プロローグ2 マロンが眠った日
その翌朝。
しーちゃんが玄関で「マロン、いってきます」と呼んだ時、マロンは立ち上がるのに、いつもより少しだけ時間がかかった。
前足に力を入れる。
胸を持ち上げる。
よいしょ、と体を起こす。
それだけのことに、少し息が切れた。
マロンは不思議だった。
昨日も、ちゃんとしーちゃんを見送った。
颯くんの話も聞いた。
阿澄さんが落としたハンカチにも気づいた。
それなのに、今日は体が少し重い。
「マロン?」
しーちゃんが玄関から戻ってきた。
黄色い帽子が少し斜めになっている。
ランドセルはまだ大きい。
給食袋は、今日はちゃんと持っている。
「きょうは、おそいね」
しーちゃんが心配そうに顔をのぞき込む。
マロンは尻尾を振った。
大丈夫だよ、という意味だった。
でも、いつもより少しだけ、尻尾の動きも小さかった。
阿澄さんが台所から出てきた。
「マロン、疲れてるのかな」
その声は、いつもの声だった。
けれど、匂いが少し違った。
心配している匂いだった。
「しーちゃん、学校に遅れちゃうよ。マロンに行ってきますして」
「うん」
しーちゃんは、マロンの頭を撫でた。
「マロン、いってきます」
マロンは目を細めた。
いってらっしゃい。
転ばないようにね。
車に気をつけるんだよ。
帽子は少し斜めだけれど、今日はそれで大丈夫。マロンはそう思いながら、しーちゃんの足音が遠ざかるまで耳を澄ませていた。
それからの日々は、少しずつ変わっていった。
散歩の途中で立ち止まることが増えた。
ごはんの匂いがしても、前ほど嬉しくならない日があった。
眠る時間が長くなった。
しーちゃんが帰ってくる時間になっても、玄関まで行くのに時間がかかるようになった。
マロンは急いでいるつもりだった。
でも、足が急いでくれなかった。
阿澄さんは、何度も背中を撫でてくれた。
「マロン、無理しないで」
違うのだ、とマロンは思った。
無理をしているわけではない。
仕事をしているだけなのだ。
しーちゃんを迎える。
阿澄さんを手伝う。
颯くんの話を聞く。
そして、この家を守る。
それは、マロンがずっとしてきた大切なことだった。
ある日、キッチンから阿澄さんの「あ!」という声が聞こえた。
何かを落としたのかもしれない。
見に行かなければ。
マロンは立ち上がろうとした。
けれど、後ろ足に力が入らなかった。
前足で床をかいた。
もう一度、体を起こそうとした。
それでも体は持ち上がらず、マロンはその場に崩れるように伏せてしまった。
「マロン!」
阿澄さんが駆け寄ってきた。
すぐに颯くんへ電話をしていた。
そのあと、マロンは毛布に包まれて、颯くんに抱き上げられた。
マロンは少し困った。
颯くんに抱っこされるのは嫌ではない。
颯くんの匂いは安心する。
けれど、マロンは颯くんを支える側のはずだった。
颯くんに抱えられているのは、少し納得がいかなかった。
「大丈夫だぞ、マロン」
颯くんはそう言った。
その声は、大丈夫ではない時の声だった。
病院の匂いは、あまり好きではなかった。
知らない犬の匂い。
薬の匂い。
緊張した人間の匂い。
マロンは、颯くんの手に鼻先を寄せた。
颯くんの手は、ずっとマロンの頭にあった。
先生は静かな声で話していた。
マロンには、難しい言葉は分からない。
年齢。
体力。
食欲。
無理をさせないで。
穏やかに。
そばにいてあげてください。
そういう言葉だけが、ぽつぽつと聞こえた。
ただ、颯くんの匂いが悲しくなったことは分かった。
阿澄さんの手が、少し冷たくなったことも分かった。
だからマロンは、尻尾を振ろうとした。
大丈夫だよ。
颯くん。
阿澄さん。
マロンは、まだここにいるよ。
けれど、尻尾は少ししか動かなかった。
それから、マロンの寝床はリビングの一番よく見える場所に移された。
「ここなら、みんな見えるでしょ」
阿澄さんがそう言った。
たしかに、そこからなら台所が見えた。
しーちゃんがランドセルを置く場所も見えた。
颯くんが座るソファも近かった。
玄関の音も聞こえた。
マロンは安心した。
ここは、本沢家の真ん中だった。
颯くんが帰ってくる玄関。
阿澄さんが忙しく歩く台所。
しーちゃんがランドセルを放り出すリビング。
夜になると、家族の匂いが集まる場所。
マロンは、この家を守ってきた。
颯くんだけではない。
阿澄さんだけでもない。
しーちゃんだけでもない。
本沢家そのものが、マロンの守る場所だった。
だから、見るだけでは足りなかった。
阿澄さんが忙しそうなら、足元へ行きたい。
しーちゃんが泣いたら、体を寄せたい。
颯くんが黙っていたら、膝に鼻先を乗せたい。
玄関の外で知らない音がしたら、ちゃんと耳を立てたい。けれど、マロンは少しずつベッドから出られなくなっていった。
ごはんの匂いがしても、前ほどお腹が空かなかった。
水を飲むのにも、阿澄さんの手が必要になった。
阿澄さんは無理に食べさせようとはしなかった。
飲みたそうにした時だけ、小さな器を口元へ近づけてくれた。
毛布はいつもあたたかかった。
颯くんは、時々マロンの足先を両手で包んだ。
「冷たいな」
そう言う声が、少し震えていた。
マロンは尻尾を振ろうとした。
大丈夫だよ。
ここにいるよ。
けれど、尻尾はもうほとんど動かなかった。
夜になると、颯くんは毎日のようにマロンのそばへ来た。
前は、少し話して、頭を撫でて、「ありがとう」と言って立ち上がった。
でも最近の颯くんは、なかなか離れない。マロンの首に腕を回して、長い間じっとしている。
何も話さない日もある。
ただ、マロンの毛に顔を埋めて、静かに息をしているだけの日もある。
マロンには分かった。
颯くんは、不安なのだ。
颯くんは大人で、阿澄さんの夫で、しーちゃんの父親だけれど、それでも時々、昔の中学生だった頃みたいに迷子になる。
だからマロンは、まだここにいなければならなかった。
颯くんが帰ってこられる居場所でいなければならなかった。
しーちゃんは、学校から帰ると必ずマロンのところへ来るようになった。
「ただいま、マロン」
小さな手が、マロンの頭を撫でる。
少し力が強い。
でも、その不器用な手がマロンは好きだった。
「きょうね、こくごでね」
しーちゃんは毎日話してくれた。
国語のこと。
給食のこと。
友達のこと。
先生に褒められたこと。
転んだけれど泣かなかったこと。
マロンは黙って聞いた。
まだ聞くことはできる。動けなくても、しーちゃんの声を聞くことはできる。
だから、しーちゃんが話している間は眠らないようにした。
でも、その日。
しーちゃんの声が、途中で小さくなった。
「マロン、ねむいの?」
マロンは目を開けようとした。
しーちゃんの顔が、ぼんやり見えた。
泣きそうな顔だった。
しーちゃんは、まだ小学一年生だ。
夜、一人で眠れない日がある。
牛乳をこぼして、阿澄さんに謝る前に泣いてしまう日がある。
颯くんに注意されると、口をへの字にして、マロンの後ろに隠れようとする日がある。
まだ小さい。
まだ、見ていなければならない。
まだ、守ってあげなければならない。
マロンは、しーちゃんの手を舐めてあげたかった。
大丈夫だよ、と伝えたかった。
でも、体は動かなかった。
その夜、本沢家はとても静かだった。
阿澄さんは台所に立っていたけれど、食器の音はほとんどしなかった。
颯くんは、マロンのそばに座っていた。
しーちゃんは、寝る時間になってもマロンの前から動かなかった。
「しーちゃん、そろそろ寝よう」
阿澄さんが言った。
「やだ」
しーちゃんは首を横に振った。
「マロンのそばにいる」
マロンは困った。
しーちゃんは、ちゃんと寝なければならない。
明日も学校がある。
眠いと、靴を間違えるかもしれない。
給食袋も忘れるかもしれない。
でも、しーちゃんの手はマロンの前足を握ったままだった。
小さな手だった。
あたたかくて、やわらかい手だった。
マロンがずっと見守ってきた手だった。
「マロン」
颯くんが呼んだ。
マロンは、少しだけ目を開けた。
颯くんがいる。
阿澄さんがいる。
しーちゃんがいる。
家族の匂いがした。
颯くんの匂い。
阿澄さんの匂い。
しーちゃんの匂い。
本沢家の匂いだった。
十五年かけて覚えた、マロンの家の匂いだった。
「もう、頑張らなくていい」
颯くんの声が震えていた。
「もう、充分だよ」
充分。
マロンには、やっぱりよく分からなかった。
まだ充分ではない。
颯くんは、まだ夜に迷子になることがある。
阿澄さんは、まだ忙しそうにため息をつく。
しーちゃんは、まだ小さくて、すぐ泣く。
それに、この家をまだ守らなければならない。
玄関も。
リビングも。
台所も。
しーちゃんの部屋も。
颯くんが帰ってくる場所も。
阿澄さんがほっと息をつく場所も。
全部、マロンが見ていなければならない。
マロンの仕事は、まだ終わっていない。
そう思うのに、眠気が深くなっていった。
いつもの眠気とは違った。
しーちゃんのベッドのそばで丸くなる時の眠気でも、散歩のあとに日なたでうとうとする時の眠気でもない。
もっと深くて、あたたかくて、体の奥からゆっくり沈んでいくような眠気だった。
マロンは目を開けようとした。
でも、まぶたが重かった。
颯くんがいる。
阿澄さんがいる。
しーちゃんがいる。
みんな、マロンを見ていた。
颯くんは、泣きそうな顔をしていた。
阿澄さんは、口元を押さえていた。
しーちゃんは、もう泣いていた。
ああ、だめだ。
しーちゃんが泣いている。
マロンは起き上がろうとした。
しーちゃんのそばへ行かなければならない。
涙を舐めてあげなければならない。
大丈夫だよ、と伝えなければならない。
でも、体は動かなかった。
尻尾も動かない。
前足も動かない。
声も出ない。
マロンは困った。
こんな時に動けないなんて、よくない。
しーちゃんはまだ小さい。
颯くんは、また迷子になりそうな顔をしている。
阿澄さんだって、きっと無理をしている。
マロンは、まだこの家を守らなければならないのに。
それなのに、眠気はどんどん深くなっていった。
最後に見えたのは、本沢家の人たちの顔だった。
心配そうで、悲しそうで、マロンのことを呼んでいる顔。
マロンは、その顔を覚えておこうと思った。
颯くん。
阿澄さん。
しーちゃん。
マロンの家族。
「マロン! マロン!」
「マロ──ン! 」
しーちゃんの声がした。
何度も繰り返し、必死に呼びかけているようだった。
小さくて、震えていて、泣いている声だった。
マロンは、その声を聞きながら、静かに眠りについた。




