第3話 マロンは手がかりを見つけたい
翌日も、マロンはまだ本沢家に帰れていなかった。
しかも、昨日より状況は悪くなっていた。
マロンは、新しいベビーベッドの中にいた。
高い柵がある。
右を見ても、左を見ても、柵。
上を見ても、高い。
床は見える。
廊下へ続く扉も見える。
けれど、そこへ行けない。
つまり、マロンは閉じ込められている。
もちろん、真琴に悪気はない。
真琴はマロンが転ばないように、危なくないように、ここへ入れてくれている。
それは分かっている。
分かっているが、困る。
とても困る。
これでは玄関へ行けない。
玄関へ行けなければ、外へ出る方法も分からない。
外へ出る方法が分からなければ、本沢家へ帰れない。
マロンは柵につかまって立ち上がった。
まずは、柵を越えられるか確認する。
手をかける。
足を上げる。
「ん……」
上がらない。
足が短い。
体が重い。
頭も重い。
マロンはもう一度挑戦した。
手で柵を握る。
体を持ち上げる。
足をかけようとする。
「んん……」
やはり上がらない。
犬だった頃なら、もっと体を使えた。
前足で押して、後ろ足で蹴って、体をぐっと伸ばせた。
今の体は、それができない。
しかも尻尾がない。
体を支えるものが少なすぎる。
マロンは柵から手を離し、ぽすんと座った。
柵を越えるのは、まだ無理。
ならば、誰かに出してもらうしかない。
だが、出してもらってもすぐ抱き上げられる。
廊下を歩けば見つかる。
庭の方へ行こうとすれば止められる。
玄関を探していると言いたくても、うまく言えない。
つまり、言葉が必要だった。
マロンは、口を動かした。
「げ……」
玄関。
「げん……」
少し難しい。
「げん、か……」
言えそうで、言えない。
マロンは眉を寄せた。
玄関という言葉が言えても、それだけでは足りないかもしれない。
玄関へ行きたい、と言わなければならない。
「げんかん、いく」
小さく言ってみる。
しかし、それを言ったらどうなるだろう。
真琴はきっと首をかしげる。
彩は「玄関で遊びたいの?」と言うかもしれない。
お手伝いの人は「危ないですよ」と言うかもしれない。
そして、玄関へは連れて行ってもらえないかもしれない。
違う言い方が必要だ。
玄関へ行く理由。
人間が、小さい子を玄関へ連れて行ってもいいと思う理由。
それを見つけなければならない。
マロンは真剣に考えた。
犬だった頃、本沢家で玄関へ行く時はどんな時だっただろう。
颯くんが帰ってくる時。
阿澄さんが買い物へ行く時。
しーちゃんが学校へ行く時。
宅配の人が来た時。
散歩へ行く時。
誰かを見送る時。
誰かを迎える時。
たくさんある。
でも、今のマロンは一歳くらいの子どもだ。
散歩へ行きたいと言っても、一人では出してもらえない。
宅配の人が来るかどうかは、マロンには分からない。
颯くんはここには帰ってこない。
阿澄さんもしーちゃんも、ここにはいない。
ならば、どうすればいいのか。
マロンは柵の中で、じっと考え続けた。
考え続けているうちに、彩の声がした。
「マー君、見て見て」
部屋の入口から、彩が顔を出していた。
彩は一度、隣の部屋へ走っていった。
何をしに行ったのだろう。
マロンが柵の中から見ていると、彩はすぐに戻ってきた。
大きな鞄を抱えている。
赤みのある、しっかりした形の鞄だった。
彩はそれを両手で持ち上げて、マロンによく見えるようにした。
「これ、私のランドセル」
ランドセル。
マロンは、その言葉を知っていた。
「私、毎日学校にいってるんだよ」
彩は得意そうに言った。
それから、くるりと後ろを向き、ランドセルを背負ってみせた。
「ほら。こうやって背負うの」
マロンは、柵を握ったまま目を丸くした。
しーちゃんも、同じようにランドセルを背負っていた。
まだ体に比べて少し大きく見えるランドセルを背負って、黄色い帽子をかぶって、給食袋を持って、玄関から出ていった。
阿澄さんはいつも「忘れ物ない?」と声をかけていた。
マロンも、いつも玄関までついていった。
学校。
ランドセル。
玄関。
見送り。
その言葉が、マロンの中でつながった。
そうだ。
しーちゃんが学校へ行く時、阿澄さんはいつも玄関まで見送っていた。
マロンも一緒に見送っていた。
学校へ行く子を見送る時、人間は玄関へ行く。
彩も学校へ行く。
ならば、彩を見送ると言えばいい。
お見送りしたい。
そう言えば、玄関へ連れて行ってもらえるかもしれない。
マロンは、小さな手で柵をぎゅっと握った。
見つけた。
玄関へ行く方法を、見つけた。
「マー君?」
彩が不思議そうに首をかしげた。
「ランドセル、気に入った?」
違います。
気に入ったわけではありません。
これは玄関へ行くための大事な手がかりです。
マロンはそう言いたかった。
けれど、まだうまく言えなかった。
だから、黙っておいた。
今はまだ言わない。
明日だ。
彩が学校へ行く朝に言う。
お見送りしたい。
そう言えば、玄関へ行けるかもしれない。
マロンは心の中で何度も繰り返した。
お見送り。
お見送りしたい。
明日、言う。
明日の朝、彩がランドセルを背負ったら言う。
玄関へ行く。
この家の出口を確認する。
外を見る。
そして、いつか本沢家へ帰る。
マロンは柵の中で、まっすぐ彩のランドセルを見つめた。
赤みのある、しっかりした鞄。
しーちゃんのランドセルとは違う。
けれど、それはたしかに、玄関へ続く手がかりだった。
マロンは小さくうなずいた。
明日。
明日、必ず言う。
お見送りしたい、と。




