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マロンはもう一度、家に帰りたい  作者: 本沢マロン
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第7話 マロンは散歩に行きたい

 三日後、もちろんマロンはまだ本沢家に帰れていなかった。


 けれど、今日は違う。

 今日は、散歩に行けるかもしれない日だった。


 この三日間、マロンはとても真面目に過ごした。


 首の後ろと耳の後ろには、毎日薬を塗られた。

 少しひやりとして、少しだけ変な匂いがした。


 最初は嫌だった。

 でも、痒みはたしかに減った。

 それは認めなければならない。


 髪は少し短くなってしまった。

 しーちゃんのためのもふもふは、また遠くなった。


 それは、とても悲しい。


 けれど、真琴は言った。

 今度、散歩に行きましょうか。


 先生も言った。

 短い時間なら、外に出ても大丈夫です。


 つまり、マロンは外へ出られる。


 玄関の外へ。

 道へ。


 本沢家へ続いているかもしれない場所へ。


 だからマロンは、薬を我慢した。

 髪が短くなったことも、少しだけ我慢した。

 遠吠えもしなかった。


 遠吠えをすると、医者が来る。

 医者が来ると、髪を切られる。

 それは学んだ。


 マロンは賢い犬だった。


 今は人間だが、賢いことに変わりはない。

 だから、我慢した。

 そして、その日の午後。


 真琴が部屋に入ってきた。


「マー君」


 マロンは、ぱっと顔を上げた。

 真琴さんの手には、小さな上着があった。

 それから、小さな帽子もあった。


 マロンは息を止めた。

 上着。

 帽子。


 外へ出るために必要なもの。

 帰宅作戦に必要な、大事な道具だった。


「今日はお天気もいいし、少しだけお散歩に行ってみましょうか」


 散歩。


 マロンの心の耳が立った。

 頭の上には耳がない。

 けれど、心の耳は確かに立った。


「さんぽ」


「そう。お散歩」


 真琴は笑った。


「でも、短い時間だけね」


「いく」


「行きましょうね」


 マロンは小さな手を握った。

 ついに外へ出られる。


 上着を着せられた。

 少し動きにくい。


 けれど、あたたかい。

 帽子をかぶせられた。

 頭が少し押さえられる。


 けれど、外では必要なものだ。


 靴も履いた。

 足が包まれる。


 床を直接踏めないのは不思議だが、外を歩くにはこれが必要らしい。


 手には履かない。

 まだ少し納得していない。

 しかし、今日は我慢する。


 マロンは、外へ出なければならない。

 しばらくして、彩もやって来た。


「マー君、お散歩行くの?」


「いく」


「私も行く!」


 彩は嬉しそうだった。

 真琴は少し考えてから、うなずいた。


「じゃあ、三人で少しだけ行きましょうか」


 三人。


 真琴。

 彩。

 マロン。


 本沢家へ帰るための最初の散歩は、三人で行くことになった。

 マロンは少しだけ困った。


 一人なら、本沢家へ向かって走れたかもしれない。

 いや、走れない。

 今のマロンは走れない。


 それに、上着も帽子も靴も、まだ慣れていない。

 真琴に抱っこされている方が安全だ。


 安全、それは分かる。


 でも、帰るには少し不便だった。


 ■鳴瀬家・玄関


 真琴に抱かれて、マロンは玄関へ向かった。


 道順は覚えている。

 部屋を出る。

 廊下を進む。


 右へ曲がる。

 長い廊下。

 大きな花瓶。


 そこから、もう一度曲がる。


 玄関。


 合っていた。


 マロンは少しだけ誇らしかった。

 鳴瀬家は広い。

 とても広い。


 けれど、玄関までの道順は覚えた。

 これは大きな前進だ。


 玄関には靴が並んでいた。


 真琴の靴。

 彩の靴。

 そして、マロンの小さな靴。


 今日は、それを履いている。


 準備はできた。

 上着。

 帽子。

 靴。


 玄関。

 道順。

 すべてそろった。


 マロンは思った。


 もうすぐ、本沢家へ帰れるかもしれない。


 扉が開いた。

 外の空気が入ってくる。


 やはり、少し冷たい。

 けれど、この前ほどではなかった。


 上着がある。

 帽子もある。

 靴もある。


 人間は不便だが、準備をすれば外へ出られるらしい。


 マロンは真琴の腕の中で、胸を張った。


 外へ出る。

 やっと。


 やっと外へ出る。


 ■鳴瀬家の外


 外に出た瞬間、マロンは固まった。


 知らない。

 知らない道だった。


 知らない塀。

 知らない門。


 知らない木。

 知らない家。


 ただ空は同じように見えた。


 風も吹いていた。

 けれど、マロンの知っている外ではなかった。


 本沢家の近くにあると、神様は言っていた。


 だからマロンは、外へ出ればすぐ分かると思っていた。


 本沢家の匂い。

 散歩道の角。


 しーちゃんとよく通った道。

 颯くんを迎えに出た道。

 阿澄さんが買い物袋を持って歩いていた道。


 そういうものが、すぐに見つかると思っていた。


 でも、何も分からない。

 景色は知らない。

 匂いも薄くてわからない。


 犬だった頃の鼻なら、もっと分かったかもしれない。

 でも今の鼻は、頼りない。

 外に出ても、本沢家の匂いはしなかった。


「マー君?」


 真琴が顔をのぞきこんだ。


「どうしたの?」


 マロンは、あたりを見回した。


「ここ……どこ」


「ここ?」


 真琴は少し笑った。


「おうちの前よ」


 おうち。

 鳴瀬家の家の前。

 それは分かる。


 けれど、マロンが知りたいのはそれではない。


「もとざわ……どこ」


 小さく言った。

 真琴は首をかしげた。


「もとざわ?」


 マロンは口を閉じた。

 言いすぎたかもしれない。


 けれど、真琴は深く追及しなかった。


 彩が横から言った。


「マー君、どこか行きたいの?」


 行きたい。

 とても行きたい。


 本沢家へ。

 しーちゃんのところへ。


 でも、それは言えない。


 マロンは必死に考えた。


 本沢家の近くには、公園があった。

 しーちゃんとよく散歩に行った公園。

 颯くんと行ったこともある。


 阿澄さんとしーちゃんと一緒に歩いたこともある。

 公園の近くに行けば、道が分かるかもしれない。


 あの公園なら、マロンは知っている。


 匂いも。

 木も。

 ベンチも。


 砂の場所も。

 しーちゃんがしゃがんで、マロンの頭をよくなでてくれた場所も。


 公園。

 そうだ。

 公園へ行けばいい。


「こうえん」


 マロンは言った。


「こうえん、いきたい」


 彩の顔が明るくなった。


「公園行きたいの?」


 マロンはうなずいた。


「うん」


 真琴は少し考えた。


「そうね。初めてのお散歩だし、近くの公園まで行ってみましょうか」


 近くの公園。

 それが、あの公園かもしれない。

 マロンは期待した。


 心が前へ行く。

 体は真琴の腕の中にあるのに、心だけは走り出していた。


 本沢家へ。

 しーちゃんのところへ。


 もう少し。

 もう少しで分かるかもしれない。


 ■近くの公園


 真琴に抱かれ、彩ちゃんと一緒に歩いて、マロンは公園へ来た。


 けれど、そこはマロンの知っている公園ではなかった。


 入口から違った。

 柵の形も違う。


 木の並びも違う。

 砂場の場所も違う。


 ベンチの色も違う。

 匂いも違う。


 しーちゃんがしゃがんで、マロンの首に抱きついた場所はない。

 颯くんがリードを持って、少し疲れた顔で座ったベンチもない。

 阿澄さんが「帰るよ」と笑っていた道もない。


 ここではない。

 全然違う。


 マロンは真琴さんの腕の中で身を乗り出した。


「ここじゃない」


 真琴が瞬いた。


「ここじゃない?」


「ちがう」


「違う公園がよかったの?」


 マロンはうなずいた。


「ちがう、こうえん」


 彩が不思議そうに首をかしげた。


「どこの公園?」


 それが分からない。

 マロンは答えられなかった。


 犬だった頃、公園の名前なんて知らなかった。

 匂いで覚えていた。

 道で覚えていた。


 しーちゃんの足音で覚えていた。

 颯くんの歩く速さで覚えていた。

 阿澄さんが立ち止まる場所で覚えていた。


 でも、公園の名前は知らない。


 人間は、場所に名前をつける。

 犬は、匂いと道と気配で覚える。


 その違いが、今になって大きな壁になった。


「えっと……中央公園じゃなくて?」


 彩が言った。

 マロンは分からなかった。


「それとも、城下公園?」


 分からない。


「犬守南公園?」


 分からない。


「小さい方の公園かな?」


 分からない。

 全部、分からない。


 公園は公園だ。


 けれど、マロンの知っている公園は、名前ではなく匂いでできていた。


 木の根元の匂い。

 雨の日の土の匂い。


 しーちゃんの靴の匂い。

 颯くんの手の匂い。

 阿澄さんの服の匂い。


 その全部で、あの公園だった。


 でも、それをどう言えばいいのか分からない。


「どんな公園なの?」


 真琴が優しく聞いた。

 マロンは必死に思い出した。


「き……」


「木?」


「うん。き、ある」


 真琴と彩が、周りを見た。

 公園には木がある。


 この公園にもある。


「すな……ある」


「砂場?」


 彩が言った。

 この公園にも砂場はある。


「べんち……」


「ベンチもあるわね」


 真琴が困ったように微笑んだ。


 木。

 砂場。

 ベンチ。


 それだけでは、公園は分からないらしい。


 マロンはさらに考えた。


 しーちゃん。

 そこにしーちゃんがいた。

 そう言えればいいのかもしれない。


 でも、しーちゃんのことを言うと、また聞かれる。


 しーちゃんとは誰か。

 どうして知っているのか。

 どうして会いたいのか。


 答えられない。


 マロンは口を閉じた。

 真琴は、少し心配そうにマロンを見た。


「今日は初めてのお散歩だから、少し疲れたかもしれないわね」


「ちがう」


 疲れたのではない。

 違う公園なのだ。


 ここでは、本沢家へ帰る道が分からないのだ。


 でも、うまく言えない。

 彩がマロンの顔をのぞきこんだ。


「マー君、ここの公園嫌?」


「いや、じゃない」


 嫌ではない。

 この公園が悪いわけではない。


 木もある。

 砂場もある。

 ベンチもある。


 子どももいる。

 でも、違う。


 マロンの知っている公園ではない。


「ここ、ちがう」


 マロンはもう一度言った。

 真琴は、そっとマロンの背中をなでた。


「そっか。違うのね」


 その声は優しかった。

 でも、分かってはいない。


 マロンも、それは分かった。

 分かってもらえないのは、真琴さんが悪いからではない。


 マロンが説明できないからだ。


 名前を知らない。

 道を知らない。

 匂いもよく分からない。


 人間の言葉も足りない。

 外に出れば分かると思っていた。


 でも、分からなかった。


 公園へ行けば分かると思っていた。

 でも、違う公園だった。


 マロンは、小さく息を吐いた。

 散歩は、思っていたより難しい。


 本沢家は、思っていたより遠い。


 ■鳴瀬家への帰り道


 初めての散歩は、そこで終わることになった。

 真琴は、マロンが疲れたと思ったらしい。


 たしかに少し疲れていた。


 外は広かった。

 音も多かった。


 匂いも多いのに、犬だった頃のようには分からない。


 人も歩いていた。

 車も通っていた。


 知らない家も、知らない塀も、知らない曲がり角もあった。

 マロンは、ずっとあたりを見ていた。


 でも、本沢家につながる道は見つからなかった。

 彩は横を歩きながら言った。


「また別の公園行ってみようね」


「べつ……」


「うん。この辺、公園いくつかあるから」


 いくつかある。


 公園は、いくつもあるらしい。


 マロンは困った。

 自分の知っている公園が、その中のどれなのか分からない。


 名前も知らない。

 場所も説明できない。

 匂いも追えない。


 これは大変だった。

 非常に大変だった。


 鳴瀬家の玄関が見えた。


 マロンは、そこだけは分かった。

 帰ってきた。

 鳴瀬家には帰ってこられた。


 玄関までの道順も、少し覚えた。


 でも、本沢家へは帰れなかった。


 ■鳴瀬家・真尋の部屋


 部屋へ戻されると、マロンは上着を脱がされた。

 帽子も取られた。

 靴も脱がされた。


 外へ出るためのものが、ひとつずつ外されていく。


 上着。

 帽子。

 靴。


 これがあれば外へ出られる。


 それは分かった。


 でも、外へ出ても本沢家には帰れなかった。

 マロンは、ベビーベッドの中で横になった。


 疲れていた。


 けれど、眠る前に考えなければならなかった。

 外に出れば、すぐ分かると思っていた。


 本沢家の匂いも、道も、公園も、きっと見つけられると思っていた。

 でも、分からなかった。


 マロンは、真琴の腕の中で外を見た。

 知らない道ばかりだった。

 公園へ行っても、違った。


 名前を聞かれても、答えられなかった。


 木。

 砂場。

 ベンチ。


 それでは足りなかった。


 家に帰るには、まず家を探さなければならない。

 それは、マロンが思っていたより、ずっと大変なことだった。


「しーちゃん……」


 小さく呼ぶ。


 声は、部屋の中に落ちるだけだった。

 本沢家には届かない。

 公園にも届かない。


 しーちゃんにも届かない。


 でも、マロンは呼んだ。


「まっててね」


 今日は帰れなかった。

 外に出ても、道は分からなかった。

 も、外へは出られた。


 公園にも行けた。

 違う公園だったけれど、公園まで行けた。


 だから、全部が失敗ではない。


 マロンは短くなった髪をそっと押さえた。

 もふもふは少ない。


 体は小さい。

 鼻は頼りない。

 言葉も足りない。


 けれど、諦めるわけにはいかない。


 本沢家は、どこかにある。


 颯くんがいる。

 阿澄さんがいる。

 しーちゃんがいる。


 マロンは、必ず探す。


 そう決めたところで、まぶたが重くなってきた。

 人間の小さい体は、やはりすぐ眠くなる。

 マロンは眠気に逆らおうとした。


 まだ考えなければならない。


 どの公園なのか。

 どうやって探せばいいのか。

 どうすれば、しーちゃんのいる家へ帰れるのか。


 けれど、体は言うことを聞かない。

 こくり、と頭が揺れる。


 マロンは小さく丸くなった。


 颯くん。

 阿澄さん。

 しーちゃん。


 待っていてください。


 家は、まだ見つかりませんでした。

 でも、マロンは外へ出ました。

 次は、ちゃんと探します。


 そう思いながら、マロンは眠った。

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