第36話 闇、終わらぬもの
【闇】
静かな闇――いや、静寂という言葉すら生ぬるい。そこには音も、光も、風も、温度もなかった。時間の流れさえ存在しない。
ただ、果てのない虚無だけが広がっている。常盤正雪は、ゆっくりと意識を取り戻した。
「……」
声を出そうとした。だが、自分の喉がどこにあるのかすら分からない。目を開こうとするが、何も見えない。
いや、閉じているのか、開いているのかさえ判別できなかった。正雪は必死に瞼へ力を込める。
もっと。もっと強く。
だが、視界には一筋の光すら生まれない。
「ここは……どこだ……」
呟いたはずの声は、闇に吸われ、消えた。時間の感覚が崩れていた。一瞬なのか。百年なのか。それすら分からない。
ただ、暗闇だけが続いている。
ふと。正雪の脳裏に、最後の光景が蘇った。
――六羽蝶衣。紫紺の光。涙を流す紗綾。そして、光の中へ消えていく彼女の姿。
「ああ……」
あの瞬間だけが、異様に眩しかった。思えば、それが最後の光だったのかもしれない。
再び静寂。闇は深く、重い。まるで世界そのものが死んだようだった。
【永劫の刑罰】
どれほど時が流れたのか。不意に、闇の奥から音が落ちた。
――すぅ……すぅ……蛇が獲物へ息を吹きかけるような、不快な呼吸音。
正雪の意識が鋭く震える。分かる。忘れるはずがない。蛇頭の妖の声だ。
「魂を燃やす灯が……ようやく整った」
低く湿った声が、闇そのものを震わせる。
続いて。硝子を擦るような女の声。
「随分待たせてくれたわねぇ」
女妖が、愉悦を滲ませながら笑った。
「早く始めましょう。私はもう待ちきれない」
蛇男が低く唸る。
「焦るな」
その声には、奇妙な落ち着きがあった。
「こいつは、容易く壊してはならぬ。至高の供物なのだからな」
キィ……ン。どこかで金属が擦れる音がした。
その瞬間。
「ッ――!!」
正雪の脳髄に、未体験の激痛が走った。頭蓋を内側から焼かれる。脳髄に焼けた鉄杭を突き込まれる。
そんな痛みだった。
「がぁぁぁぁぁッ!!」
絶叫が闇へ響く。
だが痛みは止まらない。それは波のように押し寄せ、引くたびにより強固な絶望を連れてくる。
燃える。裂ける。砕ける。
肉体ではなく、魂そのものが不可視の刃で削り取られていく。
「ぁ……ッ……!」
正雪の意識が崩れかける。
そのとき。蛇男の冷徹な声が再び響いた。
「力を弱めろ」
激痛が、わずかに和らぐ。女妖が不満げに鼻を鳴らした。
「もう止めるの? まだ一割も焼いていないというのに」
「愚か者」
蛇男の声は低く冷たい。
「最初から燃やし尽くしてどうする」
闇の向こうで、毒々しい蛇の瞳が細められた気配がした。
「我が子を殺した罪……死だけで償えると思うな」
その言葉には、万年氷のように固着した怨念が滲んでいた。
「千年だ。千年かけて、この者の魂をじっくりと、丹念に炙り続ける」
女妖が狂おしげに笑い声を上げる。
「素敵じゃない。壊れる寸前まで削って、癒して、また焼く。永遠に繰り返される螺旋のね」
「そうだ」
蛇男は静かに告げた。
「絶望にも慣れた頃、さらに深い苦痛を与える」
「逃げ場も、死も、許さぬ」
再び。キィン――金属音が響く。
次の瞬間。
「ッァァァァァァ!!」
激痛が再び炸裂した。今度は先ほどより弱い。だが、その分だけ終わりがない。細く長い針で、永遠に魂を削られるような苦痛。
逃げられない。気絶もできない。痛みだけが、延々と続く。
蛇男が満足そうに呟いた。
「そうだ……それでいい」
「少しずつ、一欠片ずつ、壊れていけ」
女妖の笑い声が重なる。
「千年後、魂はどんな色に濁っているかしらねぇ」
正雪の意識は、暗闇の底へ沈んでいく。その絶望の淵で――。
ぽたり。微かな水音がした。狂気の笑い声と激痛の嵐の中、あまりにも小さい音。だが、それだけが不思議と消えなかった。まるで暗黒の底に落ちた、一滴の雫のように。
【終わらぬもの、その一:天界の修復】
常世の国。空は薄紫に霞み、永遠に散ることのない花弁が、静かに風に流れていた。
その花の海の中央。百花は、孤高の姿で座していた。白い指先にあるのは――天女ノ涙。かつて澄み切った蒼を宿していた霊宝は、今や見る影もなく無数の亀裂に覆われていた。
百花は静かに霊力を流し込んだ。
淡い光。繊細な霊糸が亀裂へ染み込み、砕けた霊脈を少しずつ繋ぎ直していく。
長い時間をかけ、ようやく最後の亀裂が塞がった瞬間。百花の瞳に、わずかな安堵が浮かぶ。
だが――ぱき。非情な音が響く。
次の瞬間。修復したそばから、別の箇所に新たな亀裂が走った。
百花の指先が止まる。
「……また」
小さな呟き。疲労は、とうに限界を超えていた。現世から戻って以来、彼女はずっとこの修復を続けている。
眠る時も。食事を摂る時も。霊力を止めることはなかった。
それでも。直しても、直しても。新たな傷が生まれる。
まるで、この宝石は自ら崩壊を望むかのように傷を増やし続ける。
百花は静かに目を閉じた。脳裏に浮かぶ。あの少年。燃え狂う霊力。壊れた運命。
「……あなた、本当に」
呆れたように笑う。だがその声には、怒りよりも深い疲れが滲んでいた。
「どれだけ無茶をしたの……」
呆れたような、しかし深い哀しみを帯びた笑み。彼女は再び、終わりのない霊力供給を開始した。
【終わらぬもの、その二:焦熱の悔恨】
現世。珍鐘寺。かつて荘厳な霊光に満ちていた寺は、今や半ば焼け落ち、黒く煤けていた。
その裏庭。一本の巨大な柱へ、蛇が縛り付けられている。清代姫だった。
巨大な蛇身には無数の封印杭が打ち込まれ、霊鎖が鱗へ深く食い込んでいる。紫の妖火が、その身体を絶えず焼いていた。
鱗が焦げる。肉が焼ける。煙が上がる。
だが清代姫は、悲鳴を上げなかった。
彼女の前には、魂が抜けたように座り込む老夫婦――実の父母がいた。
二人の目は虚ろだった。涙は、もう枯れている。どれほど泣いたのか。今では、頬に乾いた跡だけが残っていた。
清代姫は、その姿を見ていた。炎より苦しかった。身体を焼かれる痛みではない。
自分自身への悔恨。愚かだった。ただ、愛されたかっただけなのに。認めてほしかっただけなのに。
その願いが。憎しみとなり。怒りとなり。全てを壊した。
「……父さま」
掠れた声。だが父は答えない。ただ娘を見つめている。その視線が、清代姫の胸をさらに裂いた。
「母さま……」
蛇の瞳から、一筋の涙が落ちた。炎の中で蒸発し、消える。清代姫は、初めて理解した。苦しいのは、自分だけではなかった。
愛してくれた者たちまで、自分は傷つけたのだと。その事実が、妖火よりも深く魂を焼いていた。
【終わらぬもの、その三:止まった時間】
同じ頃。珍鐘寺のさらに奥。崩れた石庭の片隅で、一人の少女が座っていた。祀花。
彼女は微動だにしない。ただ静かに座り続けている。
時折。眉がわずかに歪む。唇の端が上がる。あるいは下がる。まるで夢の中で、何かを見ているかのようだった。
肩には、薄く埃が積もっている。いつも完璧に整えられていた衣も、今は乱れたままだった。
髪には蜘蛛が糸を張り、小さな巣を編み始めている。
それでも彼女は動かない。誰も近づかない。誰も声をかけない。まるで、この場所だけ時間が止まってしまったようだった。
【終わらぬもの、その四:修羅の螺旋】
そして――熊野三峯。深山の奥。濃い霧の中で、激しい轟音が響き続けていた。
刀がぶつかる。岩が砕ける。木々が倒れる。
早波川兄妹。二人は、なお戦っていた。兄の瞳は赤く染まり。妹の呼吸は荒い。
だが止まらない。何度倒れても。血を吐いても。骨が折れても。再び立ち上がる。
まるで互いが、長年追い続けた宿敵であるかのように。
「……まだだ!!」
兄が咆哮する。刃が振り下ろされる。妹はそれを受け止め、逆に拳を叩き込む。
衝撃。
血飛沫。
それでも止まらない。
なぜ戦っているのか。もはや二人自身にも分からなかった。ただ、止まってしまえば、自分という存在が粉々に砕け散ってしまう。その焦燥だけが、二人を戦鬼へと変えていた。
世界のあちこちで。壊れた者たちが。終わらない痛みの中にいた。そしてその全ては、まだ静かに繋がり続けている。
まるで、見えぬ運命の糸のように。




