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マロンはもう一度、家に帰りたい  作者: 本沢マロン
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第6話 マロンは診察されてしまった

 同じ日、もちろんマロンはまだ本沢家に帰れていなかった。


 それどころか、帰るための準備をしていたはずなのに、少し大変なことになっていた。


 彩が走っていった。

 おばあ様を呼んでくるためだ。


 マロンは、真琴の腕の中で固まっていた。


 遠吠えは、届かなかった。


 颯くんにも。

 阿澄さんにも。

 しーちゃんにも。


 誰にも届かなかった。


 その代わりに、大変なものを呼んでしまった気がした。


 真琴は、マロンをしっかり抱きしめている。


「マー君、大丈夫? 苦しくない?」

「だいじょうぶ」


 マロンは慌てて言った。


「いたくない」


 痛くない。

 本当に痛くはない。

 悔しかっただけだ。


 靴は履けた。

 けれど、靴だけでは外へ出られない。


 上着がいる。

 帽子もいるかもしれない。


 玄関までの道順も覚えなければならない。

 歩く練習も、もっと必要だ。


 本沢家へ帰るために必要なものが多すぎる。


 それが悔しくて、犬だった頃の癖で遠吠えをしてしまっただけなのだ。


 でも、それは言えない。

 自分が犬だったことは、言ってはいけない。


 大きな問題を起こしてはいけない。


 神様と犬神様との約束だ。


 なのに、真琴さんの顔はいつもより硬い。

 これはよくない。


「本当に痛くないの?」

「うん」


「気持ち悪くない?」

「ない」


「お腹は?」

「ない」


 マロンは全部に首を横へ振った。

 とにかく、何もないと伝えなければならない。


 遠吠えで医者を呼ばれてはいけない。

 医者を呼ばれると、大きな問題になる。


 大きな問題になると、神様との約束が危ない。


 マロンは必死だった。


 けれど、真琴はまだ心配そうだった。

 そこへ、廊下の奥から足音がした。


 彩が、祖母の昭恵を連れて戻ってきたのだ。


「真尋」


 昭恵の声は、いつもより少し低かった。

 マロンは背筋を伸ばした。


 昭恵は少し怖い。

 怒っているわけではない。


 けれど、目が鋭い。

 真琴とは違う怖さがある。


 昭恵はマロンのそばに膝をつき、額に手を当てた。


「熱は……高くはなさそうですね」


「急に、長い声を出したんです。泣き声とも違って……苦しそうにも聞こえて」


 真琴が説明する。

 苦しくはない。


 ただの遠吠えです。


 そう言いたかったが、言えなかった。

 昭恵はマロンの顔をじっと見た。


「真尋、どこか痛いところはありますか?」

「ない」


「苦しい?」

「ない」


「気持ち悪い?」

「ない」


 マロンは必死に答えた。


 昭恵は少し考えるように目を細めた。


「それでも、念のため先生に診ていただきましょう」


 先生。

 医者。


 マロンは固まった。

 呼ばれてしまう。


 やはり、呼ばれてしまう。


「だいじょうぶ」

 マロンは言った。


「いたくない」


「痛くなくても、診てもらうだけです」


 昭恵はきっぱり言った。

 その声は、逆らってはいけない声だった。


 マロンは分かった。

 これはもう、止められない。


 遠吠えは危険。

 かなり危険。


 マロンは、また一つ学んだ。


 ■鳴瀬家・真尋の部屋


 マロンは部屋へ戻された。


 靴は脱がされた。

 せっかく履いた靴だったのに、もう脱がされた。


 外へ出るための大事なものだったのに。

 しかし、今はそれどころではない。


 医者が来る。


 マロンはベビーベッドではなく、真琴の膝の上に座らされていた。

 彩は少し離れたところで心配そうに見ている。


 昭恵は部屋の入口近くで、お手伝いの人に何かを頼んでいた。


 鳴瀬家はすごい。


 医者がすぐ来るらしい。

 犬だった頃も、病院へ行くことはあった。

 あの時は、車に乗って、知らない匂いのする場所へ行った。


 消毒の匂い。


 薬の匂い。


 ほかの犬や猫の匂い。

 怖がっている子の匂い。


 今は違う。


 医者の方が来る。

 人間の家は、医者まで来るのか。


 マロンは驚いた。

 そして、困った。


 来なくていいのに。


 しばらくして、年配の男の先生が部屋へ入ってきた。


 穏やかな顔をしている。

 けれど、持っている鞄が少し怖かった。


 あの中には、きっと道具がある。

 犬だった頃に見たことのある、冷たいものや、痛いものが入っているかもしれない。


「真尋くん、こんにちは」


 先生が優しく言った。


 マロンは警戒した。


「こんにちは」

 言えた。


 先生は少し笑った。


「おや、ちゃんとご挨拶できますね」


 できる。


 マロンは、かなり練習している。

 しかし、今は褒められている場合ではない。


 先生は真琴と昭恵から話を聞いた。

 急に長い声を出したこと。


 苦しそうに聞こえたこと。

 靴の練習中だったこと。


 マロンは、じっと黙っていた。


 遠吠えです。

 とは言えない。


 先生は、まずマロンの額に手を当てた。


 次に、胸の音を聞いた。

 冷たいものが服の上から当たる。


 マロンはびくっとした。


「大丈夫。痛くありませんよ」


 先生が言った。

 分かっている。


 痛くない。

 でも、冷たい。


 犬だった頃も、こういう冷たいものを当てられたことがある。


 マロンは我慢した。

 次に喉を見られた。


 口を開けるように言われた。


「あーんできますか?」


 あーん。


 これは食べ物の時に使う言葉だ。


 けれど、今回は食べ物ではないらしい。


 マロンは少し迷ってから、口を開けた。


「あ……」


「はい、上手ですね」


 先生はうなずいた。


 真琴もほっとしたように笑う。


 何が上手なのかは分からない。


 しかし、診察は進んでいるらしい。


 先生はマロンの胸、背中、喉、目を簡単に確認した。


「熱もありませんし、呼吸も問題なさそうです。喉も赤くありませんね」


「では、さっきの声は……」

 真琴が不安そうに聞く。


「靴の練習で驚いたのかもしれませんし、感情が高ぶったのかもしれません。幼い子どもは、まだうまく言葉にできない分、変わった声を出すこともありますから」


 感情が高ぶった。

 それは合っている。


 悔しかった。

 とても悔しかった。


 マロンは少しだけうなずきそうになって、慌てて止めた。


 先生はさらにマロンの首元を見た。


「ただ……こちらは少し気になりますね」


 マロンは嫌な予感がした。


 先生はマロンの首筋をそっと見る。

 耳の後ろも見る。

 髪を少し持ち上げる。


「首の後ろと耳の後ろに、汗疹が出ています」


「あせも?」


 真琴の顔が変わった。


「はい。髪がかかって蒸れたのかもしれません。少し赤くなっていますね。痒がっていませんでしたか?」


 痒い。

 少し痒かった。

 でも、我慢していた。


 しーちゃんのための、もふもふだからだ。


 しーちゃんに会った時、少しでももふもふしてもらうためには、髪が必要だった。


 犬だった頃の毛皮は戻らない。

 だから、せめて髪を伸ばさなければならない。


 なのに、先生は首元を見ている。


 真琴も見ている。


 昭恵も見ている。


 まずい。


 マロンは両手で髪を押さえた。


「きらない」


 真琴が瞬いた。


「マー君?」


「かみ、きらない」


 先生が少し驚いた顔をした。


 昭恵は、何かを察したように目を細める。


「真尋は髪を切るのが嫌なのですか?」


「いや」


 マロンは即答した。


「もふもふ、いる」


「もふもふ?」


 先生が不思議そうに繰り返した。

 マロンは慌てて口を閉じた。


 しーちゃんのため。

 それを言うと、また真琴に聞かれる。


 しーちゃんとは誰か。

 どうしてもふもふが必要なのか。


 マロンは答えられない。

 真琴は困ったように、でも優しくマロンの頭をなでた。


「マー君、でも痒いでしょう?」

「がまん」


「我慢しなくていいの」


 真琴の声が少し強くなった。

 阿澄さんの声に似ていた。


 しーちゃんが危ないことをしようとした時の、あの声。

 これは勝てない声だ。


「痒くなったり、赤くなったりするなら、少し整えないとね」

「だめ」


「薬も塗らないと」

「だめ」


 薬。

 髪。


 どちらも危険だった。

 先生は穏やかに言った。


「全部短くする必要はありませんよ。首まわりと耳の後ろにかかるところだけ、少し涼しくしてあげるといいでしょう。薬を塗れば、すぐ落ち着くと思います」


 少し。

 大人はよく、少しと言う。


 でも、その少しがマロンには大きい。

 髪は大事なのだ。


 しーちゃんに、もふもふしてもらうためのものなのだ。

 けれど、真琴も昭恵も先生も、同じ方向を向いていた。


 汗疹を治す方向だ。

 マロンのもふもふ計画は、誰にも理解されていなかった。


 そのあと、マロンは髪を少し切られた。

 真琴が慎重に、首の後ろと耳の周りを整えた。


 じょきん。

 少し落ちる。


 じょきん。

 また落ちる。


 マロンは膝の上でじっとしていた。


 逃げたかった。

 でも、先生がいる。


 昭恵もいる。

 真琴は真剣だ。


 ここで暴れると、さらに大きな問題になる。


 マロンは我慢した。


 しーちゃんのためのもふもふが、また少し減っていく。

 切られた髪が、白い布の上に落ちる。


 犬だった頃の毛とは違う。

 ほんの少しの髪。

 でも、マロンには大事なものだった。


「はい。これで少し涼しくなったわ」


 真琴が言った。

 マロンは返事をしなかった。


 次に、薬を塗られた。

 首の後ろ。

 耳の後ろ。


 ひやりとした。

 少し気持ちいい。


 確かに痒みが遠くなる。

 それは分かった。


 分かったけれど、嬉しくはない。

 真琴は安心したように息をついた。


「よかった。悪い病気じゃなくて」


 昭恵もうなずいた。


「汗疹なら、早めに気づけてよかったですね」

 先生も穏やかに言った。


「薬を塗って、汗をかいたら拭いてあげてください。髪も少し涼しくしておけば、すぐによくなるでしょう」


 みんな、よかったと言っている。


 真琴も、昭恵も、先生も。

 彩ちも、少し安心した顔をしている。


 でも、マロンはよくなかった。

 遠吠えは届かなかった。


 医者を呼ばれた。

 髪を切られた。

 薬を塗られた。


 しーちゃんのためのもふもふは、また遠くなった。

 マロンは、短くなった髪にそっと手を置いた。


「もふもふ……」


 小さくつぶやく。

 真琴が困ったように微笑んだ。


「また伸びるわよ」


 それは本当かもしれない。

 でも、今は短い。


 今、しーちゃんに会っても、もふもふしてもらえない。


 マロンはがっかりした。

 とてもがっかりした。


 先生は帰り支度をしながら、真琴に言った。


「体調は問題ありませんから、外に出すこと自体は大丈夫ですよ」


 外。


 マロンは顔を上げた。


「ただ、まだ小さいですから、短い時間で。寒くないように上着を着せて、靴を履かせて、無理のない範囲で庭先や近くを少し歩くくらいならよいでしょう」


 上着。

 靴。

 庭先。


 近く。

 歩く。


 マロンの心が、ぴんと立った。


 頭の上には耳がない。

 けれど、心の耳は立った。


 外に出しても大丈夫。

 先生は、そう言った。


 医者は怖い。

 でも、今、とても大事なことを言った。


 真琴も、その言葉を聞いて少し考えるようにした。


「そうですね。今度、お天気のいい日に少しお散歩してみましょうか」


 散歩。

 マロンは目を見開いた。


 散歩。

 それは、犬だった頃の大事な言葉だった。


 颯くんと行った。

 阿澄さんとも行った。

 しーちゃんとも行った。


 外へ出る。

 道を歩く。

 匂いをかぐ。


 家の周りを知る。

 帰り道を覚える。

 散歩。


 その言葉だけで、胸が跳ねた。


「さんぽ」


 マロンは思わず言った。

 真琴が笑う。


「そう。少しだけね」

「いく」


「うん。今度ね」


 今度。

 また今度だった。


 でも、今までの今度とは少し違う。

 散歩という言葉が出た。


 外へ出る話が、初めて本当に出た。

 マロンは慌てて言った。


「うわぎ」

「上着?」


「うん。うわぎ、いる」


 真琴は少し驚いたあと、やわらかく笑った。


「そうね。上着がいるわね。用意しておきましょう」

 マロンはさらに言った。


「ぼうし」

「帽子も?」


「いる」


「そうね。帽子もあるといいわね」


 真琴はうなずいた。


「じゃあ、マー君のお散歩用に、上着と帽子も用意しておきましょうか」


 手に入る。

 上着。

 帽子。


 マロンは小さな手を握った。

 靴はある。


 上着も用意してもらえる。

 帽子も用意してもらえる。

 玄関までの道順も覚えた。


 髪は切られた。

 もふもふは減った。


 それは悲しい。

 とても悲しい。


 でも、外へ出る準備は進んだ。

 少しだけ、進んだ。


 先生が帰ったあと、部屋は少し落ち着いた。


 真琴はまだ心配そうだったが、さっきより表情は柔らかい。

 昭恵も、薬の塗り方を確認していた。

 彩ちはマロンのそばに来て、小さな声で言った。


「マー君、びっくりしたよ」

「ごめん」


 マロンは言った。

 彩ちゃんは目を丸くした。


「謝れるの?」


 謝れる。

 必要なら、謝る。


 犬だった頃は、悪いことをしたら耳を伏せていた。

 今は耳が動かない。


 だから、言葉で謝るしかない。


「ごめん」


 もう一度言うと、彩ちゃんは少し困ったように笑った。


「いいよ。具合悪くないなら」


 マロンはうなずいた。


「だいじょうぶ」


 大丈夫。


 遠吠えは届かなかった。

 髪は切られた。

 薬も塗られた。


 でも、外へ出る道は少しだけ見えた。


 ■鳴瀬家・真尋の部屋


 その日の夜。


 マロンはベビーベッドの中で横になっていた。


 首の後ろは、少し涼しかった。

 薬を塗られたところは、ひやりとしている。


 痒みはだいぶ減っていた。

 体は楽だった。

 それは認めるしかない。


 けれど、マロンは短くなった髪をそっと押さえた。

 しーちゃんのためのもふもふは、また少し遠くなった。


 でも、上着と帽子は手に入るかもしれない。


 靴もある。

 玄関までの道順も覚えた。


 先生は、外に出ても大丈夫だと言った。

 真琴は、今度お散歩に行こうと言った。


 散歩。


 その言葉は、マロンの胸の中で何度も跳ねた。

 散歩なら、外へ出られる。


 外へ出れば、道が分かるかもしれない。

 道が分かれば、本沢家へ近づけるかもしれない。


 上着も、帽子も用意してもらえる。

 靴もある。

 玄関までの道順も覚えた。

 髪は短くなってしまった。


 しーちゃんのためのもふもふは、また少し遠くなった。


 でも、外へ出る日は近づいた。

 きっと、もう少しだ。

 もう少しで、家に帰れる。


 マロンは短くなった髪を押さえたまま、静かに目を閉じた。


 颯くん。

 阿澄さん。

 しーちゃん。


 待っていてください。


 マロンは、もうすぐ帰ります。


 そう信じながら、マロンは眠った。

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