49.オセアール
「はぇ〜…これ、中はどうなってるんだろう。想像すらつかないや…」
「グルルゥ!!」
「ピピィー!!」
「ニャポニャー!」
ここはマーレリア自治区最大の港街。
オセアールの目の前。
その街を覆う結界の外からすでに、リィンはポカンと口を開けていた。
結界の魔法の効果でボヤけた内部はよく見えないが、それでもあまりにも大きすぎる事だけは分かる。
「さて、ソキウスは一応亜空部屋に入っててね。ヒドゥントピアで聞いた話もあるし」
「グルッ」
鉄面越しの四つ目は不承不承といった色をしているが、フルーティオの時のような刺々しい視線を浴び続けるのはさすがに御免なのだろう。
素直に入ってくれた。
「ウィズとシャルは…どうする?」
「ピピー!」
「ニュル」
ウィズはパッと大空へ飛び立ち、その翼で自由に過ごすらしい。
シャルは影潜の魔法でリィンの影にとぷんと潜った。どうやらそのままついてくるようだ。
「よし、いざ出発!」
そして、一歩街の境界を跨いだ…その瞬間。
蜃気楼のようにボヤケていた風景がハッキリと輪郭を持つ。
まず彼女を出迎えたのは、林立するビルとタワーの群れだった。
まるで自分が小さな幼獣になって、人間の街に迷い込んだかのようだ。それほどまでに建物がどれも大きかったのである。
リィンは毎度カタルシアの大都市には驚かされているが、目の前に広がるオセアールも例に漏れずとんでもない街…いや、例に漏れずどころか一番とんでもない街かもしれない。
木かと思えば木型の空調魔具。
ぴゅんぴゅん飛び回る鳥に見えたのは伝達に使われる魔具。
地面は硬いのか柔らかいのかよく分からない不思議な材質ですべて固められていた。
見渡す限りあちこちに魔道具らしきものが配備された街はいっそ怖いくらい露骨な人工物の世界で、漂う魔力すらも過ごしやすさ重視できっかり調整されているように感じられる。
もう、空くらいしか自然のものは無いのではなかろうか。
その上、街の中にも何らかの魔道具で結界の魔法が張られているのか、海の目の前なのに潮の香りが非常に薄かった。
肌をサラリと流れる空気から察するに、潮風そのものを防いでいるのかもしれない。
建物や魔道具が傷む原因にもなるので、仕方ないのだろうが…
「うーん…でもこれは…ちょっと息苦しいや。圧迫感というか…」
魔合金製だろうピカピカの超高層ビルの壁面は、それそのものが大型の映像魔具なのだろう。
色鮮やかな広告が浮かび、コマーシャルやニュースが流れている。
巨大な魔獣の顔がバッと映し出されたときは驚いてひっくり返りそうになってしまった。
他にも取引額の数字や、新しく入った貿易品のお知らせといった情報が逐一表示されている。
「あ、あっちのビルの壁は全面に滝が映されてる!全部ああいう環境の投影にしちゃえばいいのになぁ…綺麗だし」
ビルの間には透明な筒が器用に隙間を縫って通っており、人を乗せたカプセル型の魔道具がその中を往来していた。
おそらく、水平移動型魔具みたいなものだろう。よく見れば浮遊の魔法で浮かんだ駅らしきものもある。
と、リィンはせかせかと革靴で歩くスーツ姿の人とぶつかりそうになり、慌てて道の端に寄った。
「というかここ…もしかして会社とかの集合体?通行人はほぼスーツ姿だし、どのビルにも会社名みたいなのが書いてあるような…」
丁度近くに案内魔具があったので、街の地図を見てみた。
どうやらリィンの予想は当たっていて、今いるのは所謂オフィス区という部分らしい。
ガイドの文面曰く、カタルシア中の企業や会社のビルがここに集まっているのだそうだ。
そりゃ、景観より使い勝手重視で人工的にもなるだろう。会社員はストレスとの闘いだと昔近所の誰かも言っていたし。
ついでに奥には大学もあるらしいが…ベルセル達の母校だろうか。気にはなるが、寄り道としては遠すぎるので行くのはやめておこう。
「ふむん?向こうの道をくだればオフィス区を抜けて海の方に行けそうだや」
早速リィンは爪先の向きを変え、クッション性の高い地面を軽く蹴って進む。
しばらく進めば靴はいつの間にか古風な石畳を鳴らし、むっと独特の香りを連れた潮風が彼女の黒髪と白衣で遊び始めた。どうやらビルのジャングルから抜け出せたらしい。
「ぷはっ…街で溺れるかと思ったぁ。本気の都会って怖い…あぁ、石畳と潮風がありがたく感じるぅ…」
シャルも同意なのか、リィンの影が頷くように揺らいだ。
タンタン、と下手くそなステップを踏んで靴音を鳴らして歩いていると、横を微かな魔力の揺らぎと共に小型飛行魔具が通り抜けていく。
思ったより近かったのでちょっとびっくりした。
「オフィス区は抜けたと思うけど、それでもこの街は魔道具だらけなんだね…魔法生物を頼らない代わりなのかな」
どんなに都会的だろうが、路地や物陰を覗けば一体くらいは隠れた魔獣や悪戯を目論む精霊を見かけるだろうに、この街ときたら全然、さっぱりだ。
野生どころか契約魔獣や精霊の気配もない。代わりに日常の中で呼吸してるのは、魔法工学の結晶達。
さながら魔法生物の存在しない異世界にでも迷い込んだかのようである。リィンは思わず亜空部屋にいるソキウスの気配を確認し、安堵の息を吐く。
それと同時に、ヒドゥントピアで聞いた話が真実味を帯びてのしかかってきた。
「うぅ…やめやめ!今は楽しい街歩きだぞ私!!」
沈みそうになった気持ちを持ち上げ、足早に道を更に南下していく。
この街もまた、マーレリアの大地やフルーティオと同じく南…海に向けてずっと下り坂だ。
緩やかとはいえ転ばないように歩くことしばらく。視界にチラチラと光る青が見え始めた頃、リィンは完全にビル群を抜け、大きな円形の広場に出た。
「はぇ〜…綺麗な街並みだぁ…!」
その広場を中心に広がっているのはリゾート風の街並みである。そのままズバリ、リゾート区という区画だ。
坂であることを利用して段々と立体的に作られたそれは、フルーティオと作りこそ似ているが…色が違うだけでこうも印象が違って見えるものなのか。
角の丸い家々の真っ白な漆喰の壁が日差しを照り返して煌めく中、平らだったりドーム状になっている青い屋根がとても良く映えていた。
オフィス区の冷たさから一変、すっかり暖かくて爽やかな南国リゾートのムードである。
見るからに観光スポットであるこの辺りは、大勢のラフな格好に身を包んだ人々で賑わっていた。人混みと入り乱れる魔力に酔いそうだ。
(こ、今度は人で溺れそう…!)
ただ、ここにもやはり魔法生物の影はない。
花を模した乗り物の魔道具が人々を乗せてフワフワと行き交っているだけだ。
「あれちょっぴり楽しそう…後で乗ってみようかな…」
乗り物だけでなく、あちこちにある可愛らしい雑貨屋やオシャレな服屋にも心惹かれたが、何とか耐える。
本格的に遊ぶのはサイカスの用事を終えてからだ。
「…ん?ここって…」
後ろ髪を引かれながら南下していく途中、不自然にポッカリと空いた空間を見つける。
石畳も無く、特に手入れされた様子もない。
むき出しの土だけがそこにはあった。
広さは一軒家が建てられそうなほどだが売地の文字はどこにもない。
公園にしては遊具がないし、工事中というわけでもなさそうだ。
立ち入り禁止とも書いてないので、リィンはそっと足を乗せてみた。
なんの変哲もない地面だが、何故か体が…具体的にはリュックが重みを増したような気がして背負い直す。
と、潮の香りの隙間から鼻をくすぐった匂いに目を見開いた。
「…え?薄いけど、この薄荷みたいにスッとした香り…それに、ほんの微かだけど感じるこれって…透き通ったように綺麗な、白属性の残滓…?…まさか、ね。まさか…だよね?」
この香りが、魔力が、もしこの場所から滲み出ているのだとしたら、リィンには一つだけ思い当たるものがあった。
けれども、できればそれは…当たってほしくない。
「おや、お嬢さん。そんな所で何を?もしや道に迷ったのですか?」
「あ、いえ。えっと…ここって何かな、と」
棒立ちしていたリィンを不思議に思ったのか、花を抱えた青年が声をかけてきた。
飾り気のないラフな格好を見るに、近くの住民だろう。
青年は地面を見て、あぁと小さく頷くと…
「何でしたか…そう。昔、御神木?みたいなものがあった場所だと聞いていますけど」
「そ、う、ですか」
去り際に、"良かったらどうぞ"と渡された花を片手に、リィンは唇を噛んだ。
魔獣や精霊をあまりよく思っていない人々が、純白孔雀型大精霊…大精霊の授けた木に思い入れがなくても、それは仕方の無いことかもしれない。
そう、頭で分かってはいても…リィンは思ってしまう。
「少し、さみしいね。こんなの」
何もない、誰の目にも留まらない土の上。
リィンはそっと花を置いた。
…
気持ちを切り替えるようわざとらしく靴音を鳴らしながら南下を続けると、活気の種類が変わってきたことに気付く。
期待に弾む観光客の声ではなく、商人達の太く力強い客引きの声が増えてきたのだ。
「それだけじゃない…匂いも全然違う」
強くなった潮の香りと存在を主張する磯臭さに混じり、嗅ぎ慣れない香辛料の香りがいたる所でとぐろを巻いていた。
何となく、鼻の奥がピリピリするような、痒いような、独特の香りである。
そして、ついに…
「はわわわ…海だぁ…!!」
リィンの薄墨の瞳に強い青がカッと反射する。
あまりにも広くて視界に収まりきらない海原が、ただただ悠然と横たわっていた。
凄い、と声にならない感嘆が舌先で転がる。
海そのものは故郷で何度も見たことがあるリィンだが、ラントリイの海は複雑な海流と魔脈のせいで荒れに荒れているのが常だ。ゆっくり眺めるものではない。
だからこそ、まるで違う顔をしたマーレリアの海に感動を覚えた。
空が恥じ入るほどに真っ青で、ビル群に負けないくらいにキラキラで、静かなのに恐ろしい程のエネルギーが揺蕩っている。
は、と忘れていた呼吸を取り戻せば、その一呼吸で肺はすっかり海の香りと神秘の空気、湛湛とした青属性魔力に溺れさせられた。
「ぁ、わ…ダメ、見入ってボーッとしちゃう。綺麗だけど怖いなぁ…」
軽く頭を振るい、リィンは気付かず止めていた足を進める。
右手に見えるのは、海を抱き込むような…あるいは巨人にでもえぐり取られたような巨大な湾。
そこにはひっきりなしに様々な国の船舶が出入りしており、貿易の玄関口となっているようだ。
湾には大量の懸垂起重機型魔具がぶら下がっていて、接岸された船からコンテナを次々と積み下ろしている。
そんな慌ただしい湾の隣…欠けた櫛のような海岸線の船継場には、豪奢な大型魔力船がのんびりとつながれていた。
こちらはおそらく客船だろう。
他にも、漁から帰ってきたのだろう中型の魔力船もあちこちに停泊していて、ガタイの良い男たちが成果を自慢しあっていた。
なんだか、ここまでに見たオフィス区やリゾート区よりもよほど血が通っているようで、この場所こそがオセアールの本質に思える。
「でも、あれって…おばあちゃんの話にあった争いの跡、なんだよね」
あの湾達が生まれた経緯を聞いてしまった後だと、素直に感動できないのが困りものであるが。
視界を正面に戻すと、本来荷さばき地であろう港の広場は大規模な市場になっていて、貿易品や海産物が場所を奪い合うように並べられていた。
「らっしゃい!!今さっき揚がってきた上物だよ!!」
「はわわわ…立派だ…!もし一人で食べたら何日かかるんだろう」
「とある国から取り寄せた反物はいかがですかー?」
「あ、あれ着物だ!綺麗だなぁ…」
「迷宮国家の掘り出し物市、出張版だよ〜!」
「はぇ〜希少な魔鉱石類とか、あっちはダンジョンの宝箱から出たティーセット…何でティーセット??…凄いなここ、ずっと見ていられそう」
少し覗いただけでも楽しいと分かる。更にこれが日によって店もラインナップもコロコロ変わるというのだから、毎日来たって飽きないだろう。
ただ、そんな泥臭い市場の熱気の中、商品の管理や精算などはすべて魔道具を介して冷めたように行われていて、奇妙というかちぐはぐであった。
賑やかを通り越して騒がしい市場とは裏腹に、港の左手には無骨な工場が密集している工場地帯がある。
インダスティオの工場はシュウシュウ蒸気を吐き出していたこともあって、何だか威勢の良いおっちゃん達がえんやこらと騒がしく働いているイメージだったが…こちらは無言で据置型高速演算魔具に向き合っているようなイメージというか、静かすぎるほど静まり返っていてちょっと不気味だ。
「んー…工場の向こうにも凄く大きい施設もあるけど…あれは何だろう?」
ビルよりも高い壁に囲まれていて中は見えないが、多機能型通信魔具で地図を見るかぎりダムに似た施設があるようだった。
「あ、もしかして、あれがサイカスさんの言ってたマーレリアの浄化装置かな?というか…」
リィンはリュックを背負い直し、改めて右に左にとパノラマ写真でも撮るみたいに視線を流した。
「その肝心のサイカスさんはどこ??」
実はリィン、オセアールに到着する直前にサイカスからメッセージを受け取っていたのである。
"もうオセアールに着くッスよね?なら海に来てほしいッス!"
オセアールを視界に入れ、たまたまリィンがスマホを見たその瞬間に届いたのは直感のおかげなのだろうか。正直気持ち悪いなとも思ったのは内緒だ。
「もー、ひと言海に来てって言われてもなぁ…いないし」
女の子を呼び出して、あまつさえ待たせるとは何事か。リィンの中のレディがムッと頬を膨らませる。
このまま棒立ちしていても仕方ないので、取り敢えず海岸線に沿って歩いてみることにした。
…
「わぁ、ぁ…?」
海の間近にまで歩み寄ったリィンは、感動しようとして失敗する。
いや、海の素晴らしさは間違いないのだが…
「な、何かいっぱい浮いてるね??」
そう。海のあちこちに何かが浮いているのだ。
丸い紫色のそれは、周りに藻が生えているのか緑色の髭に覆われている。
それがいくつもくっついた状態で波間に揺れていた。
「ゴミ、ではないみたいだけど…っう!?え、嘘なんで…この匂い…!?」
不意に襲ってきた不快臭に、思わずリィンは鼻と口を手で覆う。
マーレリアに入ってからずっと水面下に感じていた匂いが、完全に顔を出していた。
試した事などないが、腐った魚や肉をドブの水で煮込んだらこうなるのではないかと思うほどの強烈な生臭さ。
そこに温泉地で感じる独特の香りと古くなった油のような酸っぱい香りが混ざり、薬品のようなツンとする刺激臭が時折飛び出してくる。
海は確かに遠目に見れば綺麗である。
けれども目を閉じてみれば、脳内に描かれた海は水面に揺らぐ虹色の膜と、ドロリと淀んだ水がその青を穢している。
勿論、リィンの想像でしかないが…あながち間違ってはいないはずだ。何故なら、この不快臭を運んできた魔力が…大問題だったから。
「蝕化魔力…!どうして…どこからこんな…」
もう少しよく見てみようと、リィンは海に一歩近付いた。すると、波打ち際近くを揺蕩っていた謎の物体がもぞりと動いた。
(…え?動いた…?)
思わず足を止めて凝視するとパチリとそれの目が開く。
「「「モッ!」」」
「…え!?」
生き物!?と思った時には遅く、それは…否、それらは海を飛び出してリィンに飛び掛ってきていた。
しかし、無意識に助けを求めたリィンに応えて亜空部屋にいたソキウスが飛び出し、同時に彼女の足元の影が大きく揺らぎ、シャルもまた爪を振りかぶる。
更に、空から見ていたらしいウィズが嘴を突き出しながら急降下してきた。
そして、皆それぞれの一撃によってそれらは間一髪、リィンに傷一つつけること叶わず弾き飛ばされる。
「グルルゥ!!」
「ニャパス!!」
「ピュイッピ!」
「ソキウス!シャル!ウィズも…ありがとう!…でも」
謎の生き物は今飛び掛ってきただけでなく、波間に揺蕩っていたモノ全てがそうだった。ジロリとこちらを見る敵意が多すぎる。
かといって、ここまで徹底的に魔法生物を廃していた街でソキウス達に戦ってもらうというのは…早計だろう。
残る手段は逃走だが…
「「「「モッ!!!」」」」
(いや、そうだこれ…!ええい、ままよ!!)
「グルッ?」
「ニャ?」
「ピッ?」
リィンは魔法を使おうとしたシャルとウィズを抱き寄せ、飛び掛かろうと足に力を入れたソキウスの腕に触れて止めると、揺れた拍子にカチャリと手に触れたそれ…プルガディウスの種が付いたストラップを握り、魔力を込めた。
途端、変形したリュックからゴゥと吹いた突風の魔法が、一斉に飛び掛ってきた謎の生物達を吹き飛ばしたのである。
キラキラした白銀の風と澄み渡った魔力の残滓がすぅと消えていく中、リィンはシャルとウィズを抱えたままいつの間にかソキウスに抱えられ、放心していた。
謎の生き物達を突風で吹き飛ばした…だけのはずだったのだが、どうしてか完全に気絶してぷかぷか浮かんでいたのだ。しかも体色が紫から緑に変わっている。
「わ、わけが分からない…いや、そうだ…こ、こういう時こそ冷静に…よし。ソキウス降ろして」
「グルッ」
言葉の割に混乱はまったく引いていないが、リィンは半ば本能的にタブレットを取り出し、図鑑を漁る。
手を離されたシャルは騒ぎに集まってきた野次馬の気配を感じ、抜け目なくリィンの頬にチュ、チュとキスをしてからまた影の中に戻った。
それを見たウィズもリィンに嘴を擦り寄せ、また大空に身を隠す。ソキウスだけは自力で隠れられないので、リィンの隣でなるべく小さく身を畳んだ。双方の大きさを考えれば当たり前だが、丸見えである。
尚、リィンはいつもの悪癖ゆえ、図鑑に集中して色々と気付いていない。
「…え、あれ?魔獣の図鑑でも精霊の図鑑でも、どこにもこの子に当てはまる項目が無い…?外来種なのかな」
そう思って今度は自前の紙製図鑑を収納型魔具から引き摺り出して開いてみるも、どこを探してもそれらしい生き物は載っていなかった。
まさか新種かとドキドキしたが、改めてカタルシアの図鑑を見返した時、索引の手前で小さな一文とイラストを見つける。
"変異藻型精霊。発見された死体を分析したところ、おそらく魔藻類が変化したものと思われる。だとすると、繁殖力はかなり強い。詳細は不明。死体含めあらゆる資料を紛失したため、イラストを掲載"
「イラストを見る限りこれっぽい…でも、詳細不明?」
「そうなんスよ!」
「わひゃあ!?」
「グル!?」
耳元で聞こえた溌剌としたテノールに、リィンは座りながら飛び上がるという器用な真似を披露した。
跳ね回る心臓を、いつの間にか解けてしまった白衣の袖越しに抑え、キッと振り返る。
「サイカスさん!いきなり声をかけないでください!!」
「へへへっ!何スかぁ?ビビリちゃんッスかぁ?アンタも以外と普通の女の子ッスね!」
「……」
リィンは物凄く悪ガキっぽい絡みをしてくるサイカスをジトッと睨み、心の中で舌打ちをした。尚、舌打ちは隠してもやさぐれた表情はバッチリ表に出ている。
「おおー怖い顔ッス!」
「サイカスさんも突風で吹き飛ばせば綺麗になりますかね?試してみます?」
「アンタ、オレの事何だと思ってんスか??嫌ッスよ」
有言実行してきそうな気配を感じたサイカスは顔を引きつらせつつ、伸びているキスティスをヒョイと袋に入れて口を縛った。
そこからチラリと見えた、紫色をしたまま気絶している他のキスティス達にリィンは首を傾げる。
「キスティスを集めてるんですか?」
「そーッスよ。放っとくと増えるから回収してるんス。それでもキリがなくて困ってんスけど」
「あ!もしかして、困り事って…」
「まぁ、お察しの通りッスね」
そう、これこそがサイカスの言っていた海での困り事であった。
曰く、最近になっていきなり海の汚染度が上がったかと思えば、蝕化魔力を持ったトンデモ生物…このキスティスが湧くようになり、日に日にその数を増やしているのだそう。
「蹴散らして捕まえるだけなら簡単なんスよ?でも何度駆除してもこの通り湧いてきちゃうんス…」
「その、汚染度が上がったせいじゃないんですか?」
「グルグル」
「うーん…ぶっちゃけマーレリアじゃ汚染度の上昇はしょっちゅうッスけど、今までこんな精霊見たこと無いッスよ」
"カタルシアの涙"が数分降っただけでも海の汚染度は危険域まで上がる。
そればかりは仕方の無い事で、だからこそ近海漁は禁止せずとも誰もやろうとしない。そのくらい周知の事実なのだ。
「はぁ…コイツらのせいか汚染度も下がらないんス。もうまいっちゃうッスよ」
「汚染度が下がらない…?」
「そうッス。どころか日に日に上がってるんスよね」
「それってのんびりしてちゃダメなんじゃ…」
「だからオレ、最初から言ってたじゃないッスか!嫌な予感は目茶苦茶バンバンするって!でも元を断つにしても、キスティスの出どころが分からないんスよぉ!」
イ"ー!、とキスティスの入った袋を振り回しながら頭をかくサイカスの動きはコミカルだが、切実な瞳は本物だ。
本当に困っているのだろう。
リィンは鼻をちょんと触り、サイカスに向き直る。
「あの、キスティスの事は分かりませんけど…汚染度について、逆って事はないですか?」
「逆??」
「えっと、サイカスさんはキスティスがいるから汚染度が下がらないって言ってますよね」
「そりゃ、汚染の原因は蝕化魔力なんスよ?それを垂れ流されちゃ…」
「けど…汚染度が下がらないからキスティが減らない、とも考えられるかなぁって…」
サイカスは目から鱗とでも言いたげに目を丸くし、幼気に瞬きを繰り返した。しかし直ぐに険しい顔つきになり、口元を片手で隠す。
(確かに、周囲の環境を住みやすいものに変える精霊もいないことも無いけど…図鑑の通り魔藻類がルーツだとしたら…)
「環境が自分に合ってるから増える、って方が自然って事ッスね」
「……まあ、ハイ…」
「グル…」
「そんな気味悪がられたらさすがのオレでも傷付くんスけど…」
直感で脳内の思考と会話してくるほうが悪い。
ちなみにソキウスはそのスキルがちょっと羨ましいなと思っている。
全然傷付いて無さそうな顔で、サイカスはでも、と続けた。
「浄化魔具は問題無く稼働してるッスよ?浄水設備の状況は陸用も海用もずっと変わらずッス」
「うーん…変な細工がされてるって事はないでしょうか?」
考えたくはないが、またアクセラリティグループが絡んでいるとしたらあり得なくもない。
現に、フィオーレ自治区の時はシステムが正常に動いていると誤認させられていた。
しかし、サイカスは強く否定を返す。
「それはないッスよ。オレ、文字やら数字やらがズラッと並んでるのは見てもわけわかんないし目が回るだけッスけど、違和感ってか…"嵌ってない"ってのはわかるんス。だからどっかイジられてたら気付くッス。コレでもこまめにチェックはしてるんで」
「なるほど…」
「でも、そうッスね…アンタのおかげで一つピンときたッス」
「グルゥ?」
そう言って、サイカスはふと北を向いた。
どこか遠くに投げられたその視線をたどっても、リィンには何を見ているのかは分からないが…
ストンと削ぎ落とされた表情に、彼女は深海を見た。
「もしかしたら、どっかから予期してない量の黒属性魔力が流れ込んでるのかも知れないッス。それなら…いつもと変わらない働きをしてるシステムを上回れるッスよ」
海にあるマーレリア近郊の魔脈にも蝕魔塊があるらしく、黒属性魔力が海に多く流れ込めばそれに触発されて蝕化魔力が発生するのだと言う。
正直リィンはサイカスの表情に驚いてそれどころじゃなかったが。
「ん?どうかしたッスか?」
(無自覚なのかな?あんなに深く…絶望したような顔したくせに)
リィンはきゅっと眉を寄せ、何でもないとそっぽを向く。
あいにく彼女はカウンセラーではないのだ。踏み込むには、リィンはサイカスの事を知らなすぎる。
「その…魔力の出どころに心当たりはあるんでしょうか?」
「さっぱりッスね!」
リィンはきっぱりと笑うサイカスを半目で睨み、海に揺らぐキスティス達を見た。
そして、キメ顔を作りながら白衣に入れておいた通信魔具をすちゃっと取り出す。
まぁかっこよく取り出したところで、もたもた、ポチポチとトロい操作で台無しなのだが。
「…何やってるッスか?」
「相談してます」
「誰に?」
「ベルセルさんです」
「何で!?!?」
ベルセルの手を煩わせたくないとリィンに相談を持ちかけていたサイカスが叫ぶのも無理はない。
だがリィンからすれば、そんな事言ってる場合か、である。
「このまま長引かせたらマズイって事くらい、私にも分かります」
「グゥルルール!」
「それは、そうッスけど…」
住民や海の利用者に迷惑がかかる…どころの話ではないはずだ。少なくともリィン達は、増えすぎた蝕化魔力による生死が隣り合わせの"最悪"に二度立ち会っている。
その悲惨さを、己の目で見ているのだ。
「そもそもですけど…ベルセルさん知ってますよ?内容はともかく、サイカスさんが困ってるって事」
「えっ!?あ、ガウラ先輩か!!」
「大正解です」
「グルッ」
サイカスの気遣いも虚しく、当のベルセルは相談内容を後で共有するようにとリィンに頼んでいた。
彼の性格からして、カタルシアで起きた問題を放っておける質ではないのだろう。
そんなわけで、良い子のリィンはベルセルにメッセージをえいやと送信したのである。
「うぅっ…なんだかベルセル先輩を悲しませそうな予感がしてたから黙っていたかったのに…」
「え?」
どういう事かと聞き返す暇もなく、リィンのスマホが着信を告げた。発信者は言うまでもない。
『事情は理解した。わたしの計算では…キミ達の出した結論で概ね間違いはないと判断する』
「べべベ、べルセルしぇんぱい!?!?」
「うわ…」
結局ベルセルさんを煩わせてしまったと頭を抱え、でもあの少ない情報からぱっと状況把握できるとかやっぱベルセルさんすげーと興奮し…というのを繰り返すサイカスは置いといて、リィンは画面の中のベルセルを覗き込む。
「あの、キスティスの出どころについてはどう思います?」
『ふむ…わたしの方でもざっと調べてみたが、キスティスという精霊の情報は著しく欠けているな。だが……』
「…ベルセルさん?」
「グルル…?」
ただでさえ不健康でどんよりとした男の顔に、暗く影が落ちた。
それこそ、先程見たサイカスのような…ゾッとする程の深い色。
"なんだかベルセル先輩を悲しませそうな予感がした"
(悲しみ…?ううん、これは…もっと違う…)
『…心あたりが、ある。確証は無いが…それも調べれば分かることだ』
じくりと心臓が痛んだ気がして、リィンは浅く呼吸を繰り返す。思わずソキウスの手を縋るように握り締めた。
平然と元の顔に戻ったベルセルを、大人を、少しだけ恨めしく思う。
こんなに"痛い"のに、よくもまあ隠せるものだ、と。
何なら、リィンが肩代わりでもしているのかと感じるくらいだった。
勿論そんな訳は無いのだろうけれど。
『少しばかり調べる為の時間をもらいたい。構わないか』
「え、や、そりゃ…いやいやいや!ベルセル先輩の手を煩わせるのは…!」
『では、明日にでも改めて連絡させてもらう。いいな?』
「あ、いや、だから…ダメなんス!雑務はオレを扱き使って欲しいって昔から言ってるじゃないッスか!!」
『い、い、な?』
「ウッス…」
「わぁ…」
これが先輩後輩の力関係かと感心していると、ベルセルの視線がリィンを向いた。
『そういうわけだ。そうだな…明日の昼頃には何とか間に合わせよう。その時間にでもそこの馬鹿と合流してもらいたい』
「それは良いですけど…直接サイカスさんに連絡した方が良くないですか?」
『それでも構わんが…』
「絶対巻き込んでやるッス。一蓮托生ッスよぉ…!乗り掛かった船からは降ろさないッス!」
『はぁ…これはそういう男だ。二度手間になるくらいなら、いっぺんに済ませた方がマシだろう』
「最悪すぎません???」
『言っただろう。馬鹿に目をつけられた己を恨むことだ、と』
「グルゥ…」
海に引きずり込む怪物のような目をしながら手をワキワキさせるサイカスにドン引きである。
確かに乗り掛かった船ではあるし、リィンとて当然協力する気はあるが…
(ベルセルさんが、ちょっと変だ)
いつもならまず、危険から遠ざけようとするベルセルがそうしない。むしろ、リィンにいて欲しいと願うなど。
その違和感がジリジリとリィンの腹底を刺激していた。
通信が切れ、また明日と大人たちの影が消えた港で、リィンはソキウスと並び、じっと海を見る。
サイカスではないが、嫌な予感が水底から浮かび上がってきそうな気がした。
「…ソキウス。何もなければ、いいね」
「グルゥ」
並んだ二人分の影が、オセアールの日差しの下で揺れていた。
…
「………」
「クゥイ?」
通信が切れたその向こうで、ベルセルはぐしゃりと前髪を片手で掴む。
キスティスの名。詳細を知らずとも、聞き覚えがあるその理由。
「…」
ベルセルは焼け焦げた古い資料を取り出した。触れるだけで心臓が痛むような心地さえするそれらの中に、必ず答えがある。
だが…己の計算が弾き出そうとしている答えの、答え合わせをしたいのか、それとも否定をしたいのか。
正直、分からなかった。
「はぁ…ままならんな」
だからなのだろうか。
いつも自分が守らねばと気を張っていた彼女を"頼ろう"と思ってしまったのは。




