表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
41/56

第41話 珍鐘寺、再び

【珍鐘寺の妖火】


 夜天を裂くように、一羽の巨禽が雲海を翔けていた。


 白と黒の羽毛を大きく広げ、海より吹き上がる霊風をその翼へ巻き込みながら、蒼穹を貫いてゆくその姿は、まるで太古の海より蘇った神獣の化身であった。


 蛇頸鳥――クルル。


 かつて正雪と別れた頃は、まだ羽も揃わぬ幼鳥に過ぎなかった。


 しかし今は違う。


 その体躯は数倍にも膨れ上がり、鋼鉄のごとき翼を広げれば、小山ひとつを覆い隠せるほどの威容を誇っていた。


 長くしなやかな頸。獲物を裂く鋭い鉤嘴。そして本来の蛇頸鳥には存在しない、異形の肉冠。その全身には濃密な海霊気が纏わりつき、一度羽ばたくたびに青白い霊光が飛沫のように散る。


 速度だけを語るならば、尋常の霊禽など比較にならない。


 だが――。


 飛翔の技術だけは絶望的であった。


 「うおっ!? 待て待て待てっ! クルル!! 傾いてる!!」


 正雪は必死に羽毛へしがみついた。


 次の瞬間。


 ぐわん――!! クルルが嬉々として急旋回する。天地が反転した。星空と山脈が混ざり合い、視界そのものが裏返る。


 「うわあああああっ!!」


 半ば宙へ放り出された正雪は、涙目になりながら翼の付け根へ抱きついた。眼下には遥か彼方の山々。落下すれば参階闘師といえど無事では済まない高さである。


 「クルルルルゥーーッ!!」


 当のクルルは楽しげに鳴いていた。完全に遊んでいる。


 「お前っ……飛ぶの下手すぎるだろ……!」


 抗議の声は轟風に掻き消された。だが速度だけは凄まじかった。風が悲鳴を上げる。雲を裂き、山を越え、河を跨ぎ、本来なら数日を要する行程を、力任せに踏破していく。


 そして――。珍鐘寺へ辿り着いた頃には、正雪の顔色は死人のようになっていた。


 「……気持ち悪い……」


 石段へ降り立った瞬間、彼は膝をついた。胃の中身がひっくり返りそうだった。参階闘師の肉体ですら耐えられない。


 その惨状に、翠夏は呆れ果てた顔を向ける。


 「参階闘師が乗り物酔いって、どうなの……」


 梨花も眉を寄せた。


 「クルルの飛び方が悪いのよ」


 「クルルゥ?」


 当の本人は首を傾げるばかりである。悪気など欠片もない。だが、そんなことを考えている余裕は次の瞬間に吹き飛んだ。


 正雪の視線が、寺の境内を捉えたからだ。


 「――っ!!」


 熱い。否。空気そのものが焼けていた。


 珍鐘寺の中央。古より立ち続ける巨大な石柱へ、一人の少女が縛り付けられている。蛇尾を持つ清代姫。その全身を、濃紫の妖火が包み込んでいた。


 柱へ巻き付いた火蛇が唸り声を上げる。周囲の石畳は溶け落ち、空間さえ歪んでいる。


 清代姫は苦しげに頭を垂れていた。肌は焼け、唇は乾き、呼吸は乱れている。そして、何よりその瞳だけは異様なほど虚ろだった。


 怒りもない。憎しみもない。悲しみすら存在しない。


 空洞。


 魂の一部が抜け落ちてしまったかのような目。


 正雪は歯を噛み締めた。


 「……遅かったか」


 「違う」


 翠夏が即座に否定する。


 「まだ完全には壊れてない」


 梨花も静かに頷いた。


 「でも……かなり危険ね」


 正雪は炎を見つめる。そして、理解した。これは外から加えられた火ではない。清代姫自身の妖火だ。


 本来ならば彼女が自在に制御するはずの炎。だが今、その均衡は完全に崩壊している。原因はまだ見えない。だが魂の一部が毀損していることだけは明らかだった。


 記憶か。信念か。感情か。


 そして正雪は、清代姫の瞳を見て確信する。欠けたのは――負の感情だ。


 かつて彼女は怒っていた。失望していた。憎んでいた。だが今、その痕跡は一欠片も残っていない。


 怒り。憎悪。嫉妬。悲哀。そうした感情は、すべての人間にとって単なる心の働きではない。魂を支える柱の一つである。


 光だけでは人は立てない。闇だけでも人は壊れる。


 歓喜と悲哀。慈悲と憤怒。その均衡によって人の霊海は安定する。


 だが清代姫は違った。何者かによって、“負の感情”だけが強引に剥ぎ取られている。それは救済ではない。魂を引き裂く暴力だ。


 正雪は低く呟いた。


 「……できない、と、しない、は違う」


 怒らないことを選ぶのと、怒る能力そのものを奪われることは全く別だ。後者は魂の欠損に他ならない。だからこそ。清代姫の妖火は制御を失った。


 怒れない。


 憎めない。


 悲しめない。


 だが妖火だけは残されている。行き場を失った炎が、今度は主自身を焼いているのだ。


 翠夏が頭を抱えた。


 「これはまずいよ……、魂の均衡そのものが崩れてる」


 梨花も苦々しく頷く。


 「しかも妖火は普通の火じゃない。水では消えないわ」


 実際、境内には大量の水跡が残されていた。清代姫の両親が必死に消火を試みたのだろうか。しかし結果は逆だった。妖火は水を呑み込み、さらに激しく燃え上がっている。


 正雪は清代姫を見つめた。炎の中で。彼女は苦しんでいる。それなのに。叫ぶことすらできない。感情を失ったせいで、“助けを求める怒り”すら奪われていた。


 その光景に、正雪の胸奥で何かが軋んだ。


 風が吹く。妖火が揺れる。クルルですら本能的な危険を感じたのか、低く唸っていた。


 正雪は静かに目を閉じる。考えろ。まず優先すべきは火を止めること。魂の修復はその後だ。だが、どうやって。水は効かない。霊術も逆流する可能性が高い。下手に触れれば妖火はさらに暴走する。


 その時。翠夏がぽつりと呟いた。


 「……燃えてるのは火じゃない」


 正雪が目を開く。翠夏の瞳は真剣だった。


 「感情だ」


 「なら、止める方法も普通じゃない」


 その言葉に。正雪の脳裏に、ある黒い炎が蘇る。


 ――燃魂灯。魂そのものへ干渉する禁器。そして。己の魂を焼き尽くしながらも、最後には黄金へ昇華させた地獄の炎。


 正雪の瞳が静かに細められた。


 「……もしかすると」


 「方法があるかもしれない」



【燃魂の絲】


 「――燃魂灯!?」


 翠夏の声が境内へ響き渡った。小さな顔は真っ青になり、その瞳には本気の焦りが宿っている。


 「ダメだよ!正雪が耐えられたからって、他の人まで耐えられると思わないで!」


 翠夏は勢いよく正雪へ詰め寄った。


 「そもそも正雪の魂がおかしいんだからね!?普通の修士なら、とっくに魂が灰になってるよ!」


 梨花も眉を寄せる。その言葉は間違っていなかった。燃魂灯は魂そのものを灼く禁器。肉体ではなく、存在そのものを灼く地獄の炎。


 正雪が生き残ったこと自体、本来なら奇跡だった。


 だが。正雪は清代姫を見た。紫の妖火は今なお彼女を蝕み続けている。火蛇が唸り、石畳を溶かし、空気を歪ませる。


 そして何より。あの空虚な瞳。怒りも。恐怖も。助けを求める感情すら存在しない。


 正雪は低く言った。


 「……なら、どうする」


 翠夏が言葉を失う。


 正雪は続けた。


 「このままだと死ななくても終わる。だが、魂の均衡が壊れたままなら、認知そのものが崩れる。記憶も人格も感情も、少しずつ擦り切れていく。生き残っても、それは本当に清代姫なのか?」


 風が吹いた。妖火が揺れる。翠夏は唇を噛み締める。


 分かっていた。他に方法がないことを。長い沈黙の末。翠夏は深く息を吐いた。


 「……わかった。特別な時には、特別な方法を使うしかないか」


 その声は重かった。正雪は静かに懐へ手を入れる。


 取り出されたのは黒き古灯。燃魂灯。深海の二妖から奪った禁器だった。灯火はまだ眠っている。だがその存在だけで周囲の空気が冷えた。まるで魂そのものが拒絶しているかのようだった。


 清代姫の両親が息を呑む。梨花も無意識に距離を取った。クルルですら羽毛を逆立て、低く唸る。


 正雪は慎重に燃魂灯を地面へ置いた。清代姫の正面。紫炎の揺れる石柱の前。


 すると翠夏が慌てて叫んだ。


 「近い!もう少し離して!」


 「近すぎると清代姫の魂そのものを燃やしちゃう!」


 正雪は静かに位置を調整する。数寸。ほんの僅かな差。だがその差が生死を分ける。翠夏の額には汗が滲んでいた。


 「……そこ、そのくらいでいい」


 翠夏は燃魂灯を睨みながら言う。


 「黒火を引き出して、でも一筋だけ。本当に少しでいい」


 正雪はゆっくりと霊力を流し込んだ。すると。燃魂灯の内部で黒い火が揺れた。


 ぼっ――。暗い。冷たい。それなのに見ているだけで魂が灼ける。黒煙のような炎が灯芯から揺らめく。


 「多い!」翠夏が鋭く叫んだ。「減らして!」


 正雪は即座に霊力を絞る。黒火はさらに細くなった。糸のような炎。煙のような火。不安定に揺れる極細の黒線。


 翠夏が頷く。


 「そう……それだ。そのまま清代姫の霊海へ通して」


 正雪の指先が微かに震えた。燃魂灯は危険すぎる。少しでも制御を誤れば、清代姫の魂は消える。


 だが。やるしかない。黒い炎の絲が、ゆっくりと清代姫の眉間へ伸びていく。


 紫妖火が暴れた。火蛇が威嚇するように唸る。しかし黒火は消えない。


 静かに。ゆっくりと。魂の最奥へ沈んでいく。その瞬間。清代姫の身体がびくりと震えた。


 「っ……!」


 梨花が息を呑む。両親も拳を握り締めた。だが誰も動けない。下手に霊力を乱せば全てが終わる。今この場で燃魂灯を扱えるのは、魂を焼かれた経験を持つ正雪と、霊海へ干渉できる翠夏だけだった。


 時間が異様に長く感じられる。一瞬が一刻のようだった。汗が落ちる音さえ聞こえそうな静寂。


 正雪は集中を切らさない。翠夏も霊識を清代姫の霊海へ沈め続けている。


 そして気付いた。黒火は焼いているのではない。縫っている。引き裂かれた魂の断面を。欠けた感情の痕跡を。崩れた均衡を。


 少しずつ。本当に少しずつ。繋ぎ直していた。燃魂灯は本来、魂を焼く邪器。だが極限まで制御された黒火は、不純を焼き払い、歪んだ霊海を矯正する。


 それは正雪自身が地獄の果てで証明した真理だった。


 翠夏が低く呟く。


 「……すごい。妖火の暴走が少し弱まってる」


 正雪は答えない。一瞬の乱れも許されない。


 黒火の絲は静かに揺れていた。まるで闇そのものが針と糸となり、壊れた魂を縫い合わせているかのように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ