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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第54話 天狗塚の地下墓

【天狗塚の地下墓所】


 正雪たちが地下黒滝の水潭で、黒猪神の残された魂魄と対峙していた、その頃――。


 剣山のさらに奥深く。天狗塚の地下でも、誰ひとり知らぬ異変が、静かに進行していた。


 そこは、広大な地下墓所であった。


 天井は遥か闇の彼方へと消え失せ、切り立った岩壁は果てなく続いている。巨大な空洞は、まるで山そのものを内側から抉り抜いたかのようで、人の尺度では計れぬほど広大だった。


 その静寂の中心に――。


 一体の巨獣が、永い眠りについていた。


 黒き猪。


 いや、それはもはや猪ではない。一つの山であった。


 伏しただけで丘を成し、漆黒の剛毛は黒曜石の岩肌のような光沢を放つ。牙は千年杉にも比肩するほど巨大で、その威容は死してなお天地を圧する。


 そして、その胸を貫くように、一振りの霊剣が深々と突き刺さっていた。白銀の刀身は一片の錆もなく、澄み切った霊光を静かに放っている。


 幾百年、あるいは千年を超える歳月を経たはずでありながら、その輝きはまるで昨日鍛えられた神剣のようであった。


 異様なのは、それだけではない。黒猪の肉体もまた、一切朽ちていなかった。


 腐敗することなく、骨となることもなく、胸の傷口さえ封印された当時のまま残されている。


 この地下だけは、時の流れから切り離されているかのようだった。生でもない。死でもない。永遠に停止した時。


 こここそが――黒猪神の肉身を封じた地下墓所だった。


 ◇ ◇ ◇


 地上では、この山を古くから「天狗塚」と呼んできた。


 人々は語る。ここには天狗の王が眠る。あるいは、天狗一族の祖が眠る聖なる墓所である、と。ゆえに近づいてはならぬ禁足の地として、長く畏れられてきた。


 しかし、その伝承を最も信じていなかったのは、他ならぬ天狗たち自身であった。


 なぜなら、歴代の長だけは真実の一端を受け継いでいたからである。


 ――地下には、大妖の王が眠る。

 ――決して目覚めさせるな。

 ――封印を乱してはならぬ。

 ――ただ静かに、この地を守り続けよ。


 受け継がれてきたのは、それだけだった。眠る妖が何者なのか。なぜ封じられたのか。その封印を誰が施したのか。


 肝心な真実は、遠い昔に失われていた。


 だからこそ若い天狗たちは、古老の言葉を半ば伝説として聞き流していた。


 本当に地下に何かあるのか。ただの戒めではないのか。そう考え、幾度となく天狗塚を調べた者もいた。


 だが、誰ひとり地下墓所へ辿り着くことはできなかった。封印は巧妙に隠され、入口そのものが完全に秘匿されていたからである。


 数百年もの間、その秘密は誰にも破られなかった。


 だが――今日、その歴史が覆された。


 地下墓所へ至る道は、天狗塚には存在しなかった。入口は、思いも寄らぬ場所にあったのである。六右衛門狸一族が代々守り続けてきた、あの地下穴。


 その果てこそが、この封印墓所へ通じる唯一の道だった。


 狸たちは代々、その封印を守ってきた。


 だが、その先に眠る存在が、天狗一族さえ畏れ続けた大妖の王であることまでは誰も知らなかった。


 ◇ ◇ ◇


 しかし、地下墓所へ辿り着いた天狗たちを待っていた驚きは、それだけではなかった。すでに先客がいたのである。


 墓所の対岸。古びた法衣をまとった五人の僧。退魔の名刹・古剣寺の一団だった。


 さらに別の岩場には、錫杖を携えた五人の山伏。石鎚修験衆。


 三つの勢力は、それぞれ異なる道を進みながらも、ほぼ同じ刻にこの地下墓所へ辿り着いていた。


 互いの姿を認めた瞬間。誰もが言葉を失う。しかし次の瞬間には、それぞれの手が自然と武器へ伸びていた。


 張り詰めた殺気。無言の牽制。わずかな動きすら許さぬ緊張が、その場を支配する。


 だが――。


 三勢力の視線は、やがて一つの場所へ吸い寄せられていった。


 巨大な黒猪。その胸に突き立つ、白銀の霊剣。誰の目にも明らかだった。あれこそが、伝説の霊剣。


 長き歳月、多くの者が追い求め続けた至宝である。


 だからこそ、誰も動けなかった。最初に剣へ手を伸ばした者は、封印の危険を引き受けるだけではない。


 残る二勢力すべてを敵に回すことになる。


 黒猪が蘇るかもしれない。新たな封印が発動するかもしれない。あるいは、この地下墓所そのものが崩壊する可能性すらある。


 誰にも予測できない。ゆえに動けない。ゆえに、誰も動かない。


 地下墓所には、不気味な静寂だけが満ちていた。


 天狗衆。古剣寺。石鎚修験衆。三勢力は互いを睨み据えながら、一歩も譲らない。


 均衡は、薄氷よりも脆かった。誰かが踏み出せば。その瞬間、数百年守られてきた封印も、この静寂も、一息に崩れ去るだろう。


 そして――。その場にいた誰一人として気付かなかった。巨大な黒猪の胸奥。霊剣に貫かれた心臓のさらに深く。


 ごく微かに。本当に微かに。何かが脈打ったことを。


 ――どくん。


 それは心臓の鼓動にも似ていた。あるいは、永き眠りの底から目覚めようとする、大妖の息吹だったのかもしれない。


 しかし、その音はあまりにも小さい。吹き抜ける地下風と、岩肌を伝う雫の音に紛れ、誰の耳にも届かなかった。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。黒猪神は、まだ終わってはいない。


 地下黒滝で正雪たちが対峙している黒猪神の魂魄と、この地下墓所に封じられた巨大な肉身。その二つは、今なお見えぬ因果によって結ばれていた。


 魂が滅びぬ限り肉身は朽ちず、肉身が封じられる限り魂もまた、この世から完全に消え去ることはない。


 誰も知らぬまま、その二つは静かに共鳴し始めていた。




【封印を破る一歩】


 地下墓所は、死者の吐息さえ聞こえてきそうな静寂に包まれていた。


 中央には、山のごとき巨躯を横たえる黒猪神。その心臓を貫くように、白銀の霊剣が静かに霊光を放っている。


 三勢力、十五名。誰もが武器を手にしながらも、一歩を踏み出せずにいた。


 だが――均衡とは、いずれ必ず崩れるものである。


 長い沈黙を破ったのは、天狗衆を率いる老天狗、風伯坊だった。胸元まで垂れた白い眉を風に揺らし、白い翼をゆるやかに広げる。


 数百年を生きた大天狗は、霊剣を見据えたまま静かに口を開いた。


 「この霊剣は、天狗塚の地下に眠っておる。」


 低く響く声が、墓所の岩壁に反響する。


 「ならば、この地を代々守ってきた我ら天狗が管理するのが道理であろう。」


 その言葉に、石鎚修験衆の長・鬼童坊行円が鼻を鳴らした。熊を思わせる巨躯をわずかに揺らし、背負った金剛杖へ手を添える。


 「道理、か。」


 口元に皮肉な笑みが浮かんだ。


 「場所が天狗塚だから天狗のものだと言うなら、この剣山の岩も木も、すべて天狗の持ち物になるではないか。」


 風伯坊の眼光が鋭く細まる。


 「では、修験者のものだと言うつもりか。」


 「いや。」


 行円は首を横に振った。


 「少なくとも独り占めする気はない。」


 その視線は、霊剣へと向けられる。


 「だが、あの剣は封印の要だ。軽々しく抜けば、何が起こるか分からぬ。」


 その時。乾いた音が静寂を打ち破った。


 ――からり。


 古剣寺の長老・玄海が、手にした数珠を静かに繰ったのである。老僧は穏やかな微笑を浮かべたまま言った。


 「お二人とも、勘違いなさっておる。」


 その眼差しは、一瞬たりとも霊剣から離れない。


 「妖を封じ、霊剣を護る。それは古来より仏門の務め。ゆえに、この剣は古剣寺が預かるのが最も相応しかろう。」


 風伯坊が鼻で笑う。


 「随分と都合のよい理屈よ。」


 行円も苦笑を漏らした。


 「結局、お主も欲しいだけではないか。」


 玄海は否定しなかった。静かな笑みだけが返答だった。


 三人とも理解している。口にする大義は違えど、胸の内にある願いは一つ。


 ――霊剣を手に入れること。


 それだけだった。再び静寂が降りる。弟子たちもまた、それぞれ武器へ手を掛けた。


 張り詰めた空気は、今にも裂けそうな弓弦のようだった。


 本来なら、この場で退くべきだった。本来なら、封印を守るべきだった。しかし、時はあまりにも長く流れ過ぎた。


 数百年受け継がれてきた「封印を乱すな」という戒めだけが残り、その理由は、疾うの昔に忘れ去られていた。


 なぜ封じたのか。なぜ抜いてはならぬのか。それを知る者は、もう誰もいない。


 残されたのは伝説だけ。大妖を討ち滅ぼした霊剣。神すら斬ると謳われた至宝。


 その誘惑は、長き歳月の中で戒めを侵食していた。


 そして――。最初の一歩を踏み出したのは、本来なら封印を守るべき者だった。天狗衆である。


 「くだらぬ問答よ。」


 老天狗は翼を大きく広げた。


 ――轟ッ!!暴風が地下墓所を駆け巡る。岩屑が舞い、砂塵が渦を巻いた。


 次の瞬間。風伯坊の姿が掻き消える。否。速すぎて、誰の目にも映らなかった。一陣の風となった老天狗は、一直線に黒猪神の巨躯へ飛び移る。


 「風伯坊!」


 行円が怒号を放つ。しかし、すでに遅い。老天狗は黒猪神の肩へ降り立ち、霊剣まであと数歩の距離へ迫っていた。


 「抜かせるか!」


 行円も地を蹴る。轟音とともに岩盤が砕け、巨体とは思えぬ速度で黒猪神の背へ飛び乗る。


 さらに。玄海も速やかに印を結んだ。


 「阿弥陀仏。」


 数珠が宙へ放たれる。無数の珠は金色の法輪へと変じ、風伯坊へ向かって唸りを上げた。


 「邪魔をするな!」


 風伯坊が袖を払う。鋭い風刃が幾筋も生まれ、法輪と正面から激突した。


 轟音。閃光。衝撃波が墓所全体を激しく揺るがす。その一撃が、均衡を打ち砕いた。


 「かかれ!」


 誰かが叫ぶ。その声を合図に、天狗衆が一斉に舞い上がる。石鎚修験衆は金剛杖を振りかざし、古剣寺の僧たちは護法の法器を構えて突撃した。


 三勢力が激突する。


 風刃が岩壁を裂き、護符が炎となって宙を舞う。法力が奔流となって激しくぶつかり合い、金剛杖と錫杖が火花を散らした。


 怒号。咆哮。術法。霊力。数百年もの間、沈黙を守り続けてきた地下墓所は、一瞬にして修羅場と化した。


 その混戦のただ中でも、風伯坊は止まらない。霊剣だけを見据え、迷いなく歩を進める。


 あと三歩。あと二歩。あと一歩――。


 その瞬間だった。


 ――どくん。


 黒猪神の胸奥で、再び何かが脈打った。今度は、はっきりと。風伯坊の表情が凍り付く。


 「……何だ?」


 足裏から、熱が伝わってくる。黒猪神の巨体が、僅かに震えた。それは、眠る巨人が身じろぎしたような、小さな震動だった。


 だが、激戦の渦中にある者たちは誰一人として気づかない。いや、仮に気づいていたとしても、もはや立ち止まることはできなかった。


 欲望は、理性を呑み込み。戒めは、とうに忘れ去られていた。


 その時、白銀の刀身に刻まれた古き霊紋が、蒼白い光を放つ。


 まるで千年の眠りから目覚めるように、封印そのものが静かに応え始めていた。


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