プロローグ3 犬でも猫でもなく
マロンは、目を開けた。
眠ったはずだった。しーちゃんの声を聞きながら、深い眠気の中へ沈んでいったはずだった。
それなのに、目を開けることができた。
体が軽い。
足も動く。
息を吸うのに、もう力はいらなかった。
マロンは、ゆっくり立ち上がった。
だけど、ここは本沢家ではない。
リビングの匂いがしない。
阿澄さんの台所の匂いもしない。
しーちゃんのランドセルの匂いもしない。
颯くんが帰ってくる玄関の音もしない。
どこまでも白くて、広くて、足元があるのかないのかもよく分からない場所だった。
マロンは、すぐに不安になった。
ここは自分の家ではない。
すぐ帰らなければならない。
そう思って歩き出そうとすると、前の方から声がした。
「やあ、マロン」
マロンは顔を上げた。
そこに、人間が立っていた。
白い服を着ているのに、きちんとしているような、少しだらしないような、不思議な人だった。
顔は優しそうで、目は笑っている。
けれど、その笑い方は颯くんとも阿澄さんとも違った。
「ああ、怖がらなくていいよ」
その人は、にこにこしながら手を振った。
「僕は人間界の神だよ。人の生まれ変わりや、人の世の器を扱っている。ざっくり言うと、人間側の担当だね」
神様。
マロンは首を傾げた。
人間に似ているけれど、人間ではないらしい。
「まずは、お疲れさま」
人間界の神様は、マロンの前にしゃがんだ。
「十五年。ずっと本沢家を支えてくれてありがとう」
ありがとう。
その言葉は、よく知っている。 颯くんも、阿澄さんも、しーちゃんも、よく言ってくれた。
けれど、マロンはいつも少し困る。
マロンは本沢家の犬だった。
颯くんの話を聞くのも、阿澄さんを手伝うのも、しーちゃんを見守るのも、当たり前のことだった。
だから、ありがとうと言われるほどのことをしたつもりはなかった。
「本来、犬としての君に感謝の言葉を贈るのは、僕の役目じゃない。僕は人間界の神だからね」
人間界の神様は、少しだけ表情をやわらげた。
「でも、君は人間の家族を長く支えてくれた。颯太くんも、阿澄さんも、椎菜ちゃんも、君に何度も助けられた。だから、僕からも個人的にお礼を言いたかったんだ」
マロンは、じっと人間界の神様を見た。
言葉が分かる。それどころか、自分の中にあるものが、言葉になりそうな気がする。
犬だった時は、尻尾を振ったり、鼻先を押しつけたり、手を舐めたりすることしかできなかった。
けれど、今は違う。
マロンは、おそるおそる口を開いた。
「……私は、帰らなければなりません」
声が出た。
マロンは少し驚いた。
人間界の神様は、もっと驚いた顔をした。
「おお。喋れたね」
「喋れました」
「うんうん。ここは魂の場所だからね。犬だった君でも、思ったことを言葉にできる」
それは便利だ、とマロンは思った。
本沢家でも使えればよかった。
しーちゃんに「給食袋を忘れています」と言えたし、颯くんに「そんなに迷子にならなくても大丈夫です」と言えた。
「まあまあ、まずは落ち着いて」
人間界の神様は笑った。
「君はもう、ゆっくりしていいんだよ。おいしいものを食べて、ふかふかの場所で寝て、好きなことをしていい。君はそれくらい、ちゃんと働いた」
人間界の神様は、少しだけ声をやわらげた。
「それに、君のお母さんも、きっとこちらにいる。会おうと思えば、会えるよ」
母さん。
マロンは、少しだけ動きを止めた。
会いたい。
そう思った。
けれど、すぐにしーちゃんの泣いていた顔が浮かんだ。
颯くんが夜に黙ってマロンを抱きしめていたことも、阿澄さんが忙しそうに台所を歩いていたことも思い出した。
「母さんには、会いたいです」
マロンは言った。
「でも、帰らなければなりません」
「本沢家に?」
「はい」
マロンはまっすぐ言った。
「颯くんの話を聞きたいです。阿澄さんのお手伝いをしたいです。しーちゃんを見ていたいです。あと、玄関も見ていないといけません」
「玄関?」
「知らない人が来るかもしれません」
「なるほど、番犬意識が強い」
人間界の神様は、少し困ったように頭をかいた。
「まだ、あの家を守りたいの?」
「はい」
「あそこの人たちを手助けしたい?」
「したいです、ずっと!」
マロンは力を込めて答えた。
「犬だった時より、もっとできるなら、もっとしたいです」
「もっと?」
「はい。今みたいに言葉が使えれば、もっと
お世話ができます」
マロンは真剣だった。
犬だった頃は、できないことがたくさんあった。
阿澄さんが高いところのものを取ろうとしていても、マロンには届かなかった。
しーちゃんが宿題で困っていても、答えを教えてあげることはできなかった。
颯くんが難しい顔で紙を見ていても、マロンには文字が読めなかった。
「話せれば、給食袋を忘れていますと言えます。手があれば、もっといろいろ運べます。文字が読めれば、颯くんが困っている紙も見られます」
人間界の神様は、口元を押さえた。
笑っている。
マロンは少しむっとした。
真面目に言っているのに。
その時だった。
「だから言ったであろう」
低く、よく通る声がした。
マロンは振り返った。
そこに、犬の顔をした神様らしい人が立っていた。
体は人のようでもあり、犬のようでもあった。白く立派な毛並みがあり、目は鋭い。けれど、その奥には、年老いた犬のような深い優しさがあった。
マロンは、思わず姿勢を正した。
この方は、きっと犬の神様だ。
「我は犬神。犬として生きた魂を見届ける者だ」
その声を聞いて、マロンはますます背筋を伸ばした。
犬神様。
そう呼ぶべき方なのだと、マロンは思った。
「来るのが早いですね」
人間界の神様が笑った。
「お前が軽々しくこの者に、休めなどと言うからだ」
犬神様は、人間界の神様をじろりと見た。
「この子に、休めと言っても無駄だ。見れば分かる」
「いやあ、本当に言うとは思わないじゃないですか。好きなことをしていいって言ったら、まさか家事と育児と番犬業に戻りたいって言うとは」
「笑うな」
「ごめんごめん。でもこの子、本当に面白いね」
人間界の神様は、肩を震わせながらマロンを見た。
「魂だけになって最初に考えるのが、お世話の能率向上だもんなあ」
犬神様は、マロンに視線を向けた。
「マロン」
「はい」
「お前の言うそれは、本来の犬の務めではない」
マロンは首を傾げた。
「違うのですか?」
「違う」
犬神様はきっぱりと言った。
「犬は人間の世話係ではない。家を守る。そばにいる。帰る場所になる。それは分かる。だが、家事も育児も相談も忘れ物の管理も、すべてお前が背負うものではない」
「でも、しーちゃんは給食袋を忘れます」
「それは椎菜の務めだ」
「阿澄さんは忙しいです」
「それは阿澄が人として向き合うことだ」
「颯くんは夜に迷子になって思い悩みます。」
「それは颯太が、父として夫として、少しずつ道を覚えることだ」
マロンは困った。それでは、自分は何をすればいいのだろう。 何もしなくていいとは思えない。
「それでも、みんなのそばにいたいんです」
マロンは必死だった。
「本沢家は、私の大切な家なんです」
犬神様の目が、わずかに細くなった。
人間界の神様も、笑うのをやめた。
「……そうか」
犬神様は静かに言った。
「お前は、大切な家に帰りたいのだな」
「はい」
マロンは迷わなかった。
「家に帰りたいです」
犬神様は、しばらくマロンを見ていた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「まず、犬として戻る道を探すべきであろうな」
マロンは顔を上げた。
「犬に戻れますか?」
「犬に転生すること自体は難しくない」
犬神様は静かに言った。
「それに、犬としての褒美を与えるのは、我の領分だ」
マロンの胸が、少しだけ明るくなった。
犬に戻れる。
なら、帰れる。
本沢家に帰れる。
そう思った。
「だが」
犬神様は続けた。
「犬として転生できることと、あの家の犬として戻れることは違う」
「違うのですか?」
「違う」
犬神様は重くうなずいた。
「戻るには、迎え入れる家が必要だ。魂だけでは、家には帰れぬ」
人間界の神様が指先で白い空間を軽くなぞった。
すると、何もなかった場所に、薄い水面のようなものが広がった。
揺れる水の向こうに、見覚えのあるリビングが映る。
マロンの寝床。
しーちゃんがよく座っていた床。
颯くんが帰ってくると腰を下ろすソファ。
阿澄さんが台所から顔を出す場所。
マロンの愛する本沢家だった。
「少しだけ、今の様子を見てみよう」
人間界の神様が言った。
水面の向こうで、颯くんが阿澄さんと話していた。
声はかすかにしか聞こえない。
けれど、マロンには分かった。
悲しい匂いがする。
寂しい匂いがする。
しーちゃんは、マロンの写真を抱きしめていた。
「……あれから、もう一週間ほど経っている」
人間界の神様が、静かに言った。
一週間。
マロンには、ついさっき眠ったばかりのように思えた。
けれど、本沢家ではもう七日も過ぎていた。
それなのに、しーちゃんはまだ泣いている。
颯くんも、阿澄さんも、まだ悲しい匂いをしている。
マロンは思わず前へ出た。しーちゃんの側へ行かなければ。泣いているなら、手を舐めて元気づけてあげなければ。
けれど、前足は水面に触れる前に止まった。そこには行けなかった。
「……うん。難しいね」
人間界の神様が言った。
「犬として生まれ変わることはできる。でも、あの家の人たちは、もう君以外の犬を迎えるつもりがないんだ」
「犬を、迎えない」
「うん。もうマロンの代わりはいない。そう皆思っている」
マロンは、しばらく何も言えなかった。
犬にはなれる。
でも、本沢家の犬にはなれない。
それでは、意味がなかった。
「私は、犬に戻りたいのではありません」
マロンは、水面の向こうに映る本沢家を見た。
「本沢家に帰りたいんです。大切な家族の元に帰りたいんです」
颯くんのそばにいたい。
阿澄さんを手伝いたい。
しーちゃんを見ていたい。
あの玄関を守りたい。
それができるなら、姿は犬でなくてもよかった。
「……では」
マロンは、少し考えてから言った。
「猫でもいいです」
人間界の神様が、きょとんとした。
「猫?」
「はい。猫なら、あの家に入れるかもしれません」
「マロンよ」
犬神様が、深いため息をついた。
「我は犬神だ」
「はい」
「猫は、我の管轄ではない」
「管轄が違うのですか」
「違う。猫には猫の神がいる。我は猫にはできぬ」
人間界の神様が、口元を押さえた。
「いやあ、犬神様に猫への転生を頼む犬、初めて見たなあ」
「笑うな」
「ごめんごめん。でも、マロン。猫になったら、たぶん給食袋は届けにくいよ?」
マロンは少し考えた。
猫は小さい。
給食袋をくわえられるか分からない。
しーちゃんが抱きついたら、逃げてしまうかもしれない。
それでも、本沢家に帰れるなら構わなかった。
けれど、猫にもなれないらしい。
マロンは、水面の向こうを見た。
「犬でも、あの家には戻れない。猫にもなれない」
マロンは小さく言った。
「でも、本沢家に帰りたいです」
犬神様は、しばらく黙ってマロンを見ていた。
人間界の神様も、もう笑っていなかった。
白い場所には、水面の向こうで泣いているしーちゃんの姿だけが、静かに揺れていた。




