧の向こうに、長く美しい白蛇の影が一瞬だけ揺らめいたような気がした。


 誰もその姿を確かめることはできなかった。だが、正雪には分かった。


 それは別れを告げるものではない。いつか再び巡り会う日まで、お互いの道を歩んでいこうという、春の国からの静かな約束だったのかもしれない。




【揚羽の使命】


 祖谷。


 その秘境は、古くから俗世と仙境の狭間にある地として語り継がれてきた。


 幾重にも重なる山々は淡い霞をまとい、朝になれば白い霧が谷を埋め、夕暮れには茜色の光が峰々を優しく染めていく。澄み切った渓流は岩肌を洗い、砕けた水しぶきは陽光を受けて宝玉のように輝いていた。


 川辺には名も知らぬ霊花が咲き乱れ、春風が吹くたびに花弁が舞う。その中を色鮮やかな蝶が飛び交い、子狸たちは草むらを駆け回っては転げ、互いにじゃれ合っていた。


 人の世でありながら、人の世とは思えない。


 まるで仙人たちが世俗を離れ、静かに暮らす桃源郷のような場所だった。


 そんな春の国の小さな村で、正雪たちはしばらく身を寄せることになった。


 早波川兄妹は村人たちの手厚い看病を受け、静かな寝息を立てている。クルルは庭先で翼を休め、縁側に置かれた河童の壺の中では、翠夏も梨花も珍しく大人しくしていた。


 熊野渡での激戦を終えたばかりの一行にとって、この穏やかな時間は夢のようにも思えた。


 正雪は縁側へ腰を下ろし、春風を受けながら空を見上げた。


 清代姫との出会い。幽世の門。安道成。


 あまりにも多くの出来事が短い旅の中に詰め込まれ、その一つ一つが、遠い昔の出来事のように思えてくる。


 庭では祀花が静かに修練を続けていた。胸元に鈴を置き、目を閉じ、ゆっくりと霊気を巡らせている。


 その静寂を破ったのは、家の外から聞こえてきた明るい少女の声だった。


 「爺ちゃん、婆ちゃん。ただいま帰ったよ。誰かお客さんでも来てるの?」


 庭の戸が開く。春風とともに現れた少女を見て、正雪は思わず立ち上がった。


 「……紗綾?」


 少女も足を止め、大きく目を見開く。


 「えっ、正雪!? それに祀花まで? 二人とも、どうして祖谷にいるの?」


 驚いた顔を見合わせた三人は、しばらく黙った後、ほとんど同時に笑い出してしまった。


 まさか、こんな場所で再会するとは誰も思っていなかったのである。ほどなくして、皆は縁側へ集まった。


 老人が温かい茶を淹れ、湯気が春風に揺れる。


 正雪は湯呑みを手にしながら、紗綾へ尋ねた。


 「あの日、六羽蝶衣で飛ばされた後、どうなったんだ?」


 紗綾は少し考え込み、それから苦笑した。


 「私も何が起きたのか分からないの。気がついたら森の中にいて、とにかく歩いて、歩いて……。そうしたら、いつの間にか祖谷へ帰ってきてた。」


 そう言って肩をすくめる。


 「結局、六羽蝶衣に送られた先が実家だったってこと。」


 その言葉に、老人が穏やかに笑った。


 「この子は、わしらの孫じゃからな。六羽蝶衣は、気まぐれに人を飛ばす霊宝ではない。縁ある土地へ、人を導く力を持っておる。」


 そこで老人は少し咳払いをした。


 「もっとも……昔から少々おおざっぱで、行き先に多少の誤差はあるがの。」


 その一言に、庭の空気が和らいだ。


 正雪は紗綾を見つめた。


 「そうだったのか。祖谷の生まれだなんて、聞いたことがなかった。」


 紗綾は静かに頷いた。


 「話す機会もなかったしね。」


 彼女は湯呑みをそっと置くと、遠くの山々を見つめながら続けた。


 「揚羽家は、昔から祖谷に住んでいたわけじゃないの。ずっと昔、笹林家との大戦に敗れて、生き残った一族がこの地へ逃れてきた。そして、この山奥で身を隠しながら命を繋いできた。」


 正雪も祀花も黙って耳を傾ける。


 「私は幼い頃、霧獣法流へ預けられていたから、祖谷で暮らした記憶はあまりない。でも、今回帰ってきて、ようやく色々なことが分かった。」


 紗綾の声は静かだった。


 「霧獣法流が滅びたことも、揚羽家に縁のある一族が次々と姿を消したことも、全部が偶然とは思えない。証拠はないけれど、その裏には笹林家がいる……私は、そう考えてる。」


 正雪は拳を握った。


 「……なら、揚羽家は笹林家と戦うつもりなのか?」


 紗綾は少しだけ目を伏せた。


 しかし、その答えは迷いのないものだった。


 「いいえ。」


 正雪は意外そうな顔をする。


 紗綾は春風に揺れる庭木を眺めながら、静かに言葉を続けた。


 「もちろん、失ったものを忘れたわけじゃない。でも、祖谷へ帰ってきて分かったの。揚羽家が代々守り続けてきたものは、復讐なんかじゃない。」


 紗綾はゆっくりと立ち上がった。彼女の視線は、祖谷の山々の彼方へ向けられている。


 「あの山の向こうに、祖谷のかずら橋があるでしょう。」


 正雪は頷いた。


 「あの橋の先にあるものこそ、揚羽家の使命なの。」


 その表情が、今まで見せたことのないほど真剣なものへ変わる。


 「揚羽家は、現世を守るために存在している。そして、そのために代々見守り続けてきた場所がある。」


 正雪と祀花は思わず息を呑んだ。


 紗綾は振り返り、二人を真っ直ぐ見つめた。


 「幽世の門よ。」


 その名を聞いた瞬間、正雪と祀花は立ち上がった。


 「幽世の門……? 熊野渡にあった、あの門のことか?」


 紗綾は静かに首を横へ振る。


 「違う。」


 春風が庭を吹き抜け、花弁が一枚、三人の間を舞った。


 「幽世の門は、一つじゃない。」


 その一言だけで、庭の空気が変わった。


 「揚羽家に伝わる古い記録では、幽世の門は全部で八つ存在する。熊野渡の門は、そのうちの一つ。そして、祖谷にもまた、一つの門が封じられている。」


 祀花が小さく息を呑んだ。


 「……八つも?」


 「ええ。でも、揚羽家が正確な場所を知っているのは四つだけ。そのうち二つは、すでに笹林家に奪われた。」


 正雪の胸に、不吉な予感が広がる。


 「じゃあ、祖谷の門も……。」


 「今は、まだ大丈夫。」


 紗綾は静かに答えた。


 「笹林家は、その存在を知らない。だから守れている。でも、もし見つかれば、また戦いが始まる。」


 誰も口を開かなかった。


 熊野渡。


 安道成。


 開きかけた幽世の門。


 あの黒い影。


 すべての出来事が、一本の線となって繋がっていく。


 祀花は空を見上げ、小さく笑った。


 「なんだか、私たち、とんでもない秘密を聞いちゃったみたい。」


 正雪も苦笑する。


 「俺たち。また面倒なことに巻き込まれた気がする。」


 紗綾も小さく笑った。


 「巻き込まれたというより、最初から運命の中にいたのかもしれないな。」


 祖谷の山々に、春風が吹いた。


 遠く、祖谷のかずら橋が静かに揺れている。


 その橋のさらに奥、深い霧に包まれた山々のどこかには、揚羽一族が幾世代にもわたって守り続けてきた、もう一つの幽世の門が眠っていた。


 誰にも知られず。誰にも見つからぬように。


 そして、その古き門は、悠久の眠りの中で、まるで遠い約束の日を待つかのように、静かに、静かに、時の流れを見つめ続けていた。


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