48.ヒドゥントピア
「ぜぇ…結構歩いたけど…?…っ!?」
「グルルゥ!」
「ピッ!?」
「ニャポ…!」
光蝶型精霊の後を追い、くねくねと迷宮じみた洞窟をしばらく進んだ先。
リィン達は突然紅に金を混ぜた強烈な色彩に抱擁され、目を焼かれた。
「……!」
そして、咄嗟に細めた瞼をそっと開くと、そこには見たことの無い世界が広がっていたのである。
神様が気まぐれに洞窟の一部をスプーンでくり抜いたかのようにポッカリと開いた空間と、咲き乱れる美しい花畑。
花の優しい香りに混ざるのは、白属性の無垢な香りと緑属性の静謐な香りで、肌に触れる魔力がとにかく柔らかい。
さながら赤子の柔肌に触れているようだ。
舞い散る花弁と煌めく魔力の中で身を寄せ合うのは、漆喰の塗り壁に不揃いの石やキラキラした鉱石などが自由に散りばめられ、薄紫や桃色の鱗に似た木製瓦が重ねられた、まるでお伽噺に出てきそうな可愛らしい家々である。
丸っこい扉や窓が良く似合っている。
その家達の屋根や壁、周囲を囲う崖には色とりどりに光るキノコが顔を出し、魔力灯代わりに薄暗い空間を照らしていた。
「わ、ぁあ!嘘みたいに素敵…!というか、こんな所に村があるなんて…」
「ピッピィピ!」
おそらくマップには載っていなかったはずだ。
しかし現実、リィンの目の前には村があり、えいやと抓った頬もちゃんと痛い。
少なくとも夢では無いらしかった。
光属性を溜め込んだ綿毛らしきものがぼんやりとした光を瞬かせながら浮かぶ中、それと似た光を明滅させる光蛍型精霊の群れが飛ぶ。
触れたら割れてしまいそうなガラスに似た鱗を持つ硝子蛇型魔獣が家の軒先でとぐろを巻き、キラキラ光るガスのような毛をもこもことまとった光雲羊型魔獣の幼獣達が遊んでいた。
崖の近くでは、光るキノコそっくりな光茸小人型精霊と、キノコのようなネズミの茸鼠型魔獣と、キノコを傘のように持つ茸傘晴坊主型精霊が何やら熱く語り合っている。キノコ談義だろうか。
奥に見える崩れた家の跡では、包帯のような体毛が全身を包む壊れたテディベアにも似た包帯熊型魔獣達が、せっせと動き回っていた。どうやらそこに沢山の他の魔獣や精霊が寝ているらしく、皆で世話をしているようだ。
見た目の不気味さに反して世話焼きで優しい魔獣なのである
「白属性の子や、あまり見かけないような子がこんなに…ってあれ?あのルミエピヨンは…」
「あれまぁ、客人とは珍しい」
「わひゃあ!?」
「グルッ!?」
背後から聞こえた声に文字通り飛び上がる。くすくすとからかい混じりの笑い声にそうっと振り返ると、優しそうな老婆がちょんと立っていた。
「ぇあ、お、お邪魔してます!あの私…!」
「はい、いらっしゃい。取り敢えず、話は家でしましょうね。もう日が暮れてしまうもの」
「えっと…」
「ほら、おいでなさいな」
ルミエピヨンの次はお婆ちゃんかぁ、とバトンタッチした案内人に困り顔をしつつ、リィンはその老木の枝が風に揺れるような手招きに従う。
悪意は無さそうだし、どの道他に行く当てもないのだから。
(この村は魔獣や精霊でいっぱいだし、お婆ちゃんはソキウス達を見ても普通な反応だったから…大丈夫そうかな)
老婆は近くの木の陰に隠れていた悪戯好きの丸い幽霊…泥棒霊型精霊から慣れたように鍵を取り戻し、カチャリと扉を開けてくれた。
そして現れたのは…質素でこじんまりした、けれども暖かみのある室内である。
火炎の魔法が柔らかく揺らめく暖炉型魔具が灯っていて、思わずほうと息を吐く。
そこで始めて、リィンは自分の体が冷えていたのだという事を知った。
「はぇ〜、あったかぁ…」
「グゥルゥ〜」
「うふふ、ここに続く道はどこも冷えるものね…はい、ココアは飲めるかしら」
「わ、あ、ありがとうございます!すみません、こんなに親切にしてもらっちゃって…」
「良いのよ。ここに人が来るのは本当に珍しいから、オババもつい舞い上がってしまっているの」
ポカポカのマグカップを手で包みながら眉を下げると、湯気の向こうで老婆の顔が蜂蜜のように優しくとろける。
その目はリィンとソキウス達を平等に見つめ、更に柔らかく細められた。
椅子を勧めてくれる動作一つとっても歓迎を示してくれていて、リィンはそっと肩の力を抜く。
それを見越したように、向かいに座った老婆が口を開いた。
「改めて、いらっしゃい。ここはヒドゥントピア。傷付いた魔法生物達を匿う、古い隠れ里よ」
「傷付いた魔法生物達…?」
ふと、リィンの脳裏に先程見かけたファスキルスス達のいた家が蘇る。
あそこに寝ていた魔獣や精霊には統一性もなく、どこかくったりと元気も無さそうだった。もしかしてあれがそうなのだろうか。
「ここの周りに暮らす皆はね、外で…マーレリアで酷い目にあった子達ばかりなの。普段は私達にも怯えるくらいなのだけれど…そんな子達を白属性の魔法生物達が中心になって癒し、匿っているのよ」
「あの、酷い目にって…一体…」
控えめに尋ねたリィンに、皺に埋もれたつぶらな瞳が不思議そうな色を宿してゆっくりと瞬く。
「あなたは…余所の自治区から来たのかしら?」
「えっと自治区どころか…んんっ、申し遅れました!最近ラントリイという小国から引っ越して来た、セントール学園の学生でリィンといいます!で、こっちは私の大切な相棒と友達です!」
「グルールゥ!」
「ピッピィ!」
「ニャパス!」
「あらあら…うふふ!」
わちゃわちゃと押しくら饅頭みたいになりながら挨拶するリィン達に、老婆はコロコロと笑った。
「…そう、他の国の子。だからそんなにも優しいのね」
「優しい、ですかね?普通のつもりなんだけどなぁ…」
「グゥル」
「ピュイ」
「ニュルニャ」
「なぁにその呆れ返った目は…」
「うふふ!ああ、本当に…久しぶりに素敵なものを見たわ。ここ、マーレリアでは特にね、あなたのような子は珍しいのよ」
むむん?とリィンは首をひねる。
フクロウに弟子入りでもしそうになったところで、はっとフルーティオの人々の反応を思い出した。
てっきりあの街の人だけかと思っていたが、もしあれがマーレリア自治区共通の雰囲気なのだとしたら…自分が優しいかどうかはともかく、成る程かなり異質には見えるだろう。
「…あの、マーレリアの皆さんは魔法生物が苦手、なんでしょうか」
「苦手で済めばいいけれどね…嫌ってる者も多いわ」
「そんな…なんで…」
つい口をついたのは、子供らしく傲慢な問い。けれど老婆は優しく、けれども悲しそうに微笑み、答えをくれた。
「マーレリアにはね、人と魔法生物達が激しい争いを起こした歴史があるの」
「えっ!?」
「グルゥ!?」
争いという穏やかではない言葉に、リィンは目を丸くする。同時に背を震えが走った。
脳裏に浮かぶのは今日までにこの地で出会い、仲良くなった生き物達。
あんなにも優しい魔獣や精霊達が人と争ったなど…正直信じたくもない。
「その歴史は根が深くてね…ああ、オセアールの港は見たことあるかしら?酷く歪なのだけれど…あれは争いの中で魔法生物の魔法に傷付けられ、えぐり取られた跡なのよ」
「魔法に…」
「ニュルニャ」
確かに地図で見ると、マーレリアの南側は不規則にギザギザで海岸線が凸凹だ。欠けた櫛のようだったり、半円にくりぬかれたような湾もあったり…てっきり自然の地形なのかと思っていたが。
「あの湾のあたりにも、当時はたくさんの人家があったみたいだけれど…ね」
「そんな…」
「ピィ…」
「幸い、争いそのものは30年前に収束したけれど…マーレリアの人間はまだ魔獣と精霊を恐れているの。ただ、ヒドゥントピアの住民は、そんな場所で生きづらくて逃げてきた者ばかりだから別だけれどね」
リィンは唇を戦慄かせ、けれども紡ぐ言葉が見つからなくてそれを引き結ぶ。
林や洞窟であれだけ皆に怯えられていた原因が分かった。
争いは収束したと老婆は言うけれど、果たして本当に収束と言えるのだろうか。
人だけじゃなく、魔獣と精霊もまた人を恐れている、この状況を。
こんなの、いつまた爆発するか分からない地雷が埋まっているようなものじゃないか。
(それにしても、ここでも30年前…か)
聞き慣れてしまった数字がここでも出てきて、リィンはそっと眉を寄せた。
毎回何かが変わるのは30年前で、変わったのはそこで大きな事件が起こったから。
(どうして重なるのかはちっとも分からないけど…きっと、マーレリアでも…)
争いを収束させた何かがあった。
それだけ聞けば良いことではあるだろうが…これまでの経験と現状を見るに、怪しいところである。
少なくとも残った蟠りからして、平和的に解決したとは考えにくい。
「ところで、あなたはどうしてマーレリアに?学生と言うことは…何か調べものかしら?」
「あ、はい!私…実習の一環で、純白孔雀型大精霊の残した木について調べているんです」
「あらまぁ、そうだったの…プルガディウスのというと神話の御神木ね」
「えっと、港にあるって聞いたんですけど…」
「えぇ、その通りよ。港に凛と立つ、高波のように強くて美しい木だったわ。もう枯れてしまっているけれど…あれから随分経ったのね」
懐かしむように遠くを見た老婆は、どこか取り残されたような哀愁を背負っていた。御神木を大切に思っていたのだろう。
「もしかしてそれも、争いで…?」
「そうね。直接的な原因は分からないけれど…だんだん弱っていった木は、争いを見届けた末に枯れてしまったと聞いているわ」
まるで憂いたようにね、と呟き、老婆は席を立つ。
部屋の中は好きに見ていいからゆっくりしていてと言われたリィンは、奥に消えた老婆の小さな背を見送り、ドッと椅子の背もたれに体を預けた。
フィオーレ自治区やスチームンド自治区でも色々な話を見聞きしてきたが…魔法生物が好きなリィンにとっては今までで一番堪えたかもしれない。
「どうして争いなんて…」
「ニュルル…」
「うゔぅ…モヤモヤするぅ…!」
争いに"どうして"と問いかける事ができる時点で恵まれているのだ。
リィンは腹いせにソキウス達をもちゃもちゃと撫で回し、己がいかに幸せ者かを噛み締める。
「理由って何だったんだろうね」
「グゥルルゥ?」
「まぁ、どんな理由があっても…争うなんて嫌だなぁって、私は思っちゃうんだろうけど。甘ちゃんだからさ」
御神木に話が移ってしまって聞きそびれたが、今は聞かなくてよかったかも知れないと心の何処かで思ってしまった。
だって何だか、マーレリアの人と心の距離が開いてしまいそうだったから。開けて、しまいそうだったから。
「ピーピィ!」
「ニャポ?」
「グゥル?」
「んー?どうしたの皆?何か気になる?」
リィンがぐでーっと椅子で溶けながら心の疲労を散らしていると、暇になったのか部屋を散策していたウィズが何かを見つけ、ソキウスとシャルも興味を示した。
よいせと椅子から立ち上がり、皆の視線を追うと…
「本棚…?あ、さてはこの本だな?」
アンティークな本棚から、煌びやかな背表紙を持つ本を丁寧に抜き出す。
他より鮮やかで装飾も凝っていたから目を引かれたのだろう。古ぼけているが、漂う魔力から察するに魔道具の一種のようだ。
「えっとなになに…"英雄と魔王"?お伽噺かな?」
「グゥール」
「ピュール」
「ニュール」
「あはは、分かった、分かったよ。読んで…というか、動かしてみよう」
キラキラした皆の眼差しに負け、リィンは暖炉型魔具の前に敷かれた絨毯に座ると、その本を膝の上で広げて魔力を込めた。
途端、本の上にイラストが幻影としてが現れ、滑らかに動き出したかと思えば、穏やかな声で朗読が始まったのである。
ーーむかーしむかし、ある所に、豊かで平和な王国がありました。しかしある日、悪い怪物が国を乗っ取ろうと攻め込んできたのですーー
美しいイラストの世界観は素晴らしいが、冒頭はありきたりでよくある導入である。
リィンはページを捲るように手を本の上で滑らせた。
ーー王国の兵は全力を尽くして国を守りますが、怪物の数は凄まじく、倒しても倒してもきりがありません。やがて人々は疲弊していき、怪物は少しずつ土地を食い荒らしていきます。いくつかの町が消え、多くの人々が犠牲になっていく中、王様は嘆きました。「ああ、この国はもうダメだ。どうか、どうか神様…お助けください」
その願いが聞き届けられたのでしょうか。
「では私めが、国を守ってみせましょう」
ある日、王の前に現れたのは妖精のように美しく可憐な青年でした。ーー
幻影の世界に現れたのは、成る程妖精のような青年である。製作者の本気を感じるというか…金髪の艷やかなキューティクルとサラサラ具合や、唇のプルツヤ具合が凄い。
「うーん、それはともかく…美しく可憐って表現、ちょっと珍しいね。もっとこう、強くて頼りになりそう!ってビジュアルにしそうなものだけど…」
「ニュル?」
「あはは、ごめんごめん、続きね」
リィンはまた手を滑らせ、シーンを進めた。
すると、剣を掲げた凛々しい青年の幻影が現れる。
ーー青年は言葉通り、その類稀なる力で怪物達を薙ぎ倒していきました。そしてとうとう、圧倒的で美しい力の前に怪物の親玉がひれ伏したのです。
人々は喜び、勝利を祝い、青年を英雄だと讃えました。しかし…ーー
次のシーンへと手を滑らせ、リィンは目を丸くする。
先程までのキラキラした色使いとは打って変わって、どこか不安を煽る暗い色彩の幻影が現れたのだ。
ーーあぁ、あぁ、確かに、あの英雄は素晴らしかった。すごい力を持っていました。だからこそ、人々はひそひそと囁きます。
「果たして、あの英雄を野放しにして大丈夫なのだろうか?」
「あの英雄が国に牙を向けば、今度こそ滅んでしまうのではないか?」
「あの英雄は安全なのか?」
英雄の力を目の当たりにしたからこそ、人々の恐れはさざ波のように国の隅々に広がり、反響して、大きくなっていきました。ーー
「…え?」
ーーある日、王様は英雄を呼び出します。英雄はやはり妖精のように美しいく可憐でしたが、数多の怪物を屠った腕とその背に担がれた剣は、鋭い爪と牙に見えました。
それを見て、王様は言います。
「これより、魔王を処刑する!」
英雄は目を丸くし、辺りを見渡しました。
魔王など何処にもいません。
けれども兵は剣を抜き、民の目は怯えています。
「王様、王様、魔王は何処に?また私めが討ち取ってみせましょう」
英雄は気高くそう声を上げましたが、王様は首を振りました。
「その必要はない。なぜなら…」ーー
リィンは思わず手を止める。
次の、王様のセリフを見たくなかった。ソキウス達も、どこまで理解しているかは分からないが…苦手な味付けの食べ物を齧ってしまったようなしかめっ面をしている。
「でも…ここまで来たら、見届けないと気持ち悪い、よね」
言葉とは裏腹に、やめようと震える手を咎め、リィンはスッと手を滑らせた。
ー「魔王は、そなただ」ー
幻影の中で妖精のように描かれていた英雄の姿が、途端、魔王に相応しい凶悪なドラゴンに変わる。
いかにも悪役だと塗り染められたそれは、最初の怪物よりよほど悍ましく描かれていた。
暴れる魔王とそれを倒す兵士達のページから手を滑らせると、暗い色彩がやがて最初の頃のように明るく美しい色使いを取り戻し…元の平和な王国の幻影に帰ってくる。
ーこうして、凶悪な怪物と恐ろしい魔王の脅威は去り、王国はずっとずっと平和になりましたとさ。めでたし、めでたしー
「いやいやいや、何もめでたくないよ!?」
「グル"ヴ!!」
「ピュイ"イ"!」
「ニュル"ニ"ィ"!!」
「あらあら」
「…はっ!?あ、いや、すみません!」
感情のままに強く閉じてしまった魔道具をあわあわと点検し、壊れていない事にホッと息を吐く。
気が立っているソキウス達を宥め、二人分のシチューを持つ老婆を手伝った。
「うふふ、そのお話を読んでいたのね。どうだったかしら」
「どっ…うゔん…」
「遠慮せず、あなたの言葉で聞かせて頂戴」
「えっと、じゃあその、嫌なお話だなぁと思いました…」
「あら、どうして?国は間違いなく平和になったわよ?」
なるほど国目線で見るのかとリィンは拳を顎にあてて唸る。
普通に感想を述べるなら、頑張った英雄が報われないのは嫌だ、というのが素直な思いだ。
(そもそも、"襲われた訳じゃないけど刺されたら嫌だったので刺しました!"なんて、人間の法律でもまかり通らないのにおかしくない??)
でもそれは、英雄側に感情を持っていったから。では、老婆の言うとおり国側で考えたとしたら、これはめでたしめでたしで終われるのか?
(ううん、違う…無理だよ。この王国は…)
「…私は、そうは思いません。誰かに悪役を押し付けて、思考を放棄して…そんなズル、ずっと続くわけがない」
リィンはゆっくり瞬いた。
「きっと…物語の王国は、次に何かが起きれば崩壊します」
「…それは何故かしら?」
「え、だって、その…英雄を悪者にする国で、一体誰が好き好んで立ち上がるんです?一体誰が、そんな国に手を差し伸べるんです?よっぽどの物好きですよ、それ」
子供っぽく口を尖らせたリィンに老婆は目を見開き、噛み締めるように呻く。
「えぇ…確かに…本当に、そのとおりね」
「それと英雄も英雄ですよね。怪物を倒したなら、さっさと旅にでも出ちゃえばいいんです!どうせ残ってても居心地悪そうだし…いや、称賛が気持ちいいって人もいるか…?でも利用されると分かってて残るのって愛国心というかいっそドM…」
不意に、壁に立て掛けていたリィンのリュックがバタンと倒れた。
ソキウスが怪訝な顔で直してくれているが、それを眺めていたリィンはあるものを思い出す。
感謝を込めてソキウスを抱き締め、リュックからそれを取り出した。
「あの、実は道中この本を拾って…持ち主に心当たりとかはありませんか?」
革張りのハードカバーと白紙で出来た本。
大判のそれを老婆に手渡してみると、重かったのか皺だらけの手が震えている。
確かにこの本、最初よりも重くなったように感じるのだ。
フルーティオの時は気のせいかとも思ったが…
リィンは潮風の湿気でも吸ったのだろうかと、湿気取りの購入を視野に入れた。
「まぁ…」
「あの、どうでしょう?何か分かりますか?」
「…いいえ。ただ、そうね。その本は…大切に持っていてあげて」
「…?それは勿論!」
他人の物を乱暴に扱うなどとんでもないし、そもそもリィンは本を大切にするタイプである。
きゅっと拳を作る彼女に、老婆は暖炉に揺らぐ炎に似た笑顔を浮かべた。
「さぁ、話し込んでしまったけど…食べましょうか」
「あ、そうですね!いただきます!」
木のスプーンで掬ったトロトロのシチューは、どこまでも柔らかく心を溶かすような味がした。
…
リィンは優しく暖かな寝床を堪能し、翌朝は最高のコンディションで昨日聞いた話のまとめとスケッチに勤しんだ。
ソキウス達も随分とのんびり気を緩めていて、一同は穏やかな時間の流れに浸ったのである。
そして昼食にハムサンドをいただいたリィンは、老婆の家の扉を開けた。
「では、お婆ちゃん、お世話になりました!」
「あらあら、もっとゆっくりしていっても良いのよ?」
「お気持ちはありがたいですけど…あんまり居座ると、ここで休んでいる子たちに悪いので」
傷ついたというのなら、ここの魔法生物達はなるべく穏やかに過ごすべきだ。
だから、チラチラと落ち着かない視線を集める原因であるよそ者は早めに去る方が良いだろう。
スケッチだけでもさせてもらえただけ御の字である。
「…あ」
名残惜しく村を見ていたリィンは、パサリと花畑に落ちた物を見つけて拾い上げた。そして、近くで草花に水をあげている女性に声をかける。
「あの、落としましたよ!」
「え?あ、あぁ、ありがとう…」
「それ、ツルギフジのブローチですよね!珍しい…!」
ツルギフジとは、とある戦闘大好き国家の国花でもある特産品だ。下を向けた剣のように花をつけるその花は、花弁一枚一枚に豊潤な魔力が宿り、鋼のような硬さを持つ。
それ故アクセサリーに加工して、親しい者への庇護や親愛を約束する証として贈ったり、忠義や愛を示す証として贈るのだとか。
国の誇りだからか花もアクセサリーも他国に輸出はしていないらしい。
「そうなの、息子から貰った大切な…大切なものでね。夫も付けているのよ」
「わぁ…!素敵です!でも、魔力が豊富で綺麗なので精霊に悪戯されちゃうかもですから、気を付けてくださいね!」
実際、ヴォルートムがちょっと狙っていた事を伝えると、女性は困り顔でブローチを大切にしまい込む。
「ありがとう、お嬢さん」
「いえ!いきなりすみませんでした」
リィンはリュックを背負い直し、白衣をチェックする。準備は万端だ。
改めて老婆の前に行くと、リィンとソキウス達は感謝を伝え、並んで頭を下げた。
「あなたの旅路が実り多からんことを願っているわ」
年月を刻んだ顔をくしゃりと緩め、老婆は昨日リィン達が入ってきた洞窟を示す。
そこには、すまし顔のルミエピヨンが手を振っていた。
帰り道の心配は要らなそうだ。
…
怪しげな魔道具が明滅する室内で、カチャリと眼鏡を上げる微かな音が響く。
コポコポと粘ついたように鳴る水音は、親しんだ海の音とはほど遠かった。何とも…不愉快で、愉快だ。
「ようやくだ」
外はどうやら別の騒動で騒がしいらしいが…せいぜい気を取られているといい。
その間に必ず…あぁ、必ず…必ずだ。
「証明してやるさ」
獰猛な蜂蜜色の目が、眼鏡の向こうでドス黒く渦巻く。
縋るように何かを掴んだ手の隙間から、奥ゆかしく甘い爽やかな香りが流れ…しかしすぐさま腐臭に食われて消えていった。
嵐の前の凪が、終わろうとしている。




