表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マロンはもう一度、家に帰りたい  作者: 本沢マロン
2/19

プロローグ2 マロンが眠った日

 その翌朝。


 しーちゃんが玄関で「マロン、いってきます」と呼んだ時、マロンは立ち上がるのに、いつもより少しだけ時間がかかった。


 前足に力を入れる。

 胸を持ち上げる。

 よいしょ、と体を起こす。


 それだけのことに、少し息が切れた。

 マロンは不思議だった。


 昨日も、ちゃんとしーちゃんを見送った。

 颯くんの話も聞いた。


 阿澄さんが落としたハンカチにも気づいた。


 それなのに、今日は体が少し重い。


「マロン?」


 しーちゃんが玄関から戻ってきた。

 黄色い帽子が少し斜めになっている。

 ランドセルはまだ大きい。

 給食袋は、今日はちゃんと持っている。


「きょうは、おそいね」


 しーちゃんが心配そうに顔をのぞき込む。

 マロンは尻尾を振った。

 大丈夫だよ、という意味だった。


 でも、いつもより少しだけ、尻尾の動きも小さかった。


 阿澄さんが台所から出てきた。


「マロン、疲れてるのかな」


 その声は、いつもの声だった。

 けれど、匂いが少し違った。

 心配している匂いだった。


「しーちゃん、学校に遅れちゃうよ。マロンに行ってきますして」


「うん」

 しーちゃんは、マロンの頭を撫でた。


「マロン、いってきます」


 マロンは目を細めた。

 いってらっしゃい。

 転ばないようにね。

 車に気をつけるんだよ。


 帽子は少し斜めだけれど、今日はそれで大丈夫。マロンはそう思いながら、しーちゃんの足音が遠ざかるまで耳を澄ませていた。



 それからの日々は、少しずつ変わっていった。


 散歩の途中で立ち止まることが増えた。


 ごはんの匂いがしても、前ほど嬉しくならない日があった。


 眠る時間が長くなった。


 しーちゃんが帰ってくる時間になっても、玄関まで行くのに時間がかかるようになった。


 マロンは急いでいるつもりだった。

 でも、足が急いでくれなかった。

 阿澄さんは、何度も背中を撫でてくれた。


「マロン、無理しないで」


 違うのだ、とマロンは思った。

 無理をしているわけではない。

 仕事をしているだけなのだ。


 しーちゃんを迎える。

 阿澄さんを手伝う。

 颯くんの話を聞く。

 そして、この家を守る。


 それは、マロンがずっとしてきた大切なことだった。


 ある日、キッチンから阿澄さんの「あ!」という声が聞こえた。


 何かを落としたのかもしれない。

 見に行かなければ。

 マロンは立ち上がろうとした。


 けれど、後ろ足に力が入らなかった。

 前足で床をかいた。

 もう一度、体を起こそうとした。


 それでも体は持ち上がらず、マロンはその場に崩れるように伏せてしまった。


「マロン!」


 阿澄さんが駆け寄ってきた。

 すぐに颯くんへ電話をしていた。


 そのあと、マロンは毛布に包まれて、颯くんに抱き上げられた。


 マロンは少し困った。

 颯くんに抱っこされるのは嫌ではない。

 颯くんの匂いは安心する。


 けれど、マロンは颯くんを支える側のはずだった。


 颯くんに抱えられているのは、少し納得がいかなかった。


「大丈夫だぞ、マロン」

 颯くんはそう言った。


 その声は、大丈夫ではない時の声だった。

 病院の匂いは、あまり好きではなかった。


 知らない犬の匂い。

 薬の匂い。

 緊張した人間の匂い。

 マロンは、颯くんの手に鼻先を寄せた。


 颯くんの手は、ずっとマロンの頭にあった。


 先生は静かな声で話していた。

 マロンには、難しい言葉は分からない。


 年齢。

 体力。

 食欲。


 無理をさせないで。

 穏やかに。

 そばにいてあげてください。


 そういう言葉だけが、ぽつぽつと聞こえた。


 ただ、颯くんの匂いが悲しくなったことは分かった。


 阿澄さんの手が、少し冷たくなったことも分かった。


 だからマロンは、尻尾を振ろうとした。

 大丈夫だよ。

 颯くん。

 阿澄さん。


 マロンは、まだここにいるよ。

 けれど、尻尾は少ししか動かなかった。


 それから、マロンの寝床はリビングの一番よく見える場所に移された。


「ここなら、みんな見えるでしょ」

 阿澄さんがそう言った。

 たしかに、そこからなら台所が見えた。


 しーちゃんがランドセルを置く場所も見えた。


 颯くんが座るソファも近かった。

 玄関の音も聞こえた。

 マロンは安心した。


 ここは、本沢家の真ん中だった。

 颯くんが帰ってくる玄関。

 阿澄さんが忙しく歩く台所。


 しーちゃんがランドセルを放り出すリビング。


 夜になると、家族の匂いが集まる場所。

 マロンは、この家を守ってきた。

 颯くんだけではない。

 阿澄さんだけでもない。

 しーちゃんだけでもない。


 本沢家そのものが、マロンの守る場所だった。


 だから、見るだけでは足りなかった。


 阿澄さんが忙しそうなら、足元へ行きたい。


 しーちゃんが泣いたら、体を寄せたい。


 颯くんが黙っていたら、膝に鼻先を乗せたい。


 玄関の外で知らない音がしたら、ちゃんと耳を立てたい。けれど、マロンは少しずつベッドから出られなくなっていった。


 ごはんの匂いがしても、前ほどお腹が空かなかった。

 水を飲むのにも、阿澄さんの手が必要になった。

 阿澄さんは無理に食べさせようとはしなかった。


 飲みたそうにした時だけ、小さな器を口元へ近づけてくれた。


 毛布はいつもあたたかかった。

 颯くんは、時々マロンの足先を両手で包んだ。


「冷たいな」

 そう言う声が、少し震えていた。


 マロンは尻尾を振ろうとした。

 大丈夫だよ。

 ここにいるよ。


 けれど、尻尾はもうほとんど動かなかった。


 夜になると、颯くんは毎日のようにマロンのそばへ来た。


 前は、少し話して、頭を撫でて、「ありがとう」と言って立ち上がった。


 でも最近の颯くんは、なかなか離れない。マロンの首に腕を回して、長い間じっとしている。


 何も話さない日もある。

 ただ、マロンの毛に顔を埋めて、静かに息をしているだけの日もある。


 マロンには分かった。

 颯くんは、不安なのだ。


 颯くんは大人で、阿澄さんの夫で、しーちゃんの父親だけれど、それでも時々、昔の中学生だった頃みたいに迷子になる。


 だからマロンは、まだここにいなければならなかった。


 颯くんが帰ってこられる居場所でいなければならなかった。


 しーちゃんは、学校から帰ると必ずマロンのところへ来るようになった。


「ただいま、マロン」


 小さな手が、マロンの頭を撫でる。

 少し力が強い。


 でも、その不器用な手がマロンは好きだった。


「きょうね、こくごでね」


 しーちゃんは毎日話してくれた。

 国語のこと。

 給食のこと。

 友達のこと。


 先生に褒められたこと。

 転んだけれど泣かなかったこと。

 マロンは黙って聞いた。


 まだ聞くことはできる。動けなくても、しーちゃんの声を聞くことはできる。


 だから、しーちゃんが話している間は眠らないようにした。


 でも、その日。

 しーちゃんの声が、途中で小さくなった。


「マロン、ねむいの?」


 マロンは目を開けようとした。

 しーちゃんの顔が、ぼんやり見えた。

 泣きそうな顔だった。


 しーちゃんは、まだ小学一年生だ。

 夜、一人で眠れない日がある。


 牛乳をこぼして、阿澄さんに謝る前に泣いてしまう日がある。


 颯くんに注意されると、口をへの字にして、マロンの後ろに隠れようとする日がある。


 まだ小さい。

 まだ、見ていなければならない。

 まだ、守ってあげなければならない。


 マロンは、しーちゃんの手を舐めてあげたかった。


 大丈夫だよ、と伝えたかった。

 でも、体は動かなかった。

 その夜、本沢家はとても静かだった。


 阿澄さんは台所に立っていたけれど、食器の音はほとんどしなかった。


 颯くんは、マロンのそばに座っていた。


 しーちゃんは、寝る時間になってもマロンの前から動かなかった。


「しーちゃん、そろそろ寝よう」

 阿澄さんが言った。


「やだ」

 しーちゃんは首を横に振った。


「マロンのそばにいる」

 マロンは困った。


 しーちゃんは、ちゃんと寝なければならない。


 明日も学校がある。

 眠いと、靴を間違えるかもしれない。

 給食袋も忘れるかもしれない。


 でも、しーちゃんの手はマロンの前足を握ったままだった。


 小さな手だった。

 あたたかくて、やわらかい手だった。

 マロンがずっと見守ってきた手だった。


「マロン」

 颯くんが呼んだ。


 マロンは、少しだけ目を開けた。

 颯くんがいる。

 阿澄さんがいる。

 しーちゃんがいる。


 家族の匂いがした。

 颯くんの匂い。

 阿澄さんの匂い。

 しーちゃんの匂い。


 本沢家の匂いだった。


 十五年かけて覚えた、マロンの家の匂いだった。


「もう、頑張らなくていい」


 颯くんの声が震えていた。


「もう、充分だよ」


 充分。


 マロンには、やっぱりよく分からなかった。


 まだ充分ではない。


 颯くんは、まだ夜に迷子になることがある。


 阿澄さんは、まだ忙しそうにため息をつく。


 しーちゃんは、まだ小さくて、すぐ泣く。


 それに、この家をまだ守らなければならない。


 玄関も。

 リビングも。

 台所も。

 しーちゃんの部屋も。


 颯くんが帰ってくる場所も。

 阿澄さんがほっと息をつく場所も。

 全部、マロンが見ていなければならない。


 マロンの仕事は、まだ終わっていない。

 そう思うのに、眠気が深くなっていった。

 いつもの眠気とは違った。


 しーちゃんのベッドのそばで丸くなる時の眠気でも、散歩のあとに日なたでうとうとする時の眠気でもない。


 もっと深くて、あたたかくて、体の奥からゆっくり沈んでいくような眠気だった。


 マロンは目を開けようとした。

 でも、まぶたが重かった。


 颯くんがいる。

 阿澄さんがいる。

 しーちゃんがいる。


 みんな、マロンを見ていた。

 颯くんは、泣きそうな顔をしていた。

 阿澄さんは、口元を押さえていた。

 しーちゃんは、もう泣いていた。


 ああ、だめだ。

 しーちゃんが泣いている。

 マロンは起き上がろうとした。


 しーちゃんのそばへ行かなければならない。


 涙を舐めてあげなければならない。

 大丈夫だよ、と伝えなければならない。


 でも、体は動かなかった。

 尻尾も動かない。

 前足も動かない。


 声も出ない。

 マロンは困った。

 こんな時に動けないなんて、よくない。

 しーちゃんはまだ小さい。


 颯くんは、また迷子になりそうな顔をしている。


 阿澄さんだって、きっと無理をしている。


 マロンは、まだこの家を守らなければならないのに。


 それなのに、眠気はどんどん深くなっていった。


 最後に見えたのは、本沢家の人たちの顔だった。


 心配そうで、悲しそうで、マロンのことを呼んでいる顔。


 マロンは、その顔を覚えておこうと思った。

 颯くん。

 阿澄さん。

 しーちゃん。

 マロンの家族。


「マロン! マロン!」


「マロ──ン! 」


 しーちゃんの声がした。

 何度も繰り返し、必死に呼びかけているようだった。


 小さくて、震えていて、泣いている声だった。


 マロンは、その声を聞きながら、静かに眠りについた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ