71.奴隷解放宣言
トーイはウォーリスに先に帰って行った。準備が整い次第、再度連絡すると言う。彼は出発直前、何やらナロー大臣に入れ知恵され、いつもとは違う神妙な顔つきで王宮を出て行った。
レッドはまだベッドから起き上がれずにいる。神の実を食べた当日は結局食事が出来なかった。三日目辺りからようやく食べ始め、七日目になるとずっとうつらうつら寝ているようになった。余程疲労困憊したのだろう。
八日目に、メルは食事を持ってレッドの寝る部屋に入った。布団をそっと開けると、レッドは既に起きていて、どこか怯えるように、心もとなくメルを見上げた。メルが問う。
「体調はどう?」
「もう、どこも痛くない」
レッドは注意深く辺りを見回した。
「……トーイやツーはどこにいる?」
「トーイはずっと前にウォーリスに帰ったわ。ツーは庭でミトやエリンの面倒を見てくれてるわよ」
「……そうか」
レッドはほっとした表情を見せた。それから寝転がったまま、妙に真面目な顔をしてメルに手を伸ばす。
「……どうしたの?レッド」
メルが握手でもするように手を伸ばすと、レッドはぐいとその腕を引っ張った。メルはつんのめり、ベッドに上半身を預けた。
レッドの赤い瞳が獲物を捉えるように、メルの瞳を真っ直ぐ刺している。
「メル、もっとこっちに来いよ」
メルが頬を赤らめて黙っていると、レッドの褐色の手がメルをいざなうようにその真っ赤な頬を撫でた。メルは観念したように震えるまぶたを閉じる。頬に当たる彼の暖かい手を握り返し、目を開ける。
メルは心を決めた。
衣擦れの音をさせ、あの日のようにベッドに潜り込む。あの日と違うのは、その布団にレッドの香りと体温がふんだんに含まれていることだった。彼の手が、予測し得た場所に滑り込んで来る。
(あ、始まった)
メルは熱に浮かされながらも、冷静に思う。それから目の前で起きている現象を、つぶさに、感覚的に観察する。
しかしその観察の記憶も途中であらかた飛んでしまう。始まってしまえば、記憶することもないーー
日が傾き始めている。窓には、二つの月が出始めていた。
翌朝、メルはウォルターから呼び出された。
「レッドが神の実を食べたそうだな」
メルは少しぼうっとした様子で、こくりと頷いた。ウォルターは椅子に座り、メルを恨めしげに見上げた。
「なぜ早く報告しなかったのだ?色々調べるチャンスだったのに」
「叔父様、その点はご安心下さい。私が全て観察し、記録しております」
「む、そうなのか?その記録を早く見せてみろ」
「もう少しでまとまりますので、しばしお待ちを。ようやく彼も痛みに耐えた末、赤い血の男と同じ体になったようですので、これから……」
ウォルターの動きが止まった。
「今、赤い血の男と同じ体になったと言っていたな?」
「……はい」
「なぜ分かる」
「……」
メルは赤くなって押し黙り、身を縮めると表情を悟られないように慌てて下を向く。ウォルターはその様子に色々と察したらしくみるみる頭に血を上らせ立ち上がった。
「あの奴隷め!次はどこへ売り飛ばしてやろうか……!」
その言葉にメルは瞳を鈍く光らせると、きっと顔を上げた。
「売り飛ばしても、私達はまた二つの塔に集合するまでです」
「メル、お前は変わってしまった!メディアが生きていたら嘆き悲しむぞ!」
「……そうでしょうか?」
メルはウォルターに真っ直ぐな視線を向け、こう言い放つ。
「私の未来を、母の心情を、決めつけるのはもうやめて下さい。私は誰のためでもなく、自分のために生きます。ご心配は無用です」
ウォルターは歯ぎしりをしたが、肩を怒らせながらゆっくりと椅子に腰を下ろした。しばらく机上で頭を抱えていたが、ふと彼は直接太陽を見るかのように、苦しげにメルを振り仰ぐ。
しばしの静寂。
「メル、指輪を」
メルはポケットから、あの日、軍艦でウォルターから受け取った指輪を取り出した。
ウォルターが手を差し出して来る。メルはその上に指輪をころんと乗せた。
「……もう良い。結局、私一人で演じていた茶番であった。お前の信念の前には、誰もかなうまい。奴隷を連れて、どこへでも行くがいい……」
メルは深々とお辞儀した。そして踵を返し、部屋を出ようとすると
「……無事を祈っているよ、メル」
ウォルターから小さく声がした。メルは振り返らず口をきゅっと結び、彼の部屋を後にする。
メルはそのまま、ウルム庭園へと向かった。
レッドとツーがネミアの前にしゃがみ込み、何やら話し込んでいる。レッドはエリンを抱いていた。
「……何をしているの?」
その声に振り向いたレッドは、何やらすっきりした顔をしている。メルはどこか寂しげに微笑んだ。
「いや、ツーが、青い花の咲かない期間でもネミアと話が出来るって言うから」
メルはツーを眺めた。彼は背中でこう告げる。
「今、次々と青い血の奴隷市場が破壊されているようです」
メルは目を見開いた。
「それ、本当?」
「ええ。しかも破壊しているのは、ウォーリスの軍部です。レッドの話ではカラバル島の炎上は教皇の証拠隠滅とされていたそうですが、実際は違うようですね。軍部によって事前に仕掛けが施されていた。その情報を元に、ナローさんにも持ち帰った書類の山を当たるように進言したところです」
レッドは腕の中で不機嫌そうにしているエリンを眺め、
「……バーボイには悪いことしちまったかな」
と声を落とす。
「これは憶測になりますが、教皇派が青い血の奴隷市場を持っているのは事実です。しかし、それを壊したい勢力は軍であったということですね。カラバル島は自爆したのではなく、攻撃された。そう見た方がいいでしょう」
「……けど、どうしてそんなことをネミアが知っているの?遠い地方の話よ?」
「メルさん。聖なる樹と女神の樹は、樹同士で会話が出来ます。メルさんも知っているでしょう。彼らが、かなり遠くまで声を発信出来るということを」
ウォーリスの城郭内で聞いた声は、ウォルターの薬草園から発せられた声だった。あの程度なら、確かにもう少し声を遠くまで届けられそうだ。
「伝言ゲームのようにして、ここまで情報が伝わって来たということです。意外にも、世界に満遍なく聖なる樹は育っているようですよ。そうでなければ、カラバル島からネミアまで情報は運ばれて来ないでしょうから」
メルはレッドからエリンを受け取ると、
「ツーのおかげで、新しい話が次々出るわね。ツーひとりが言っていても信じてくれる人は少なそうだけど、紫の血の人間がもっと増えれば整合性が取れて、情報が確かなものになって行く可能性があるわ」
と、その額に頬を寄せた。そしてこうも思う。
(その情報網があれば、ウォーリスはもっと豊かな国になる)
エリンはメルに頬を擦り付けられて、ニコニコと笑った。
一方その隣で、レッドは苛立たしげに深呼吸をした。メルはその様子を不安そうに見下ろす。
自らの意思に反し、国の権力争いに巻き込まれているだけの青い血の民の心情は、いかばかりだろう。奴隷という立場が、彼らにどれだけの重さを強いていることか。
自由。メルはその言葉の軽さと重さの両方を感じていた。
メルはレッドの肩をつつく。彼がメルを見上げると、彼女は努めて笑顔でこう告げた。
「レッド。もうあなたは、奴隷じゃないのよ」
「……はぁ?」
急な宣言に、レッドは眉をひそめる。
「そんな話、ウォルターから聞いてない」
「私がウォルターから伝えられたの。もうあなたは奴隷じゃない。自由よ」
レッドはメルを不安げに見つめた。
「何で急にそんなことを言うんだ?もしかして、メルはウォルターを銃で脅して」
「そんなことしてないわ!ウォルターから言われたのよ。もう、お前は奴隷と共に自由に生きろと」
レッドは唖然としている。
「本当か?」
「本当よ。だから、今から私も言おうと思うの」
「……うん」
「レッド。あなたを奴隷の任務から外します。今日からあなたは自由。誰の断りもなく、どこへ行ってもいいの。勿論、私から離れても」
するとレッドは頬をかき、
「……今の、離れるわけないって思って言ってるよな?」
と呆れたように尋ねる。メルは頷いた。
「……ばれた?」
「そりゃあ、ねぇ」
ふと、隣にいたツーがしかめ面で闇より深いため息をつく。それを合図にして、メルとレッドは気まずそうに口をつぐんだ。




