22.ピークメイア
「ミラくん、まってぇ…」
『…』
凸凹で歩き難い坂道を、モデルにした長耳手兎型魔獣とは違って無愛想な案内魔具のミラくんを追って登っていく。
モデルとは似ていないが、その"軟弱者め"とでも言いたそうな顔は製作者である誰かさんそっくりな気がしてならない。実は中に入っていやしないだろうか。
「ふぅー…随分登ってきたなぁ…ほら、もう空がこんなに近いよ」
「グルルーゥ!」
「ピピッ!」
「でもまだまだ山頂は遠そう…さすが、カタルシアいちの山だね…はぁ」
雨上がりの朝靄と共にアイロミナンを後にしたリィンは、目的地であるインダスティオを目指すべく魔道具の導きに従って…山を登っていた。
スクラ連峰。スチームンド自治区を引っかき傷のように縦断する三つの山の総称である。
そのうちの一番高い山をリィンはひぃひぃ言いながら歩いているのである。
今日でなんと三日目だ。
とはいえ、この疲労は彼女の望みである。風乗板型魔具のボードは山道にも対応しているし、そもそもソキウスに抱っこしてもらえばもっと楽に、かつハイペースで登れはするのだ。
しかし、せっかくの山である。
リィンは行けるところまで自力で行ってみたいと願い、こうして自力で歩いていた。
雨で足止めされていた二日の間に仲良くなったイアやペルデくん一家を始めとしたアイロミナンの人達は、そんなリィンを物好きだと笑ったものだ。
それでも、使わなくなった靴や上着など色々な山装備の魔道具を渡して(押し付けてとも言う)送り出してくれた訳だが…正直収納型魔具が圧迫されて重さが増している気がする。親切心の重みだ。甘んじて受け入れる所存。
「うぅ…山歩きってこんなに大変なんだ…皆が口酸っぱく装備を整えろって言う意味が分かったや…」
『…』
「なぁに、ミラくん。いい加減諦めろって目してるね…」
まあ確かに、とリィンは真上にある太陽を見る。
これ以上登山に時間をかけて野宿をするというのは、少しばかり避けたかった。
というのも、この山には山虎型魔獣が生息しているらしいのだ。
この魔獣、魔力が低く滅多に魔法は使ってこないのだが…とにかく獰猛で物理に訴えてくる。岩山を軽々削れる強度の爪と牙を持ち、縄張りの内外に関わらず動くものを見つけるとすぐ襲いかかってくるのだ。
それ故に、山において熊以上に警戒すべき脅威として有名である。
一昨日と昨日は途中にあった山小屋に泊まれたから良かったが、どうもこの先には無いらしい。山頂が近いからかだろう。
そうなると、今日中に登り切るしかない。如何せん、モンティグリスは夜行性なので。
「…うん、よし。山道は存分に味わった。筋肉痛がそう言ってる」
「グルルー?」
「ピピピィ!」
「何にせよ一度休憩しようか。お昼食べちゃおう」
言うが早いか、白衣の汚れを叩いたリィンは手早く薪を収納型魔具から取り出し、焚き火のための土台を組む。
次に火打ち石をと思ったが、ソキウスがウズウズしながら前に出たので、仕方ないなと眉を下げつつも甘く笑って魔石を右手に持った。今日も相棒が可愛い。
「じゃあソキウス、お願いしていいかな?」
「グル!」
【火炎】
パキンと魔石を砕くと、待ってましたとばかりにソキウスが炎を口から吐き出す。張り切りすぎて火力調節に失敗しているが。
と、リィンがソキウスに火を弱めるよう伝えるべく口を開いた…その時だった。
「グルッ……!?」
「えっ!?」
「ピ!?」
どこからか飛んできたサッカーボール大の氷塊が、焚き火ごとソキウスを吹き飛ばしたのである。
慌ててソキウスに駆け寄り、怪我の有無を確かめながら険しい顔つきで辺りを見渡す。
すると、少し先の岩場に黒い影が揺れていた。
モンティグリス……ではない。それよりももっと小さな生き物である。
「影蛸猫型精霊…?」
「ニャポ」
その、全身影のように真っ黒な生き物はゆっくりと近寄って来た。
丸いクッキーの上部を少し齧ったような形の頭部に、青い三つの猫目。そこからウネウネとしたタコに似た太めの足が九本生えており、左右の二本と後ろ側真ん中の一本だけが長くなっている。
左右の触腕の先は猫の鉤爪のようになっており、後ろ側の一本はまるで猫の尻尾みたいだ。
やはりリィンの呟いた通り、影蛸猫型精霊で間違いない。
ソキウスが飛びかかるより相手の魔法の方が早いだろうギリギリの間合いで止まった精霊は、器用に爪のついた触腕を組んでこちらを睨みつけていた。
(体、すごく傷だらけ…)
引っかき傷や噛み傷も多いが、特に多いのが引き攣れた火傷痕。それと、一番目立つのは胸元にある…そこを抉り取ったのかと思うような歪な丸い傷だ。
歴戦の証とも取れるが…どうであれ、第三者から見ると痛々しい。
シャピヴルはリィンの観察を甘んじて受け入れているようで、顔を顰めながらも襲ってはこなかった。
「えっと、シャピヴル?私達に何か用がある、のかな?」
「ニャーパス!ニュル!」
「グルゥ?」
鉤爪がビシッとソキウスを示す。
それと先ほど襲ってきた瞬間を繋げ、リィンは人差し指を立てた。
「火気厳禁?」
「…」
「あ、ごめんね。違うんだね…」
目から氷の魔法が出てるのではないかと錯覚するほどの冷ややかな表情に、心がダメージを負う。
ではなんだろう?と首を傾げるリィンにしびれを切らしたのか、シャピヴルは戦闘態勢を取った。
それに気付いたソキウスもまた身を低くする。
「わー!?待って待って待って!お願いだからまずは話そう!というかここで暴れたら危ないでしょ!?」
「ピィピピ!」
「グル…」
「…ニュル」
リィンとウィズに嗜められてしょんぼりと構えを解いたソキウスに、シャピヴルも大変不満そうにしながら伸ばしていた爪を引っ込めた。
(…?なんだか、随分物分かりが良いような…)
精霊は気まぐれであり、己に正直である。
だから、不服なら従わないのが普通だ…野生であれば特に。
ただ、誰かの契約精霊かと問われればそれも違うように思う。何というか、ちぐはぐだ。
「…ニャパス!」
「あ、ごめんごめん。取り敢えずまずは、もう少し広い場所に行きたいんだけど…いい場所はある?」
「ニャポ…」
やはりムスッとしながらもリィンのお願いを聞き、案内してくれるらしい精霊に苦笑した。
「はぁ…とんだ休憩になりそう」
「グゥルルゥ」
「ピッピィ!」
頭に乗ったウィズを指で擽り、リィンとソキウスは並んでシャピヴルの後を追う。
シャピヴルの背中は、綺麗だった。
…
「まず、案内してくれてありがとう」
「ニュル」
「それで…キミはどうして私達を襲おうとしたの?」
「…ニャポ」
岩場の間に出来た広場と呼ぶには小さな、けれど四人用テントくらいなら張れそうな空間で、リィンはシャピヴルに問う。
相変わらずムッツリしている精霊は、イエスもノーも答えずにソキウスを見た。
(そう言えば、最初からずっとソキウスだけを狙ってる…?)
例えば縄張りへの侵入を怒っているのなら、攻撃対象にはリィンやウィズも含まれることだろう。だが、そちらにはまるで興味がないと言わんばかりにソキウスだけを気にしていた。
精霊が魔獣を気に入ることも、逆に嫌って喧嘩することも別に珍しい話ではない。
けれどもその割には、シャピヴルの目に好意も敵意もまるで無いのが不思議だった。
敵意もなく、けれども戦いたい。
「あ!もしかして、トレーニング相手とか…そういうのを探してる、とか?」
「!!ニュルル!」
パッとシャピヴルの顔が輝いた。どうやら当たりだったらしい。
頭上のウィズが何故自分じゃないのかとむくれているのが気配でわかった。
「うーん…トレーニングかぁ…まぁ、そういう事なら…」
「グル!!グルールゥ!」
「ニャポ!ニュルー!」
リィンとしては荒事なんて避けて避けて避けまくりたい所存だが、相棒であるソキウスはかなり乗り気だ。
おそらくスローペースでの山登りで運動不足…というか、退屈していたのだろう。申し訳無い。
(…"戦いたくない"、は私のエゴだよね)
力を高め合いたいという真っ当な意思を前に、精霊と魔獣の自由な姿を愛するリィンは諦めのため息を吐いた。
こういう時、彼女の優先事項はソキウスの気持ちなので。
「もう…分かったよぅ。怪我をするな、っていうのは無茶だろうけど…ほどほどにね」
「グルー!」
「ニャパス!」
「ピュイー!」
元気なお返事だと苦笑を零し、リィンは二体に声援を送るウィズと共に少し離れた岩場に腰掛ける。
トレーニングに自分は不要…というか邪魔だろう。
準備が整ったと見て、シャピヴルがタコの泳ぎに似た動きで宙を蹴った。何とも律儀な精霊である。
「ニュル!!」
「グゥル!!」
ガチン、と互いの爪が弾きあう。
鉄面の奥でソキウスの四つ目が僅かに歪み、踏ん張った足が地面を削った。
(わ、ソキウスが押された…!?あの子、強いなぁ!)
明らかな体格差をものともしない一撃に、リィンは目を輝かせながらすかさずメモを取り出す。頭上のウィズは呆れていた。
さすがと言うべきか、シャピヴルは弾かれて浮いた体を身軽に捩り、スカートを膨らませるように優雅な着地をした。
かと思えばすぐさま魔法を発動し、己の背後から氷塊をいくつも打ち出してくる。飛び掛ってきた時から準備していたのだろう。
(動きも、立て直しも、全部スマートで速い!でも…ソキウスだって負けてないもんね!)
「グルルゥ!」
「ニュ!?」
飛んできた氷塊を真っ正面から拳と蹴りで砕き、最後の一個は両手で受け止め、勢いのままクルリと一回転しながらシャピヴルに打ち返した。
森のダンジョンでフラーテルがやっていた事の真似事だろう。
影響されてるなぁとリィンは笑った。いつかソキウスも、パンチ一発で3メートル級の大物をぶっ飛ばせるようになるかもしれない。
「グゥル!」
「ニ"ッ!?」
「グル…?」
氷塊の直撃こそ避けたシャピヴルだったが、それに気を取られた一瞬の隙にソキウスの接近を許し、拳の一撃を食らって岩場に体を打ち付ける。
しかし、打たれる瞬間目眩ましの魔法を使ったらしく、ソキウスの目に黒い靄が取り憑いた。
そして、何事かと狼狽えたソキウスの下に集まった魔力が一瞬光り、そこから氷の柱が突き出したのである。
「…ッガ!?」
「ソキウス!?」
「ピュピ!?」
「グ、ルゥ…!」
「ニャ、パスッ!」
よろけるソキウスに、同じくフラつきながら身体を起こしたシャピヴルが嗤った。
(凄い…あの子、岩に打ち付けられても怯まず魔法を発動したんだ…)
息が詰まるような衝撃だっただろうに、凄まじい精神力である。
そんな相手だ、当然魔法を一撃当てて様子見…なんてしてこない。
「ニャパパース!!」
「グル…ッ!!」
「ピ、ピィ……!」
「うーん、あの子…かなり魔法が得意みたいだね」
元々魔法を得意とする精霊であることを抜きにしても、シャピヴルは魔法の発動も式の構築も恐ろしく早い。
次々に撃ち出される氷塊と、不規則に下から襲いかかる氷の柱がソキウスに防戦一方を強いていた。
氷塊が体を掠め、水滴と共に舞う赤い毛と雫。その度にリィンのメモに綴られる文字が歪に跳ねる。
(わ…私が痛い…っ、じゃなくて。…あの子、魔法を絞ってるのかな?いや、二種類の魔法でソキウスを抑え込むのは凄いけど…シャピヴルの得意な魔法って確か…)
と、リィンは呼ばれたような感覚に意思を戦場へ戻す。
ソキウスの視線が己を撫でたのを理解して、リィンは解けていた袖を捲りながら観客でいることを止めた。
あくまでもトレーニングなので勝ち負けはともかくこのまま見守るつもりだったが、相棒に勝ちたいと請われたなら話は別だ。
【高速移動】
砕いた魔石の煌めきの中、立ち上がっていたリィンは氷の魔法に支配された戦場に目を細める。
「すぅ……ソキウス、今!左!」
「グルル!」
その声を頼りにソキウスは目にも止まらぬ速さで駆け出した。これまで通りに氷塊と氷の柱が行く手を阻む…が、その僅かな隙間をくぐり抜ける。
「ニャポ!?ッ、ニュル!!」
「グルルゥ!」
動きの変わりように目を見開いたシャピヴルだったが、すぐに魔法を止めて触腕を叩きつけてきた。
ソキウスの大きな両手がそれを受け止める。
(シャピヴルの力の強さはさっき見た…それなら)
「ソキウス、力を抜いて!」
「グル!」
「ニャ!?」
力の拮抗が唐突に崩され、前のめりに体勢を崩したシャピヴルの背に、ソキウスが回り込んだ。
しかしそこは凄まじい精神力の持ち主。
振り向きざまに触腕でソキウスの動きを封じてしまった。
ならばとリィンは魔石を砕く。
【火炎】
「グルゥァ!!」
「ッ!?」
(…あれ?)
バッと不自然なほど大袈裟に飛び退いて魔法を躱したシャピヴルに、リィンは思わず眉をひそめた。
火を前にした瞬間、迎撃しようとしたシャピヴルの魔法があまりにも不自然に乱れて霧散したのが見えたのだ。まるで、そう…
(…怖がっている?)
飛び退いた拍子に地面を転がったシャピヴルが、ガリッと強く地面を掻いたのが見える。そのまま持ち上げられた顔には、紛れもない憤怒が浮かんでいた。
ぐんっと強烈な魔力を感じ取り、リィンは表情を強張らせる。
(強い魔法が来る!)
予感は的中し、シャピヴルは巨大な氷塊を撃ち出してきた。あれだけ魔法を使ってまだそんな余裕があるのかと驚かずにはいられない魔力の密度に、リィンは迷わず魔石を弾く。
(あの魔力密度じゃ、いくらソキウスでも砕けない。ならこっちも勝負に出よう)
【火槍】
「グゥルルーゥ!!」
「ニュッ!?」
多めに魔力を込めたのが伝わったのか、ソキウスはいつも強力な…より白みがかった炎で作られた火槍を撃ち出した。
巨大な氷と鋭い業火がぶつかり合う。
立ちのぼる蒸気と肌を撫でる熱風はまるでサウナのようで、リィンは一気に汗ばんだ。尚、ウィズは彼女の首の後ろにしがみついている。緑属性故か、熱は好きじゃないらしい。
「…ッ!」
(あ…)
「ソキウス!」
「グル!!」
燃え盛る火を前に、またしてもシャピヴルの動きが強張るのが見えた。
それと同時に集中も緩んだのか、今まで堅牢だった氷塊は甲高い音を立てて砕け、炎の槍がシャピヴルのすぐ目の前に突き刺さって爆ぜる。
直前の軌道修正が間に合ったらしい。ソキウスはやはり天才、とリィンは胸を撫で下ろしながら唱える。
後ろからウィズのげんなりした気配を感じた。
とは言え、直撃は免れても力が込められた魔法だ。槍として刺さらなかっただけで炎はシャピヴルをガッツリ舐めたし、爆風は小柄な体を吹き飛ばしている。
シャピヴルはなんとか立ち上がろうとしたものの、パタンと地に伏して動かなくなった
リィンはソキウスと顔を見合わせた。
「勝負あり、かな…んー!ソキウス最高!!かっこよかったよー!」
「グルルゥ!」
「ピィピー!」
駆け寄ってきたソキウスを抱きとめ、頬擦りを受け入れながら熱い体を撫で回す。氷による切り傷を始め細かい傷は多いし、氷の柱が直撃した腹部なんかはかなり痛そうな痣になっているが…魔法薬で処置できる範囲だ。
リィンはテキパキと治療を施した後ソキウスにグリグリと頬擦りを返し、次いで倒れたシャピヴルの方へと足を向けた。
小さな身体は熱を持ち、打ち身の痛みか僅かに震えている。
やりすぎた、とは思わない。それは真剣に拳を合わせた両者に失礼だ。
それでも眉が情けなく下がってしまう己の弱さにリィンは自嘲しながら、回復薬をシャピヴルに優しく掛けた。
「ニュル…?」
「大丈夫?炎上のデバフは大丈夫そうだけど…一応今、冷却薬を…」
「ッ!!」
「わ!?」
「グルッ!?グゥルゥ!!」
「ピッ!?ピッ、ピィピピィ!!」
次の魔法薬をと思った途端、シャピヴルはリィンの手を払って飛び退る。
咄嗟に手を庇った彼女にソキウスとウィズが威嚇混じりに声を上げるが、驚いただけで怪我は大したことないと宥めた。
「…もう大丈夫?」
「……」
何を考えているのか分からない顔でリィンを見つめていたシャピヴルだが、やがて背を向けて去って行く。
その背が見えなくなるまで見送り、リィンは息を吐いた。
「何だったんだろう?ただの戦闘マニアって感じではなかったけど…」
「グゥル!グルグゥルル!」
「ピピィ!」
「わ、分かったよ。ちゃんと手当てするから怒らないで!」
じくりと切り傷から血が滲む。
掠めただけとはいえ、さすがは精霊の爪だ。野生の猫にやられた時よりも綺麗に深くパックリである。
それでもリィンは自分の傷よりシャピヴルの方が気になってしまうのだから、ソキウス達が捏ね回してつつき回してやりたくなるのは仕方ないことだった。愛が痛い。
…
シャピヴルと一騒動あったものの、当初の目的通り一休みしたリィンはボードで一気に山道を登っていった。
彼女の黒髪と白衣が通り過ぎる風に遊ばれて同時に靡いていく。
亜空部屋に入らなければならないソキウスが物凄く渋っていたが、いくら治ったとは言え怪我をしたのだから休まなきゃダメと言うリィンの憮然とした態度に折れた。
さすが魔道具と言うべきか…いや、さすがベルセルが手を加えた魔道具と言うべきか、こんな山道であっても草原を走るのと大差ない滑らかな動きにかなりの戸惑いを覚える。視覚情報と体感の齟齬が凄いのだ。
この魔道具一つに一体何種類の魔法が組まれているのだろうと考えるも、リィンには到底分かりそうもなかった。
ボードの前方で進むべき方向を教えてくれているミラくんが、心無しかドヤ顔をしている気がする。
徒歩での登山が馬鹿らしくなるくらいあっさり進むので、色々としょっぱい気持ちになりはしたが…まぁ、何はともあれ…
「とう、ちゃく!」
「グルルー!」
「ピッピー!」
『…』
日が落ちる前にリィン達がくぐったのは、山頂を示す門…"ようこそピークメイアへ"の看板だった。何とか日没に間に合って何よりである。
ピークメイアは、カタルシアで一番標高の高い場所に作られた町だ。
山小屋に似た木造のログハウスが並ぶ様子はファームルワを思い出させるが、何よりも違うのは開放感だろう。
標高の高いピークメイアやその周囲には背丈のある木がほとんどなく、視界を遮るものが何もない。つまり、背景が完全に空なのである。
肌を撫でる空気は金属に似ていて、刺すように冷ややかで硬い。けれども肺に吸い込んだそれは薄くて軽かった。まるで薄氷だ。
どっしりした山のてっぺんにあるくせに、触れたら砕けそうなほどに繊細な青属性の魔力がふんだんに流れていたのである。それと、空…というか雲が近いからか、黄属性のピリリとした炭酸水みたいな気配も少し。天気が崩れないことを祈ろう。
(空気と同じく匂いも薄い…水の香りと湿った岩の香りが微かにするくらい?後は、やっぱり少しの刺激臭と腐臭みたいな不快臭もある。匂いそのものは薄いけど、なんだか近くから感じるなぁ)
色々と思考を巡らせながらリィンは改めて目一杯山頂の空気を吸い込み、メモを取り出すのと引き換えにボードを収納型魔具へとしまって足を進める。
「ありがとう、ミラくん。また今度よろしくね」
『…』
いつも通り感謝を告げると、役目を終えたミラくんが吐息一つ残して消えていった。
そんな彼女に、近くで花いじりをしていた青年が手を振る。
「や、いらっしゃい。随分若いお客さんだね?学生さんかな」
「はい!こんにちは!」
「うんうん、元気いいね。ようこそ、ピークメイアへ。修行なら左、展望台なら右だよ」
「修行…?」
「ああ…修行用ダンジョンがあるんだよ。有名らしくて、各地から冒険者とか環境調査官とか物好きが来て修行してるみたいだけど…その様子じゃ、お嬢さんの用事は展望台かな?」
「そうです!カタルシアをこの目で見てみたくて…」
ちょっぴり修行用ダンジョンとは?と興味が湧いてしまったが、リィンがわざわざ山を登るルートを選んだのは、カタルシアを一望できるという展望台のためだった。
「ははっ、なら…右の細い階段を上がって行くといいよ。あ!足元には気を付けてね?整備はされているけど、落ちたりしたら笑えないから…ははっ!」
「あ、はは…そうですね。気をつけます…」
ニコニコしながら何だか怖いことを言うお兄さんである。
リィンは少し引き攣った愛想笑いを浮かべ、教えてもらった階段を足早に登っていった。
転ばないよう慎重に、けれども逸る足取りで。そうして何段登ったのか、数えるのもうんざりするくらい長い階段の先。
「……っ!」
網膜を殴りつけてきた景色に、リィンは息を呑んだ。
手を伸ばせば触れられそうな空は地上で見るより強い青色をしていて、けれどもやっぱり白っぽい。近付いたからか、それは何だか…ただの白というよりノイズのように不規則なくすみにも見えた。何かがそこにこびりついて、燻っているように。
その空の下に広がるのは、歪な丸の形を縁取る絶壁とそれに囲まれた大地。
「これが、カタルシア…」
東向きに体を向け、手摺をキュッと握る。
セントール学園はここから見ると本当にお城にしか見えない。見上げていた時は分からなかったが、その屋根は朝焼けのような色をしていた。
そんな中央都市区セントールを鼻として、美しい緑の額がフィオーレ自治区。
ここからでも感じる生命力に感嘆の息が漏れた。現地にいた時より青々と煌めいて見えるのは、リィンの贔屓目だろうか。
「あの時…蝕化魔力を止められて本当に良かった…この景色が見れなくなるなんて、絶対ダメだよ」
草原に落ちる雲の影は、まるでクジラの群れが泳いでいるみたいな、或いは黒鳥の群れが優雅に飛んでいるみたいな、切り取る瞬間ごとに違う顔をしていた。
フィオーレから右へ…右目に当たる位置にあるのは絶壁に囲まれたカタルシアで唯一、キラキラ光る海を招き入れている…おそらく、マーレリア自治区だろう。
目頭にはノコリノ森とは違う、整列した木々の群れが見える。
木と木の間隔も広く、森というよりは畑のような印象を受けた。
目尻には涙と呼ぶには多すぎる広大な海と、ここからでも見えるくらい大きな港街。何故か蜃気楼のようにぼんやり歪んで見えるが、結界の魔法か何かだろうか。ただ、たくさんの船が出入りしているのはよく分かった。
フレンドリーな視線は外に向けられ、他の国とのやり取りに勤しんでいるのだろう。
「あの船達は他の国をいっぱい回ってるのかなぁ…外交って仕事とはいえ、ちょっとロマンだよね!」
「グルル?」
煌めく海は空よりずっと青く、じっと見ていると逆立ちでもしているような気がしてきた。
右目を一通り堪能し、さて、では左目は?
「んん?なんだろう…あれ」
「グゥル?」
「ピィ?」
「ほら、左目…じゃなくて、北の空…あそこだけ真っ暗で…凄く魔力が…」
北区…ケミカトル自治区の上空は、まるでそこだけ別の世界のように暗くて重かった。しかしよぅく目を凝らし、リィンは先ほど自分が口にした真っ暗という言葉が正しくないことを知る。
正確には、絵の具が混ざり合った黒。
黒の中に色々な色彩の名残が見えた気がするのだ。まるで油の張った水面のように。
けれどそんな可愛い言葉では済まないくらいずっと、重ったるい様子で。
その下は四方を峻嶺な岩山で囲まれた大地があるのだろうが、こちらも黒っぽい霧…否、おそらくだが魔力と思われる何かが深く立ち込めていて全く見えなかった。
「フィオーレやセントールからじゃ、いつも崖と壁しか見えなかったけど…ケミカトル自治区ってあんな感じなんだ…えっ、ベルセルさんギルドマスターって事はあそこに住んでるんだよね?あれって、住めるの…?たまたま天気が悪かっただけ?」
色々と疑問は尽きないが、こんなに遠くから目を凝らしたところで分かるはずもない。あいにくリィンは千里眼の魔法式など知らないし、下手に使うと失明のリスクがある魔法をソキウスに使わせるつもりも毛頭ないので。
そのうちベルセルに聞いてみようと思考を中断し、次はクルリと体を反転させて西側の手摺から身を乗り出した。
せっかくだから、目的地も見ておきたかったのだ。
「わ、上から見るとスチームンドって工場みたいな建物があちこちにいっぱい…街にあるだけじゃないんだね。…えっと、ここがピークメイアで、右の火山が温泉があるっていうマグマールの方。だとしたら…」
リィンはやや左側正面を見る。
インダスティオがある筈のその方角には…何も見えなかった。否、正確には、白い煙に阻まれて見通せなかったと言うべきか。
たまに鈍色に光る建物だとか、煙を吐き出す煙突が見えはするので、あれが街であるのは確かだろう。
「んーー?…うっすらと、あれ、ほら、工場?みたいなのが見えるけど…ぐぬぬ…ぬぅ…みぇ、そうで見えない…!はぁ、カタルシアって靄が発生しやすかったりするのかな…」
肩を落とし、グリグリと目頭を揉む。
とても10代少女の仕草ではない。肩からずり落ちた白衣も相まって、疲れ果てた社会人じみていた。
けれど、リュックからメモとペンを取り出した彼女は一変。
どこまでもキラキラとした、やる気に満ちた顔をカタルシアの大地に向けたのだった。
…
「や、いらっしゃい、お嬢さん。やっぱりウチを選んでくれたね。嬉しいな。あ、チェックインはもう済ませてあるからね。はいこれ、部屋の鍵だよ。魔力認証が掛かってる魔道具だから無くさないでね」
「ひょえ」
メモが分厚い束になるほどスケッチに没頭し、夕日と一番星まできっちり楽しんだリィンは、真っ暗になる前にと宿を探した。
修行ダンジョンなるものを有するからか、ピークメイアには思いの外宿泊施設が多い。同じく人も多く、夜の町はダンジョン帰りだろう人達で賑わっていた。
その中で何となくで選んだ宿にて…あのお兄さんがニコニコと手を振って上記の台詞である。普通に怖い。
猛烈に逃げたくなったが、すでにチェックイン済みとなると逃げられない。
だって、逃げるにしてもキャンセルを受理してもらわなければならないのだ。あのお兄さん相手に。無理そう。
よってリィンは諦めることに決めた。
一応、悪い人では無さそうなので。
「あの、黒属性さん」
「ん???」
「すみません間違えました!お兄さん、お、お世話になります…」
「ビクビクしてる割にはすごい間違え方だね。うん、こちらこそよろしく。そうそう、"お嬢さん"で宿泊名簿書いちゃったんだけど、よかったら名前教えてくれる?別に闇ギルドにばら撒いたりしないからさ…ははっ」
「…リィンです。あと、ソキウスとウィズです」
「グルル!」
「ピィ!」
「うんうん、何故か二体とも名前がついているような気がしたけど気にしないでおくね。いやぁ、可愛いね。皆、食べちゃいたいくらい。ちなみにお兄さんはクロマだよ」
「ふむん?黒属性魔法っぽいお兄さん…で、クロマさん…覚えました!」
「イマドキの子ってそうやってあだ名つけるの?お兄さんびっくり。あ、朝は簡単な食事が出るから食堂においでね」
貰った魔力鍵のナンバーは二階。
リィンは温かい丸太の曲線を眺めながらあくびを一つ。
冷えた体を温めたら、すぐにでも寝てしまいそうだ。
そんな薄ぼんやりとした眠気の奥で、どうしてか、黒くて小さな背中が気になっていた。




