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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第4話 熊野彩弥香

【結界に牙を剥くもの】


 正雪が村へ辿り着いた時。山間には朝霧が立ち込め、空気は肌を刺すように冷えていた。村を囲う結界は、淡い青光を放ちながら静かに脈動している。


 だが、その光景の前で、正雪は思わず足を止めた。巨大な獣がいた。結界へ牙を突き立て、狂ったように噛みついている。


 「……っ!」


 低く唸るその影は、狸だった。だが普通の狸ではない。身の丈は正雪の胸ほどもあり、全身の毛は脂のような黒汚れに塗れ、赤く濁った双眸には理性の欠片も残っていない。


 爪は岩すら削り裂きそうな鋭さを持ち、その身体からは腐臭混じりの妖気が溢れていた。完全に妖へ堕ちた獣。


 ――妖狸。


 「た、狸だ……でかすぎる……!」


 物陰に隠れた村人が震える声を漏らす。妖狸は唸り声を上げながら、道斎の張った結界へ体当たりを繰り返した。


 轟ッ――!!


 結界が大きく歪む。霊気同士が擦れ合い、まるで悲鳴のような音を響かせた。


 だが。次の瞬間には、青白い光が再び形を取り戻す。道斎の結界は強固だった。揺らいでも、崩れない。正雪はそれを見て、改めて師の力量を実感する。


 「結界は……大丈夫なのか?」


 村長が苦々しい顔で答えた。


 「今は持っております。しかし……あの妖狸、執念深い」


 老人の顔には疲労が滲んでいた。


 「何日も結界を噛み続けておる。このままでは、いつまで保つか……」


 そして、正雪へ頭を下げる。


 「若者よ。どうか退治してはくれぬか」


 正雪は深く息を吸った。師匠はいない。今は自分一人でやるしかない。胸の奥で霊力を巡らせる。


 火。水。呼吸。道斎から教わった循環法を静かに整える。


 「……わかった」


 正雪は頷いた。


 「行ってくる」


 そして。結界の外へ、一歩踏み出す。その瞬間。妖狸の赤い瞳が、ぎろりと正雪を捉えた。結界への執着を捨てた獣は、新たな獲物を見つけたのだ。


 巨大な口が開く。


 「ギャアアアァッ!!」


 耳を裂くような咆哮。妖狸は地を蹴り、凄まじい速度で跳びかかってきた。正雪は瞬時に印を結ぶ。右手を突き出す。


 「火玉・一落!」


 轟ッ!!空気が歪んだ。掌から放たれた火球が、流星のように一直線に飛ぶ。


 火弾は妖狸の肩へ直撃し、爆ぜた。黒煙と焼けた毛皮が舞う。だが。妖狸は止まらない。むしろ痛みに狂喜したように唸り、地面を蹴って横へ回り込む。


 速い。獣特有の不規則な動き。死角へ潜り込み、鋭爪が正雪の首筋を狙う。


 「くっ!」


 反射的に左手を払う。体内の水霊力を一気に集束。


 「水転盾!」


 透明な水膜が瞬時に展開された。ガァン!!妖狸の突撃が水盾へ激突する。水面のように波打つ盾。だが、完全には破られない。


 その一瞬。正雪は好機を逃さなかった。


 「はああっ!」


 右拳へ霊力を集中。霊力による身体強化――武術の基本。拳が熱を帯びる。そして。妖狸の柔らかな腹へ、渾身の一撃を叩き込んだ。


 鈍い衝撃音。妖狸の目が見開かれる。巨体が横へ吹き飛んだ。地面を何度も転がり、苦悶の悲鳴を上げる。


 「ギィィッ……!」


 そして獣は本能的に理解した。この相手は危険だと。妖狸は尾を丸めるようにして山奥へ逃げ去っていった。


 静寂。その後。村に歓声が爆発した。


 「やったぞ!」


 「助かった……!」


 「妖狸を追い払った!」


 村人たちが涙を流しながら正雪を囲む。安堵。興奮。感謝。その全てが、正雪へ向けられていた。


 正雪は照れ臭そうに頭を掻く。修仙者として、見返りを求めるつもりはない。だが。誰かに喜んでもらえるのは、やはり嬉しかった。胸がじんわり温かくなる。


 (早く師匠に報告しよう)


 きっと褒めてくれる。「よくやった」と笑ってくれる。そんな期待を胸に、正雪は草庵への山道を急いだ。



【やるべきこと、やるべからざること】


 竹林を抜け、草庵へ辿り着く。


 「師匠、ただい――」


 その瞬間。正雪の言葉は止まった。空気が重い。鼻を刺す濃密な鉄臭。血だ。


 視線の先。座卓にもたれかかるように、道斎が座っていた。胸元から大量の血が流れ、畳を真紅に染めている。


 「……し、師匠?」


 心臓が凍りついた。正雪は駆け寄る。道斎はゆっくり目を開けた。その瞳からは、既に霊光が消えかけていた。


 「……正雪」


 声は掠れている。砂が擦れるような弱々しい音。


 「戻ったか……」


 「誰にやられたんですか!?」


 正雪は震える声を上げた。


 「待ってて! 治療を――丹薬は!? 霊符は!?」


 慌てて荷を探ろうとする。だが。道斎は静かに首を振った。


 「遅い……」


 薄く笑う。


 「これはもう……術ではどうにもならぬ傷だ」


 「嫌だ……!」


 「……こうして最期を迎えるのも、悪くはない」


 老人は震える指を持ち上げる。そして正雪の胸へ、そっと触れた。その温もりが、あまりにも弱々しかった。


 「正雪……よく聞け」


 「師匠……」


 「これが、最後の教えだ」


 道斎は息を吐く。血が唇を濡らした。


 「人を害する心を持つな」


 「……」


 「復讐も、憎しみも、お前の修仙の道を閉ざす」


 正雪の目から涙が零れ落ちる。だが道斎は続けた。


 「……だがな」


 その声が少しだけ強くなる。


 「人を防ぐ心も、決して失うな」


 「え……」


 「お前は優しい」


 老人はかすかに笑った。


 「だが、むやみに善人ぶるな」


 その瞳には、深い後悔が滲んでいた。


 「やるべきことをやれ。やるべからざることをやるな」


 その言葉は重かった。


 「わしは……それができなかった」


 道斎の呼吸が浅くなる。


 「どこかで全てを許そうとしすぎた……」


 血が畳へ滴る。


 「だから、お前には……同じ過ちを犯してほしくない……」


 「師匠、喋らないで!」


 正雪は叫ぶ。


 「お願いだから……!」


 だが道斎は静かに首を振った。


 「……わしの仇を討つ必要はない」


 「……っ」


 「あやつらは強い。今のお前とは……天地ほど差がある」


 その直後。道斎は最後の力を振り絞り、床を叩いた。霊力が走る。草庵の土間がわずかに割れ、小さな木箱が姿を現した。封じられていた箱だ。


 道斎は震える手で蓋を開ける。


 中には一つの印籠と、古びた巻物。


 「この印籠は……霧獣法流の入門証だ」


 血を吐きながら言う。


 「持っていけ……」


 そして巻物へ手を伸ばした瞬間。不意に。柱の陰から、女の声が響いた。


 「――その巻物は、“六羽蝶衣”よ」



【六羽蝶衣と修心者の誓い】


 いつの間に現れたのか。一人の女が、草庵の柱にもたれかかっていた。灯火に照らされた黄色の衣が、揺れるたびに淡い金色を帯びる。その背には細身の霊剣。刃に宿る妖しい光が、草庵の薄闇へ冷たい筋を走らせていた。


 隣には、長身の男。黒衣を纏い、感情を削ぎ落としたような目でこちらを見下ろしている。


 二人が現れた瞬間、草庵の空気そのものが変わった。まるで冬の湖に沈められたような冷気。呼吸すら重くなる。


 「……お、お前たち……!」


 正雪が叫ぶより早かった。男が静かに手を伸ばす。


 その瞬間。道斎の掌にあった巻物と印籠が、重力を失ったように宙へ浮かび上がった。吸い寄せられる。まるで最初から、持ち主を選んでいたかのように。


 「……っ!」


 正雪は反射的に前へ出ようとした。だが動けない。二人から放たれる圧倒的な霊圧が、身体を地面へ縫い付けていた。


 男は巻物を受け取ると、一瞥した。その目に一瞬だけ鋭い光が宿る。そして、何の躊躇もなく霊袋へ収めた。


 一方で。印籠だけは、興味を失ったように正雪の足元へ放り投げる。乾いた音が畳に響いた。


 「空っぽになった霧獣法流の証など、価値はない」


 冷淡な声だった。女は、その様子を見ながら、ふっと笑う。妖艶で。どこか人を惑わす笑み。


 「じゃあね、坊や」


 彼女の金色の瞳が、正雪を映す。


 「師匠の言葉――忘れないことね」


 その声は妙に優しかった。だからこそ、余計に恐ろしかった。


 次の瞬間。二人の姿が霞む。霧が溶けるように。最初から存在していなかったかのように。草庵から完全に消え去った。静寂だけが残る。


 「……っ!」


 正雪は歯を食いしばった。悔しい。圧倒的だった。何もできなかった。怒り。無力感。そして、自分の弱さへの憎しみ。


 それらが胸の奥で渦を巻き、霊力のように荒れ狂っていた。


 だが。その時。背後から微かな呼吸音が聞こえる。


 「……師匠!」


 正雪は慌てて振り返った。道斎の胸は、まだわずかに上下していた。しかし、そのたびに血が畳へ広がっていく。


 赤。あまりにも赤かった。正雪は師の袖を握る。まだ温かい。なのに。もう届かないほど遠くへ行こうとしている。


 「師匠……!」


 道斎は薄く目を開けた。そして、苦しげに笑う。あの、いつもの。どこか憎たらしいほど優しい笑みだった。


 「正雪……」


 声が掠れる。


 「わしは……お前の師で……よかった」


 その言葉を最後に。道斎の瞳から、完全に光が消えた。



【旅立ちの決意】


 死が訪れる音は、あまりにも静かだった。まるで世界から、色と音だけが消えてしまったようだった。


 正雪は動けなかった。師の亡骸を抱きしめたまま、ただ座り続ける。どれほど時間が流れたのか分からない。温もりは少しずつ失われていく。それでも正雪は、離すことができなかった。


 やがて。完全に冷たくなった頃。正雪はゆっくりと立ち上がった。震える手で、道斎の身体を横たえる。衣を整え。静かに、その瞼を閉じた。


 涙はもう出なかった。泣き尽くしてしまったのかもしれない。胸の奥に残っていたのは、一つの炎だった。それは復讐ではない。憎悪でもない。もっと静かで。もっと深いもの。


 正雪は畳へ深く頭を下げた。


 「……師匠」


 声は静かだった。だが、その決意は揺らがない。


 「私は、必ず――心を正す修仙者になります」


 拳を握る。


 「むやみに善人ぶるのではなく、やるべきことをやり、やるべからざることをやらない」


 それは、道斎が命を賭して遺した教え。正雪は顔を上げる。


 「師匠のような……いや」


 その瞳に、静かな光が宿る。


 「師匠を超える“修心者”になります」


 足元に落ちていた印籠を拾い上げる。掌に収まる小さな印籠。その表面には、獣の紋様が刻まれていた。霧獣法流。師が遺した最後の道標。正雪はそれを強く握り締める。


 そして。朝靄が晴れ始めた東の空を見つめた。淡い光が山々を照らし始めている。新しい一日の始まり。


 「……霧獣法流へ行きます」


 その言葉は小さかった。だが。薄明の空よりも静かに。そして確かに。


 少年の未来へ続く道を照らしていた。



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