第一章「フードの男」
駅前の空き地に「ダンジョン」が現われてから、三ヶ月。
初めはニュースキャスターも半信半疑だった。全国民が全世界が「これは何かの悪戯か、集団幻覚だ」と言い続けた。だが、実際にモンスターに襲われて命を落とす人間が出てきたとき、世界はようやく認めざるを得なくなった。
――あの世界的人気ゲーム『アステリズム・オンライン』の中身が、そのまま現実に降りてきたのだと。
俺、水無瀬蒼は、その正体を誰よりもよく知っている。
何しろ、あのゲームを「最後にクリアした」のは、他でもない俺自身なのだから。
サービス終了イベント――運営が最後に用意した、誰にもクリアできないと言われたエンドコンテンツ。あれに挑み続けて、気づけば何百時間も溶かして、ようやく辿り着いたエンディング。
クリアした瞬間、画面が真っ白に光ったのは覚えている。ステータス画面が視界に入った。
レベルは1に戻っていた。
だが、装備は――手に馴染んだ双剣も、闇に紛れるための漆黒のコートも、そのまま俺の部屋に転がっていた。
そして、記憶だけは、何一つ欠けることなく残っていた。
あの日から三ヶ月。世界中の「ダンジョン」で同じことが起きている。誰かが何かをクリアするたびに、その内容が現実に染み出してくる。モンスター、転職システム、スキル、装備――ゲームだったものが、少しずつ、この世界の一部になっていく。
運営はゲームのタイトルすら公表していない。だから誰も、俺があの伝説的な「ラストクリアラー」だとは気づいていない。
それでいい。むしろ、そうでないと困る。
俺がラストクリアラーと知られてはいけない。
俺は今夜も、フードを深く被り、金銀のわずかな装飾だけが光る漆黒の装備に身を包んで、ビル街の隙間に口を開けた「裂け目」――ダンジョンの入口へと向かっていた。
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「――速い」
悲鳴混じりの声が、通路の奥から聞こえた。
俺は足を止めずに、むしろ加速した。スピードにステータスを全振りしている俺の脚力なら、この程度のダンジョンの通路を駆け抜けるのに何の苦労もない。
角を曲がると、目の前に光景が広がった。
壁際に追い詰められた一人の少女が。相手は三人組――装備の質からして、まともな冒険者じゃない。腕に刻まれた紋章には見覚えがある。闇ギルド、『黒鴉』のマークだ。
「おいおい、往生際が悪いなぁ嬢ちゃん。大人しくインベントリ渡せばいいだけの話だろ?」
男の一人が、下卑た笑いを浮かべながら少女ににじり寄る。
少女は震える手で短剣を構えていたが、明らかにレベル差がある。彼女のステータスウィンドウが薄く空中に表示されているのが見えた――ゲーム時代の進行度だろう、恐らく全体の八割程度。悪くはないが、この三人が相手では分が悪い。
迷っている暇はなかった。
双剣を抜き放ち、その場から一気に踏み込む。
「――は?」
男の一人が振り向いたときには、もう遅かった。俺の刃は既に、そいつの得物を弾き飛ばしている。
「な、なんだお前――」
「名乗る義理はない」
俺は短く言い捨てて、二人目、三人目と畳みかけるように距離を詰めた。速度に振ったステータスの真価は、こういう瞬間にこそ発揮される。向こうが状況を認識する前に、勝負は決している。
数十秒後、『黒鴉』の三人は通路の壁際に転がっていた。
「……あなたは」
少女が、呆然とした様子でこちらを見上げてくる。
俺はフードの奥から、彼女の顔をちらりと見た。警戒と、驚きと、そして――ほんのわずかな安堵。
薄暗いダンジョンの中でも、嫌でも目を引く顔立ち。作り物のような美しさ。だが今、こちらを見上げる表情には強張りが残っている。
「怪我は」
「え、あ……ない、です」
「なら、いい」
それだけ言って、俺は踵を返した。名乗るつもりはない。この街の誰かに、俺の正体を知られるわけにはいかない。
「待って――!」
少女の声が、背中に投げかけられる。
俺は足を止めなかったが、その声が、思いのほか長く耳に残ることになるとは、このときはまだ知らなかった。
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