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マロンはもう一度、家に帰りたい  作者: 本沢マロン
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プロローグ4 もう一度、家に帰りたい

「犬でも、あの家には戻れない。猫にもなれない」


 マロンは小さく言った。


「でも、本沢家には帰りたいです」


 白い場所には、水面の向こうで泣いているしーちゃんの姿だけが、静かに揺れていた。


 犬神様は、しばらく黙ってマロンを見ていた。


 人間界の神様も、もう笑っていなかった。


「マロン」

「はい」


「お前は、もう十分に尽くした」

 犬神様の声は、静かだった。


「これから先の犬生では、楽に暮らす道も選べる。よい家に迎えられ、食べ物に困らず、ただ愛されて眠るだけの生もある」


 マロンは犬神様を見上げた。


「それでも、まだ苦労する道を選ぶのか」


 人間界の神様も、今度は軽い調子では言わなかった。


「本沢家へ戻る道は、たぶん楽じゃないよ。犬にも猫にもなれないなら、君が思っているより、ずっと大変な道になる」


 マロンは、水面の向こうを見た。


 しーちゃんが、マロンの写真を抱きしめている。

 颯くんが、何も言わずに座っている。

 阿澄さんが、口元を押さえている。


「なぜ、そこまで帰りたい」

 犬神様が問う。


 マロンは、少しだけ水面に近づいた。


「役に立ちたいんです」

 マロンは言った。


「助けになりたいんです」


 犬神様は黙っていた。

 人間界の神様も、何も言わなかった。


「本沢家は、私の大切な家族なんです」

 マロンは、水面の向こうの颯くんを見た。


「颯くんとは、十五年間ずっと一緒でした。私が子犬だった頃から、颯くんがまだ大人ではなかった頃から、ずっとそばにいました」


 颯くんが大人になった。

 阿澄さんが来た。

 しーちゃんが生まれた。

 その全部を、マロンは見ていた。


「颯くんは、まだ時々心が迷子になります。」


 マロンは言った。


「阿澄さんは、まだ忙しそうです。しーちゃんは、まだ小さいです」


 楽に暮らす。

 おいしいものを食べる。

 あたたかいところで眠る。


 きっと、それは幸せなことなのだろう。


 でも。


「私が楽をして、おいしいものを食べて、ふかふかの場所で眠っていても、きっと本沢家の皆のことが心配で、それどころではありません」


 マロンは犬神様を見上げた。


 その声は小さかった。

 けれど、迷いはなかった。


「私は、まだ本沢家に必要だと思うんです。支えたいんです。助けたいんです。ずっと一緒にいたいんです。あの家で、颯くんと、阿澄さんと、しーちゃんのそばにいたいんです」


 マロンは、頭を下げた。


「だから、お願いします」


 白い空間が、静かになった。

 犬神様は、マロンを見ていた。

 長い間、何も言わなかった。


 やがて、犬神様は目を細め、少しだけ上を向いた。


 遠い昔を見るような顔だった。

「……思い出した」


 犬神様は、静かに言った。

 マロンは顔を上げた。


「我にも、かつて飼い犬であった頃があった」


「犬神様も、犬だったのですか」


「そうだ」

 犬神様の声は、どこか遠かった。


「大切な主人の足音を待ったことがある。帰ってきた手に、喜んで鼻先を押しつけたこともある。泣いている者のそばに座り、どうにかしてやりたいと思ったこともある。」


 犬神様は、水面の向こうに映る本沢家を見た。


「お前は、我にあの時の気持ちを思い出させてくれた」


 マロンは黙って犬神様を見上げた。


「感謝しよう。マロン」


「感謝、ですか?」


「そうだ」

 犬神様は、ゆっくりとうなずいた。


「そして、お前が十五年、本沢家で精一杯生きたこと。人の子を見守り、人の親を支え、人の家を守ろうとしたこと。その生き様への褒美として――」


 犬神様は、人間界の神様へ目を向けた。


「人間界の神よ」

「うん」


「この者の望みを、叶えてやろうではないか」


 人間界の神様は、マロンを見た。

 さっきまでの軽い笑みではなかった。


 少し困ったようで、けれど、どこか優しい顔だった。


「……そうだね」

 人間界の神様は、小さくうなずいた。


「僕も、少し感動したよ。マロン」

 マロンは、息をのんだ。


「帰れますか?」

「道は作る」

 人間界の神様は言った。


「ただし」


 犬神様も、人間界の神様も、同時にマロンを見た。


「条件がある」

「どんな条件でも、守ります」


 マロンはすぐに言った。

 人間界の神様が苦笑した。


「まだ内容を聞いてないのに即答するところが、もう少し心配だね」


 犬神様も、低く息を吐いた。


「その性分が、問題を呼ぶのだろうな」


 マロンは少し困った。

 真面目に答えただけなのに。


「まず、これは異例の措置だ」


 人間界の神様は言った


「本来なら、犬の魂は犬として巡る。犬神様の領分だからね。けれど、君は犬として本沢家に戻れない。猫になる道も、犬神様の管轄ではない」


 マロンは黙って聞いていた。


 犬にはなれる。

 でも、本沢家の犬にはなれない。


 猫には、なれない。

 それでも、本沢家には帰りたい。


「そうなると、残る道は限られる」


 人間界の神様は、少しだけ真面目な顔になった。


「本沢家へ近づける形で、君を送り出すなら……もう、人間しかない」


「人間に」


 マロンは、その言葉を繰り返した。

 人間。


 颯くんや阿澄さんやしーちゃんと同じもの。


 言葉が使える。

 手がある。

 文字も、いつか読めるようになるかもしれない。


 けれど、犬ではなくなる。

 マロンは少しだけ戸惑った。


 それでも、水面の向こうには本沢家があった。


「人間になれば、本沢家へ行けますか」


「道はあるよ」

 人間界の神様は言った。


「ただし、君が思っているより、ずっと遠い道になる」


「遠くても、行きます」

「本当にいいんだね?」


「はい」

 マロンはうなずいた。


「その道が本沢家に続いているなら、行きます」


 人間界の神様は、少しだけ目を細めた。


「人間になったら、犬だった頃とは違う。君は新しい家の子として暮らすことになる。そこにも家族がいる。君を大切にする人たちがいる。その人生を粗末にはできない」


「はい」


「本沢家へ帰りたいからといって、新しい家をないがしろにしてはいけない」


「はい」

 マロンは、まっすぐ答えた。


「その家も大切にします。でも、私は本沢家にも帰りたいです」

 犬神様は、静かにマロンを見ていた。


「人間への転生は、人間界の神の領分だ」

 犬神様は言った。


「我はお前を見届け、推薦し、監督する。だが、人の器にお前を移すことは、我だけではできぬ」


「だから僕の出番というわけだね」

 人間界の神様は、軽く肩をすくめた。


「ただし、器はどこでもいいわけじゃない」


 人間界の神様が、白い空間に指を滑らせた。


 水面とは別の光が、いくつも浮かんでは消えていく。


「まず、すでに自我がはっきり固まった人間には入れない。それは乗っ取りだからね」


 乗っ取り。

 よく分からないが、悪いことらしい。


 マロンはうなずいた。

 悪いことはしない。


「だから、まだ自我が固まりきっていない幼い子でなければならない」


「幼い子」


「一歳ほどの子なら、器として選べる場合がある」


 マロンは、しーちゃんが小さかった頃を思い出した。一歳の頃のしーちゃんは、歩けるようになっていた。


 けれど、すぐ転んだ。

 言葉も少しは出た。


 でも、言いたいことを全部伝えることはできなかった。


 阿澄さんに抱き上げられて、よく泣いていた。


「一歳なら、少しは歩ける。言葉もいくつかうまく出るかもしれない」


 人間界の神様が説明した。


「でも、本沢家へ行きたいと説明できるほどではないし、一人で外へ出られるほどでもない。君が思っているより、ずっと不自由だよ」


 マロンは固まった。

 それは困る。


 歩けるのに、自由には歩けない。

 喋れるのに、ちゃんとは伝えられない。


 それでは、本沢家へ戻るのはとても難しい。


「一歳の子になれば、お前が世話をするのではない」


 犬神様も言った。


「お前が世話をされるのだ」


 マロンは、水面の向こうに映る本沢家を見た。


 写真の前で泣いているしーちゃん。

 しーちゃんの肩に手を置いている阿澄さん。

 何も言わずに、マロンの写真を見つめている颯くん。


 あの颯くんの顔を、マロンは知っている。

 迷子になりそうな顔だ。


 マロンは、急いで本沢家へ帰らなければならない。


 一歳の体で、うまく歩けなくても、言葉が足りなくても、すぐには役に立てなくても。


 それでも、帰る道があるのなら、そこへ行きたい、行かなくてはならない。


「行きます」

 マロンは言った。


「私は、家に帰りたいです」



「マロン、それなら、約束が二つある」

 人間界の神様は指を二本立てた。


「ひとつ目は、自分がマロンだと、人間に決して言ってはいけない」


 マロンは驚いた。


「言ってはいけないのですか?」


「言ってはいけない。死んだ犬が人間になって戻ってきました、なんて言ったら大騒ぎになる。人間界は、そういうことにあまり強くない」


 人間は弱い。

 マロンは少し納得した。

 颯くんも、時々とても弱い。


「それともう一つ、人間界で大きな問題を起こしたら、その時は即座に戻ってきてもらう」


 戻る。

 それは、本沢家へではないらしい。


「その時は、今度こそこちらで残りの犬生を過ごしてもらうからね」

 それは困る。

 マロンは真剣にうなずいた。


「問題は起こしません」

 犬神様は、少しだけ目を細めた。


「その顔は、問題を起こす顔だな」

「起こしません」

 マロンは言った。


「家に帰りたいだけです」

「それが問題になりやすいのだ」

 犬神様はため息をついた。


 人間界の神様は、白い空間に浮かぶ光をひとつずつ見ていた。


「本沢家に近くて、まだ自我が固まりきっていない幼い子。家族に受け入れられていて、君の魂が入っても壊れない器。条件に合う場所は、そう多くない」


 マロンは、息をのんだ。


「本沢家に、一番近い場所はありますか」

「ある」

 人間界の神様は、ひとつの光を指した。


「鳴瀬家でいいかい」

「鳴瀬家?」


「うん。今選べる中では、本沢家に一番近い家だ」


 一番近い。

 その言葉に、マロンは顔を上げた。


「そこにします」

 マロンはすぐに答えた。


 人間界の神様は、また少し困ったように笑った。


「本当に早いね」

「本沢家に一番近いなら、そこでいいです」

 犬神様は、静かにマロンを見ていた。


「そこには五つほど年上の姉もいる」

 人間界の神様は続けた。


「鳴瀬彩。少し過保護だけど、悪い子じゃない。君は鳴瀬家の弟として、大切にされる」


 姉。

 マロンは少し考えた。


 しーちゃんとは違う、知らない女の子。

 けれど、自分を大切にしてくれる子らしい。


「お前は、鳴瀬家の子となる」

 犬神様が言った。


「名も与えられる」


 名前。

 マロンには、もう名前がある。

 マロンだ。


 しーちゃんが何度も呼んでくれた名前だ。

 颯くんがくれた、大切な名前だ。

 人間界の神様は、少し優しい顔をした。


「人間としての名前は、鳴瀬真尋」

「まひろ」


 マロンは、その音を繰り返した。

 マロンとは違う。

 けれど、少しだけ近い気もした。


「真尋として暮らして、真尋として育つ。でも、君の奥にはマロンだったものが残る」

 人間界の神様は言った。


「最初はうまく思い出せないかもしれない。幼い子の体と頭は、まだ小さいからね。成長するにつれて、少しずつ分かってくる。自分が犬だったこと。本沢家へ帰りたいこと。守りたい人たちがいること」


 マロンはうなずいた。


 それでいい。

 少しずつでもいい。

 帰れるなら。


 もう一度、本沢家へ向かえるなら。

 犬神様が、マロンの前へ来た。

 その大きな手が、マロンの頭に触れた。


「行け、マロン」

 犬神様は言った。


「ただし忘れるな。人となっても、お前の根は変わらぬ。守りたいと思う心は、お前の強さだ」


 マロンは犬神様を見上げた。


「だが、守るとは、ただそばにいることだけではない。世話を焼くことだけでもない。それを、人として学んでこい」


 難しい言葉だった。

 でも、犬神様の声はあたたかかった。

 マロンはうなずいた。


 人間界の神様が、ぱちんと指を鳴らした。

 白い場所が、ふわりと揺れた。


 遠くから、知らない女の人の声が聞こえた。


 知らない男の人の声。

 少し年上の女の子の声。

 あたたかい匂い。


 新しい家の匂い。

 マロンは少しだけ不安になった。

 本沢家の匂いではない。


 颯くんの匂いでも、阿澄さんの匂いでも、しーちゃんの匂いでもない。


 でも、その向こうに、まだ道がある気がした。


 いつか、あの家へ帰る道が。


「マロン」

 人間界の神様が呼んだ。


「良い人生を」

 犬神様が静かに告げた。


「行ってこい」


 マロンは目を閉じた。

 家に帰りたい。

 その思いだけを、強く抱いた。


 次に目を開けた時。

 マロンは、小さな布団の上にいた。


 手は小さい。

 足も小さい。

 尻尾はない。

 耳も動かない。


 声を出そうとした。

 わん、とは鳴らなかった。


「……ぁ」


 代わりに出たのは、頼りない声だった。

 マロンは驚いた。

 もう一度、声を出そうとした。


「……ま」


 マロンです、と言いたかった。

 でも、口はうまく動かなかった。


「真尋?」


 知らない女の人が、慌てて顔をのぞき込んだ。


「起きたの? 怖い夢でも見た?」


 女の人は、マロンを――いや、真尋を抱き上げた。


 真尋。

 それが、今の名前らしい。


 マロンは、その腕の中で小さく息を吸った。


 知らない家の匂いがした。

 知らない家族の匂いがした。


 少し離れたところから、女の子の声も聞こえた。


「まひろ、起きたの?」

 知らない声だった。


 けれど、これから姉になる子の声なのだろう。


 マロンは、まだよく分からないまま、小さな手を握った。


 颯くん。

 阿澄さん。

 しーちゃん。


 待っていてください。

 マロンは、もう一度、家に帰ります。

 そう思った。


 けれど、一歳の体はそれ以上何もできなかった。


 真尋は抱きしめられたまま、また眠くなってしまった。


 マロンは、鳴瀬真尋として、もう一度眠った。

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