第42話 魂根の植え替え
【魂根の植え替え】
燃魂灯から伸びる黒き炎の絲は、なお静かに揺れていた。
細く、儚く。しかし、その一筋の黒火は確かに清代姫の眉間を貫き、霊海の最深部へと沈み込んでいる。先ほどまで猛り狂っていた紫妖火は、明らかに勢いを失っていた。
だが――消えてはいない。
むしろ今は、何かを拒絶するように霊海の奥底で激しく暴れている。まるで瀕死の妖獣が、最後の牙を剥いているかのようだった。
翠夏の額を汗が流れ落ちる。深く霊識を潜らせ続ける負担は大きい。仙蛙である彼は唇を噛み締めながら呟いた。
「……おかしい」
正雪は燃魂灯を操る手を止めず、低く問う。
「何がおかしい」
翠夏は眉を寄せた。
「燃魂灯は確かに魂の傷を縫ってる。裂けた部分も繋いでる。でも戻らないんだ。何か根本がおかしい」
その声には焦りが滲んでいた。
正雪は静かに目を閉じる。
「何が見える?」
翠夏はさらに霊識を深く沈めた。霊海の底。さらに奥。魂の核。生命の根源。
そして――。次の瞬間。翠夏の顔色が変わった。
「樹だ」
低い声だった。
「……樹?」
正雪が眉を上げる。
翠夏は震える声で答えた。
「魂の樹だよ」
その場の空気が凍り付く。梨花も息を呑んだ。
「清代姫の霊海の底にある魂樹の根が腐ってる」
静寂が落ちた。
修仙者の魂は、最初は半ば気体、半ば液体の霊体として生まれる。やがて修練を重ねるごとに凝縮され、一つの魂核となる。正雪のような修士であれば、それは光球として霊海に存在していた。
しかし、その魂核は終着点ではない。
種なのだ。魂の種。やがて芽吹き。根を張り。枝を伸ばし。一つの樹となる。それが魂樹。光球よりも遥かに霊気を集めやすく、その後の修練を支える根源の樹である。
翠夏の霊識に映る光景。紫色の霊海。その中央に聳え立つ一本の樹。妖蛇である清代姫らしく、紫水晶のような幹を持つ美しい樹だった。
だが、その根の半分以上が黒く変色している。
腐敗。
侵蝕。
枯死。
黒い根から濃紫の妖気が漏れ続けていた。まるで病に侵された古木。長年放置された霊植そのものだった。
だが、それ以上に異様なことがある。清代姫が妖となってから、まだそれほど長い年月は経っていない。本来なら魂樹など形成されない段階である。
それなのに、そこには魂樹が存在していた。まるで誰かが外から植え付けたかのように。
不自然に。異質に。
翠夏が苦しそうに言う。
「誰かが無理やり感情を剥ぎ取ったんだ。これは普通の傷じゃない。魂根そのものが腐り始めてる。どうすれば良いか」
その言葉を聞いた瞬間。
正雪の脳裏に、幼い日の記憶が蘇った。
母と共に育てていた薬草。根腐れを起こした霊花。その時、母は言った。
――根が腐った植物は、水を与えても治らない。肥料を与えても治らない。むしろ悪化する。
――掘り出して、腐った根を切り落としなさい。健康な根だけ残せば、再び生きられる。
――だが腐った根を残せば、やがて全てが死ぬ。
正雪の瞳が鋭く細まった。
「……同じか」
翠夏が振り返る。
「え?」
正雪は静かに言った。
「腐った植物は、鉢から出して、根を洗って、腐った部分を切る。健康な根だけ残して植え替える」
その言葉が落ちた瞬間。仏堂は静まり返った。誰も口を開けない。だが全員が理解した。正雪が何を考えているのかを。
正雪は燃魂灯を見つめながら言った。
「なら魂樹も同じだ」
梨花が目を見開く。
「まさか……」
「魂樹を手術する気!?」
翠夏も青ざめた。
「待って!それ魂術じゃない!禁術だよ!失敗したら人格が消える!記憶も感情も全部なくなる!」
正雪は静かだった。そして一言だけ告げる。
「今も消え続けている。表面を直しても意味がない」
誰も反論できなかった。放置すれば滅びる。挑戦しても滅びるかもしれない。
だが。挑戦しなければ未来はない。
長い沈黙の後。翠夏が深く息を吐いた。
「……やるしかないか」
正雪は頷く。
「まず魂樹を引き上げる」
轟ッ!!清代姫の身体が大きく震えた。紫炎が爆発的に膨れ上がる。火蛇が何十匹も生まれ、空へ舞い上がった。
まるで魂樹を守ろうとしているかのようだった。
翠夏が叫ぶ。
「急いで!腐敗が広がってる!」
正雪は燃魂灯へ大量の霊力を注ぎ込んだ。黒火が揺れる。だが今回は違う。焼かない。縫わない。引く。無数の黒い炎絲が霊海の底へ沈み込んでいく。
やがて――。清代姫の頭上に巨大な幻影が浮かび上がった。
紫色の霊海。その中央に立つ一本の魂樹。
誰もが息を呑む。半分以上が黒く腐敗した巨木。まるで死病に侵された神樹だった。
翠夏が霊識で支える。正雪が黒火で固定する。
そして。ゆっくりと。魂樹が霊海から引き上げられていく。ずるり。ずるり。まるで大地から古木を掘り起こすように。
腐敗した根が姿を現した。黒い。捻じれている。腐臭にも似た妖気を撒き散らしている。
その時。翠夏が正雪を見た。
「正雪」
「お前の魂を借りていいか」
正雪は目を開く。翠夏の表情は真剣だった。
「失敗したら、お前の魂も消えるかもしれない。成功しても大きな損傷を受ける。それでもいいのか?」
しばしの沈黙。正雪は何も言わなかった。ただ静かに右手を伸ばす。霊海の奥。金色の魂核が姿を現した。
燃魂灯の試練を越え。黒炎すら焼き切れなかった魂。黄金の魂玉。それを迷いなく前へ押し出す。
翠夏は息を呑んだ。そして両手で慎重に受け取る。まるで壊れやすい宝珠を扱うように。
やがて。黄金の魂玉は形を変え始めた。
細長く。鋭く。一振りの刃へ。金と黒の光が交わる。魂だけを断つ禁断の刃。
――燃魂刀。
翠夏の喉が鳴った。
「……切るよ。切ったら戻れない」
正雪は静かに答える。
「戻る必要もない」
そして。刃が振り下ろされた。
ザァァァァッ!!
腐敗した根が断たれる。黒い妖気が噴き出した。まるで膿が破裂したようだった。紫炎が暴れる。清代姫が苦しげに身体を反らす。
だが翠夏は止まらない。
一つ。
二つ。
三つ。
腐った根を次々と切り落としていく。切断された根は燃魂灯の黒火へ呑み込まれ。灰一つ残さず消滅した。
やがて。残されたのは。傷だらけながらも、なお生きている白銀色の根だけだった。
翠夏が大きく息を吐く。
「……生きてる。まだ生きてる根が残っている」
「再生できる」
正雪は静かに頷いた。
だが。これは終わりではない。始まりだった。植物なら新しい土へ植える。だが、魂はどう回復するのだ。
正雪はゆっくりと空を見上げた。夜風が吹く。
【黒雲の渦と二つの旅路】
珍鐘寺の夜。静かな風が境内を吹き抜けていた。
清代姫の魂樹は、腐敗した根を切り落とされ、辛うじて生き残った白銀の魂根だけを残している。だが、それだけだった。傷は塞がっていない。魂は回復していない。
今はただ、清代姫自身の生命力を信じるしかない。
その時だった。静かな声が境内へ響く。
「東の海には巨大な島がある」
全員が振り返った。そこには、一人の巫女が立っていた。白衣。緋袴。夜風に揺れる黒髪。
祀花だった。
まるで最初からそこにいたかのように、自然に。
正雪が目を丸くする。
「祀花!?」
祀花は少し眠たげな目を擦りながら、小さくあくびをした。
正雪も思わず立ち上がる。
「なぜここにいる?」
その問いに、祀花は首を傾げた。
「私も、それを聞きたい」
困ったような笑みだった。そして、ゆっくりと語り始める。
「あの日――。清代姫が捕まった日、私は紗綾と一緒にいた」
正雪の表情が変わる。揚羽紗綾と一緒だったのか。
祀花は続けた。
「あなたが転送された時。紗綾も一緒に巻き込まれたのを見た。それで驚いて――」
そこで言葉が途切れる。
祀花は額へ手を当てた。
「そこから先が曖昧なの。気づいたら長い夢を見ていた。何十年も生きたような、とても長い夢」
その瞳には、まだ夢の残滓が漂っていた。夢巫女として生きた百年にも及ぶ幻生。それが本当に夢だったのか。それとも別の人生だったのか。
祀花自身にも分からない。だが確かなことが一つだけある。幻縛り術は、ようやく解けたのだ。
そして。祀花は清代姫の魂樹を見上げた。
白銀の根。傷だらけの魂。その姿を見つめながら、静かに言う。
「東の海には巨大な島がある。四季島。その島には四つの国がある」
「春の国、夏の国、秋の国、冬の国。それぞれが季節を司る国。その島は四国の島とも呼ばれる」
祀花の声は静かだった。
「その中で春の国は、再生の国とも呼ばれている。生命を育て、枯れた霊木を蘇らせ、傷ついた魂すら癒すという噂がある」
「清代姫を救うなら、そこしかないと思う」
正雪たちは顔を見合わせた。
希望だった。今まで見つからなかった答えが、そこにあるかもしれない。
だが――。その瞬間だった。
ごごごごご……。
遠く。山々の向こうから低い音が響いた。全員が振り返る。熊野渡の奥。遥か彼方の夜空。そこに巨大な黒雲が現れていた。
渦だ。まるで天そのものが穿たれたような巨大な渦。黒雲は絶えず回転しながら広がり続けている。
稲光が走る。陰気が吹き出す。その光景を見た瞬間。祀花の表情が変わった。
「……あれは」
夢見の巫女としての本能が告げていた。良いものではない。何かが起きる。
いや。すでに始まっている。
正雪も黒雲を見つめる。あの方向。幽世の気配がする。まるで死者の国そのものが現世へ近づいてきているかのような感覚だった。
祀花は静かに言った。
「私はあそこへ行く。何が起きているのか確かめなければならない」
正雪は即座に答える。
「俺も行く」
反対する者はいなかった。あの黒雲を放置できる者などいない。
だが問題はもう一つあった。清代姫である。彼女は依然として昏睡状態。魂樹の手術には成功したものの、目覚める気配はない。
今の状態で戦場へ連れて行くことは不可能だった。
その時。清代姫の父が娘を抱き上げる。母もその隣へ立った。
父は深く頭を下げた。
「この子は私たちが連れて行く。可能であれば、春の国へ送っていただければ」
母も静かに頷く。
「無理なら家へ戻ります。それでも必ず、この子を助けてみせます」
正雪は二人を見つめた後、翠夏と梨花へ視線を向けた。
「翠夏、梨花。清代姫を守ってくれ」
翠夏がため息を吐く。
「まあ、しょうがないか」
次の瞬間。ぽんっ。翠夏の身体が縮み、河童の壺へ飛び込んだ。
「おい、梨花。早く」
梨花も苦笑する。
「また壺生活ね」
そう言って翠夏に続き、壺の中へ入った。正雪はその壺を清代姫の母へ手渡す。
クルルが大きく翼を広げた。白と黒の巨大な翼。成鳥となった蛇頸鳥。海風が吹き荒れる。
清代姫の父は娘を抱えたまま、その背へ乗る。母も壺を抱えた。春の国へ向かう者たちの旅が始まろうとしていた。
正雪はクルルの前へ歩み寄る。
そして真剣な顔で言った。
「クルル。頼みがある」
クルルが首を傾げる。
「クルル?」
正雪は肩へ手を置いた。
「今回はゆっくりでいい。本当にゆっくりでいい」
「絶対に無茶な飛び方をするな。急旋回するな。宙返りするな。落とすな」
クルルはしばらく考えるように首を左右へ揺らした。
そして。
「クルルゥ」
と一声鳴いた。まるで理解したと言うように。正雪は半信半疑だった。だが今回のクルルは違った。翼をゆっくり広げる。風を受ける。静かに。本当に静かに。空へ飛び立った。
その姿を見送りながら。正雪は再び黒雲の渦を見上げる。
熊野渡の奥。天を覆う闇。幽世の門。世界の異変。すべての答えが、あの渦の先にあるはずだった。
魂を救う旅。そして世界の異変を追う旅。二つの道はここで分かれる。
それぞれの運命を乗せて、静かに新たな局面へと進もうとしていた。




