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はじまりの画帳  作者: うえのきくの
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15

 


 夏希に会ったのは、夏休みが始まっただろう七月も後半になってから。実に賢一郎の実家から帰って三週間が経った頃だった。


 いつものように閉店準備をする透の後ろに、人の気配がした。振り返ると夏希がスケッチブックを持って立っていた。

『……こんばんは』

『……こんばんは』

 夏希は視線をさ迷わせ、困ったような顔をしている。透だって困り果ててしまう。

 二人でモジモジしていると、後頭部を叩かれた。小澤だった。

「なに恥ずかしがってんのいい大人が気持ち悪い。ここはいいからさっさと帰る準備して、行きなさいよ」

「いいんすか?」

「仕事にならないし。ね、早く帰りたいよね?」


 夏希を見て話しかける。軽い男のわりに、彼女にわかるようにゆっくり話しかける辺り、やはりたらしだ。


 お言葉に甘えて、少し早めに上がることができた透は、夏希を待たせていた居酒屋に急いだ。酒を飲もうと思ったわけではないのだが、手頃な値段で人に話を聞かれない場所を、他に思い付かなかったのだ。


 半個室になったスペースの暖簾をあげるとすでに夏希は烏龍茶をちびちび飲んでいた。


『お待たせ』

『いいえ』


 透は自分も飲み物と食べるものをいくつかオーダーすると、持参の小さいスケッチブックを広げた。


『久しぶりだねー。テストどうだった?』

『まあまあです。テストなくて課題提出の教科もあったから、期間中は少し楽だった』


 それなのに連絡は寄越さなかったと。顔では穏やかに笑っている自信はあったが、少し面白くない。


 運ばれてきた料理に口をつけ、他愛ないこと──その後の賢一郎や泉のことが主だが──を話した。

 二人もなんとかうまくいったようで、それぞれバイトや遊びに精を出しているらしい。


『あの、この間のことなんですけど』


 大方食事も終わって、このあとどうしたらいいのかと透が思い始めた頃、不意に夏希が切り出した。 


『この間って、俺の告白のこと?』

『はい』


 夏希は、十分に時間をとって呼吸を整えると、スケッチブックを自分の方に引き寄せて熱心に綴り始めた。画面は見る間に埋まっていき、透はその姿を見つめるしかなかった。

 しばらく書き込んで、新しいページを開いた夏希はそこに一行、メッセージを書き込む。そしてそこを一番上に、透の方へ滑らせた。


『読んでいいの?』

 透の言葉に夏希は最後の一行をとん、と指差した。

『わたしが帰ったあと、読んでください。よんで、よく考えてみてください』

 と書いてある。

 そして傍らに置いてあったバッグから財布を取り出すと千円札を数枚テーブルにおいた。


『いいよ、俺が誘ったんだから』


 夏希は首を横に振って立ち上がり、部屋を出ていった。


 残された透は、彼女が書いた言葉がなんであるか、少し怖かった。帰り際の夏希は永遠の別れのような面差しだったからだ。

 ハイボールを追加して、それが届くまでにと気構えた。



『この間、タドケンの家にいった帰り言われたことには、とても驚きました』


 夏希のメッセージはこんな言葉から始まっていた。いつもより心なしか字が固い。



 ──家族でもない人から好きだと言われたのは初めてでした。それが酒井さんだったことはとても嬉しいことでした。

 酒井さんはわからないかもしれないけれど、たぶん生まれて今までで一番嬉しいことでした。

 けれど、それを素直に喜べないだけの材料が、わたしにはたくさんあります。


 正直わたしには大学に入るまで、聞こえる友達というものがありませんでした。程度の違いはあれ、同じようなハンデを持った友達と、穏やかな生活を送っていました。

 だから、そういう、人と特別にお付き合いをする、ということがどういうことなのかわかっていないのです。

 というより、わたしが誰かと恋愛感情を持って付き合うなんていうことがある、と想像もしていなかった、といいますか。


 それに、その時にも言いましたが、わたしは耳が聞こえません。

 これは、あとからの病気や事故ではなく、生まれつきのものです。

 例えばこの事を、酒井さんは自分のお父さんやお母さんに言えますか? 友達にわたしを紹介できますか?

 例えばずっとお付き合いが続いたとして、結婚などという話になったら、ご両親は心配しませんか?

「孫が生まれたらその子も聞こえないんじゃないか」と。


 酒井さんもご存じのように、わたしはあまり自分の今を不自由だとは考えていません。不安はもちろんありますが、精一杯やりたいことをやってみようと思っています。

 自分のことは自分で何とかするつもりなのですが、わたしがいることで他の人があまり幸せに思えなかったり、憎く思われたりするのはとても困ります。ただ生きているだけなので。


 そういうもろもろを、たぶんすごく考えて打ち明けてくれたのだとは思うのですが、わたしの方でこれだけの理由を乗り越えて、酒井さんに答えられる自信がまだありません。

 わたしのことを好きだと言ってくれた気持ちだけ、いただきます。ありがとうございました。



 来年、留学することに決めました。

 一年間、イギリスで学んでこようと思っています。英語で授業の上にホームステイとか、どれだけハードルをあげているのかと自分でも呆れ果てますが。

 これからみっちり英語を勉強しようと思います。



 仲良くしてくれてありがとうございました。弾丸バスツアーはものすごい思い出です。まさか逮捕されそうになるなんてwwww



 酒井さんの方が、たぶんわたしの奇跡です。






「寒くなったなー」

「もう、十二月ですからね。クリスマスとかどうするんですか?」

「今年、金土が二十三、四じゃん。なんとか休みとって帰ってみようかなーとか思ってさー。プレゼントもって」

「え、紗智さん連絡くれたんですか?」

「聞くな」


 まだ許してもらってないのか。あれから約半年、そろそろ減給期間も終わる頃だ。透が見る限りとても真面目にやっている。実はあれから酒もほとんど飲んでいないのだ。

 本人は、給料カットされているから、などと言っているがたぶん違う。本当に心からの懺悔の現れなのだろう。

 そんな彼を見たら、そう時間はかからず紗智も許してくれるのではないだろうか。


 相模屋はあまりクリスマス商戦に左右されない商品構成だが、皆無ではないのでディスプレイやラッピングの用意はする。

 店内はBGMも壁の飾りも品のいいクリスマスムードに包まれている。


 透がクリスマスプレゼントを渡したい相手には半年前に振られてしまった。

 残されたメッセージはそれこそ文字が薄くなるほど読んだ。

 たぶん、彼女も透のことを憎からず思ってくれていた。

 彼女がいうところの、恐らく覚悟のようなものが、透にあったかと言えばそれはわからない。


 しかし思うのだ。

 人を好きになるのに、そんな覚悟は必要ない。どんな困難があったって、それは二人で考えて乗り越えればいい。越えられなくてなにかに引っ掛かって、転ぶことだってあるだろう。そうしたら二人で手を貸し合って、立ち上がればいいのだ。

 きっと、その事を透よりも夏希の方が知っていたはずだ。それなのに断られたということは


「つまりそういうことなんですよ」

「そうかなー。俺はそうは思わないけどな」


 夏希とよく話すのだ、と話したことのある小澤は、二人が進展しているものだと思っていたらしい。しかし現実はもう半年近く連絡を取っていない。

 賢一郎と泉は時々買い物に来てくれるが、夏希は一緒にはいない。二人も話を聞いているのか、透の前で夏希の話はしないのだ。


 スムーズに手続きが済んでいれば、来月辺りには渡英だろう。ホームステイだと言っていた。一人で言葉の通じない国へいってしまうなんて、心の距離を実際の隔たりで表して見せられているようで、辛い。


 透は、夏希たちに出会って、ぼんやり自分のやるべきことやりたいことが形になって見えてきた。できないかも、反対されるかもなどとはもう思わない。回りを巻き込んでもやりきる体力を、東京で身に付けて帰るつもりでいる。


 その時に、夏希が隣にいてくれたらいいのに。


 スケッチブックに書き込んだ文字のように、その願いは透のど真ん中にぐさりと刺さった。

 夏希は透のこと、家族や周囲の人のことばかり言っていた。

 じゃあ、夏希の気持ちは? 透がそれでもいいよと言ったらなんと返事をするつもりだった?


 だって、夏希と一緒に迷ったり悩んだりしたかったんだ。

 耳が聞こえないから、ハンデの有無ではなくて、夏希が夏希であるから一緒に生きていけると思ったのだ。


「ちょっと、行ってきます!」

「おう、頑張れよー」


 食べかけのAランチと小澤をおいて、透は渋谷の町を駆けた。

 店の前はどこもクリスマスの飾りで賑やかだ。それらを横目に見ながら、透は走った。

 片手にはスマートフォン、止まることなく泉の番号を呼び出していた。


「ごめんね、急に」

「……いいえ」


 夏希をつれてきてもらったのは、彼女たちの学校のすぐ向かい。透の会社からも近い公園だ。

 どうしても、諦めがつかなかった。こんな思いははじめてだ。透は自分の中にこんなに往生際の悪い人格が住んでいたかと驚いた。

 でも、どうしても無理だった。夏希の気持ちもこちらを向いているのに諦めなければならない理由なんてない。


『なっちゃんは、俺のこと嫌いだった?』

『』


 返事はない。うつむいて、透の顔を見ようともしない。

 駄目なのだろうか。閉じてしまったシャッターを再び開けることはできないのだろうか。


『なっちゃんがいないと、つまんないよ。なっちゃんが俺のこと、幸せにしてくれてたのに。離れてたっていいんだ。なっちゃんが元気で楽しくしてて、俺のこと考えててくれればいいんだ。そういうわけにはいかない?』

『わたしは』


 夏希のペン先が動いた。ゆっくりと言葉を選ぶように運んでいく。


『わたしは、酒井さんのことが好きだと思います。だけどこの間言った理由で、頑張っても乗り越えられないと思うんです』

『なんで、』


 透は今までよりも大きな時でそう書いた。なんで。


『なんで、一人で乗り越えようとしちゃうわけ? 俺がいるじゃん。一緒に越えなきゃ、なんのためにいるかわかんないよ』


 どんなに深刻なハンデがあったって、なくったって、人は一人では射きられない。多かれ少なかれ誰かの助けが必要だ。

 その事を一番知っているはずの夏希がなぜ透の手だけは弾くのか。


『俺のことだって、なっちゃんは助けてくれたよ? 俺が手を貸すだけじゃない。なっちゃんだって俺の力になってくれてる。なんで、わからないの?』


 明らかに夏希が動揺した。怖がらせたいわけではないのだが、ここで退いてはわかってもらえないかもしれない。

 透のことが嫌いだというのならそれは仕方がない。今すぐ諦めてもう二度と会わないと約束する。でも違う、それならば。


『親のことも友達のことも、俺、なっちゃんと一緒にいて恥ずかしいなんて思ったことないから紹介するよ? むしろ自慢するよ。会社の人にも言っちゃったもん。大好きなのにフラれたって』

『なんでーーーーー!』

『言うよ。悲しかったもん』


 すねたような顔で殴り書くと、夏希はそっと頭をあげた。


『あのね、いろんなこと一緒に乗り越えようよ。結構二人で、頑張れると思うよ』

『ご両親、心配すると思う』

『子供がなんとかってこと? ずっとそんなこと考えて、自分は結婚しないとか思ってたんでしょ? そういえば前にお姉ちゃんとそんな話してて、入ってこなかったときあったよね。変だなーって思ってたけどずっと気にしてたんでしょ?』


 夏希の姉、春佳に初めて会ったとき、確かにそんな話をした。きっと、もっとずっと子供の頃から、彼女の中にはそんなことが渦巻いていたのだろう。簡単に夢を見ることをできない自分のおかれた状況を恨んだこともあっただろうか。


『心配だったらお医者さんで調べてもらえばいいよ。それにさ、なっちゃんは生まれてきて不幸だって思ったことたくさんあった? そうでもないでしょ。どうやって生まれてきたって、幸せになる人、不幸せになる人がいるよ。それは、体の機能の話じゃないでしょ? もっというと子供がいなくても幸せな人はいっぱいいる。なっちゃんが、俺や俺の家族の幸せを決めないで』


 それは二人で決めればいいことだ。その二人にしか作れない幸せの形があるのだから。


『一緒に考えてくれませんか? なっちゃんとしかできない楽しいことや嬉しいことを、探してみるっていうのはどうですか?』


 夏希の膝のスケッチブックはもう閉じられている。その代わり、何度も何度も頷いた夏希の目からは涙がボロボロこぼれていた。

 その手のひらに透は小さな箱を置く。


「なに?」


 今は近くにいるから、夏希は自分の声で問いかけた。


「早いけど、クリスマスプレゼント。開けてみて」


 赤いリボンのかかった箱を、夏希はそっと開いた。

「なんだろう、これ」


 ハートにブルーのアイシングクッキーを型どったキーホルダーだった。そこに、スワロフスキーが品よく並べてある。色といい光石といい、夏希の補聴器のようだ。


「これは、防犯ベル。引っ張ると、音が出る」


 渡せる宛はなかったが、町で見かけて思わず買ってしまった。石をつけるデコレーションは透が自ら施した。

 イギリスでスリにあったら、暗いところに引きずり込まれそうになったら。大声をあげられない夏希は誰にも助けを求められないかもしれない。

 透が近くで守ることはできない。それならば、代わりに守ってくれるだろう。


「もう、持ってるとは思うけど、二個でも三個でも音が出たら、みんな気がついてくれると思うから」

「うん……うん。ありがとう」

「夏にはきっと、遊びにいくよ。案内してくれる?」

「一緒にいきたいところ、探しておくから」

「でも、気を付けてね。無事に、楽しく勉強してきてね」


 そしてここに帰ってきて───





「行っちゃいましたねー」

「うん」

「酒井さん、寂しいでしょう」

「うん……」


 正月の賑やかさが消えかかった一月末、夏希はイギリスに向けて飛び立っていった。

 恋人として過ごせたのはほんの数週間。それでもそれまでと変わらず、穏やかで優しい時間を持てたと思う。


 年末、実家に帰った小澤はやはり半年以上ぶりに婚約者である紗智に会うことができた。まだ完全和解とまではいかないようだが、ずいぶんと当たりは弱くなっているようだ。

 紗智の割りきれない気持ちがわかるだけにそろそろ許してやれなどとは誰も言わない。しかし、紗智はきっと許すだろう。その時は回りもみんな祝福するのであろう。小澤というのはそうしたくなってしまう男なのだ。


 鈴木の妻は相変わらず、入退院を繰り返しているようだ。

 しかし、この二人は先日ついに入籍をした。鈴木の父親はまだ反対しているようだが、二人とももういい年だ。体のこともある。精神的に落ち着いた方が回復に作用するだろう。



 賢一郎と泉と三人で、小さくなっていく飛行機をずっと見ていた。

「ねー、ロールキャベツ食べて帰ろうー?」

「えー、ハンバーガー美味しそうだったよー」


 スケッチブックを挟まない彼らとの会話は、まだ少し違和感がある。それでもしばらくはこうして話をしお茶をのみ、たまには愚痴をこぼすのだろう!


「酒井さんはどっちいいー?」


 どっちでもいい。どっちも美味しいし、どっちも寂しい。


 きっと、永遠より長い一年が始まる。




とりあえずおしまいです。

お付き合いいただきまして、ありがとうございました!

後日談的なものをもう少し書きたいと思っています。

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