32.旅立ちの令嬢と囚われの奴隷
ブルマン元帥とメルはそれぞれの馬にまたがったまま、並び合い王都へと常歩していた。朝日が二人を柔らかく包んでいる。
ブルマンはぽつりぽつりと語り始めた。
「私がまだ、若い頃の話だ。私は雪山訓練中に足を滑らせ、滑落した。隊は私を見捨てざるを得ず、先に行ってしまったのだ。だがまだその時、私には息があったーー頭から血を流しており、瀕死だったのだが。このまま死ぬのかと思ったその時だ。私はある女に出会った」
メルは黙って聞いている。
「その女は、赤い髪に赤い瞳をしていた。褐色の、背の高い美しい女だった。私は助けを求める気力さえなかった。しかしだ。女は何を思ったのかいきなり自分の肘の辺りを切ると、私の頭の傷に注いだ。私は驚いたがしばらくすると、傷の痛みがなくなってしまった。頭を触ると、傷が塞がっていた」
メルはブルマンを眺めた。ブルマンもメルに親しげな視線を送る。
「その女は私をある村に案内した。そこでは赤い髪に赤い瞳の部族が暮らしていた。しかし、皆こちらをかなり警戒していた。その女だけは私を世話してくれ、体が回復するまで滞在させてくれた。ある時私は薬を飲まされて眠らされ、気づくと見知らぬ港に置き去りにされていた。その港は、後から判明したがアーカングルの港だった」
メルはブルマンの言葉を口の中で繰り返す。アーカングル……トーイの言っていた、レッドの行き先と一致する。偶然だろうか。
「恐らくだが私と君は、どうやら青い血を注がれたことがあるのではないかな?」
メルには二度、体内に青い血が入ったことがあった。一度目はネマラート島から帰る船の中で。二度目はウォルターの投げた青い血の小瓶が割れ、メルがそれを掻き集めた時である。メルが思いつめたように息を吐くと、ブルマンはこちらを気遣うように語りかける。
「そうなると、レッドは君の命の恩人なのではないか?助けてやるといい。私はその女の話を誰にも言えなかった。私がもしこの話をすれば、私は頭がおかしくなったと言われてしまうだろうから。あの時の私もまた、同じように考え、言えなかった。そして私は、未だにそれを悔いることがある」
命の、恩人。
メルは
「分かります。彼は命の恩人です。どうにかして、助けてあげたいと思います」
と真っ直ぐ前を向いて言った。その言葉にブルマンは顔を上げて問うた。
「君は、レッドの血が青いことを知り、どう思ったかね」
メルはその問いに唇を噛んだ。ブルマンは何か思うことがあったらしく、話を進めた。
「彼は……彼女は……大変な思いをして暮らして来たのだろう。あの樹が言うことが本当なら助けてやりたい気もするが、私には仕事があって動けない。なあメル……」
ブルマンはメルに乞うような視線を向けた。メルはその視線を受け、ニッコリと笑って見せた。
「お任せ下さいブルマン様。私は植物学者。きっとあの樹の言う通り、雌の樹を探して見せましょう」
ブルマンは快く笑った。
「では、君は王都まで走るがいい。私は少し、別の場所に行く用があるのでな。ここでお別れだ」
メルは馬の腹を蹴ると、彼の勧めの通りそのまま走って行った。ブルマンはしばらくそれを見つめてから、ぽつりと呟いた。
「……恐ろしいことが起こった。うかうかしてられんな」
メルは走って馬を降り、自宅にたどり着いた。玄関扉の前では、待ちくたびれた様子のトーイが座り込んでいる。
「トーイ!」
「メルさん、遅い!早く荷物をまとめて出て行かないと、アーカングルの船に乗り遅れるぞ!」
メルは夜着から乗馬服に着替え、荷物を背負うと、トーイの案内で城郭外に付けてあった馬車に乗り込んだ。
一路プリセベラに向かう。馬車の中で、メルは聖なる樹から聞いた話を書き付けた。それとブルマンの話とを擦り合わせ、考える。
青い血の部族はアーカングル方面の雪山にいる。今はどうなのか分からないが、ブルマンの話を信じるとしたら、そうなのだろう。
「ねえトーイ。アーカングルにある山で、雪を被った所といえば、どこかしら?」
トーイは首を捻った。
「たくさんあるぞ……でも、なぜそんなことを聞く?」
たくさんある。メルは顎を触りながら地図を広げる。
「アーカングルに、レッドの故郷?があるかもしれないの」
「へぇ。青い血の集落とか?」
「……この話は内密に。今は故郷より、レッドを探すことを優先しましょう」
メルは熱心に地図に目を落としている。トーイはそんなメルの横顔をにやにやしながら眺めていた。
一方その頃ーー
簀巻きになったレッドは船室に転がされ、黒服に監視されていた。彼らが帽子とコートを脱ぐと、レッドは目を見張った。知った顔がそこにある。
「何だ、痩せて紳士の格好をしていやがったから分からなかったんだ。五年前はお前ら全員太り回って、見世物小屋の裏で棍棒振り回してた癖によ」
レッドがからかうと、容赦なく灰皿が飛んで来た。額に当たり、少し血が出る。
青い血。
「口に注意しろ。こっちはいつだってお前を死なない程度に殺せるんだからな」
レッドは黙った。
レッドは用を足す時と食事の時だけ指示を出された。用を足せ、口を開けろ、とそれだけである。レッドは雛鳥みたいに口を開け、監視の中用を足すという、生きているのか死んでいるのかよく分からない毎日を過ごした。
夜、眠る間だけひとときの夢を見る。
メルと過ごした、短い期間の夢のような夢ーー
目が覚め、レッドは再び絶望する。船室の窓から見える青い海だけは妙に明るい。レッドは憮然と外を眺める。色々と馬鹿らしい毎日が続いた。
そんなある日ーー




