第4話 マロンはお見送りしたい
翌日ももちろん、マロンはまだ本沢家に帰れていなかった。
とても大きな問題だった。
けれど、今日は希望があった。
お見送り。
昨日、彩がランドセルを見せてくれたおかげで、マロンは思い出したのだ。
しーちゃんも、毎朝ランドセルを背負って玄関へ行っていた。
阿澄さんは「忘れ物ない?」と声をかけていた。 マロンも、いつも玄関までついていった。
つまり、学校へ行く子を見送る時、人間は玄関へ行く。
彩も学校へ行く。
ならば、彩を見送ればいい。
お見送りしたい。そう言えば、玄関へ連れて行ってもらえるかもしれない。
これは脱走ではない。
見送りである。
とても自然だ。
問題は、その言葉を言えるかどうかだった。昨夜、マロンは何度も目を覚ました。
人間の小さい体はすぐ眠くなる。
眠ってしまう。
けれど、少しするとまた目が覚める。
そのたびに、マロンは思い出した。
お見送り。
お見送りしたい。
明日の朝、言わなければならない。
マロンは布団の中で、小さく口を動かした。
「お……」
「み……」
「お……み……」
ここまでは言える。
けれど、その先が難しい。
「おく……」
口が止まる。
舌がうまく動かない。
「お……く……り」
少しだけ言えた。
マロンは眠たい目をこすりながら、もう一度練習した。
「お……み……おく……り」
お見送り。
これを言う。
彩が学校へ行く前に言う。
そうすれば、玄関へ行けるかもしれない。
マロンは、誰にも聞こえないくらい小さな声で、何度も何度も練習した。
「お……み……」
「おみ……おく……」
「お……み……おくり」
途中で眠ってしまった。
それでも、また目が覚めると練習した。
お見送り。
お見送り。
明日の朝、言う。
彩がランドセルを背負ったら言う。
そう決めて、マロンはまた眠った。
そして朝になった。
鳴瀬家の朝は、思っていたより慌ただしかった。マロンは朝食の席に座らされていた。
小さな椅子。
小さなテーブル。
目の前には、やわらかい食べ物が置かれている。 真琴がスプーンを持ち、マロンの様子を見ていた。
「マー君、あーん」
マロンは口を開けた。
もぐ。
やわらかい。
あまり噛まなくてもなくなる。
犬だった頃のごはんとは全然違う。
けれど、今はそれどころではない。
彩がいる。彩は朝食を食べながら、横を見ていた。
椅子の近くには、昨日見せてくれたランドセルが置いてある。
赤みのある、しっかりした鞄。
学校へ行く時に背負うもの。
玄関へ行くための、大事な手がかりだった。
「彩、ちゃんと食べなさい」
真琴が言った。
「食べてるよ」
「そのあと、すぐ学校でしょう」
「うん。近いから大丈夫」
学校は近いらしい。
それは大事な情報だった。
近いなら、彩は朝食を食べたあと、すぐ玄関へ行く。つまり、今言わなければならない。
登校の準備が全部終わってからでは遅いかもしれない。彩がさっと出ていってしまうかもしれない。
玄関へ行く機会を逃すわけにはいかなかった。マロンは、小さな手をぎゅっと握った。
お見送り。
昨夜、何度も練習した言葉。
今なら、言えるはずだ。
「お……」
真琴が気づいた。
「マー君?」
マロンは真剣に口を動かした。
「お……み……」
「おみ?」
彩も顔を上げた。
マロンは、昨夜の練習を思い出す。
お見送り。
お見送りしたい。
玄関へ行くための、大事な言葉。
「お……み……おく……り」
言えた。
たぶん、言えた。
彩は一瞬きょとんとして、それからぱっと顔を輝かせた。
「マー君、私のお見送りしたいの?」
違う。
玄関を確認したいのです。
しかし、それを言うとややこしくなる。
だからマロンは、こくりとうなずいた。
「お……み……おくり」
「ママ! マー君が、私のお見送りしたいって!」
彩は嬉しそうに言った。
真琴も驚いたように目を丸くして、それからやわらかく笑った。
「まあ。昨日より、また少ししゃべれるようになったのね」
違う。
これは成長の発表ではない。
夜に練習した成果である。
マロンはそう思った。
でも、今は訂正しなくていい。
大事なのは、玄関へ行けるかどうかだ。
真琴は彩の皿を見て、それからマロンを見た。
「じゃあ、彩が食べ終わったら、少しだけ玄関まで一緒に行こうか」
玄関。
その言葉を聞いて、マロンは心の中で大きくうなずいた。
成功である。
彩は朝食を食べ終えると、すぐに椅子から降りた。学校が近いからなのか、動きが早い。
ランドセルを背負う。
リボンを少し直す。
真琴がハンカチを確認する。
「彩、ハンカチは?」
「入れた」
「連絡帳は?」
「入れたよ」
「本当に?」
「本当だってば」
彩は少しだけ頬をふくらませた。
しーちゃんも、時々こんな顔をしていた。
忘れ物を聞かれて、少しむくれる。
けれど、阿澄さんが確認すると、だいたい何か一つ足りない。マロンはそのたびに、床に落ちている給食袋やハンカチを見つけて知らせた。
今のマロンには、それができない。
けれど、見送りならできる。
真琴がマロンを抱き上げた。
「じゃあ、マー君も一緒に行こうね」
マロンは抵抗しなかった。
今日は抱っこされることにも意味がある。
自分で歩くと遅い。
途中で見つかって戻される。
抱っこなら、確実に玄関まで行ける。
真琴に抱かれながら、マロンは目を大きく開けた。
覚えなければならない。
玄関までの道を。
部屋を出る。
廊下。
少し進む。
曲がり角。
階段の横。
長い廊下。
知らない部屋の前。
大きな花瓶。
また曲がる。
マロンは必死に景色を覚えようとした。
右。
長い廊下。
花瓶。
曲がる。
鳴瀬家は、やはり広すぎる。本沢家なら、リビングから少し進めば玄関だった。
こんなに曲がらなかった。
こんなに扉もなかった。
けれど、今日は違う。
今日は真琴に抱かれている。
だから、途中で捕まる心配はない。
そもそも、もう捕まっているとも言える。
マロンは少し考えて、そこは考えないことにした。
やがて、空気が変わった。
外の匂いが、ほんの少しだけした。
昨日までは分からなかった匂い。
薄いけれど、確かに外の匂いだった。
マロンは目を見開いた。
玄関だ。
そこは広い場所だった。
靴が並んでいる。
彩の小さな靴。
真琴の靴。
祖父の大きな靴。
傘立て。
外へ続く扉。
ここだ。ここが鳴瀬家の玄関だ。
マロンはようやく、出口を見つけた。
「じゃあ、行ってきます」
彩が靴を履く。
ランドセルが揺れる。
その姿が、しーちゃんと重なった。
しーちゃんも、こうして学校へ行っていた。小さな背中に、少し大きなランドセルを背負って。
マロンは、彩を見た。
彩はしーちゃんではない。
でも、同じくらい小さい子だ。
学校へ行くなら、見送るべきだ。
マロンは真琴の腕の中から、手を伸ばした。
「お……」
彩が振り向く。
「マー君?」
「お……て……」
いってらっしゃい。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
彩はにこにこ笑った。
「うん。行ってくるね、マー君」
違う。
まだちゃんと言えていない。
けれど、彩は分かってくれたらしい。
人間の家族は、やはり少し言葉に甘い。
真琴が玄関の扉を開けた。
その瞬間、冷たい空気が入ってきた。
マロンは固まった。
寒い。
とても寒い。
思わず体が縮こまった。
外は、こんなに寒かっただろうか。
犬だった頃は、寒い日でも外へ出られた。
雨の日でも、雪の日でも、散歩は好きだった。
風が吹いても、毛があった。首まわりにはふわふわの毛があり、体にも毛があり、しっぽにも毛があった。
けれど、今は違う。
マロンには毛がない。
頭には少しある。
けれど、体にはほとんどない。腕も、足も、首も、頼りない布に包まれているだけだった。
肌着。
ベビー服。
それを着ていることは分かる。
真琴がちゃんと着せてくれた。
でも、それでも寒い。
犬だった頃の毛とは、まったく違う。
このまま外へ出たら、どうなるのだろう。
凍えてしまうかもしれない。
いや、今すぐではないかもしれない。でも、少なくとも、散歩のようには歩けない。
本沢家まで行くどころではない。
マロンは大きな問題に気づいた。
外へ出るには、玄関だけでは足りない。
服がいる。
もっとあたたかい服がいる。
たぶん靴もいる。
帽子もいるかもしれない。
人間は、外へ出るだけでも準備が多すぎる。
彩は元気に手を振った。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
真琴が答える。
マロンも、手を動かそうとした。
尻尾はない。
だから手を振るしかない。
マロンは小さな手を少しだけ動かした。
彩はそれを見て、また嬉しそうに笑った。
「マー君、また帰ったら遊ぼうね!」
玄関の扉が閉まる。
冷たい空気が途切れる。
部屋の中のあたたかさが戻ってくる。
マロンは、ほっとした。
そして、深く困った。
玄関は分かった。
外も少し見た。
これは大きな前進だ。
けれど、外は寒かった。
自分には毛がなかった。
歩くのも遅い。
言葉もまだ足りない。
今は柵もある。
そして、服と靴が必要らしい。
本沢家は、まだ遠い。
とても遠い。
でも、マロンは諦めなかった。
今日、玄関は分かった。
なら、次は外へ出る準備を覚えればいい。
服。
靴。
寒さ。
手を振る方法。
いってらっしゃいの言い方。
覚えることは増えた。
マロンは真琴の腕の中で、小さな手を握った。
颯くん。
阿澄さん。
しーちゃん。
待っていてください。
今日は、玄関を見つけました。
外は寒かったです。
毛がないのは、とても困ります。
でも、明日こそは。
明日こそは、もっと家に近づきます。
そう思ったマロンは、真琴に抱かれたまま、玄関の場所を忘れないように、何度も何度も心の中で道順を繰り返した。




