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家の仕事に忙しい両親に代わって、訪ねてきた祖母の知り合いの相手をしなくてはならなかった賢一郎と別れた透と夏希は、途方にくれていた。
何しろ決死の覚悟で夜光バスに乗った二人の目的は、朝御飯を食べたあと二時間ほどで完遂してしまったのだった。
スムーズにいくわけはないと思っていた。 想像外のトラブルに見舞われはしたが呆気ないほど簡単に賢一郎に会えた。だがすでに親子間での決着は着いているところへ出掛けていった自分達は、少々間抜けであったことは否めない。
『タドケンが連絡くれてればなんにも問題なかったのに!』
『いいじゃん、ちゃんと帰ってくるんだから。お父さんもまあ、応援してくれるみたいだしさ』
経過がどうあれ、望んだ結果に落ち着いたので透は安心に胸を撫で下ろしていた。
問題は帰りのバスまでの時間だった。なにしろゆうに九時間はあるのだ。
新幹線で帰ってしまえば明日に備えてゆっくり出来るがせっかくここまで来てそれももったいない。
そこで駅前で車を借りてこの地域の名所である湖までドライブを楽しむことにしたのだ。
車でのんびり一時間半。ある芸術家の最後の作品といわれる彫刻があることで有名なそこは、夏の観光シーズンを前にほどよく静かで、二人は景色やランチなどを堪能した。
『この人の本とか、読んだことある?』
『うーん、テレビで見たことがある、かな』
『俺さ、十九の時に「二十歳になる前知ってた方がいいと思われることキャンペーン」を独自開催しててさ』
『なにそれっ』
つまり普段は自分の興味のあるものしか手に取らないけれど、大人として知っていなければ恥ずかしいと思われる文学や音楽、芸術などを思い付くまま見たり読んだりする、まあ、時間があるゆえの下らない遊びだ。
自分が実家の仕事を引き継いでいくとなんの迷いもなく思っていた頃だったので、勉強のため東京や旅先で訪れた美術館は結構な数になると思う。実物をきちんと自分の目で見ておかないと話にならないと思っていたのだ。
その他、子供の時から聞いていたけど実際見たことがなかったアーティストのライブ、誰もが知っている劇団のロングヒットのミュージカル、ワインはまだ飲めなかったけれどきちんとドレスコードのある店での食事。
そしてタイトルだけ知っていて読んだことのない作家の小説や詩集。そのなかにこの作家の作品も入っていた。
『でもね、難しくてよくわからなかったんだ。奥さんのこと好きで好きで仕方なかったんだんなー、くらいしか』
社員旅行でその妻の出身地を訪ねたことがあった。
芸術家同士のカップルはお互い高めあって幸せに暮らしていたと思われた。しかし妻は心を病み、自殺未遂を図る。そして回復することなく結核で亡くなる。
彼女もまた芸術家であったため、記念館には夫婦の足跡と共に、彼女の作品も数多く展示してあった。
そこで、やっとあの詩集の意味を知る。
『俺もテレビとかで見たよ。人の気持ちって切り取る方向で全然違うように見えるもんだなって感心した。純愛の物語か男のエゴイズムか』
物事がひとつの原因だけで成り立っていることなどない。だからこの妻の病気や死の要因が結局のところ何であったのかなど、現代の最先端医療にだってわからないだろう。
賛否両論、色々な見解や解説を読んだが、やはり透は思うのだ。
『でも結局幸せだったんじゃないかって、思うんだよね』
『幸せ』
『病気になんてさ、何やってたってなるじゃん。だけど好きな人と出会えて添い遂げられる奇跡に比べたらそんなもん。悩んだり嫉妬したり憎んだり、気持ちを押し付けたりさ。色々あっても、やっぱり最期まで好きな人と一緒にいたわけだから』
それでも手を離さなかった、激動の時代の恋人たち。それが幸せじゃなかったら、何がそうだというのだろう。
『なんて。初めてここに来たから色々思い出しちゃった』
しばらくペン先は動かず、二人はその彫刻と後ろに揺れる湖をぼんやりと眺める。
ふと、意識の淵から上昇したかのような夏希が、言葉を紡いだ。
『わたしも、人から見たら結構大変だと思うんだけど、それでも感じる幸せっていっぱいあるよ。それでたぶん、そういうのは他の誰にもわからない、わたしだけのしあわせ』
『うん』
彼女に聞こえる世界は、彼女だけのものだ。だけどわかるような気がした。その世界がどんなにきれいな音楽を連れてくるのか。どんなにきれいな声で言葉をささやくのか。
鳥のさえずり、水の流れ、木々のざわめき。
そういう音をきっと彼女は聞いている。誰にも聞こえない夏希だけの、響き。
時間が来て二人はまた長距離バスの乗客になる。そして、お休みを言い合い、スクリーンを下ろした。
東京につけばもう一日は始まっている。透はあと一時間半で仕事が始まる。駅ではお互い違う路線に乗るため、バスをおりたらさよならだ。
『疲れた?』
『ううん、でもきっと家に帰ったら爆睡www』
少しだけ別れがたく、ファストフード店でコーヒーを一杯だけオーダーした。でも、すぐに帰らなくては仕事に差し支える。
会社に急ぐサラリーマンを横目に、透はスケッチブックに文字を連ねる。まだ少し眠いのか、のたくった様な字になってしまう。出来るだけ丁寧に書きたいのに。
『あのね、昨日の奇跡の話』
『んーと、好きな人に出会って添い遂げられる奇跡?』
『そう。俺はなっちゃんを、奇跡だと思いたい』
夏希の手が止まった。透の顔を見ることなく文字列を見つめてまばたきを繰り返す。まるでそうしていれば書いてあることが変わると思っているかのように。
透の方も書いてしまった言葉が消えてくれないので、非常に緊張した。考えてみれば、手紙やメールで告白などしたことはない。いつもそれはお互いの耳をすり抜けたら消えていってしまうものだったのに。
目の前のそれは何かに紛れてしまうことなく、何度も何度も二人の目のなかに飛び込んでくる。
『あの、わたしは耳が聞こえません』
『知ってる』
『聞こえる人の方がいいんじゃないですか?』
『その、聞こえる人はなっちゃん?』
『や、違うけど』
『じゃあ嫌だ。なっちゃんがいいから聞こえる人はいらない』
夏希がはじめておもてを上げて透を見る。困ったような顔をしていた。ああやっぱり人を好きになるのはエゴだと思いながら、透は席を立つ。
『俺はたぶん何年かしたら実家に帰るし、なっちゃんは留学する。それでも俺は君が好きだし、どうしたらいいか一緒に考えて欲しかった』
俺のことをどう思っているか、考えてみて。立ったままそうメッセージを記すと、透は自分の使う電車のホームへ歩いていった。
座り通しだったからだがきしむように傷んだ。
賢一郎が大学に戻ってきたのは、透たちが東京に着いて五日目のことだった。
泉がいうには普段と全く変わらない様子でやって来たものだから、怒りのあまりわめき散らしてしまったらしい。
そして、賢一郎が言うにはその時、泉は大泣きしてしていたそうだ。
知らなかったこととはいえ、賢一郎を傷つけてしまったと相当気に病んでいたのだ。お互いに友人の少ない子供時代を過ごしてきたから、いまだ手探りで、決して失いたくない相手なのだろう。
賢一郎も夏希も泉が泣くところなど、というか成人した大人が声を上げて泣くところなど見たことがなく、大変慌てたそうだ。賢一郎はひたすらに謝るしかなかったという。
賢一郎は祖母に代わって父親が学費を支援してくれることになったので(これは借金ではないそうだ)バイトを大分減らせる見込みだ。しかしどこに行っても一生懸命で重宝がられていた賢一郎はどこを続けてどこを辞めるべきか、贅沢な悩みを抱えてしまった。
学生たちはそのまま前期テストに突入。相模屋もどことなく静かな数日を過ごしていた。
「紗智さんから連絡あったんですか?」
「なーーい。でも、親父からの連絡では元気にしてるって」
ランチタイムの食堂でいつものメンバーでならんで座っていた。
そう言えば小澤は、謹慎明けで食堂に来たときに、おばちゃんにアレンジフラワーを送ったのだと言っていた。なんでみんなと一緒に菓子折りにしなかったのかと聞いたら
「だって翔ちゃんスペシャルはおばちゃんだけがしてくれることだし、糖尿の気があるって言ってたからお花の方が喜ぶかと思って」
と当たり前のように言っていた。
おばちゃんは、花なんか送られたのは初めて、とおいおい泣いていたそうだ。ああいうのを、たらしというのかと透は学んだ。
「鈴木さんは奥さん元気?」
「あ? まあな。お前、今度飯食いに来いって言ってたぞ、そう言えば」
「えー、鈴木さん俺はー?」
「お前は来んな」
「えええーーーー?!」
鈴木の妻、という会話に回りは一気に静かになり、みんなが耳をそばだてているのがわかる。
あれから鈴木は妻の存在を隠すことはなくなった。今までだって話して悪いことはなかったのだと思うが、やはり入籍してないのは責任を果たしていないと同義であると本人は言いたくなかったようだ。
言いふらしたわけではないのだろうが、一緒に見舞いに来た女子社員の口から静かに広まっていったようだ。
「で、お前はどうなんだよ。あの画用紙娘といい感じらしいじゃねえか」
「増田さんね。別になんにもないですよ?」
「嘘つけ。あれだけきゃっきゃやっといて、なんにもねえはないだろ」
でも実際、なにもないのだ。
あれから、彼女からの連絡はひとつもない。すぐにテストにはいることは知っていたから、なくてももちろん仕方ないのだが、ちょっと時間が空いたときにメッセージを作ることくらいできないか? このまま留学して、遠いところに行ってフェイドアウトか?
嫌われてはいなかった、むしろ少しは好かれていたかもなんていうのは、自惚れだっただろうか。だとするととても恥ずかしい。
「好きだとかなんとか、言ったんじゃないの?」
心から不思議そうに小澤までいう。
「……言いましたよ? でも、それっきり何にもないんですってば」
「うっそ、もっと押しなよー。引くのが早いよー」
「……返事くらい聞いてもいいんじゃねえのか?」
鈴木までがそんなことをいう。
透だってイエスでもノーでも、返事はできるのではないかとは思う。そう思うのに、拒否される要因しか浮かんでこないのはなぜだろう。
「だって、テストだし、俺、あの子たちから見たらおじさんかもしれないし、将来的に稼ぎも多くなりそうにないし」
「……お前の懸念のなかに、彼女の事情は入ってないんだな」
「彼女の事情って、鈴木さんなっちゃんのなに知ってるんですかっ」
「アホか。彼女の耳の事情だよっ!」
「みみ?」
なんのことやら、透は食べかけのコロッケを口のなかに押しこんで、質問の意味を考えた。やはりわからない
「彼女、その、聞こえねえんだろ。そういうことで気まずいっつーか、後ろめたく思ってんじゃねえのかって」
「そんなもんですかね?」
「知らねえよっ。でも、そんなことが引っ掛かってたら、答えられるもんも答えらんねえだろうよ」
確かに断られたときに『聞こえる人にした方がいい』とは言われた。
しかし、知り合った最初から、彼女の耳は聞こえなかった。透が気がつかなかったというならばわかるが、散々、筆談や手話でコミュニケーションを図ってきたのだ。今さらなにを気にすることがあるのか。
「友達、と付き合うは、違うんじゃないのー?」
「違いますかね」
「そりゃお前、違うだろ」
そこまで言われるとそうかもしれないと思う。食後にバナナをかじりながら考えた。
ここのところ毎日食べている。フロアの女の子に「アンチエイジング効果が高い」と教えてもらったからだ。
友達ならうまくやれるのか。でも、気がついてしまった思いを押さえつけるのはなかなか難しい。それに彼女もこちらの気持ちを知っている。やっぱりなしで、といってもリセットできるものでもない。
現実問題、今は彼女も忙しいだろう。このテスト期間が終われば、夏休み。そろそろ留学の話も本格的に詰めていく時期だろう。
それが終わったら、落ち着いたら、じっくり話そう。自分と、彼女の気持ちについて。
透はとりあえず待つことにした。次に会うときまでにバナナの効果が少しても出ているといいのだけれどと思いながら。




