第1話 マロンは確認したい
マロンは、目を開けた。
知らない天井だった。
本沢家ではない。
リビングの匂いもしない。阿澄さんの台所の匂いもしない。しーちゃんのランドセルの匂いもしない。
けれど、ここがどこなのかは、ぼんやり分かっていた。
鳴瀬家。
人間界の神様が言っていた、新しい家。
そして今の自分は、鳴瀬真尋という名前らしい。
マロンは、まず状況を確認しようとした。
知らない場所では、まず耳を使う。
小さな音を拾う。誰が近づいているのか、どこで扉が開いたのか、耳で確かめる。
だから、マロンは耳を立てようとした。
けれど、動かなかった。
マロンは驚いて、頭の上を探した。
耳がない。
頭の上に、耳がない。
かなり困った。
慌てて小さな手を動かすと、頭の横に何かがあった。
耳だった。
けれど、とても小さい。
しかも、横についている。
動かそうとしても、ぴくりとも動かない。
これは困る。
かなり困る。
次に、匂いを嗅ごうとした。
鼻を動かす。
けれど、匂いが薄かった。
本沢家なら、颯くんの匂いも、阿澄さんの台所の匂いも、しーちゃんのランドセルの匂いも、すぐに分かった。
なのに今は、知らない布の匂いと、知らない部屋の匂いが少しするだけだった。
鼻も、あまり役に立たない。
マロンはさらに困った。
それから、体を起こそうとした。
前足に力を入れるつもりで、布団を押す。
そこにあったのは、小さな手だった。
手。
指がある。
犬だった頃にはなかったものだ。
マロンは、ぎゅっと握って、また開いた。
不思議だった。
足もあった。
けれど短い。
頼りない。
肉球もない。
床をしっかり踏める気がしない。
それでも、体を起こすことはできた。
立ち上がれるかもしれない。
そう思って、マロンは少し安心した。
嬉しかったので、尻尾を振ろうとした。
ない。
マロンは固まった。
尻尾がない。
嬉しい時、どうすればいいのか。
大丈夫だよ、と伝えたい時、何を動かせばいいのか。
これが人間なのか。
マロンは、ようやくそう思った。
それなら、言葉を使うしかない。
まずは、自分の名前を伝えなければならない。
自分はマロンだ。
そう言わなければならない。
「ま……」
声が出た。
マロンは少し希望を持った。
もう一度、口を動かす。
「ま……ま……」
「真尋?」
女の人の声がした。
すぐに顔が近づいてくる。
この人は、鳴瀬真琴。
真尋の母になる人らしい。
肩にかかるくらいの黒髪が、マロンの顔の近くでふわりと揺れた。毛先だけがやわらかく曲がっていて、光を受けると艶が見える。
大きな目は、深い茶色をしていた。
のぞき込むその目は、少し心配そうで、けれどすぐにやわらかくなる。
阿澄さんとは違う匂い。
本沢家の匂いではない。
でも、抱き上げる手はあたたかかった。
真琴は、マロンの顔をのぞき込んだあと、ぱっと目を輝かせた。
「真尋、今、ママって言った?」
違う。
マロンです。
マロンはそう言いたかった。
「ま……」
「ママ? ママって言ったの?」
真琴は両手で口元を押さえ、今にも泣きそうな顔で喜んでいた。
困った。
かなり違う。
自分は母を呼んだのではない。
マロンと名乗ろうとしたのだ。
しかし、真琴はとても嬉しそうだった。
尻尾があれば、たぶん少し振ってしまったかもしれない。
その時、廊下から小さな足音が近づいてきた。
「お母さん、まひろ起きた?」
部屋に入ってきたのは、小さな女の子だった。マロンよりずっと大きい。
けれど、しーちゃんと同じくらいの年に見える。
この子が、鳴瀬彩。
真尋の姉になる子らしい。
彩は、少し長めの黒髪を揺らしながら部屋へ入ってきた。髪は真琴に似ている気がしたが、動きはもっと忙しい。丸い頬に赤みがあり、大きな目がきらきらしている。
服はきちんとしているのに、本人だけは今にも走り出しそうだった。
彩はマロンを見るなり、ぱっと顔を輝かせた。
「まひろ、おはよう!」
マロンは彩を見た。
近い。
彩はとても近い。
しーちゃんもよく近かったが、彩もかなり近い。
「まひろ、ママって言ったの?」
真琴が嬉しそうに言うと、彩は目を丸くした。
「えっ、じゃあ、お姉ちゃんは? まひろ、お姉ちゃんって言える?」
彩は自分を指差した。
「お、ね、え、ちゃ、ん」
長い。
とても長い。
マロンは少し困った。
しーちゃん、より長い。
「お……」
「お!」
彩が身を乗り出す。
「ね……」
「ね!」
「あ……」
「言えた! お姉ちゃんって言えた!」
言えていない。
マロンはそう思った。
けれど、彩は大喜びだった。
真琴も笑っている。
どうやら、人間の家族は少し言葉に甘いらしい。
声は出る。だが、伝えたいことはほとんど伝わらない。
次は、部屋の確認だった。
ここは、真尋の部屋らしい。
低い棚がある。
柔らかそうな布の箱がある。
木でできた小さな玩具が並んでいる。
犬だった頃のマロンなら、匂いを嗅げばすぐに何のための物か分かった。
けれど今の鼻では、うまく分からない。
木の匂い。
布の匂い。
真琴の匂い。
彩の匂い。
知らない家の匂い。
それらが薄く混ざっているだけだった。
鼻が頼りにならない。
これは大問題だった。
マロンは、布団から少し体を起こした。
部屋の端まで行ってみたい。
窓の位置も確認したい。
扉の向こうも見たい。
だが、体は思ったより重かった。
真琴がマロンを床へ下ろす。
マロンは、慎重に立った。
立てる。
一歩。
進めた。
もう一歩。
また進めた。
歩ける。
ただし、遅い。
犬だった頃の散歩とは比べものにならない。
走ることは、まだできそうにない。
これでは、しーちゃんを追いかけることも、給食袋を届けることも難しい。
訓練が必要だ。
マロンは真剣にそう思った。
「まひろ、歩くの上手!」
彩が手を叩いた。
違う。
これは上手ではない。
遅い。
とても遅い。
もっと速くならなければ、本沢家には帰れない。
マロンは部屋の扉を見た。
あの向こうに、廊下があるはずだ。
廊下の先に、玄関があるはずだ。
玄関の先に、外がある。
外のどこかに、本沢家がある。
だから、まずは扉まで行きたい。
マロンは一歩進んだ。
もう一歩進んだ。
けれど、三歩目で体がふらついた。
真琴がすぐに手を伸ばす。
「真尋、無理しないの」
抱き上げられた。
マロンは少し困った。
まだ確認が終わっていない。
この部屋の出口も、外の方向も、何も分かっていない。
けれど、抱き上げられると、体が少し楽になった。
眠い。
マロンは驚いた。
まだ何もしていない。
名前も言えていない。
部屋も全部見ていない。
歩く確認も少ししかできていない。
それなのに、眠い。
その時、廊下の方から大きな声がした。
「真尋は起きておるか!」
やって来たのは、真尋の祖父だった。
近所では大旦那様と呼ばれているらしい。
祖父はマロンを見るなり、顔を崩して近づいてきた。
「おお、真尋。起きておったか」
そう言って、マロンを抱き上げる。
マロンは抵抗しようとした。
しかし、体が小さい。
すぐに抱えられてしまった。
「今日も元気そうだな」
祖父は嬉しそうに頬ずりしてきた。
近い。
とても近い。
そして、頬に何かが触れた。
ぺろり、というほどではない。
けれど、ほとんど舐められたようなものだった。
マロンは祖父を見た。
犬みたいな人だ、と思った。
マロンも、犬だった頃はよく颯くんやしーちゃんの手を舐めていた。
大丈夫だよ。
好きだよ。
そばにいるよ。
そう伝えるためだった。
舐められる側は、こういう感じなのか。
マロンは、ひとつ賢くなった。
「あなた、真尋を驚かせないでください」
もう一人、部屋に入ってきた。
小柄で、背筋の伸びた女の人だった。
短く整えた白髪はきれいで、目は細く、少し鋭い。
この人は、鳴瀬昭恵。
真尋の祖母になる人らしい。
昭恵は祖父をたしなめるように見たあと、マロンへ視線を移した。
その瞬間、目の奥が少しやわらかくなった。
「真尋、怖かったでしょう」
昭恵の手が、マロンの頬にそっと触れた。
少しかたい手だった。
でも、あたたかかった。
鳴瀬家は、にぎやかだった。
真琴は優しい。
彩は近い。
祖父は犬みたいだ。
祖母は少し怖いけれど、手はあたたかい。
ここにも家族がいる。
それは分かった。
この家も、大切にしなければならない。
神様もそう言っていた。
けれど、マロンには帰らなければならない家がある。
本沢家。
颯くんがいる。
阿澄さんがいる。
しーちゃんがいる。
マロンは祖父の腕の中から、部屋の扉を見た。
今日は、あの扉の向こうへ行くのは難しそうだった。
体が重い。
まぶたも重い。
人間の一歳の体は、思っていたよりずっと不便だった。
今の自分は、少しだけ喋れる。
少しだけ歩ける。
でも、まだ走れない。
まだ説明もできない。
まだ、自分の部屋の外を確認することもできない。
ならば、訓練が必要だ。
言葉の訓練。
歩く訓練。
起きている訓練。
そして、いつか本沢家へ帰る訓練。
マロンは、小さな手を握った。
颯くん。
阿澄さん。
しーちゃん。
待っていてください。
今日は、少し体を確認しました。
明日は、もっと確認します。
そして、明日は必ず――
そこまで考えたところで、まぶたが重くなった。
マロンは驚いた。
まだ何も終わっていない。
耳も動かない。
鼻もあまり効かない。
尻尾もない。
部屋の外も見ていない。
それなのに、体が勝手に眠ろうとしている。
違います。
まだ寝る時間ではありません。
確認が終わっていません。
本沢家へ帰る準備もできていません。
マロンは必死に目を開けようとした。
けれど、一歳の体は、マロンの決意よりもずっと正直だった。
真琴の腕の中はあたたかい。
部屋の声が、少しずつ遠くなる。
「真尋、眠くなっちゃったの?」
真琴の声がした。
違います。
眠くなったのではありません。
確認の途中です。
マロンはそう言いたかった。
けれど、出たのは小さな息だけだった。
明日。
明日、必ず確認します。
明日、必ず本沢家へ戻る方法を探します。
颯くん。
阿澄さん。
しーちゃん。
待っていてください。
明日は、必ず戻ります。
そう思いながら、マロンは真琴の腕の中で眠ってしまった。




