第5話 マロンは靴がほしい
それから、さらに一週間が経った。
マロンは、まだ本沢家に帰れていなかった。
これは、とても大きな問題だった。
けれど、少しだけ分かったこともある。
玄関までの道順だ。
部屋を出る。
廊下を進む。
右へ曲がる。
長い廊下。
大きな花瓶。
そこから、もう一度曲がる。
玄関。
何度も心の中で繰り返したおかげで、マロンは何とか玄関までの道順を覚えた。
これは大きな前進だった。
かなり大きな前進だった。
けれど、問題も大きくなっていた。
玄関の場所が分かっても、それだけでは外へ出られない。
外は寒い。
この前、彩のお見送りをした時に、それはよく分かった。扉が開いた瞬間、冷たい空気が入ってきた。
犬だった頃なら平気だった。
栗色の立派な自慢の毛皮があった。
首まわりにも、背中にも、お腹にも、尻尾にも、ふわふわの毛があった。しーちゃんが顔を埋めても大丈夫なくらい、あたたかかった。
でも、今のマロンには毛皮がない。
頭には少し髪があるけど、体には、しーちゃんがもふもふできるような毛はない。
腕にも、足にも、お腹にも、背中にもない。だから外に出るには、服がいる。
もっとあたたかい服がいる。
たぶん、上着というものが必要だ。
それから、靴。
人間は外へ出る時、足に何かを履く。
彩も履いていた。
真琴も履いていた。
しーちゃんも、学校へ行く時は靴を履いていた。
犬だった頃のマロンは、そんなものを履かなかった。
肉球があったからだ。
熱い地面も、冷たい地面も、少し濡れた道も、肉球で確かめられた。
けれど今のマロンには、肉球がない。
小さくて頼りない足の裏があるだけだ。
その足で外へ出たら、すぐ痛くなるかもしれない。
さらに、帽子もいるかもしれない。
彩は学校へ行く時、帽子をかぶっている。
しーちゃんも、黄色い帽子をかぶっていた。
つまり、外へ出る人間の子どもには、帽子が必要なのかもしれない。
服。
靴。
帽子。
玄関の場所は分かったのに、必要なものが増えた。
マロンは困った。
とても困った。
この一週間、マロンができたことは、結局、体を動かす練習と、言葉を話す練習だけだった。
体を動かす練習は、少しだけ進んだ。ベビーベッドの柵の中なら、かなり動ける。
立てる。
座れる。
歩ける。
転ぶ回数も減った。
四つん這いなら、もっと安定する。
手を二つ。
足を二つ。
合わせて四つ。
やはり、四つは強い。
犬だった頃の形に近い。
頭が重くても、四つで支えれば倒れにくい。
ただし、柵の中だけで速くなっても、外へは出られない。
柵は高い。
何度見ても高い。
マロンは今日も柵につかまった。
足を上げる。
「ん……」
上がらない。
もう少し。
もう少しで届く気がする。
しかし、体が持ち上がらない。
手も足も短い。
尻尾もない。
犬だった頃なら、後ろ足で蹴って、前足を乗せて、体をぐっと伸ばすことができた。
今は違う。
手でつかんでも、体がついてこない。
足を上げても、柵にかからない。
マロンは、ぽすんと座った。
「……まだ」
まだ越えられない。
でも、いつか越える。
少なくとも、そう思わなければやっていられない。
言葉の練習も続けていた。
「かえる」
これは言える。
「おうち」
これも言える。
「しーちゃん」
これは、かなり大事なので言える。
けれど、言ってはいけないこともある。
マロンです。
本沢家に帰りたいです。
颯くんと阿澄さんとしーちゃんのところへ帰りたいです。
そう言えれば、話は早いのかもしれない。
でも、それは言えない。
神様と犬神様との約束がある。
大きな問題を起こしてはいけない。
自分が犬だったことを話したら、きっと大きな問題になる。
真琴が心配する。
彩が騒ぐ。
昭恵は怖い顔をするかもしれない。
お医者さんのところへ連れて行かれるかもしれない。そうなったら、外へ出るどころではなくなる。
もしかしたら、神様との約束を破ったことになって、どこかへ戻されてしまうかもしれない。
それは絶対に困る。
マロンは本沢家へ帰らなければならない。
でも、鳴瀬家の人たちを悲しませてもいけない。
だから、言葉は選ばなければならなかった。
言えること。
言えないこと。
伝えたいこと。
伝えてはいけないこと。
人間の言葉は難しい。
犬だった頃より、ずっと難しい。
マロンが柵の中で考えていると、彩が部屋に入ってきた。
「マー君、何してるの?」
「くんれん」
「また訓練?」
「うん」
彩は少し笑った。
「マー君、訓練好きだね」
好きなわけではない。
必要なのだ。
帰るために。
けれど、そこまではうまく言えない。
マロンは柵につかまったまま、彩ちゃんを見た。
彩はランドセルを置き、マロンのそばに来た。
「今日はね、学校で走ったんだよ」
「はしる?」
「そう。かけっこ」
走る。
マロンはその言葉に反応した。
犬だった頃のマロンは、走れた。
若い頃は、颯くんと一緒に走った。
しーちゃんが小さな足で駆け出した時も、すぐ横についていけた。
でも今は、走れない。
歩くのもやっとだ。
「マー君も、もう少し大きくなったら走れるよ」
彩はそう言った。
もう少し大きくなったら。
また、それだ。人間の世界には、待たなければならないことが多すぎる。
大きくなったら。
もう少ししたら。
まだ早い。
危ない。
だめ。
マロンは、少しだけむっとした。
「いま、はしる」
「今は無理だよ」
「できる」
「転んじゃうよ」
「ころばない」
「転ぶよ」
彩は、真面目な顔で言った。
マロンは少し悔しかった。
けれど、たぶん彩ちゃんは正しい。
今のマロンが走ろうとすると、頭が前へ出て、体が遅れて、足がもつれて転ぶ。
何度も確認済みだった。
彩は柵の外から、マロンの頭をなでた。
「マー君は、まだ小さいんだから」
小さい。
また、それだ。
マロンは本当は十五年生きた犬である。
颯くんの少年時代を知っている。
阿澄さんが本沢家に来た日も知っている。
しーちゃんが生まれた時も知っている。
でも今は、一歳くらいの小さな人間だった。だから、みんなに小さいと言われる。
間違ってはいない。間違ってはいないが、納得はできない。
その時、真琴が部屋に入ってきた。
「マー君、今日は少し靴の練習をしてみようか」
靴。
マロンは顔を上げた。
外へ出るために必要なもの。
地面を歩くためのもの。
もしかすると、少し走るためのもの。
マロンは真剣にうなずいた。
「くつ」
「そう。玄関で履いてみましょうね」
■鳴瀬家・玄関
真琴に抱っこされて、マロンは玄関へ連れて行かれた。
道順は覚えている。
部屋を出る。
廊下。
右へ曲がる。
長い廊下。
大きな花瓶。
もう一度曲がる。
玄関。
マロンは真琴の腕の中で、何度も景色を確認した。
やはり、ここが外へ出る場所だ。
靴が並んでいる。
大人の靴。
彩の靴。
そして、今日はマロンの小さな靴も置かれていた。
「これがマー君の靴よ」
真琴が、小さな靴を見せてくれた。
マロンはそれをじっと見た。
硬い。
少し変な形だ。
犬だった頃なら、まず噛んで確かめていた。しかし、今それをすると怒られる気がした。
マロンは我慢した。
「くつ」
「そう。靴」
「はく」
「うん。履いてみようね」
靴は、足に履くものらしい。
それは分かった。
けれど、マロンには今、手が二つ、足が二つある。犬だった頃なら、前足と後ろ足、合わせて四つだった。
外を歩く時は、四つすべてで地面を踏んでいた。
ならば、靴も四つ必要なのではないだろうか。
マロンは真剣に考えた。
目の前にある靴は二つ。
二つしかない。
足りない。
かなり足りない。
マロンは靴をひとつ持ち上げ、自分の手に近づけた。
「マー君?」
真琴さんが首をかしげる。
マロンは真剣だった。
まず前足。
違う。
今は手。
でも四つん這いで進む時、この手は前足の役目をする。なら、ここにも靴がいるはずだ。
マロンは靴を手にはめようとした。
「マー君、それはお手てじゃなくて、あんよに履くのよ」
真琴さんが笑った。
「おてて……?」
「そう。靴は足に履くの」
マロンは手を見た。
手。
足ではない。
しかし、床につけば前足になる。
マロンは納得できなかった。
「まえあし」
思わず、そう言ってしまった。
真琴さんが一瞬止まる。
「……前足?」
しまった。
マロンは口を閉じた。
あまり犬だった頃のことを言ってはいけない。
でも、これはかなり大事な問題だった。
四つん這いで進むなら、手も地面につく。
地面につくなら、靴がいる。
しかし、真琴さんはそう思っていないらしい。
「マー君、あんよはこっちよ」
真琴さんはマロンの足をそっと持った。
「ここに履くの」
「……うん」
マロンはうなずいた。
今は従うしかない。
真琴さんが小さな靴をマロンの足に履かせる。
不思議な感覚だった。
足が包まれる。
少し重い。
少し硬い。
床を踏んでも、直接触れない。
肉球がなくても、これなら外を歩けるのかもしれない。
マロンは靴を履いた足を見た。
「くつ」
「そう。上手ね」
「そと、いく」
「今日はまだ練習だけね」
まだ。
また、まだだった。
マロンは靴を見た。
靴は履けた。
でも、まだ外には出られない。
なぜなら、上着がない。
帽子もない。
外は寒い。
玄関までの道順も忘れてはいけない。
歩く練習も、もっと必要だ。
言葉も、もっと必要だ。
靴。
上着。
帽子。
玄関。
道。
歩くこと。
話すこと。
必要なものが、多すぎる。
マロンは、だんだん悔しくなってきた。
犬だった頃なら、玄関が開けばすぐ外へ出られた。
肉球で地面を踏めた。
毛皮で風を受けられた。
尻尾で体を支えながら走れた。
それなのに、今は靴がいる。
上着がいる。
帽子までいるかもしれない。
外へ出るだけなのに。
本沢家へ帰るどころか、外へ出るだけでこんなに遠い。
悔しかった。
とても悔しかった。
マロンは、靴を履いた自分の足を見つめた。
この靴で、少しだけ外を走ってみたい。
少し走れれば、本沢家へ近づけるかもしれない。
けれど、靴だけでは駄目なのだ。
上着がない。
帽子もない。
走るどころか、玄関の外へ出る準備すら足りない。
マロンは、小さな胸いっぱいに息を吸った。
颯くん。
阿澄さん。
しーちゃん。
ここにいます。
まだ帰れていません。
でも、帰りたいです。
その気持ちを、遠くまで届けたかった。
犬だった頃なら、遠くに向かって声を伸ばすことができた。
夜の空に向かって、長く、細く、胸の奥から声を出せた。
だから、マロンは声を出した。
「う……うぅ……」
最初は、小さな声だった。
けれど、止まらなかった。
胸の奥にたまっていた悔しさが、喉を押し上げる。
「うぅ……あぅ……ううぅ……」
それは、人間の声だった。
犬だった頃の遠吠えとは違う。
高くもない。
強くもない。
遠くへ届くような声でもない。
けれど、マロンにとっては遠吠えだった。
しーちゃんに届いてほしい声だった。
本沢家に届いてほしい声だった。
「ううぅ……あお……うぅ……」
「マー君?」
真琴の声がした。
けれど、マロンはすぐには止まれなかった。
悔しい。
帰りたい。
走りたい。
しーちゃんのところへ行きたい。
その全部が、声になって出てしまう。
「うぅぅ……あぅ……」
「マー君!」
真琴が、慌ててマロンのそばに膝をついた。
「どうしたの? どこか痛いの?」
違います。
痛いのではありません。
悔しいのです。
靴だけでは足りないのです。
上着も帽子も必要で、本沢家がまだ遠すぎるのです。
そう言いたかった。
でも、言葉にならなかった。
マロンの喉からは、まだ細い声が漏れている。
「うぅ……」
真琴の顔が、はっきり変わった。
いつもの優しい顔ではない。
心配している顔だった。
本気で、マロンの体がおかしいと思っている顔だった。
「マー君、こっち見て。ねえ、苦しい? お腹痛い?」
マロンは首を横に振ろうとした。
けれど、うまく動かせない。
遠吠えをしたあとで、胸が少しだけ震えていた。真琴がマロンの額に手を当てる。
「熱は……ないと思うけど」
その時、玄関の方をのぞいていた彩ちゃんが、不安そうな顔で近づいてきた。
「ママ、マー君どうしたの?」
真琴は、マロンを抱き寄せたまま言った。
「彩」
「うん」
「おばあ様を呼んできて」
彩の顔から、すっと笑みが消えた。
「え……」
「早く」
真琴の声は、いつもより少し硬かった。
彩は小さくうなずくと、廊下の奥へ走っていった。マロンは、真琴さんの腕の中で固まっていた。
遠吠えは、届かなかった。
その代わりに、大変なものを呼んでしまった気がした。




