33.紫の血のケペル・ツー
レッドと黒服の船室に、ノックの音が響いた。黒服のひとりが用心深く扉を開けると、船員が立っていた。船員は寝転がる奴隷を三人の紳士が見守るという、奇妙な空気が漂う船室を見渡して突如こう言った。
「伝染病が出た。今から行き先を変え、ツールースに寄港する。今の内に荷物をまとめておくといい」
黒服達は互いの顔を眺めてから、不安げに問うた。
「ツールース港には何日ぐらい寄港するつもりなんだ?」
「分からない。早くアーカングルに行かなければならないと言うなら、とりあえず全員船から出て、新しい船を当たってくれ」
船員はこともなげに言ってすぐさま出て行った。船上で船員には逆らえないし「早く安全に目的地へ」をモットーにするなら、船員の指示以上に有効な策もないと思われた。黒服達はバタバタと荷物をまとめ始めた。レッドは上半身簀巻きの状態でずっとそれを眺める他ない。
ただ、ようやく地上に出られるというのは僥倖だった。気が触れる寸前だったのでレッドはほっとした。
船はツールースという港に着いた。レッドは立ち上がり、黒服に縄を引かれ船を降りた。他の乗客達も皆一様に不安げであるが、腹をくくって港へ降り立ち、まず宿を探し始めていた。黒服の男達は困惑の表情で町中をうろうろと歩いた。レッドは縄を引かれた状態でそのように歩かされるものだから、周囲の容赦ない視線が刺さる。
「市中引き回しの刑って、こんな感じか?」
レッドがぼそりと余計なことを呟いたので、黒服の男は苛立ちまぎれに彼の背中を拳で打った。レッドはバランスを崩し、がくりと膝をつく。
レッドが再び立ち上がると、ついた膝から青い血が滲んで垂れた。はっとして顔を上げると、すぐに黒服達が飛んで来て素早くその膝を拭いた。血が滲む膝を引きずり、再び歩かされる。その時だった。
レッドの背中を軽く叩く者がいる。
背後をちらと振り返る。そこに立っていたのは銀色の髪の青年だった。長い髪をひとつに結び、レッドより少し背が低く、背中にイチョウの葉のような形のスタッフを背負い、色素の薄い青い瞳でもってこちらを飽かず見つめている。
レッドはその男に奇妙な感覚を覚え、とりあえず物言わず向き直って歩く。銀髪の青年は並んで歩きながら、低い声で言った。
「私が助け出してあげます」
ん?とレッドは声を出す。黒服達が何かを察して立ち止まった。銀髪の男は視線を外し、ふわりと人ごみの中へ溶けて行く。白昼夢のような出来事に、レッドはしばらく何も考えられず呆然とした。
黒服達は宿をようやく探し当てた。カウンターで宿屋の主人と色々揉めている。どうやら奴隷は入れないようだ。黒服達は協議の結果、レッドと黒服のひとりを厩戸に移動させることにした。交代でレッドを見張るということだ。レッドはうんざりしながら厩戸に移動した。
馬と家畜のふんと干し草の香りがむせる厩戸に寝転がり、レッドは小屋の天井を見上げた。黒服はレッドの縄を柱にくくりつけ、小屋の外で放尿を始める。ぼんやりと暖かい午後にまどろんでいると、黒服の放尿の音がやんだ。
しばらくすると足音が近づいて来た。レッドはそちらに目をやり、目を見開く。
そこには黒服ではなく、銀髪の青年が立っていた。
「お前は……」
青年は物も言わず、ナイフでレッドの縄を切った。縄はばらばらにほどけ、久方ぶりにレッドの腕は解放された。
「ここを出ましょう」
銀髪の青年に連れられて厩戸を出る。すると、戻って来た黒服と鉢合わせた。黒服はすかさず銃口をこちらに向けたが、青年は背中のスタッフを素早く抜き、その柄を振り下ろして銃を弾き落とした。
その隙を突き、レッドは助走をつけて黒服を正面から押し倒す。転がしたところを背後から抱き付き、その首に腕を回すと、黒服の頭を押さえながら肘窩に喉を挟み込み、力一杯に捻り上げた。
黒服は声も出さず、泡を吹いて失神した。レッドは荒く息をしながら立ち上がると、静かに佇む銀髪の青年を睨む。
「なぜ俺を助けた?ただの奴隷の俺を」
青年は動物の警戒を解くようにニコリと笑いかけると、腕まくりをしておもむろにナイフを取り出した。レッドは身構えたが、ナイフの刃先は意外にも青年の腕の方に向けられた。
銀髪の青年は自らの腕にナイフを滑らせる。
傷口からは、紫色の血がじわりと滲んだ。
レッドは息を呑んでその傷口を眺める。
「私もこの血の色で散々苦労しましたからね。あなたの血の色を見てしまったら、助けざるを得ませんでした」
レッドは銀髪の青年を睨む。青年は袖を戻すと
「迷惑でしたか?」
と問う。レッドは首を横に振った。
「いや、助かった。でも……」
青年は二の句を待たず、微笑んで歩き出す。レッドも慌てて付いて行った。青年はレッドを見ず、前を向いたまま問う。
「私がお金を出してあげます。港に戻って船に乗りましょう。行き先はどこがよろしいですか?」
街中の雑踏に紛れ、レッドは考えた。ウォーリスに戻ってもウォルターのことがあるし、アーカングルには黒服達の本拠地がある。となると、メルと交わした約束の場所を目指すのが良い気がした。ただ、場所が分からない。レッドは青年に問い返した。
「なぁ、神の椅子座って知ってるか?」
銀髪の青年はすぐに頷いた。
「神の椅子座なら、今の季節なら東の方向にありますよ」
「……本当か!?」
「はい。ツールースの船乗りは天球図を参考に帆を進めます。この季節の神の椅子座は、この地域では東を目指すという意味になりますね」
レッドが静かに興奮していると、青年が顔を覗き込んで言った。
「あのう、もしあなたが嫌じゃなければ、ですけど」
青年はポケットから地図を取り出し、歩きながらレッドに提示した。
「もう少し東の、この地。ここに一緒に行きませんか?私はこれからここに用があるのです。ちょっと寒い地域ですが……」
「なぁ、そこに二つの塔っていうのはないか?」
「次々謎の話が出ますねぇ、あなたの話は実に興味深いです。塔があるかは不明ですが、付いてきてくれたら一緒に探しますよ」
「……お前、随分親切だな」
あからさまに訝るレッドに、銀髪の青年は苦笑いする。
「あ……怪しさ満点て思いましたか?」
「まぁな。人を疑うことに慣れてるもんで」
「実は私、こういうものでして」
そう言って彼が取り出したのは、一冊の本だった。
青年は本の表紙の文字を指し示す。
「ケペル・ツー……」
レッドが読むと、彼は胸を張った。
「それが私の名前です」
「ケペル?が名前?」
「私の出身国ではケペルが姓、ツーが名です」
「この本、お前が書いたのか?」
「はい。本というより、地図ですね」
「へぇ。見かけによらないな。地図描きとは」
「正確には、測量士なんですけどね」
聞き慣れない職業だった。レッドは地図に目を落としながら、むくむくと気力が湧いて来る。
「てことは、地形や星座に詳しい、と」
「そうですね、普通の人よりは詳しいですよ」
「うーん、ここでこうしててもしょうがないから、ツーと一緒にここ、行ってみるかなぁ」
すると銀髪の青年は人が良さそうにニコニコと笑った。レッドもつられてニマニマと笑う。
「そうと決まれば、早速船に乗ってしまいましょう。船賃は私が出しますので、その代わり、測量をお手伝いいただけますか?そのぅ……」
ツーは女子のようにもじもじと顔を赤らめた。レッドは「ああ」と軽く言い、
「俺の名前はレッドだ」
と答えた。ツーは吹き出した。
「レッドとはそのままな名前ですね!親御さんも面白い名付けをなさる」
レッドもくっくと笑う。
「どうかとは思うけど、今は好きな名前になった」
レッドは自分に名前を与えた時の、メルの笑顔を思い出していた。
「では、行きましょうかレッド。新天地へ」
レッドはツーと連れ立って歩き始めた。街の向こうに、船が見え始めている。




