第2話 マロンは玄関を知らない
翌日、マロンはまだ本沢家に帰れていなかった。
当然だった。
昨日のマロンは、自分の体と部屋を確認するだけで眠ってしまった。
本沢家どころか、鳴瀬家の部屋の外にすら、まともに出られていない。
だから今日は、まずこの家を確認しようと思った。
鳴瀬家。
人間界の神様が言っていた、新しい家。
この家も大切にしなければならない。
それは分かっている。
けれど、マロンには帰らなければならない家がある。
本沢家だ。
颯くんがいる。
阿澄さんがいる。
しーちゃんがいる。
だから、まずはこの家の出口を探さなければならない。
出口。
つまり、玄関である。
人間の家から外へ出る時は、玄関を通る。
これは犬だった頃にも知っていた。
颯くんも、阿澄さんも、しーちゃんも、いつも玄関から出ていった。
玄関さえ見つければ、外へ出る方法が分かる。
外へ出る方法が分かれば、本沢家へ帰る道も探せるかもしれない。
マロンは、そう考えた。
その時、部屋の入口から彩の声がした。
「マー君、起きてる?」
マー君。
マロンは少し首を傾げた。
それは誰のことだろう。
「彩、マー君って?」
真琴が笑いながら聞いた。
「真尋のこと。まひろって言うより、マー君の方が呼びやすいし、かわいいでしょ?」
「そうねえ」
真琴は少し考えてから、マロンを見た。
「じゃあ、ママもマー君って呼ぼうかしら」
マロンは真琴を見た。
マー君。
どうやら、自分のことらしい。
マロン。
真尋。
マー君。
名前が増えている。
人間の家は、名前まで難しい。
けれど、マー君は少しだけマロンに近い気がした。
だから、ひとまず覚えておくことにした。
彩が部屋の外へ出ていく。
真琴も少し目を離した。
今だ。
マロンは、慎重に歩き出した。
一歩。
もう一歩。
よち。
よち。
遅い。
かなり遅い。
犬だった頃のマロンなら、リビングから玄関まで一瞬だった。
しーちゃんが給食袋を忘れて外へ出ても、すぐに追いかけられた。
颯くんが帰ってくる足音がすれば、扉が開く前に玄関で待つこともできた。
けれど、今のマロンは違う。
二本足で立つだけで、体がふらつく。
頭が重い。
体に対して、頭がとても大きい気がする。
一歩進むたびに、頭の重さにつられて、体が右へ左へ揺れた。
少し前に傾けば、そのまま倒れそうになる。
少し後ろに傾けば、お尻から座り込みそうになる。
犬だった頃は、四本の足で体を支えていた。
どっしり立てた。
走る時も、曲がる時も、すぐに踏ん張れた。
それに、尻尾もあった。
嬉しい時に振るだけではない。
走る時も、曲がる時も、体を支えるのに少し役に立っていた気がする。
けれど、今のマロンには尻尾がない。
倒れそうになっても、後ろで支えてくれるものがない。
右に揺れれば右へ。
左に揺れれば左へ。
そのまま体ごと持っていかれそうになる。
尻尾があれば、もう少しうまく歩けるかもしれないのに。
人間の体は、不便だった。
しかも、足元がよく分からない。
マロンだった頃には、肉球があった。
床の硬さも、地面の冷たさも、少し湿っている場所も、肉球で見なくても分かった。
走る時は、その肉球でしっかり床を押せた。
けれど、今のマロンには肉球もない。
足の裏は小さくて、頼りなくて、床に触れているのに、うまく踏ん張れない。
これは困る。
とても困る。
この足では、まだ走れない。
しーちゃんを追いかけることも、颯くんを迎えに行くことも、今のままでは難しい。
だが、確認はしなければならない。
マロンは、よちよちと廊下へ向かった。
鳴瀬家は、広かった。
とても広かった。
本沢家より、ずっと広い。
まず廊下が長い。
曲がり角も多い。
扉もたくさんある。
ということは、部屋が多い。
どこが玄関なのか、まったく分からない。
本沢家なら分かった。
リビングから廊下へ出て、少し進めば玄関だった。
玄関には外の匂いがあった。
颯くんの靴の匂い。
しーちゃんの上履き袋の匂い。
雨の日には、濡れた傘の匂いもした。
けれど、今は違う。
匂いがしなかった。
いや、匂いはする。
でも、薄い。
この鼻では、匂いがよく分からない。
玄関の方向も分からない。
マロンは困った。
家の中なのに、迷子になりそうだった。
「あら、真尋くん」
声がした。
マロンは振り返った。
知らない女の人が立っていた。
鳴瀬家の手伝いをしている人らしい。
「こんなところまで来たの? 危ないですよ」
マロンは固まった。
見つかった。
女の人は優しく笑うと、マロンを抱き上げた。
マロンは抵抗しようとした。
しかし、体が小さい。
足をばたつかせても、ほとんど意味がない。
犬だった頃なら、踏ん張れた。
大きな体で動かなければ、人間も簡単には運べなかった。
けれど今のマロンは、軽い。
すぐに持ち上げられてしまう。
「奥様、真尋くん、廊下の方まで来ていましたよ」
「あら、真尋」
真琴がやって来た。
「探検してたの?」
違います。
玄関を探していたのです。
マロンはそう言いたかった。
「も……」
「ん?」
「も、も……」
「桃? 桃が食べたいの?」
違います。
本沢家です。
マロンは深く困った。
言葉は少し出る。
でも、伝わらない。
真琴はマロンを受け取ると、にこにこしながらリビングへ戻った。
玄関は見つからなかった。
最初の調査は失敗だった。
だが、マロンは諦めなかった。
しばらくして、もう一度廊下へ出た。
今度はさっきと違う方向へ進む。
一歩。
もう一歩。
よち。
よち。
右に曲がる。
壁がある。
左に曲がる。
知らない部屋がある。
少し開いている扉の向こうには、庭が見えた。
外だ。
マロンは目を見開いた。
あそこから出られるかもしれない。
そう思って近づこうとした。
「マー君?」
今度は彩の声だった。
マロンは動きを止めた。
まずい。
また見つかった。
「マー君、そっちはだめだよ」
彩が駆け寄ってくる。
速い。
とても速い。
同じ人間なのに、どうしてこんなに差があるのだろう。
マロンは急いだ。
よち。
よち。
よち。
まったく急げていない。
むしろ急ごうとしたぶん、頭が前に出た。
体が遅れて、足がもつれる。
これは危ない。
かなり危ない。
けれど、止まるわけにはいかない。
彩はすぐに追いついた。
「つかまえた」
抱き上げられた。
まただった。
「マー君、ひとりでどこ行くの?」
マロンは彩を見た。
外です。
できれば本沢家です。
「そ……」
「そ?」
颯くん。
「そ、く……」
「そっち?」
違います。
颯くんです。
「し……」
「し?」
しーちゃん。
「し、し……」
「おトイレ?」
「それとも、静かにしてほしいの?」
違います。
しーちゃんです。
マロンは、また困った。
本沢家も言えない。
颯くんも言えない。
阿澄さんも言えない。
しーちゃんも、まだうまく言えない。
言葉は、思ったより難しかった。
彩はマロンを抱いたまま、リビングへ戻った。
「お母さん、マー君また探検してた」
「真尋、今日はよく動くね」
真琴は笑っていた。
彩も笑っていた。
どうやら二人は、マロンが遊んでいると思っているらしい。
違う。
これは遊びではない。
本沢家へ帰るための調査である。
けれど、説明できない。
説明できないから、戻される。
戻されるから、玄関が分からない。
マロンは真剣に考えた。
外に出たい、と言えばどうなるだろう。
たぶん、真琴は抱き上げる。
彩は「お散歩?」と嬉しそうにする。
そして、お手伝いの人は「危ないですよ」と言って扉を閉める。
つまり、正面からお願いしても駄目だ。
今のマロンは一歳だ。
一歳の子どもが「外に出たい」と言っても、きっと一人では出してもらえない。
それは分かる。
しーちゃんが小さかった頃も、勝手に外へ出ようとすると阿澄さんが慌てていた。
人間の小さい子は、外へ一人で出てはいけない。
それは、マロンも知っている。
だが、今は自分がその小さい子になってしまった。
これは非常に困る。
マロンは、自分の手を見た。
小さい手。
犬だった頃にはなかった手。
これを使えば、いろいろなものを持てるかもしれない。
だが、今はまだ力が弱い。
扉も開けられない。
靴もきちんと履けない。
言葉も足りない。
足も遅い。
頭も重くて、二本足ではすぐにふらつく。
ならば、練習するしかない。
マロンはまず、言葉の練習を始めた。
「も……」
本沢家。
「も……と……」
うまく続かない。
「そ……」
颯くん。
「そ……く……」
違う。
颯くんは、もっとはっきり言わなければならない。
「し……」
しーちゃん。
「し、し……」
何度やっても、途中で口が止まる。
言葉は難しい。
犬だった頃は、吠えるだけでも気持ちは伝わった。
尻尾を振れば、もっと伝わった。
けれど今は、尻尾がない。
吠えることもできない。
だから言葉を覚えなければならない。
次に、歩く練習をした。
一歩。
二歩。
三歩。
ふらつく。
壁に手をつく。
また一歩。
少しだけ進める。
しかし遅い。
とても遅い。
このままでは、玄関どころか廊下の途中で捕まる。
マロンは、床に手をついてみた。
前足、いや手が二つ。
後ろ足、違う、足が二つ。
合わせれば四つ。
犬だった頃、マロンは四本足で歩いていた。
二本足だから遅いのではないか。
四つ使えば、もう少し速く進めるのではないか。
マロンは、誰も見ていないことを確認した。
そして、床に手をついたまま、そろそろと前へ進んだ。
進める。
二本足より、少し速い。
しかも、少し安心する。
頭が重くても、四つで支えれば倒れにくい。
体の重さも分けられる。
これだ。
マロンは目を輝かせた。
やはり、四つ使う方がいい。
人間の体でも、四つで進めば少しは何とかなる。
そう思った時だった。
「真尋?」
真琴の声がした。
マロンは固まった。
見られた。
真琴は一瞬驚いた顔をして、それから少し困ったように微笑んだ。
「そんなところまで行っていたの? 危ないでしょう」
違います。
これは訓練です。
帰るための大切な訓練です。
マロンはそう言いたかった。
しかし、口から出たのは、
「ん……」
だけだった。
真琴はマロンを抱き上げた。
「最近、本当によく動くようになったね。嬉しいけど、目を離すと危ないわね」
危ない。
それは、よくない言葉だった。
しーちゃんが危ないことをしようとした時、阿澄さんはすぐに止めていた。
つまり、人間は危ないと思うと、止める。
マロンは真琴を見上げた。
まさか。
真琴は少し考えるように部屋を見回した。
そして、その日の夕方。
マロンの前に、新しいベビーベッドが運ばれてきた。
高い柵のついた、立派なベビーベッドだった。
柔らかい布団が敷かれている。
玩具も置かれている。
角も丸い。
落ちないように、柵もしっかりしている。
安全そうだった。
とても安全そうだった。
だが、マロンは固まった。
真琴は優しい顔でマロンをそこへ入れた。
「少しの間、ここで遊んでいてね。マー君」
柵。
高い。
向こう側に、床がある。
廊下がある。
扉がある。
玄関へ続くかもしれない道がある。
けれど、マロンは柵の中にいる。
マロンは、そっと柵に手をかけた。
出られない。
右を見た。
出られない。
左を見た。
出られない。
上を見た。
高い。
マロンは愕然とした。
閉じ込められた。
真琴は、マロンを閉じ込めたのだ。
もちろん、真琴に悪気はない。
むしろ心配してくれている。
それは、分かる。
分かるけれど。
これでは、玄関へ行けない。
家の確認もできない。
四つで進む練習も、あまり自由にはできない。
本沢家へ帰る方法も探せない。
マロンは柵の向こうを見つめた。
床がある。
廊下がある。
扉がある。
けれど、そこへ行けない。
どうすれば玄関へ行けるのだろう。
どうすれば外へ出られるのだろう。
どうすれば、本沢家に帰れるのだろう。
マロンは考えなければならなかった。
考えなければならないことは、たくさんあった。
玄関の場所。
柵から出る方法。
歩く練習。
言葉の練習。
颯くん。
阿澄さん。
しーちゃん。
待っていてください。
マロンは必ず帰ります。
そう思ったところで、まぶたが少しずつ重くなってきた。
人間の小さい体は、すぐ眠くなる。
これは本当に困る。
まだ何も考え終わっていない。
まだ玄関も分かっていない。
まだ本沢家へ帰る方法も見つかっていない。
それなのに、眠い。
とても眠い。
マロンは柵を握ったまま、こくりと頭を揺らした。
明日こそ。
明日こそ、玄関へ行く方法を考えます。
そう決めたところで、マロンのまぶたは閉じてしまった。
柵の中で、小さな体がころんと横になる。
玄関のことを考えながら、マロンは眠った。




