第43話 幽世の門の前
【幽世の門の前】
熊野渡の最深部へ近づくにつれ、世界は少しずつ色を失っていった。
山々を吹き抜ける風は、もはや夏のものではない。冷たく、重く、肌を刺すような陰気を孕み、その一吹きごとに木々の枝を軋ませていた。空を見上げれば、黒雲が幾重にも渦を巻き、まるで巨大な穴が夜空を喰らいながら広がっているかのようだった。
祀花は険しい山道を駆けながら、隣を走る正雪へそっと視線を向けた。その横顔には疲労が色濃く刻まれていた。
つい先ほど、正雪は燃魂刀を形作り、さらに清代姫の魂樹を救うため、自らの魂力を削って禁術に近い治療を行ったばかりだった。
表情は平静を装っている。だが、巫女として霊気を視る祀花の目には、その異変がはっきり映っていた。
正雪を包む霊光が、安定していない。弐階ほどまで落ち込んだかと思えば、次の瞬間には参階の輝きを取り戻す。そして、また揺らぐ。まるで燃え尽きかけた灯火だった。
祀花は足を止めることなく声を掛けた。
「正雪、本当に大丈夫?」
正雪が首を傾げる。
「何が?」
「さっきから気配が安定してない。」
祀花は前を向いたまま言葉を続けた。
「弐階になったと思ったら、また参階に戻る。また弐階に戻る。その繰り返し。魂力を使いすぎたんだ。」
正雪は苦笑した。隠しても、祀花には通じないらしい。懐から小さな丹薬の瓶を取り出す。中には、もう数粒しか残っていなかった。
「燃魂刀を使ったからな。」
瓶を軽く振りながら答える。
「あれは思った以上に消耗が激しい。でも、心配はいらない。」
丹薬を一粒口へ放り込み、飲み下した。
「少し休めば戻る。」
祀花は黙ってその様子を見つめていた。やがて、小さく息を吐く。
「……なら、いいけど。」
その声音には、どこか納得していない響きが混じっていた。彼女は再び空を見上げる。黒雲の渦は、先ほどよりも大きくなっている。
中心から漏れ出す陰気は、遠く離れた場所にいる二人の頬にまで触れていた。
「あれ。」
祀花が指差した。
「黒雲の中心。幽世の門の方向だよ。」
正雪も頷く。
「間違いない。」
「到着するまでに回復しないと。」
祀花は真剣な顔になった。
「もし無理なら。私が一人で行く。」
正雪は思わず笑った。
「ひどい言い方だな。弐階でも戦える。」
祀花はちらりと横目で見た。その目には、少しだけ悪戯っぽい光が宿っている。
「へぇ。強がり?敗者のくせに。」
正雪の額に青筋が浮いた。
「前は油断しただけだ。油断?」
「そう。」
「実力じゃない。」
祀花は、くすりと笑った。
「はいはい。そういうことにしておく。」
正雪は不満そうに口を尖らせた。
「信じてないな。」
「少しだけ。」
そんな軽口を交わせる時間は、ほんの一瞬だった。
突如。天地を揺るがす轟音が、山々を震わせた。
――ゴォォォォォォォン!!
空気そのものが爆ぜる。二人は反射的に足を止めた。黒雲の中心を、無数の雷光が走る。紫。青。そして、血を溶かしたような黒い稲妻。幾筋もの雷が絡み合い、夜空を切り裂いていた。
祀花の表情が変わる。正雪もまた、笑みを消した。
「急ぐぞ。」
「うん!」
二人は同時に駆け出した。岩場を越え、谷を飛び、崖を駆け上がる。吹き荒れる陰気が身体を切り裂く。それでも足は止めない。
そして、ついに、二人は熊野渡最奥の聖域へ辿り着いた。
その瞬間。二人は言葉を失った。巨大だった。あまりにも巨大だった。
幽世の門。
それは門というより、一つの山だった。黒き門柱は山脈と一体化し、天と地を支える柱のように聳え立っている。表面には無数の古代霊紋が刻まれ、その一つ一つから濃密な陰気が噴き出していた。
そして。かつて細い裂け目に過ぎなかった中央の亀裂は、今や巨大な隙間となっている。
門は。ゆっくりと。確実に。開こうとしていた。
ゴゴゴゴゴゴゴ……。
重く鈍い音が大地を伝う。門の向こうから吹く風は、この世のものではなかった。
死者の国。妖鬼の国。終焉の世界。そんな場所の空気が、こちらへ流れ込んできている。
正雪は剣を握る手に力を込めた。
(間に合え……。)
祀花も門を見上げる。巫女としての本能が、激しく警鐘を鳴らしていた。
あれが完全に開けば。何が現れるのか分からない。だが。絶対に、人の世に許されるものではない。
二人の視線が祭壇へ向いた。祭壇の下。二つの人影が倒れている。早波川兄妹だった。兄は妹へ。妹は兄へ。互いに手を伸ばしたまま、動かない。
生きているのか。死んでいるのか。距離があり、判別できない。だが、その周囲を覆う怨気だけは異様だった。
祀花が震える声で呟く。
「……遅かった?」
正雪は強く首を振った。
「いや。あれを見ろ。」
二人は祭壇の最上段を見る。そこに、一人の男が立っていた。黒い長衣。静かな瞳。整いすぎるほど美しい顔。そして、その身を包む無数の怨念。
安道成。
黒い霧が、その身から絶え間なく立ち昇り、幽世の門へ流れ込んでいる。彼は最後の儀式を続けていた。
あと少し。本当に、あと少しで。幽世の門は完全に開く。
正雪と祀花は同時に理解した。止めなければならない。今、この瞬間に。
その時だった。門へ続く道の空気が、大きく歪んだ。陰気が渦を巻き、黒霧が集まり、ゆっくりと三つの影が姿を現す。
最初に現れたのは、巨大な猿だった。赤黒い毛並み、血のような双眸、鋭い牙。かつて正雪たちを苦しめた悪猿。しかし、その妖気は以前とは比べものにならない。
さらに左右には、黒衣の人物が二人。顔は見えない。だが、立っているだけで空気が重くなる。三者は静かに並び、幽世の門へ至る唯一の道を塞いだ。
悪猿は牙を剥いた。ごきり。ごきり。指を鳴らしながら、不気味な笑みを浮かべる。左右の黒衣の者は無言のまま手を組み、微動だにしない。
言葉は必要なかった。この先へ進みたければ。倒すしかない。
祀花は腰の神鈴を握った。鈴は小さく揺れた。
――ちりん。
澄み切った音色が、荒れ狂う夜空へ広がる。
正雪もまた、静かに剣の柄を握った。疲労は残っている。魂力も完全ではない。それでも。背後には守るべき命があり。
前には止めねばならぬ災厄がある。
ならば。退く理由など、一つもなかった。
黒雲が唸る。雷が天地を裂く。幽世の門が軋みを上げる。
祭壇の上では、安道成が静かに二人を見下ろしていた。その口元には、まるで全てを見通しているかのような微笑が浮かんでいた。
そして次の瞬間。悪猿が大地を踏み砕き、咆哮とともに正雪たちへ飛びかかった。
熊野渡の夜。幽世の門を巡る最後の戦いが、ついに幕を開けた。
【開かれぬ幽世の門】
轟音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
先ほどまで天地を揺るがしていた激震は嘘のように静まり、熊野渡を覆う黒雲だけが、なお重苦しく空を埋め尽くしている。時折、雲の奥で鈍い雷光が走るものの、その輝きには先ほどまでの狂気じみた激しさはなく、まるで嵐そのものが何かを待っているかのようだった。
祭壇の前では、一つの戦いが終わりを迎えていた。
悪猿は最後まで獰猛な牙を剥き、血走った双眸で正雪を睨みつけていた。しかし、その巨体を支えていた妖気はすでに尽きていた。胸を深々と貫かれた傷口から黒い霧が吹き出し、やがて全身に無数の亀裂が走る。
その姿は砂の城が崩れるように砕け始めた。悪猿はなおも咆哮を上げようとした。だが、その声は風に呑まれた。巨大な身体は黒い灰となって宙へ舞い、熊野渡の陰風に乗って、静かに消えていった。
左右を固めていた二人の黒衣の者も、同じ運命を辿っていた。
祀花の神鈴が放つ清らかな音色は、その魂を激しく揺さぶり、纏っていた黒き霊気を少しずつ剥がしていく。
そして、その一瞬の隙を逃さず、正雪の剣が走った。
一太刀。二太刀。静かでありながら迷いのない剣筋。二人の黒衣は声を上げることもなく、その身体を黒い霧へと変え、夜空へ溶けていった。
戦場に、ようやく静寂が戻る。正雪はその場に立ち尽くし、深く息を吐いた。
握っていた剣が重い。腕が震える。足元も少し覚束ない。彼は剣を地面へ突き立て、体重を預けた。魂力はまだ完全には戻っていなかった。
勝った。確かに勝った。しかし、それは紙一重の勝利だった。
祀花もまた、大きく肩で息をしていた。神鈴を握る指先は僅かに震えている。巫女の術は、見た目以上に精神を削る。
彼女は息を整えながら、小さく呟いた。
「……終わった?」
その言葉に、正雪はゆっくり顔を上げた。視線の先。祭壇の最上部。そこには、まだ一人の男が立っていた。
安道成。
黒い長衣を風になびかせ、静かにこちらを見下ろしている。不思議な男だった。これほどの激戦が眼前で繰り広げられたというのに、その表情には焦りも怒りもない。
まるで、すべてが予定通りだと言わんばかりだった。
そして、安道成の視線が正雪と重なる。男は、微かに笑った。嘲笑ではない。勝者の笑みでもない。ましてや、敗者を見下す表情でもなかった。
どこか懐かしむような。あるいは。
「よく、ここまで辿り着いた。」
そう語りかけているような、不思議な微笑だった。正雪は思わず眉をひそめた。
「……何を考えている。」
その瞬間だった。安道成の背後。何もなかった空間が、ゆっくりと歪み始めた。黒い霧が集まる。影が伸びる。
そして、一つの人影が姿を現した。いや。本当に人だったのか。輪郭は曖昧だった。霧のようでもあり。闇そのもののようでもあり。顔は見えない。
ただ。そこに存在している。その事実だけが、圧倒的だった。
正雪の全身に鳥肌が立った。
祀花もまた、その影を見つめたまま動けなかった。神鈴を握る手に力が入る。
安道成は何も説明しなかった。ただ静かに踵を返す。祭壇の中央。そこには、いつの間にか巨大な転送陣が浮かび上がっていた。
複雑な霊紋が幾重にも重なり、青白い光を放っている。
正雪は思わず叫んだ。
「待て!」
声は祭壇へ響いた。だが。安道成は立ち止まらない。最後に一度だけ振り返る。その顔には、やはり穏やかな笑みが浮かんでいた。
そして。黒影と共に光へ包まれる。
――シュン。
静かな音。それだけだった。二人の姿は消えた。同時に。転送陣が激しく震え始める。ぱきり。霊紋に亀裂が走る。
ぱきり。ぱきり。次々と砕け散り、青白い光が失われていく。数息後。転送陣は完全に崩壊していた。
祀花が呆然と呟く。
「……逃げた。」
正雪は剣を握り締めた。追うか。そう思った。だが、無理だった。転送陣は跡形もなく壊れている。行き先も分からない。術式も消えた。追跡する術は、もう残されていなかった。
その時だった。
ごぉ……。
大地が再び震えた。二人は同時に幽世の門を見上げる。巨大な門。先ほどまで軋みを上げながら開き続けていた門扉が、ゆっくりと動きを止めていた。
重い音も消える。吹き荒れていた黒い風も弱くなっていく。
正雪は安堵しかけた。
しかし。次の瞬間。二人は気づく。門は。閉じていなかった。巨大な裂け目が残されていた。山脈を真っ二つに割ったかのような、途方もない隙間。
その奥は漆黒だった。何も見えない。光もない。闇だけが広がっている。
それでも。そこから濃密な陰気だけは絶え間なく流れ出していた。
祀花は急いで祭壇へ駆け寄った。巫女として学んだ知識を総動員し、術式を調べ始める。霊紋を辿る。残留する霊力を読む。何度も確認する。
やがて。彼女の顔色が変わった。
「……おかしい。」
正雪が振り返る。
「何だ?」
祀花は困惑したまま言った。
「終わってる。儀式。」
彼女は何度も霊紋へ触れた。
「途中で止められたわけじゃない。最後まで発動してる。」
正雪は眉を寄せた。
「失敗したのか?」
祀花はゆっくり首を振る。
「違う。必要な怨念も揃ってる。霊力の流れも正しい。術式も完成してる。」
そして。小さく呟いた。
「儀式は……成功してる。」
正雪は再び門を見上げた。巨大な裂け目。その奥。漆黒の闇。よく見ると、時折、何かが動いたようにも見える。
祀花が震える声で言った。
「なのに……。どうして、開かなかったの?」
誰も答えられなかった。術は成功した。門も開き始めた。それなのに、最後の一歩だけが拒まれた。
まるで。誰かが。何かが。そう押し返しているかのようだった。
その時。正雪の背筋を、冷たいものが走った。巨大な裂け目の奥。漆黒の闇の底から。かすかに、本当に、かすかに。何かが聞こえた。
「……し……くしゃ……くむ……さいく……。」
低い。遠い。古びた響き。言葉なのか。呻きなのか。風の音なのか。判別できない。
だが。確かに。何者かが、そこにいた。
正雪と祀花は、同時に顔を見合わせた。幽世とは何なのか。門の向こうには何があるのか。安道成は、何を開こうとしていたのか。
黒雲はなお空を覆い続けている。巨大な裂け目も閉じない。正雪は胸の奥で静かに悟っていた。終わったのではない。むしろ。ここから始まるのだ。
誰にも知られぬ世界で、静かに彼らを待っているのだった。




