14.男奴隷は学者令嬢からもう逃げない
馬に乗ってレッドと共に森を走り抜け、這々の体で船に逃げ込んだメルは、船室に入るなり聖なる樹のひこばえを水に差し、それを寝そべって眺めたまま全く動かなくなった。
メルはレッドを助けに向かう前に既に乗船手続きを終え、先に荷物だけ運び込んでいたらしい。逃げる足で船に乗り込むことが出来、レッドはほっとする。
船はすぐに出航した。二人は船室で束の間の休息を得る。
レッドは船の倉庫まで行き、手桶に水を入れに行った。レッドは周囲を憚るように見渡すと、そっと自らの指を噛む。青い血が流れ、レッドはその血を水に解く。少し水に青色が漂ったが、気になるほどの変化とは言えなかった。それを確認し、レッドは再びメルのいる船室へと戻る。
彼はメルの机にそれをどかんと置いて見せた。
「早くその血だらけの手洗えよ」
メルは疲れているのか、まだベッドから動かない。レッドは手荷物の中から包帯と消毒液を取り出すと、転がったままのメルの手を取った。メルはおっかなびっくり起き上がる。
「いいです、私がやります……」
メルは桶の水で手を洗い、レッドはそれをじっと見つめている。奇妙な時間が流れる。
「これ、どこでついた傷だ?」
「そうね……聖なる樹に登った時かしら」
「……俺、他にも何か出来ることない?」
「どうしたの急に」
「えーと……」
レッドは悩ましげに頭を掻いた。
「何があったの?ネマラート島のシャーマンに何かおかしなことでもされた?」
「違う。そうじゃなくてさぁ」
レッドは少し間を置いて、悶え苦しむように呟いた。
「俺の存在意義、なくない?」
はぁとメルは呟いた。
「ありますよ。だってあなたのおかげでひこばえが手に入ったじゃありませんか」
「いや、でも、メルの方は代償が大き過ぎるでしょ。枝一本と奴隷なんかさっさと捨てて、逃げれば良かったのに。これじゃ命がいくつあっても足りないって」
「あら。私は命をかけた甲斐があったと思ってますよ?」
レッドは面食らって黙った。メルは微笑んだ。
「だから、俺のことは助けなくても」
「なぜそんなことを言うの?あなたは私の大事な奴隷よ」
「〝大事な〟に続く言葉が〝奴隷〟って……」
「おかしなことかしら?本心よ。大事な奴隷だから助けた。何も不思議なことじゃないわ」
メルはそう言うと、くすくす笑いながら桶から手を抜き、水滴を拭った。
「そうね、レッド。包帯巻いて」
メルは消毒液をまぶしながら、その手をレッドに差し出した。レッドがそろそろと包帯を巻くと、メルは笑い転げた。
「やだ、ゆるい。くすぐったい!」
「……俺は良かれと思って」
「もっときつく縛ってくれないと」
メルは笑い終えてから、ぽつりと言った。
「今日から部屋を別々にしましょう」
レッドは包帯をぱちりと鋏で切ると、
「いいけど……急にどうした?」
「何となくです」
「ふーん……」
再び沈黙がおとずれる。
「隣の部屋、もうあなたのために取っておきましたから」
「分かった。そっちに移動する」
「そうだ、あなたにこれを渡しておきましょう」
メルは包帯を巻いていない方の手で、ポケットから銀貨を数枚取り出した。
「お金です。7日分の食事代にはなるかと思います」
レッドはそれを受け取ってまじまじと眺めた。それから呆然とメルを見る。メルはニッコリと微笑んだ。
「お金が足りなかったり、また何かあったら呼んで下さいね」
レッドはメルの部屋を出た。隣のがらんとした少し寒い部屋にいくばくかの荷物と共に入り、ぼうっとベッドに腰かける。
「……信用されたってことで、いいのか?」
レッドはじわじわと湧いて来る自分の中の感情に、名前をつけられないでいた。
ふと呟く。
「何でだろ。ちょっと寂しいな……」
静かで少し寒い部屋。ベッドにそのままごろりと転がる。
「でもちょっと嬉しいし……」
レッドは少しだけ自身の語彙力のなさを呪ってから、困惑の表情を浮かべた。右に左に寝返りを打ち、震えるメルを抱いた感触を思い起こした時、レッドは気がついた。
「あれ……何でだろ。ちっとも逃げたくなくなったぞ」
いつの間にか眠りこけてしまい、レッドは朝日と共に飛び起きた。いつものくせで部屋のメルを探してしまうが、無論いない。
船内で食事を買い、自身の部屋に戻ろうとして立ち止まる。
(そうだ、甲板へ出よう)
レッドは梯子を上って甲板に出た。まだ朝早いので、誰もいない。そこでもそもそと固パンを食べ終え、空をただ眺めるーー
「つまんね」
なぜだか一人だとそわそわしてしまう。レッドはやはり船室に戻った。
落ち着かない。段々たまりかねて来て、レッドはメルの部屋をノックする。
「メル!俺だ」
すぐに扉は開かれた。
「どうしたの?」
「何かすることはないか?暇なんだが」
「そうなの?ちょうど良かったわ、入って」
メルは机に新しい紙を置き、包帯を巻いている方の手で何やら書きつけている。
「あなたに、少し話を聞きたかったの」
「……何の話?」
「ネマラート島で捕らえられた後、どのようなものを見、どんな話を聞いたのか教えて欲しいの」
メルはメモを取るべく紙に向かう。レッドは腕組みをして少し考え込んだ。どこまで伝えるべきだろうか。情報の取捨選択をあらかじめ行い、安全な話題から口に出す。
「聖なる樹は、雄の樹なんだとさ」
メルは目を輝かせた。
「まぁ!では雌の樹はどこにあるの?」
「それが族長にも分からないらしい。伝説があって、その雌の樹は女神の樹と呼ばれているそうだ」
「つまり、神の実は聖なる樹ではなく、女神の樹に結実するということなのね。私の独学ではそこまで辿り着けませんでした。やっぱり、レッドに行ってもらって良かった!ところで、それぞれに雄花と雌花が咲くという話は族長から出ましたか?咲くのはいつなのかとか、具体的な条件などはあったりするの?」
急に突っ込んだ話になり、レッドは焦った。
「そ、そこまでは聞いてないが……」
レッドはとりあえず青い血の話を避け、族長の言葉をかいつまんで話した。
「二つの塔から月へ行ける夜、二つの塔の間に神の椅子が鎮座する……聖なる樹の花粉によって、女神の樹は予言と共に神の実を残す……神は神の椅子座から降り、お前を正しい方向へ導く……そんなことを言っていた。俺にはその女神の樹を探す使命があるんだそうだ」
メルは紙にペンを走らせながら、熱心に書き取って行く。そしてふうと息をつくと、レッドに向き直った。
「レッド、あなた凄い使命を持ってるんじゃない!つまり、二つ塔が並んでいる場所を見つければいいのね?」
レッドは心の中で繰り返した。使命。自分がどこの誰なのか、なぜ血が青いのか、この伝説を追って行けば分かるのかもしれない。
でもやはり、彼はメルの前で青い血の話をする気は起こらなかった。
(おそらく俺の血が青いことが分かったら、メルは俺を人間ではなく、奴隷でもなく、ルイス王子の薬扱いをするだろう)
レッドはそう考えた。それだけは避けなければならない。
(メルにすら物扱いされたら、多分死んでしまいたくなる……)
レッドは過去見世物にされた期間に、何度も自死を図っていた。
(あのような無様な気分は、二度とごめんだ)
「レッド?」
メルが心配そうにこちらの顔色をうかがっている。レッドはハッと顔を上げ、脂汗を拭う。
「顔色が悪いわ。昨日の今日だもの、やっぱりあっちで寝た方がいいわ」
レッドは力なくメルを見つめ、そうだなと呟いた。ふらふらと部屋を出て行く。メルはその背中を見送った。
メルは再び机の前に戻った。そして頬杖をつくと、ため息混じりにひとりごちた。
「レッドったら……何か隠してるわね」
メルは窓を見た。水平線を挟んで、青い海はどこまでも広がっている。




