26.インダスティオ
「クロマさん、そろそろ立ち直ったかなぁ…」
「グル…」
「ピピッ」
「ニャポ…」
『…』
やだやだ行かないでとギャン泣きされ、大人の本気の駄々をこねたクロマにこの世の終わりみたいな顔で見送られてから早三日。
腕に巻き付いて絶対に離れないという強い意思を物理で示した影蛸猫型精霊に折れ、リィンの旅路には同行者が一体増えた。
キミは自由なんだよ?と言い聞かせても、これが私の自由意思ですが何か?と触腕を組んでフンッと鼻を鳴らされ、おまけに頬にキスの嵐を受ければもう何も言えない。
恋する乙女が強すぎた。
尚、ソキウス達とのお話し合いとリィンからのNGにより、口へのキスは禁止である。
しかも呼び名までお強請りされたものだから困ったものだ。まぁ、つけたが。だって本人が良いならいいじゃない。リィンは開き直った。
おそらくベルセル辺りが聞いたら頭を抱えていただろう。
そんなこんなで色々ありつつ、登りと同じようにゆっくりと自分の足で下山したリィンは、ベルセル特製の案内魔具から生まれた幻影…ミラくんが立ち止まった先を見る。
パイプでできた巨大なアーチと、"ようこそインダスティオへ"の文字。しかし、アーチの向こうには真っ白な壁があった。
「これ…煙、いや霧、なのかな?ピークメイアから見たときもモヤモヤが凄いとは思ってたけど…」
厳密には壁ではないそれは、伸ばした手を拒むことはなく、ただ生温く湿らせながらゆらゆら揺れるだけ。
スンと鼻を鳴らしても湿った空気の中で主張する金属と油の苦くて渋いような、やや錆び臭い香りがするのみで危険そうな匂いはない。
「ここで立ち止まってても仕方ないね。…よし、行こう!」
「グルッ」
ソキウスと手を繋いで一緒に一歩。白い煙の壁に飛び込むようにして踏み込んだ街は…まるで探偵小説のページをめくったみたいな世界だった。
「わ、ぁ…!」
立ち込める霧越しに見えるのは、石畳の道とレンガ造りの建物が並ぶノスタルジックな街並みと、それに上手く溶け込んでいる高度な魔道具の数々。
レンガを積み上げたアーチ状の高架橋を走る汽車型魔具が煙を吐き出す横で、幻影で出来た広告や、浮遊魔法がかかった大小様々な映像魔具がそこかしこでチカチカ光っている。画面に浮かぶ内容が求人ばかりなのはしょっぱい気持ちになるが。
汽車型魔具は途中から当たり前のように空を走り、古めかしい立派な時計塔と厳かな尖塔が刺す空の合間に消えていった。それらに紛れて立ち並ぶ鈍色の煙突が真っ白な煙を吐き出している。
「これがインダスティオ…スチームンド自治区一の大都市…!す、凄い…列車が空を飛んでるよ!?あんなの、お話の中でしか見たことない!!」
「グルゥ!グゥ!」
「ピピィ!」
「ニャパス」
上を見て目を瞬かせたリィンの横で、シュー!と勢いよく蒸気が噴き出す。驚いて飛び上がりながら見てみると、無骨なパイプの繋目から漏れ出てきたようだ。
フォレスタに空中回廊、アイロミナンに帯式運搬機型魔具が張り巡らされていたように、ここ、インダスティオでは太さも長さも大小様々なパイプラインが街全体を巡っていた。
パイプからはシューシューというリズミカルな音が響き、いたるところで今みたいに蒸気が噴き出し、まるで都市そのものが生きているかのような錯覚を覚えさせる。
「はぇ〜まるで舞台セットみたいだけど、生きた景色…本物なんだなぁ」
ひび割れて欠けたレンガ。蒸気を浴びた屋根が垂らす水滴。道端で回る歯車は機械油で汚れていたり、ところどころ歯車団子虫型精霊が悪戯で混ざっていたり。磁石鹿型魔獣は道端に落ちた金属片を磁気を帯びた角で拾って遊んでいる。
紛れもなくここは人と魔獣と精霊の暮らす現実の街だった。
「さてと、どうしようか…この街も広いよね」
「グル?」
「ピィ!」
「ホテルを見つけてチェックインして、勿論観光もして、本命である御神木があった場所も探さなきゃで…足が棒になりそう」
「ニュル、ニャパス!」
「ん?なぁに、シャル?ポケット?…あぁ」
リィンはシャピヴル…シャルの示した白衣のポケットから一枚のカードを取り出す。
インダスティオで困ったらここに頼るといいとクロマがねじ込んできたものだ。
「名刺だよね、これ。えーと…民間ギルド、勇者探偵」
勇者なのか探偵なのかどっちなの、と呟いた声は霧に紛れて消えていった。
…
霧に包まれた神秘的な佇まいに反して、街の奥へと進むほどに心地よい活気が肌に伝わってくる。
かっちり扉を閉めた店なんてほとんどなく、どころかほとんどの店に通路側の壁なんて無い。例外は服飾店くらいだろう。
あちこちで威勢のいい客寄せの声が響き、かと思えばトンテンカンと火花を散らす鍛冶屋があっちとこっちで会話していた。なんとも賑やかである。
顔が見えにくい分、声や音で勝負しているのかもしれない。
「うーん…不思議」
「グル?」
「ほら、この街ってどこまで行ってもこんなに煙だらけなのに…変な匂いとかないんだよね。むせる感じもないし」
むしろ喉が潤い不快感のないそれは、滝の飛沫でびしょびしょになる感覚に近い。緑属性や黄属性こそ滝壺より薄めだが、空気中には青属性の魔力が豊富で、足元の石畳は街の呼吸で濡れていた。
「当然なのだわ!この街の煙は端から端まで100%水蒸気だもの!」
「え?」
「ニャポ!」
霧の中から突然ニュッと現れた人影に、シャルが爪のついた触腕だけを持ち上げてシャーッと警戒態勢をとる。
いつの間にかソキウスもリィンを守るように半歩前に出ていた。
こらこら街中だよと宥めつつ声の主を見てみると、茶色混じりの癖が強い腰までの金髪を首の下で緩く一つ結びにした女性が得意げな顔で仁王立ちしていた。
勝ち気な碧眼に悪意は無さそうである。
「えぇと…?」
「ふふん!貴女、学生よね?インダスティオにようこそなのだわ!初めてならこの霧に驚くのも無理はないけど、健康に害なんてこれっぽっちも無いから心配いらないのだわ!むしろお肌はうるうるになるもの!」
「はぁ…」
「グルルゥ…」
「ピィ!ピピッ」
「ニャパス」
鼻息荒く語る女性の表情はまるで、子供が宝物を自慢するような無邪気さに溢れていた。
だからリィンはその圧に押されつつも、この街が大好きな人なのだなと小さく笑う。
取り敢えず、街に来てからソキウスが若干居心地悪そうな反面、ウィズとシャルが生き生きしてる理由が分かった。
「教えてくれてありがとうございます、お姉さん」
「このくらいお安い御用なのだわ!誰かが困っていたら助けるのが探偵だもの!」
「…探偵?」
「ええ!わたくし、これでも探偵なのだわ!貴女も他に困り事があるなら遠慮なく頼るといいのだわ!」
リィンは数回瞬きを繰り返し、女性の姿をよく見てみる。
白のワイシャツにベージュのベスト、その上に薄茶色のロングコート、スカートとキャスケットはベージュ系のグレンチェックで、赤のリボンタイがいいアクセントになっていた。
なるほど、絵に描いたような探偵っぽい服装である。
いや、服装で判断するのもどうかとは思うが。
「実はこの、勇者探偵って民間ギルドを探してまして…」
「あら?凄い偶然なのだわ。わたくしに何か?」
「…え?」
「わたくしこそが民間ギルド勇者探偵の代表…ユーシなのだわ!」
「えぇ!?」
本当に凄い偶然だと思って目を白黒させていると、彼女…ユーシがリィンの手から名刺を抜き取ってまじまじと見る。
そして、眉を寄せながら魔力を流し…名刺からポンと吐き出された手紙を読んで顔色を変えた。どうやらあの名刺も魔道具であったらしい。
「あ、貴女…これをどこで…?」
「えっと、知り合い?その、ピークメイアでお世話になった人から紹介を…」
「ぴゃーーーーーーーー!!」
「ひぇ!?」
「だだだだ、大丈夫!?貴女大丈夫なの!?あのクソ腹黒野郎に何かされてない!?」
「あわわわわわ…!」
突如奇声を上げたユーシに掴みかかられ、思いっきり揺さぶられるリィン。
見た目よりもだいぶパワフルだなぁと現実逃避する彼女を余所に、ユーシは尚も荒ぶり続ける。
「こんな子にまで手を出したのアイツ!?信じられないのだわ!トラウマになったらどうするのよ!わたくしが直々にぶっとば…せれば苦労はしないのだわ!!くぅぅ!なんでアイツあんなに強いのよ!!ゲホゲホッ…」
「あの、ちょ、落ち着い…」
「これが落ち着いていられるかなのだわ!こんな未来ある子供を毒牙にかけるだなんて、人間の風上にも置けなのだわ!どうしてアイツは牢獄に入れられないのかしら!!見た目と言動怪しい罪で即刻ぶち込むべきなのだわ!」
「黒幕のクロマさんと、お知り合い、なん、ですか」
「…ちょっと待って何、その呼び方。気になりすぎて怒りがどっか行ったのだわ」
「うぷ…いや、何故かこう呼ぶと喜ぶので…あだ名!認知されてる!って、泣き崩れながら」
「何それこわ…」
それはリィンも思ってるし、どちらかと言えばユーシの感情の落差も怖いと思った。ストンと表情を落とすのは良くない。
「コホン、取り乱して失礼したのだわ」
「いえ、あの…どういった関係か聞いても?」
「物凄く不本意だし鳥肌モノで1ミリたりとも認めたくないけど、一応世間一般の常識的に言えば幼馴染なのだわ」
「凄く嫌いなことは伝わりました」
「ええ、嫌いよ。実力は認めてるけど大っ嫌いなのだわ。生理的に無理。それは向こうも同じよ」
クロマがどう思っているのかはあの胡散臭い笑みのせいでわからないが、彼女の実力を認めているのは確かなのだろう。わざわざ頼るようにとリィンに名刺をくれたのだから。
なんとなく、二人の容姿に引っ張られてのイメージだが…長編小説の探偵と黒幕犯人みたいなものなのだろうなと思った。仲良くは出来ないけど相手の力をどこか理解してる因縁の相手的な。
我ながらしっくり来たと頷くリィンに、ユーシは心配の目を向ける。
「貴女、アイツに会ってよく平気だったわね。怖くない?まさか、ダンジョンになんか挑戦させられてさせられてないわよね??」
「しましたけど…一緒に…」
「は???あのド鬼畜野郎と??推しを見つける為とかわけの分からない理由引っ提げて、有能そうな契約者をダンジョンにぶち込んで食い潰すクズと??え、ホントに手を出したのアイツ!?信じられない!!貴女、心折れなかったわね…」
「いえ、一応攻略しました!赤のダンジョンだけだし、道中クロマさんの手はお借りしましたが…」
「ニャパス!」
「ふふっ、そうだね。勝ちは勝ちだね!」
胸を張るシャルを撫でながらダンジョンを攻略したと口にするリィンを見て、色をなくしたユーシは一言だけ呟いた。
「こわ…」
何故かリィンから一歩距離を置き、彼女は頭を抑えながらため息を吐く。
パイプから漏れ出る蒸気に負けないくらいの大きさである。
「はぁー…もういいわ。アイツの事は忘れるに限るのだわ。精神衛生のためにも。それで、貴女は勇者探偵に何を依頼したかったの?」
「えっと…私、お察しの通りセントール学園の学生で、リィンと言います。この子達は大切な相棒のソキウスと、友達のウィズとシャルです!」
「グルルゥ!」
「ピッピィ!」
「ニュルー」
皆を紹介するとユーシは不思議そうに目を瞬かせ、三体を順に見つめながら眉を寄せた。
「え、何で全員名前…いえ。探偵として依頼人の詮索はダメなのだわ!ごめんなさい、続けてちょうだい」
「あ、あはは…」
リィンは探偵の矜持に感謝しつつ、己の迂闊さを反省する。愛称だろうと名付けは名付け。
カタルシアとは相容れない文化だと言うことをつい失念してしまった。
とはいえこの紹介を変えるつもりもないので、今度からは上手い誤魔化し用の設定でも考えておかねばなるまい。
「えっと…私達、実習の関係で御神木があった場所を探しているんです」
「御神木?神話の?」
「はい!今はもう枯れてるって聞きましたけど…その場所だけでも見てみたいな、と」
どうでしょうと首を傾げたリィンに、ユーシはニコッと笑って胸を張った。
そして自信満々にドンと胸を叩くと、お約束通り咽せながら口を開く。
「ゲホッ、ゴホッ、ま、任せるのだわ!」
…
優美な石畳をブーツで踏み鳴らし、足取り軽く進んでいく背を追いながら、リィンはあちらへこちらへと飽きることなく視線を向ける。
大通りを外れると賑やかな喧騒と煌びやかな雰囲気は鳴りを潜め、ほんの少し薄暗い世界が広がっていた。
怪しげな魔道具のジャンクパーツが山積みになったショップが立ち並び、不気味なインテリアと魔道具が飾られた店や、水晶玉を覗き込む占い師、瓶に入った乾燥魔植物や様々な薬品が並ぶショップなんてベルセルが好きそうな店もあったり…
「面白いでしょう?」
「はい!ちょっと怖いですけど…気になるお店が色々あります!」
「グルル!」
「ピピィ!」
「ニャポ」
「ふふん!怖がる必要はないのだわ!怪しく見えるけど、全部ギルドから認められたお店だもの!魔道具のパーツは正規品だし、あの変なインテリアの店は魔女をイメージしたコンセプトカフェだし、占い師や薬屋…はそのままズバリだけど、店員の身分はハッキリしているし、違法な物は取り扱っていないのだわ!」
「なるほど」
言われてみれば確かに、路地とはいえ道はゴミ一つ無いほど綺麗で、ちゃんとした案内魔具なども置いてある。
管理が行き届いているのは明らかだった。裏路地や闇市とは違うらしい。
「何か欲しいものがあればお店を紹介するのだわ!この街にわたくしの知らない場所なんてないもの!案内は大得意よ!」
「探偵って、こういう道案内とかよくあるんですか?もっとこう…」
「ふふん!貴女の言いたいことは分かるわ!訂正させてもらうと、この街における"探偵"って辞書で引くような意味ではなくて…"何でも屋"の別名なのよね。それこそギルドの冒険者と大差ないのだわ」
曰く、大きい上に人も魔獣も精霊も多いこの街では相応にトラブルが絶えず、警察組織や冒険者だけでは全てを対応しきれないのだそうだ。
そこで、街を愛する人たちが自発的に手伝いを行うようになり、それが公認になったものが民間ギルドの探偵らしい。
ボランティアではなく、きちんとした一つの職業として認められているということだ。
「探偵って名前は街の雰囲気に合ってるからそう名付けられたのよね」
「ふふっ、確かにこの街の景色と探偵って凄くしっくりきます!」
「でしょう!わたくしも素敵なセンスだと思うのだわ!」
「じゃあ、ユーシさん達は本物の探偵みたいに事件解決とか、推理とかはしないんですか?」
「それは警察の仕事なのだわ。ただ、失せ物探しとか迷子探しの依頼は取り扱うから…まったくないとも言えないわね」
「へぇ…なんだか面白そうです」
「ふふん!この街が好きになったら是非とも探偵を目指してみるといいのだわ!わたくしが雇ってもいいわよ!」
この街が好きになったら、と添えるあたり、ユーシは本当に探偵という仕事に誇りを持っているのだろう。
ソキウスが気になった魔道武具のショップを覗いてみたり。
ウィズが興味を持った魔力糸製品の露天商を冷やかしてみたり。
魔法使い風のお姉さんが売っていた手作りアクセサリーにシャルが釘付けになったり。
「よし!着いたのだわ!」
いくつもの寄り道を挟んだ末にユーシが足を止めたのは、立派な時計塔の前だった。
「わ、ぁ…!」
目線を上げ、リィンは思わず感嘆の声をこぼす。
街と空の隙間にその姿はずっと、それこそ入り口からでも見えていたけれど…こうして真下から仰ぎ見ると、息を呑むほどの迫力に満ちていた。
首が痛くなるほど高い主塔とその脇にそびえる尖塔のシルエットは王冠にも似ていて、表面に緻密に施された彫刻と嵌め込まれたガラスが光と影で優美に飾り立てている。
しかし少し視線をずらすと、塔のあちこちで剥き出しの巨大な歯車がゆったりと一定の速度で回り、優雅というよりは勤勉さを感じさせてきた。
白い文字盤で追いかけっこをしている針のうち、一番のやせっぽっちが一歩また一歩と進む。
この街で吐き出される蒸気を呼吸とするならば、カチカチと規則正しく響く重厚な音は街の鼓動と呼ぶべきだろう。
「グルゥ…」
「ね、凄いね…もう、凄いしか言えないや」
「ピィ…」
「この時計塔は遥か昔…それこそインダスティオが街になる前からずっとここに立っていたのだわ」
「そんなに古いんですか…?」
「ええ。だって…大精霊から施された巨木を祀るために建てられたのだもの。始めは小さな祭壇だったものが、木の成長と共に高く、大きくなっていったのだわ」
「はぇ〜…」
目の前の塔を木に置き換えてみるも、想像を超える大きさでまるで現実味がなかった。
ファームルワの木もかなり大きかったが、少なくとも高さはこちらの方がありそうだ。
「さ、中に行くわよ!」
「え、こんな凄そうなところ、入れるんですか!?」
「ふふん!当たり前なのだわ!今はここ、図書館だもの!」
まさかと思いながらユーシの後に続き、一人では開けられそうもない巨大な扉の隙間に体を滑らせると、すかさず古い紙の香りが鼻をくすぐる。
暗さに目を慣らしながら見渡せば、なるほど確かに四方を埋める本、本、本…
「ほ、本当に図書館だ…!」
「上の方は採光のための窓が多いから、使われているのは下層だけだけれど…蔵書量は相当らしいのだわ」
「採光?」
「元は木があったのだもの、太陽光は必須でしょう?ほら、中心を見てみるのだわ」
促され、リィンは散っていた視線を空間の中心に向けた。
そこには腰ほどの仕切りで囲われた不自然な四角い空間があり、本棚や机どころか床のタイルすらもない。あるのは剥き出しの土だけだ。
二階、三階と見てみても吹き抜け状態で、すべての階がロの字型。
部屋の半分以上を占めるのではないかという面積を無駄にしているような状態だが、わざわざこうしている理由は明白だろう。あの、汚染ダンジョンから出た直後に感じた綺麗すぎるほど綺麗な、薄荷のようにスッとする魔力の残り香がそこにはあったから。
「これが、御神木があった場所…?」
「その通りでございます」
ユーシのものではない渋い男の声にギョッと振り返ると、老執事のように品のある初老の男性がニコリと笑みを浮かべていた。
「こんにちは、可愛らしいお客様」
「こ、こんにちは…」
「あら館長さん、丁度良かったのだわ!」
「おや、ユーシ殿のお連れ様でしたか…コホッ」
「ええ!学生さんで、御神木を調べているそうよ」
「これはこれは、実習のレポートにしては珍しいテーマをお選びで」
「えへへ…色々と縁があったので…」
「コホッ、縁とは得難きものです。大切にするのがよろしいでしょう。…ふむ、お嬢様方、よろしければこちらへ」
お嬢様と呼ばれてむず痒い気持ちになりつつ、リィンとソキウスはユーシと共に階段へと向かうピンと伸びた背を追いかける。
そのまま五階まで辿り着いた時、リィンは天井だと思っていた場所の更に上へ階段が続いていることに気付いた。
そして、館長がそこへ向かっていることも。
「あの、立ち入り禁止ってありますけど…」
「コホッ、頭に"関係者以外"が付きますよ」
「そもそも、館長が案内している時点でお目溢しなのだわ」
「確かに…!」
「グルグル!」
「この子、心配になるのだわ…」
「ニャパス…」
「ピ?」
「素直さは美徳ですよ」
そんな会話をしながら階段を登った先は…別世界であった。
四方から降り注ぐ眩しい光。建物の中にいるのに空が見える天井。時計の文字盤ですら透けていて、外の風景を映している。
ユーシの採光という言葉通り、どこまでも光を取り込むことを考えて作られた空間だった。
おそらくリィンが天井だと思っていた、今は床となっているタイルは、図書館のために後付けしたものなのだろう。
本来この光は、時計塔の下まで届いていただろうから。
「凄い…!とても室内とは思えません!こもった匂いもしませんし、魔力も全然停滞してない…下の本の香りもないなんて不思議です」
「おや、お嬢様は鼻がよろしいようだ。コホッ、ここは空調用の魔道具にもこだわっていますからね」
「虫もいないし、霧で濡れることもない!日光浴に最適なのだわ!」
「神話に伝わる木も、この空間で光を浴びながらゆったりと時を刻んでいたようですが…」
「…枯れて、しまったんですよね」
「はい。厳密にいつからであるのかは…残念ながら記録が無くて分かりません。ただ、木は少しずつ弱り、砂の城が崩れるようにして枯れ消えていったそうです」
この塔くらい立派な大樹が崩れていく。当時、木を守っていた人達はどんな思いだったのだろう。想像するだけで胸が痛んだ。
きっと自分ならと考えて、ふと眉を寄せる。
「記録が無い、というのは…紛失したって事でしょうか?それとも…」
「…聡い子だ」
館長は眉を下げ、困ったような笑みでリィンを見た。
「貴女の思う通り、木の守り人達も一大事を目の当たりにしたら…打開策を見つけるためにも、後世に伝えるためにもまず、記録しようとしたでしょうね。今、迷わずメモを取り出した貴女のように。しかし現実、記録は一文字も存在しませんでした。出来なかったのだと思います」
「出来なかった、ですか?」
「スチームンド自治区は昔、流行り病に蝕まれていたのだわ。いつもどこでも人手が足りないから、健康な人は皆労働へ駆り出されていたみたい。いくら木が大切なものだったとは言え…世話を必要としないものに人手は回せなかったのだわ。噂だと、神話の木には水やりすらも要らなかったと聞くもの」
「コホッ、気付いた時にはすでに遅し、でございます。先ほど語った枯れていく様子も、誰かの口伝でしかありません」
「そう、だったんですね。流行り病…今もあるんですか?」
「いいえ、ご安心を。流行り病は30年前の事件を期に消えていきましたから。ただ、私のように後遺症を抱えた者はおりますが…コホッ」
リィンはまじまじと館長を見つめる。後遺症と語る口調はハッキリしていて、見えている肌や動きに違和感もない。目線もしっかり合っている。見た目だけならベルセルよりずっと健康そうだ。だとしたら、彼の言う後遺症とは何なのか。
ふと思い出したのは、スチームンドに来た始めの頃。そういえば自分には、気になった事があったはずだ。
「…咳?」
「その通りでございます」
「わたくし達若い人間は大丈夫だけど、30年前を経験した人達はほとんど皆肺に枷を持っているのだわ。そのせいで、今も動ける大人が少ないの」
(…30年前…?)
聞き覚えのある数字を反芻する。
フィオーレで起きたという事件と同じものだ。
何か関連があるのかと思考に沈みそうになったリィンの目の前に、一枚の写真が差し出された。
「これは…」
「古い文献に挟まっていたものでございます」
「まぁ、初めて見るのだわ!」
魔法もかかっていない古い白黒写真に映るのは、太い幹の天辺から下へと伸びる螺旋状の枝に豊かな葉をつけた不思議な木。
その周りでは沢山の人々と魔獣や精霊達が楽しそうにしている。
「これが、スチームンドの木…」
フィオーレのものは巨大なキノコのような木だったが、この木は螺旋釘みたいだ。自治区ごとに違う形なのだろうか。
リィンはすかさず書き途中のメモの新しいページを開き、ペンを走らせてスケッチしていく。
この暖かな存在がどうして失われてしまったのか。そんな、考えても仕方ない事を何度も何度も写真の木に問いかけながら。
…
「ふー…疲れたぁ…新しい街にくるといつも、情報量に溺れそうになるよ…」
「グルルゥ?」
「ピピピィ!」
「ニュルニュル、ニャポ」
あの後、一通り館内を案内してもらった後館長に感謝と別れを告げ、実習生指定のホテルまで案内してくれたユーシにも別れを告げて、リィンは今ふかふかのベットに身を沈ませていた。
窓の外はもう真っ暗で、双子の月明かりすら、霧深い街の夜を照らすには力不足らしい。
霧にぼんやりと映る魔力街灯だけが蛍の群れのように瞬いていた。
シーツで意味もなく泳ぐ彼女に皆がどうしたどうしたと群がり、やがて陣取りが始まる。
とはいえ、基本はリィンの隣…添い寝の権利をかけてソキウスとシャルの二体が争うのだが。どうせ結局は川の字になるのに。ウィズはその間におでこを占領するのが常だ。
「あーあー、待って待ってまだ寝ないから!もう少しメモの整理をしてから!時計塔で色々聞いた話をまとめたいの」
「グルーー…」
「ニュルー…」
「ピィーー…」
「可愛くムッとした顔してもダメです」
ツン、と顔を背けたリィンはふと、メモ束に挟まっていた封筒を見つける。
「あっ、いけない!インダスティオのギルドに届け物があったんだった」
そっと封筒…に見える収納型魔具を取り出し、ため息を吐いた。
これはフォレスタギルドの職員達とハシリに頼まれた、インダスティオギルドのギルドマスター宛の書類その他の詰め合わせセットである。
どうして一学生であるリィンに?とは思ったが、これには二つの理由があった。
まず、インダスティオの瞬間的移動魔具が不調である事。ギルド間ではテレポートが繋がっているのだが、リンゴがミカンになって出てくるような状態で使う事など出来るはずがない。
ならば配達や多機能型魔力計算機のメール機能で送れば良いのだが…ここでもう一つの理由だ。
ハシリ曰く内容の一部に純白孔雀型大精霊やその種に関係するものがあり、他人に任せるわけにはいかないのだとか。
「確かに、闇ギルドの情報屋とかに気をつけるなら…配達屋さんとか網状魔力回線より、私みたいな学生の方が狙われにくいもんね」
フォレスタでの一件でも痛感したが、今の闇ギルドはギルドの中枢にある厳重な魔道具やその管理システムにさえちょっかいをかけられるのだ。
なら、注意し過ぎても足りないくらいなのだろう。
「うっ…なんか色々考えたらこれを持ってるのが怖くなってきたよぅ」
「グゥル?グルッ!」
「ピッピピー!」
「ニュルル!ニャパス!」
「はわわわ…至福っ」
情けなく眉を下げたリィンをソキウスが抱き込み、両肩に乗ったウィズとシャルがそれぞれ頬に体を押し付けて挟んできた。
幸せ過ぎてリィンは溶けた。比喩である。
「うーん、急ぎではないって言ってたけど…明日にでも届けに行こうか。怖いし」
「グルッ!」
「うんうん。じゃあ私は今度こそメモの整理をするから離し…」
「グゥル?」
「ピピィ?」
「ニャポ?」
「ちょ、皆してしらばっくれて…って、わぁ!?」
結局リィンは皆にムギュッと甘えられ、ペンの代わりにブラシを持つ羽目になったのである。
しかし、そんな平和を享受する彼女達の一方で…
「…じゃあ………で……」
「……を………れば……ですね」
「あぁ………いくら……でも………だろうからね」
月明かりも通らない霧深いインダスティオの夜は深く、微かなさざ波を立てながら過ぎていくのだった。




