41.南への誘い
「たのもーーーーーーー!!助けてほしいッスーーーー!!!」
そんな、台詞に似合わず緊張感の欠片もない声と共に飛び込んできたのは、褐色の肌に甘そうな蜂蜜のタレ目、顔の横に一房長い三つ編みを垂らした群青の混じる浅葱色の短髪を持つ男性だった。
「やっほー、ガウラ先輩!元気してたッスか!」
「うわ、うるさいのが来たわ…」
「んでもってそっちが…」
「?」
とても人懐こい笑顔でガウラに手を振っていた男が、突如太めの短眉を吊り上げてリィンをキッと睨む。
「やいやい!アンタがベルセル先輩の弟子ってやつッスね!!このオレを差し置いて!!」
「え、あの、ちょ…」
「何言ってんのよ!この子はアタシの生徒よ!ア、タ、シ、の!!誰がベルセルなんかにあげるもんですか!」
いきなり何事?と混乱しているリィンをガウラが抱き込むと、男はパッと表情を変え、キョトンとした顔で瞬いた。
「あれ…?違うんスか?勘違い…?そりゃ、失礼したッス!じゃあ、あの…ベルセル先輩と一緒にフィオーレとスチームンドで起きた騒動を解決したのって…」
「あ、それはこの子ね」
「やっぱりアンタなんじゃん!!この……泥棒猫!!!!」
またクセが強い人出てきちゃったなぁ、と遠い目をする。
ギャーギャー騒ぐ男を華麗に無視したガウラによると、男はサイカスといい、コレでも南…マーレリア自治区のギルドマスターであるらしい。
(なるほど…だからこの潮風の香りと、溺れそうな水属性魔力の気配が染み付いてるんだ。まるでこの人そのものが海みたい)
一見海の家で働いていそうなラフで露出多めの格好だが、その下に惜しげもなくさらけ出された肉体はしっかりと引き締まっていた。それこそ、冒険者と言われても納得するほどに。
ちなみに、ガウラやベルセルを先輩と呼んだ通り、大学でベルセルの二つ下、ガウラの一つ下の後輩だったとか。
リィンは一人でわぁわぁ騒いでいるサイカスを改めて見た。確かに顔つきは壮年らしいシュッしたものだが、感情と共にころころと変わる表情とチャーミングに覗く八重歯、落ち着きのないコミカルな動きのせいで…こう言っては失礼だが、物凄く子供っぽい。
黙って本を読んでいるアルスの方が大人に見えるかもしれない。
「あっ!アンタなーんか失礼な事考えてるッスね!?オレそーいうの敏感なんスよ!!」
「え、ご、ごめんなさい…」
「はいはい、で?何でギルドマスターのあんたがここに来てるのよ。その、昨日の会合の共有…連絡は行ってるわよね?仕事は暇じゃないはずでしょ」
「あー、いやー、その、それはそうなんスけど…ちょっと海で困ったことがあってッスね…」
へにょんと眉を下げ、サイカスは人差し指で頬を掻く。
困っているというか、どこかバツが悪そうにも見え、悲しそうにすら見えてリィンは首を傾げた。
「困ってる?異常な直感持ちのあんたが?」
「漫画の主人公でもないんスから、直感なんて万能じゃないッスよ…んでもってほら、俺ってば頭はそんなによくないし…?あんま専門的な話とかになると頭ん中クラゲになるし…?」
「はー!前々から思ってたけど、ギルドマスターってホントろくなのいないわよね」
「が、ガウラ先生…」
「事実でしょ。話が通じないのと、魔道具ぶっ壊すのと、この馬鹿と、偏屈野郎。正しく人間として上に立てる奴がいないとか話にならないわよ!」
「や、オレ以外は皆、頭は良いじゃねッスか…」
「頭"だけは"ね。というか、直感でどうにもならない理屈の話なら、それこそベルセルにでも頼りなさいよ」
「ダメッス!!あの人の手を煩わせるほどの問題じゃねッスから!」
両腕でバツを作ったサイカスは再びリィンを睨み、ガウラの隙間から引っこ抜く。
急にぬいぐるみよろしく抱き上げられて目が点になったが、まったく揺らがない腕と体幹は見事なものだ。現実逃避である。
そんなリィンに、サイカスはニィッと凶悪なサメのような笑顔を向けた。
「なんで!ここは弟子とやらの実力を見せてもらうッス!!逃さねッスよぉ…!」
「ひぃん」
涙目でプルプルするリィンに満足そうな顔をしたサイカスは彼女をストンと降ろし、「また明日迎えに来るッス」と海に煌めく陽光みたいなキラキラの笑顔で帰っていく。
ハシリやサワナとは違ったタイプで嵐のような人だ。
リィンは折角温泉で癒したはずの体を疲労感に丸め、しわくちゃの顔をした。
「…先生、どうにかなりませんか?」
「アレはならないタイプの馬鹿だから諦めなさい」
「そんなぁ…もう少しのんびりしたかったのにぃ!」
あと二、三日はセントールでのんびりするつもりだったリィンにとって、とんでもない誤算である。
なぜこうもトラブルが向こうからやってくるのか。切実に迎えに来ないで欲しい。
「ま、ドンマイ!頑張ってね!」
「軽い!!」
「そ、ん、な、事、よ、り!ほら!行くわよ!先生を待たせてるんだから!」
「そんな事って言われちゃったや…」
これはもう助けてくれないと悟り、リィンはトボトボと健康診断の為に空き教室へと入った。
中では白い不織布のマスクをつけた医者らしき老齢の男性が、椅子に座りながら穏やかな声で彼女を出迎える。保健医の先生とは別人なので、外部の人だろうか。
「おや…どうしたのかな?元気が無いような…」
「気にしなくていいわよ、先生」
「そ、そうかい?えぇと、キミ。名前は…」
「セントール学園二年黄組のリィンです…」
クリソムと呼ばれた男はかすれ気味ながらとても柔和な声で改めてリィンの名をなぞり、ライトカラーレンズのサングラス越しに目を細めた。
「私はクリソム。今日、キミの健康診断を担当するしがない医者だよ。目が弱いからサングラスをかけているが、許してほしい」
「は、はい!よろしくお願いします!クリソムさん」
「っハハ、そう緊張する必要はないよ。リラックスするといい」
知り合いであるここの養護教諭からの頼みで来たのだという彼は、緩く編んで左肩から前に垂らした長い髪を揺らし、くつくつ笑いながら魔道具を準備する。
それを目で追いつつ、リィンは中々肩の力が抜けずにいた。
注射はしないと聞いたが、どうにもやはり医者を前にすると緊張するのか体は強張るし、ツンと香る消毒の香りも苦手だ。
(…でも、この人からはあまり病院です!って感じの香りはしないかも?…いや、この魔道具の油とか薬草っぽい苦い香りがカタルシアの病院の匂いなのかもしれないけど…)
ソワソワするリィンをよそに、魔道具の設定を終えたらしいクリソムがくるりと体を向ける。
「さて、ではまずはバイタルチェックだ」
そして言われるがまま魔道具によるバイタルチェックを終え、次いで魔力測定。あとは普通の健康診断らしく視力や聴力を測り、レントゲンらしきもの撮って終わった。
どれも魔道具を用いて行われており、結果もすぐに出るらしい。
「じゃあ、それまでに軽く問診といこうか。何か体に不調はあるかい?もしくは気になる事とかでもいい」
「ありません!元気です!」
「よろしい。では、キミは何かアレルギーや持病はあるかい?」
「えっと…無いです」
「今までに大きな病気にかかったことはあるかい?」
「ふむん?風邪と骨折と捻挫は病気に入りますか?」
「風邪は病気だけど今回の質問からは除外かな。骨折と捻挫は怪我だから入らないね」
「じゃあ大丈夫です!ありません」
「っハハ、よろしい」
問題なしとカルテに書き込まれると同時に結果が出たらしく、クリソムは魔道具をチェックして…表情を引きつらせた。それに、付き添いで扉の近くに待機していたガウラが片眉を上げる。
「え??」
「…何よ。どうかしたの?」
「あわわわわ…せ、先生…私何か病気ですか…?」
「いや、違…そうじゃ、ないんだが…」
くぅんと捨てられた子犬のような顔で目を潤ませるリィンに慌てて否を返したクリソムは、コホンと咳払いをした後、魔道具から出てきた書類を手渡した。
リィンには見方が分からないが、ガウラは素っ頓狂な声を上げる。
「何よこれ!リィンくんの魔力、赤ちゃんレベルじゃない!?」
「赤ちゃん」
「そう…そうなんだ…赤子レベルで魔力量が低いんだ。さすがに私も驚いてしまって。すまないね」
「私は赤ちゃんだった???」
どうやら、魔力測定の結果が芳しくなかったらしい。
リィンは困惑しながらG-と書かれた欄を見つめ、ふと思い出した。
(そういえば魔力の測定って…確か、これだけは私から魔力を込めたんだよね。他はクリソム先生が魔力を流して操作してたけど)
原理などこれっぽっちも分からないが、測定用の魔道具に流された魔力から何かを計算したのだろう。しかし、問題なのはリィン"が"魔力を流したという事だ。
スチームンドでのベルセルとのやり取りを通し、リィンの魔力はカタルシアの魔道具とは相性が悪い事が分かっている。
であれば、この異常な数値もそれが関係している可能性が高い。
(でもまぁ…別に魔力量が成績に影響するわけじゃないし…あれ?何も困らないや)
しかしそこはリィン。
魔道具や魔法を多用するカタルシアでは致命的な結果であるなど露知らず、締まりのない顔でそうですかぁと受け入れた。つまり、訂正しなかった。
何となく、黙っていたほうが良いような気もしたので。
そのせいで事情を知らないクリソムは戦慄したが。
「ね、ねぇちょっと、大丈夫なの?え、嘘でしょ赤ちゃんなのに毎回あんなトラブ…え???」
「その…もっと詳しく検査するかい?一先ず血液検査を…」
「嫌!!です!!!」
運動神経の鈍いリィンからは考えられないほど俊敏に教室の隅に向かい、注射を勧めてくる大人からなるべく離れて威嚇した。それすらも幼獣の威嚇に見えてくる辺り、ガウラとクリソムへのダメージは大きい。
「わ、分かった。ほら、ほら、落ち着きなさい…何もしない。ええと…他に異常はなく、非常に健康である事を検査担当医、クリソムが認めます。ガウラ先生、こちらを」
「え、ええ。ありがとうございます。臨時で来ていただいた事も含め、お礼を申し上げるわ」
「いえ。私も知り合いに頼まれただけだからね…では、これにて終了だ。リィンくん、何かあればすぐに先生に相談するように」
「はぁい…」
「それじゃあ、アタシ達はこれで失礼するわ」
「ありがとうございました。えと、失礼します」
「あぁ。お大事に」
警戒を引きずりながらガウラと共に部屋を後にする。
ずっと感じていた緊張感が解け、リィンははふっと息を吐いた。その隣でガウラもため息を吐く。
「まったく…ベルセルじゃないけど、リィンくんは予想外な事ばかりね。こんな所でもトラブルだなんて」
「不可抗力です!それに…その…」
「あぁ、その結果…違うんでしょ?アタシ達、ベルセルからある程度の事は共有されてるから知ってるわよ」
「知ってて取り乱したんですか…?」
「あ、の、ね、ぇ!知っててもいきなり教え子が赤子レベルのか弱い存在って言われたら、そりゃ取り乱すわよ!!悪い!?」
「それはそう」
「…まぁ、その体質?性質?を言いふらしたりしないから安心なさい。あなたが望まないなら学園の誰にも、理事長にすら言うつもりはないわ。アタシは生徒を守るためにいるんだからね!」
「先生…ありがとうございます!」
「ふふん!そうよ!もっと崇め奉りなさい!!」
リィンはふんぞり返るガウラに心からの感謝を乗せて笑った。別にラントリイの魔力を特別だとは思っていないが、変なトラブルの原因になるのは御免である。
"違う"というのはそれだけで面倒事の種であるらしいので。
「…あぁ、そうそう。リィンくん宛の荷物が寮に届いてると思うわよ」
「…私宛?何か頼んだかな…」
「たぶん向こうが勝手に送ったんでしょ」
(勝手に…?またダンさん達の野菜、とか?)
リィンはむむむ、眉を寄せながらこめかみをつついてみたが、やはり心当たりはない。
そんな彼女に確かめてくればいいじゃない、とガウラはこの場をお開きにしたのだった。
…で。自室である。
「な、な、な…何で!?」
「グルゥ?」
「ピュピ?」
「ニャポ?」
リィンより先に部屋に戻って寛いでいたウィズとシャル、そして亜空部屋から出てきたソキウスは、何事かと揃って首を傾げた。可愛い。
しかしリィンは可愛さに悶えるどころではない。
玄関にある宅配魔具の受け取りボックス…そこに転送されていた"それ"を見た彼女は、全力で頭を抱えることになった。
それはそうだ。何せ、ドンと鎮座していたのは…スチームンドの騒動の後すぐに返したはずの、ベルセル特製のリュック型魔道具だったのだから。
しかも当然のように、ストラップには結界の魔法に包まれた純白孔雀型大精霊の種つき。
こんな技術と大精霊の力の塊みたいなものが、たかが学生の部屋にポンと置かれているなんて冗談じゃない。
あとご丁寧にプレゼント用リボンをつけるのはどうかと思う。
シャルが目をキラキラさせながら戯れているが。
(うぅ、温泉宿で別れた時…随分と意地悪そうに笑ってたけど、これかぁ。というか、いつの間に…)
リィンは一瞬で健康状態が悪化したような頭痛を覚えながらも、リボンに括られていたカード型の魔道具を引き抜いた。直後、空中に文字が現れると同時に疲れをはらんだバリトンボイスが再生される。
"キミの要望に応えて軽量化に成功したのでこれを返す。きちんと収納型魔具としても機能するからな。更に、種の魔力を通してキミへ防御と魔法防御の魔法が常時掛かるように調節し直した。魔道具の発動そのものが遅いなら、常時発動にしておけば安心だろうと思ってな。ただ、そのためにベルト部分からキミの魔力が都度自動で種に吸収される。なるべく少ない魔力で済むようにはしているが、魔力枯渇には気を付けるように。ちなみに、キミ以外が種に触れたら手ごと吹っ飛ぶようにしてある。あぁ、あとついでに傘も付けたぞ。雨の日も手ぶらで歩けるし、スケッチの妨げにならん"
仮に音声などなくとも、空中にスラスラ浮かぶ流れるようでありながらどこか几帳面で、所々角張った字…それだけでベルセルのだろうなと分かる。問題は文面だ。
「わーん!!返す時に言った、"こんなの持てません!"は、こんな"重いの"持てません、じゃなく、こんな"貴重なの"持てませんだったのにぃ!しかも、なんか更にトンデモ度が上がってるぅ!!凝り性!!」
「グゥルル…」
分かってて誤解したのか、本当に誤解したのか…どちらにせよ、ブツはリィンの元に返されてしまった。魔道具の映し出すメッセージの向こうでニヤリと不遜な顔をしているベルセルが透けて見える。絶対ドヤ顔でこれを用意しただろう。
送り返すにしてもベルセル側の宛先は不明だし、かと言って寮に残しておけるような品じゃない。
リュックがもう諦めて連れていけと言っていた。
「はぁ…もう、分かった。分かりましたよぅ…」
仕方なくリィンは腹をくくり。まずは下手くそに結ばれたリボンを解いたのである。
…
タン、と想像より遥かに軽い魔道具が、長い耳を模した飾りを揺らしながら背中で跳ねた。窓から差し込む朝日に菫色が柔らかく映る。
「リュックよし!スニーカーよし!通信魔具と多機能型通信魔具は…あるね。えっと、買い足したお徳用メモ用紙と、筆記用具と野営用の魔道具一式、念のための着替え、空の魔石、面型防侵蝕魔具や中和薬の残りも…フラグ立てるみたいで嫌だけど一応持っていこう。それと一番大切な…」
「グゥルゥ!」
「ピュイ!」
「ニャポ!」
「最高の相棒と友人達!!」
フラーテルを模した可愛らしいリュックの中身を思い浮かべ、記憶の中で指差し確認したリィンは、最後にソキウス達をまとめて抱きしめて頬擦りした。
すかさずスリスリと親愛を返してくれる皆は、今日も今日とて満点の可愛さである。
「よし、完璧!…じゃあ、行ってきます」
整えたベッドの上に丁寧に置かれた母からのお下がりのリュックを軽く撫で、彼女は大切に呟いた。
そうしてあとは学園の敷地を歩くためにソキウスを亜空部屋に入れ、準備万端の状態で寮を出てすぐ。風乗板型魔具のボードに仁王立ちしている男を見つけて顔が引きつった。
「うわ、本当に来た…」
「へへん!オレは有言実行の男ッスからね!」
サイカスとボードの組み合わせはよく似合っていて大変結構なのだが、朝っぱらから目に捕食者みたいな光をギラつかせるのはやめてほしい。今さら逃げたりしない…とも言い切れないが。
「さぁて、忘れ物は無いッスか?無いッスね!じゃ、張り切って行くッスよー!」
「え、ちょ、待っ…!」
「ピィ!?」
「ニュルニャ!?」
またもひょいと軽々しく持ち上げられたかと思いきや、リィンはボードの上にポイと乗せられた。
そう、いつぞやフラーテルが乗っていた先端部に。
まさかと思うも時すでに遅し。
サイカスはそのまま、当然のようにボードを発進させたのである。
ぐっと体にかかった圧に、慌ててリィンはボードにしがみついた。ソキウスと違って亜空部屋に入れないウィズとシャルもまた、リィンにガッチリとしがみつく。
「ひぃぃぃぃぃぃ!?」
「ピィィィィィィ!?」
「二ィィィィィィ!?」
「こぉらぁぁぁ!サイカスーー!学内でのウィンドサーフは禁止なのよーーー!!」
「ガウラ先輩ごめんなさいッスーーーー!」
「先生ー!先生助けてぇーーーー!」
「ファイトーーーー!」
薄情者!とガウラに叫んでからの記憶は曖昧だ。
ただ、サイカスの運転が目茶苦茶に荒く、しかし無駄に上手だったことしか覚えていない。
やがてどこぞの門を破る勢いで越え、草の上に転がされた頃には…リィンの世界はグルグルと回っていた。
「おそらきれい…」
「ピ…」
「ニュル…」
「おーい、無事ッスか?」
「ぶじじゃないれす。きもちわるいれす」
「そんな事より、ほら見てみるッスよ!」
そんな事って何だこっちは死ぬかと思ったんだぞ!と内心憤慨しながら体を起こしたリィンはしかし、苛立ちも気持ち悪さも忘れて目を見開いたのだった。ヘロヘロになりながら彼女の頭に乗ったウィズも、ヨロヨロと腕に巻き付いたシャルも、その視線の先に目を向けて釘付けになる。
下がっていく大地の先に、あまりにも鮮烈な青が悠然と寝そべっていた。
終わりが見えないほど広く、先は空と混じり合ってぼやけたそれは、陽光を浴びてキャラキャラと笑っている。
「海…」
「そ!ようこそ、マーレリア自治区へ!!」
サイカスの言葉に改めて周りを見てみると、どこよりも強く感じる日差しに照らされたそこには、今まで見てきた自治区とはまた違った景色が広がっていた。
「…ソキウス」
「グル?…グルゥ…!」
リィンは半ば無意識に…否、当然のようにソキウスを呼び出しながら、二人同じ景色を見て感嘆の息を吐く。
点在する白いレンガ造りの塔に似た風車。
その下では、草足短めの草原が強い潮風に撫でられて波打つように揺れている。
(凄い…緑の海と、青い海…二つあるみたいだ)
空気中の魔力が緑属性と青属性に満ちているせいか、その表現がどこまでも似合っていた。
香りも潮風独特の生臭さと草特有の青臭さが半々くらいだろうか。何となく、舌の奥がしょっぱいし苦い。頬を撫でるそれは、少しベタついていた。
そんな緑海を割るように伸びる白い石畳の道は、黒板に引かれた白いチョークの線のよう。道の両側には低い胸壁があり、どうやらこの自治区では人の通り道とそれ以外が文字通り線引きされているようだ。
その線の行く先は海…否、港だろうか。
港なのだろうか…?魔道具による結界が強いのか、ここからでは蜃気楼のようにぼやけてうまく見えない。
(でも、あの規模の結界って事は…相当高度な魔道具だよね?それがこんな、何でもない日にすら惜しげも無く展開出来るレベルの街って…想像つかないや)
見えない街は置いておくとして、白と緑の世界に影を落とすのは、潮風を受けて空を泳ぐ青いカモメ…鴎型魔獣の群れや、ふわふわと浮かぶ綿毛型精霊達。
草の隙間では鮮やかな黄色い花を背負った痺花蜘蛛型魔獣と、茶色いカサの下で紫色の触手を揺らすクラゲ…陸海月型精霊がかくれんぼをしており、少し離れた草陰には黒い身体と紫の足が見える。
百足型魔獣の幼獣が混ざりたそうな様子で見ていたのだ。ただ、皆草に隠れるには適さない毒々しい体色であるので、どうやっても丸見えである。可愛い。
岩陰では長い体を巻き付け合いながら土鼬型魔獣達が昼寝をしているが、さながらイタチの知恵の輪である。木陰では朱色の伝栗鼠型精霊が木に前歯を擦り付けて、何者か宛のメッセージを残していた。
「…あれ?」
林の方では毒花冠鶏型魔獣が威張りながらトサカ代わりの赤紫色の花を揺らしていて、草原を青黒い輸送亡霊型精霊が横切っていく。
リィンから見れば普通も普通の光景だが、カタルシアに来てからは滅多に見ない光景だった。
(普通に、黒属性の魔法生物達がいる…!)
しかし、ということは、マーレリアには彼らが住みにくくなるような…フィオーレやスチームンドにあったような浄化の魔道具がないのだろうか。
「いんや、マーレリアにもちゃんと浄化魔具はあるッスよ?ただ、ここって水脈の都合でカタルシア中の水が集まってくるんスよね。たがら"カタルシアの涙"が降ったりすると、どうしても浄化が間に合わなくなるんス」
「…なるほど」
雨が河川に入りこまないように…なんて不可能であるし、カタルシア全域から降った雨や水が集まるとなると水量も、当然そこに含まれる魔力も馬鹿にならない。キャパを超えても仕方ないだろう。
そんなわけで完全な浄化は難しく、結果として他の自治区よりも黒属性の生き物達が生息しやすい環境になっているらしい。
だから、なのだろうか。潮の香りのその下から手を伸ばすように、下水に近い粘ついた生臭さと腐臭が鼻を擽るのは。
臭いと言うほどではなく、あぁいるな、と分かる程度の存在感だが…
「…って、私口に出してました?」
「グゥル?」
「ん?何となくそんな事考えてそうだなーって思っただけッスよ?」
「えぇ…怖ぁ…」
「ピィ…」
「ニャ…」
直感超えて魔法の域ではと内心引きながら、リィンは落ちかけていた白衣の袖を捲り、まだ使い慣れないリュックからメモとペンを取り出した。
今聞いた話と自分が感じた事を添えて、爽やかな風景と伸び伸び過ごす生き物達を出来る限り細かく描く。
結局リィンは魔道具による写真ではなく、スケッチで旅路を残していくことに決めたのだ。この方が性に合っているし…この、自分の目で世界を見つめ、手間暇かけて写し取る作業は嫌いじゃない。
「へぇー…上手いもんッスね」
「えへへ…ありがとうございま、す?」
「あ、ちょっと今意外だなとか思ったッスね!?オレだってちゃんと凄いトコは凄いって認めるし、良いものは良いって言うッスよ!!」
「あ、ありがとうございます」
改めてお礼をいいなおせば、腰に手を当ててツーンとそっぽを向く。やはり子供っぽいなぁと笑い、リィンは再度ペンを滑らせた。
白ずんだ空よりも青々しい海。もっとそちらに近付けば、また違った景色が見れるのだろうか。
心の準備も何もなく連れてこられたが、マーレリアでの旅路も楽しくなりそうだ。
「っふふ!」
いつの間にか、彼女の顔は海に負けずキラキラと煌めいていた。
…
「お待たせしてすみませんでした」
「別に構わないッスよ。…むしろもっと見たかったし…」
「はい?」
「なんでもないッス!!!」
「凄い声量…」
リィンはキーンとなった耳を思わずおさえる。
船乗りでもここまでの声量は無いのではなかろうか。
「えっと、海で問題が起きてるんですよね?すぐに向かいますか?」
「ん?別に急がなくてもいいっすよ?」
「へ???」
「グゥ?」
「ピィ?」
「ニュ?」
「問題は起きてるッスけど…切羽詰まってるってわけじゃ、いや、嫌な予感は目茶苦茶バンバンするんスけど…」
「「「「???」」」」
煮え切らない言葉を並べるサイカスにリィン達が分かりやすくハテナを飛ばすと、やがて彼はうがー!と頭を掻きむしった。
「ああもう!直感を言語化すんの難いんスよ!とにかく!今すぐアンタが必要なわけじゃない!でもいずれ絶対に必要!だから適当にマーレリアを回ってから絶対来い!!以上!」
「いやいやいや!じゃあ何でこんな急に連れ出したんですか!?」
「勘ッス!!!」
「嘘でしょこの人目茶苦茶じゃないですか!?」
「グルー…」
「ピィ…」
「ニュル…」
勘でソキウス達とののんびりタイムを奪われたリィンが怒るのも無理はない。が、サイカスの方は悪びれるでもなくどこ吹く風である。
「そもそもアンタ、オレが連れ出さなきゃ数日か一週間くらいぐうたらして全然来なそうだったし…」
「ぐっ…否定は出来ませんけど…!でもでも、絶対に行くつもりではありましたよ!?私自身、目的もありますし!」
「それになーんか、うん!」
「聞いてないや…」
サイカスは身を屈めてリィンを覗き込むと、甘そうな目をそっと緩め、何かに納得するようにゆっくりと瞬いた。
「アンタに早くマーレリアの土を踏ませるべきだって…それが良い方に転ぶってオレの勘が言ってたんすよ」
「はぁ……よく、分からないですけど…つまり、私は今まで通りこの自治区を見て回りながら海を目指せば良い…って事ですか?」
「ま、そうッスね!」
「いいんですね?ゆったりまったりのんびりプルガティウスの木があった場所を探して実習に励みますよ?」
「どうぞッス。必要になったらオレが迎えに行って強制連行するんで」
「うーん…出来そうで嫌だなぁ…」
自信満々に歯を見せて笑うサイカスに、リィンは諦めたような空笑いをこぼす。
海で朝から晩まで遊んだ後に似たドッと重くなる疲労感を覚え、なるほどこれが海(みたいに疲れる)人かと新解釈を得た。
「ところで、プルガティウスの木って…神話のあれ、御神木のことッスか?もう枯れてるはずッスけど、何でそんなモンを…」
「私の実習のテーマ…というか目標なので」
「ふーん?まぁそれならどの道目的地は同じッスよ。木があったのって港の近くなんで」
リィンはパチリと目を瞬かせ、口をへの字にする。思わぬところで情報をゲットできたのは幸いだが、どう足掻いても最終的にサイカスの望み通りに港へ行くことになるというのが少し面白くなかった。
御神木があるなら行く他ない。いや、別にサイカスの頼みを無視してやろうなどとは思っていなかったが、それはそれ。
「じゃ、オセアールで待ってるッスから、絶対来いよ!オレは忙しいんで、またッス!!」
「はぁい…」
「あ、そうそう…」
ボードに足をかけたサイカスが、どこか真剣な顔つきでリィンを見つめる。いや、正確には…彼女にピッタリと身を寄せ合っているソキウス達を、か。
「グゥル?」
「ピュピ?」
「ニャポ?」
「マーレリアでその子らを連れ歩くなら、くれぐれも気を付けるッスよ」
「え、それってどういう…」
「バイバーーイ!」
「あぁぁぁぁぁ…!」
散々振り回すだけ振り回し、サイカスはあっさりとボードを滑らせて去っていった。
リィンは伸ばしかけていた右手を降ろし、プゥっと頬を膨らませたのである。シャルのキスで潰されたが。
…
「もう!何なのあの人!勝手すぎる!」
「グゥルルゥ」
「ニュル、ニャパス!」
「ピュルルィ?」
ザクザクと草を踏み鳴らし、リィンは愚痴をこぼす。勿論、サイカスに対してだ。
ソキウスがリィンを宥めるように鳴きながらその背を撫で、シャルはリィンに同調するように鉤爪のついた触腕を組んで頷いている。リィンの頭で日向ぼっこを楽しんでいるウィズは…あまり良く分かっていないようだ。
「それにしても、何が"気を付けろ"なんだろうね?」
「グゥルルー」
サイカスの忠告もあり、ちょっぴり警戒しながら皆と歩いているが…周囲も魔獣達や精霊達も長閑で、警戒すべき危険など何も感じなかった。
忠告の仕方から、てっきり密猟集団でも隠れているのかと思ったのに。
「うーん…そこら中に川があるから落ちないように、とか?そういう注意?」
「ニュルニャ?」
「まぁ、いっか。平和であるに越したことはないよね」
「ピュルィ!」
「さてと…」
リィンは一度立ち止まって多機能型通信魔具を起動させた。呼び出したマップによると、マーレリアにはセントールにほど近い北側に果樹園を有する街があり、海に面した南側に巨大な港都市…サイカスの言っていたオセアールがあるらしい。あの蜃気楼の街がそうだろう。
カタルシア中の水が集まると言っていた通り、マーレリアにはとにかく川が多い。それらが土地を細かく区切ってしまっているせいか、大きな街と呼べるのは果樹園と港の二ヶ所だけのようだ。
後は小さい集落や村がポツポツとあるくらいか。
「でも、このオセアールって、マーレリアの三分の一くらい占めてるから…ここだけでも街二、三個分はありそうだね」
「グルル!」
太い川を隔てた東側は大きく内陸に抉れた崖になっていて、崖下は天然の洞窟が多数あり、崖上には林が茂っている。その辺り一帯は海蝕洞窟帯と呼ばれているようだ。
「へぇ…この洞窟帯、入口がいたるところにあって、地上のダンジョンって言われてるみたい!しかも、中に色々な生き物達が生息してるんだって!」
「ニャポ!ニュルニャ!」
「あれ、もしかしてシャルもここの出身?」
「ニュル!」
「あはは!なら、里帰りだね!でも今は取り敢えず…一番近いフルーティオって所に向かってみようか」
「グルゥ!」
「ピュイー!」
「ニャパス!」
異論は無いみたいなので、リィンは案内魔具を起動する。
微かな音と共に現れた幻影は、もはや見慣れたもう一体の旅のお供だ。
「じゃあミラくん!マーレリアでも案内お願いします!」
『…』
相変わらずの無感情な目が彼女を見つめ、ついてこいと背を向ける。
リィンはマーレリアの香りをいっぱいに吸い込んで、第一歩を…
「ふぎゃっ!!」
「グルルールゥ!?」
「ニャポニャ!?」
「ピュイピュ!?」
踏み出そうとして盛大にコケた。なんて格好悪い事だろう。
リィンは慣れた手つきで抱えてくれたソキウスの腕の中で、心配そうにざわつくシャルとウィズを宥めながら足元を見た。
そう、リィンとて何もない所で転ぶほどドジではない。
…否、転ぶ時もあるが、今回は違う。断じて違う。
何故ならそこには大きな…
「…本??」
リィンを始め、皆がキョトンと目を丸くした。
ソキウスが恐る恐るつん、つん、と触った後、そうっと持ち上げてくれたのを受け取ってみると、それは紛れもなく大判のハードカバー。図鑑や辞書並みの分厚さだったが、中はどうやら白紙のようだ。
古ぼけた、けれどもとてもキレイな革の表紙に題はなく、他に変わったところと言えば…上ではなく下から伸びる尾のようなスピンくらいだろうか。
「うーん?落とし物?捨てたにしては綺麗だもんね。それにこれ、なんだか…代々受け継がれてる古い家に入ったような、老木の近くにいるみたいな、そんな重みのある魔力の香りがする」
「グルグルグゥル?」
「えっとね、ただ古いんじゃなくて…大事に年を取った感じというか…熟成?とにかく、蔑ろにしちゃいけない雰囲気!」
「グルルー?」
「よし、地面に戻すのも気が引けるし…持ち主を探しながら警察に届けよう!」
「ニュー?」
「ピュイー?」
そんな物、持ち主がいるの?とでも言いたそうな皆にくすくすと笑い、リィンは得意げに人差し指を立てる。
「どんな物でも必要とする人はいるし、必要になる瞬間があるもんなんだよ!」
誰かの受け売りだけど、と内心で舌を出し、彼女は丁寧な手つきで本を収納型魔具にしま…おうとしたが、ポーンと弾かれてしまった。
「グル!?」
「ありゃ?盗難防止の魔法でも掛かってたのかな…」
収納型魔具を悪用した犯罪対策に、大切な物にそういった魔法を用いる事は多々ある。尚更これは持ち主に返さねばと心に決め、リィンはリュックの外側のポケットにしまった。
しかし、リィンは気付いていなかった。魔法など関係無しに収納型魔具が絶対に弾く、常識中の常識…その可能性に。
よいせと背負い直したその際、リュックからパタンと音がした。
「…ん? 今、何か聞こえなかった?」
「グル?」
「ピィ?」
「ニュ?」
「気のせいかな…?さ、気を取り直して、いざ、マーレリア自治区の旅へ!!目指すは御神木だよ!」




